第7話 こんな本は読みたくない(後編)
そのとき、執筆ブースの扉が開いて、鮫野郎が入ってくる。
そして、いかにもわざとらしく、大きな声で言う。
「あれ、ぶたにん君、何をしているんだい?」
俺は、コーヒーのロング缶を持ち上げて、鮫野郎のノーパソから離そうとしていただけなのだが、気の迷いから、ぼうっとしていた。
「まさか、自分の企画書がポシャったから、僕に八つ当たり? いやだなあ、みっともないよ。ぶたにん君は新人賞の実力派なんだから、僕なんかより、もっと凄いラノベを書けるんだろう」
どう見たら八つ当たりになるんだ? パソコンの上にコーヒー缶を持ち上げているだけじゃないか。確かに、危ない感じはするのだが……
しかし、なんだろう、虫酸のようなものが走って、脊髄反射的に手がブルっと震えてコーヒーをキーボードに少しこぼしてしまう。
天地神明に誓って、ワザとではない。
「あーっ、やめろっ、馬鹿っ。まじヤバイんだって」
鮫野郎がニヤリとしながら、大げさに駆け寄ってくると、なにを慌てたのか、俺はコーヒー缶をゴトリと床に投げる。
そのコーヒー缶がドクドクと中身を吐き出すのを、急いで拾い上げるのは川絵さんだ。どうやら、鮫野郎と一緒に執筆ブースに入ってきていたようだ。
川絵サン、一部始終ヲ、見テイタ……?
川絵さんが俺に向かって言う。
「ぶたにん、あんた、何してんの?」
俺は、川絵さんにも冷たく虚仮にされたように感じて、ふたたび涙腺崩壊の危機にさらされる。
俺は、どうにもしようがなくなって、走って『二編』を飛び出す。
「ぶたにん、あんた、待ちや」
川絵さんの声だけが追いかけてくる。俺は早々に階段を駆け下りて受付をすり抜ける。
「待ちって言うてるやろ」
一階まで来たのに、不思議と近くで川絵さんの声がするものだ。
「あんたなあ、人の言うことはちゃんと聞くもんやで」
え? 追いつかれて、肩を掴まれているところまで、やけにリアルに感じる。
「これでも私、中学、陸上部やってんから」
俺は観念して、それ以上の逃亡を諦める。
そうすると、川絵さんは周囲を見渡して、気を遣ってこう言ってくれる。
「とりあえず、社内も何やから、喫茶タカノにでも行こか」
おれは、いいですね、などと答えたいのに、言葉が詰まって出ない。
それを察した上司川絵さんが、俺に言う。
「どうしたん、男の子やのに泣きなや」
泣くなと言われると、余計に泣きたくなるのは俺だけではあるまい。
差し出されたハンカチを掴まされて、目の周りから流れる水分を拭う。
しばらく歩いて、ビル横の階段を降りて、喫茶タカノでオススメのセイロン紅茶を二つ注文する。
上司川絵さんは、対面した席の向こう側で、俺が落ち着くのを待ってくれているようだ。
落ち着け、俺と思うが、しゃくり上げるので、まるで上手く話すなんてことは出来ない。
「お、れ……頑張って……きか、くしょ、したんで、す……」
おい、無理して喋っても伝わる気が全くしないのだが、言葉の断片を解釈して、川絵さんは言葉を補ってくれる。
「うん、ぶたにんは頑張ってる。そんなん、企画書を見たら理解るわ……でも、さっきの鮫貝君のパソコンにコーヒーこぼしたんは、なんでなん?」
川絵さん、踏み込みが大胆だが、俺もその点は釈明したいと思っていたところだ。
「鮫が、いさ、んのノーパソ、コー、ヒー、近く……離さ、ないと、で、こぼれそうで……もち、あげたら、こぼ、れた……」
どうにも、言葉にならないのが、もどかしい。そもそも、しゃくり上げるなよ、俺。
「うん、ぶたにんは、ノーパソを心配してコーヒーの缶を離そうとしてたんやんな。そうやんなあ……まさか、ぶたにんが、こっそりパソコンを潰してまで、他人を引きずり下ろすようなこと、するはずないわ。どっちか言うたら、ぶっきらぼうで、人間関係とか不器用なほうやから、私ですら心配になるもん」
屈託なく笑う川絵さんに、俺は、ようやく味方に会えたような、安心感をもつ。
そして、上司川絵さんの言葉に、俺の涙腺崩壊が、留まるところを知らなくなってきた。
俺は、もう嬉しくて、恥ずかしくて、机に突っ伏してしまう。
「川絵さ、ん……ぐずずずず……」
まあ、男子高校生の涙というのは、お世辞にも綺麗だとは言えないことは確かだ。
しかし、ぶっきらぼうで、人間関係が不器用とは辛辣だ。
俺も多少は、『ぶたにん2.0』で頑張っていた分、口を挟みたくなる。
「でも……に、人間、関係は、最近、親にも、言われて、頑張ってた……ですが」
川絵さんは、にこやかな顔でなぜかちょっと照れたような風に言う。
「そやなあ、最初の頃とは違ってさ、その……キモ可愛い笑顔で頑張って挨拶して……ほんまに頑張ってるなあって。鮎ちゃんとも、ぶたにん、最近、気合入ってるって話しててんから」
川絵さんが俺の頭を撫でるようにしながら、もう一度確かめるように言う。
「ぶたにんの、その……変に、まじめ過ぎる頑張りは、ちゃんと見てる人は見てるねんから安心しいや」
川絵さん。俺、頑張っていたって、分かってくれてた?
