第10話 痴漢、蟹江、廊下にて
書店を題材にした漫画・アニメのおかげで書店の実態も少なからず理解されて来たようです。
書店には休日を除いて毎日二百点超の新刊書が流れ込み、これを棚出しするか、即返品するかの判断が書店員の毎朝のオシゴトになります。
書店員は担当する棚に置くかどうかをタイトル・著者名・装幀を見て瞬時に判断するようです。当然棚出しした分、棚からの返品が発生しますので、書店員の仕事は返品することとも言われます。
即返品と聞いて地方の書店は、ウチには発注しても新刊が来ないのに……と言われますが、書店、出版、取次の、委託販売制(自由返品制)に基づく事情があります。
出版の事情……刊行点数を増やさないと読者の嗜好に合わせられない。たとえ大部数を刷ったとしても取次が書店に配本してくれない。
書店の事情……毎日二百点以上の新刊書なんて選別発注できない。そもそも発注したとして、希望通り配本してくれない。
取次の事情……新刊書の傾向から配本パターン(ビジネス・文芸……など)を作って多品種少量出版に困惑する書店に便宜を提供する一方、過去販売データに基づいて一定部数を実績のある大型書店に配本しきってしまう。
残部は注文書店に回す場合もあるが、これも過去データに基づいて配本しないことも多い。
(業界の努力にもかかわらず書籍の返品率は40%を越えて高止まりしています)
本日は3100字となりました。よろしくお願いいたします。
驚いたことに、花蝶さんは、至近距離にもかかわらず、女装した俺の方を真剣にデレ顔で見ているようだ。
俺は俺で、花蝶さんの発する酒の臭いに、危うく顔を背けそうになる。
「雲ちゃんってさ、見れば見るほど可愛いよねぇ。折角だからさ、川絵ちゃん、一枚撮ってよ」
川絵さんは花蝶さんのスマホを受け取ると、画面を見ながら言う。
「別にいいですけど、花蝶さん、撮ったらお手数ですけど、茶烏さんにも送っておいてもらえます?」
「良いけどさ、どうして?」
「そ、そのほうが紹介の手間が省けてええからですわ。茶烏さん、社内では、なかなか会われへんのです……はい、撮りますよ」
撮る瞬間、花蝶さんに肩をギュッと抱かれて、俺の背中に寒いものが走る。
俺、ふつうの男の子に戻りたい。
怖気を振るいながらも、俺は営業スマイルと、顎を引いて媚びるような目つきだけは忘れない。
撮ったスマホの写真の出来が良かったのか、花蝶さんは、川絵さんと一頻り盛り上がっていた。
その後、花蝶さんが、もう一枚というのを川絵さんがどうにか断って、次の標的に向かって歩き出す。
もう一人は守宮さんという構成作家の人で、逆に向こうから川絵さんに声をかけてきた。
川絵さんは、同じように俺と守宮さんのツーショットの写真を撮って、それを茶烏龍さんに送ってもらうよう依頼する。
会場から廊下に抜けると緊張が一気に解ける。もちろん、内股もガニ股に戻っている。
「よっしゃ、いっちょ上がりや」
小声でそう言った川絵さんは、手早く済ませたような口ぶりだったが、俺にとっては違う。
ホワイトアウトした雪原の上を延々歩かされたような気分で、まさに八甲田山死の彷徨のようだった。
早く、人間になりたい。
一仕事終えてグッタリした俺が、川絵さんと美容室に向かって帰ろうとしていた時だった。
川絵さんが化粧室に寄るといったので、俺も催したので行こうと連れションを申し出たところ拒否られたのが、不幸の始まりだった。
仕方なく一人で、化粧室の前でうろついていた時に事件は起きた。
「猪又先輩ィー、プーゥスクッ! このお姉さん、パィオツゥ、かぃデーですぅーっ」
聞いたことのある蟹臭いセリフが炸裂したかと思うと、同時に腕が俺の首を巻いて胸のあたりで止まる。
どうでもいいが、吐く生温かい息が首筋に当たって、強烈に酒臭く、瞬時に酔っ払いと判断できた。
直後に、妙に胸のあたりが圧迫されると思ったら、蟹男のハサミがガバガバと偽乳の上を弄っていて気色悪いことこの上無い。
「でぇいっ」
俺は、蟹のハサミを掴んで、一本背負いのように力まかせにぶん投げると、蟹男、改め、蟹江さんが甲羅を下に仰向けに倒れる。
「き、君、すまないっ、大丈夫か」
走り寄りながら話しかけてきたのは、猪又さんだ。
やっべえ、俺、こんな姿見られたら社会的に死ぬ。いや、会社的にか。
出社初日なのに、退職しかけたり、社会的に死にそうになったりと俺的には大変だが、何にせよ、今は、逃げないと仕方がない。
俺はそれまでの内股で手をクロスに運ぶ動きの意識など、行動規範をすべてすっ飛ばして、人のいないほうに向けて、ひたすら逃げた。
気が付くと、どこをどう通ってきたのか理解らないまま、俺はミキさんの美容室に駆け込んでいた。
「ああ、川絵ちゃんとこのカレ氏さん。そんなに急いで、どうしたんですか?」
相変わらず眠そうな半開きの眼で、ミキさんは駆け込んできた俺に話しかけてくる。
いつの間にか『カレ氏』になっているが、そんなことに気づく俺ではない。
「い、いえ。別に……」
男の分際で痴漢に会うとは屈辱的だし、そんなこと誰にも言えない。
その上、言ったところで、あの蟹男に抱きつかれ、ナニされた感触はどうにも消えてくれない。
(母さん、俺……もう何もかも滅茶苦茶にしてしまいたい)
そんな俺の回想をかき消すように、ミキさんは思考に割り込んでくる。
「いや、絶対、何かあったでしょう?」
なぜか、断定的だし、なにか俺に変なところでもあるのだろうか。
見たところ、着衣に乱れはなく、走ってきた割にはスカートの裾がめくれ上がっていることもない。
ただ、背中と首筋の風通しが宜しいのは気のせいだろうか。
そう思った刹那、川絵さんが駆け込んでくる。
「ぶたにん、大丈夫やった? 蟹江のアホには、カツーンと一発かまして来たったからな」
「やっぱり、何かあったんじゃん。カレ氏さん、アタマに手、当ててみ」
俺はミキさんに言われるまま、アタマに手を当てると、ウィッグが無いことに気づく。
慌てて辺りを見ると、川絵さんの手元のウィッグに俺は驚かされる。
「い、いつの間に……」
「あんた、蟹江のアホを投げ倒したときに外れたんをそのままにして走っていくねんもん。猪又さん、唖然としてたで」
う、うわぁ、猪又さんに女装がバレたの。ひぃえええ、俺は、もう、どうしようもなく、涙目のまま、無言で川絵さんの方を見る。
「心配せんどき、猪又さんも誰やろうっちゅう目つきで見てたから、私の友達の知合いの子って言うことにしといたったから」
友達の知合いの子って……非道い扱いだ。
だって、ただ単に、蟹男をぶん投げて、ズラを落としていった女の子、ただそれだけじゃないか。
……いや、ただの変態一歩手前の痛い女の子、なのかもしれない。
ここは、フォローしてもらっただけでも、川絵さんには、お礼を言わなくちゃいけないだろう。
さらに、蟹江氏に一発お見舞いしてくれているとなると、尚更だ。
無論、俺は蚊の鳴くような声で言うのを忘れない。
「か、川絵……くん、