もって生まれた三白眼なんて直しようがないし、目付きは悪くても愛想よくしないとダメだって思っていた。
でも、鮫男みたいに生まれもって頭が良くて、優しげなのには敵わない。正直、ズルいと思った。
絶望と希望の間でいろんな思いが交錯して……誰も理解ってくれなくて、そして、作品でも編集長に怒鳴られて……もうサイアクだと思った。
俺、もう詰んだかと思ったけど……俺、頑張っていて、良かった。
「あ、ありが……とう、ござ……まず」
また、俺は感極まって、言葉が詰まりだす。川絵さんは頭をさっきより強く撫でつけるようにして言葉を紡ぐ。
「ぶたにんも、企画書が上手く行ってないんやったら、そう言うたらええのに。そこでも自分一人だけで頑張ろうとするねんから……」
そして川絵さんは、改まって、俺に頭を下げて言う。
「でも、ぶたにん、ごめん。あの企画書の出来やったら、私が直前で止めなアカンかったわ。私、反省してます。許してもらえるかな?」
俺は、コクリコクリと頭を前後に揺らして、許すことに最大限の同意を示す。
「……でもな、メールでもらった企画書は気合は入ってたし、なんか私は応援したくなる感じやってん。……言い訳ちゃうで、これは。私も企画書、書くけど、自分が好きなモノの場合、好きやっていうファンの立場と、編集の立場をゴッチャにしてしまうことって、あんねん」
俺は、その点についてもコクリコクリと、ケモミミストとして全面的無条件服従だ。
川絵さんは、さらに言葉を紡いでいく。
「でも、それも編集には必要な熱意やと私は思うで。最初から客観的に作るなんて、東大生みたいなコンピュータ人間にしかできへんねんやわ」
そうしているうちに、紅茶が運ばれてきて、俺のほうも随分と感情が落ち着いてきた。
「さ、鮫貝さん、怒ってるかなあ」
「鮫貝君、あれ、臭い演技やったやろ。もう、全然大丈夫そうやったから、あんまり深刻に考えん方がいいで。実はな、あの子、本当に怒ったら、ものすごい余裕なくなんねんから。まあ、パソコンの修理代ぐらいは払わんとアカンかもやけど、多分、大したことないわ」
そう言ったかと思うと、川絵さんは、こうも付け加える。
「でも、気ぃつけや。鮫貝君、こういうの逆手に取って、ぶたにんに貸しでも作ったようにして、逆に企画書は六月に回してくれとか、変な要求してきたりするから、そんなん聞いたらアカンで」
「ありえないですよ……俺、もうエントリーする作品が無いんで、辞退も何も、出すものがないっていうか」
そう言った俺を川絵さんが、また、たしなめる。
「ぶたにん、何言うてんの。編集長がぶたにんの企画書を見て、ダメ出ししたんは、企画編集の仕事にダメ出しされただけで、別段、ケモミミ・ディストピア作品にダメ出ししたんちゃうで」
俺は、耳を疑う。
ケモミミ復活祭の足音が聞こえる。
「ほ、本当ですか?」
「やっぱり、そこから勘違いしててんなあ。なかなか便所から出てけえへんなあって思ってたらヤッパリや」
そして、川絵さんはさらに、俺にとっておきの情報をくれる。
「あんな、企画書づくりやけど、一回、ラノベの企画書の方向性を猪又さんと詰めてからやれって、最後、編集長、言うてたやろ」
そんなの俺には聞こえていない。本当に猪又さんが味方なら、鬼に金棒のような気がする。
「そう、なんですか?」
「そうや、さっき、猪又さんの時間確認したら、明日の夜八時からやったら、ちょっとだけ、空いてるんやって。編集長が猪又さんにサシで調整してたから、明日は夕方から、ちゃんと出ておいでや」
俺は、ここがお洒落な隠れ家風喫茶店ということも忘れて、はっちゃける。
「よっし、ケモミミッ、最高ぅっ」
川絵さんは顔から火が出るようにして、ガッツポーズの俺の口を抑えていた。
前後編と言うことで、前書きを後ろに持ってきました。
さて、本日は3400字でした。お疲れさまでした。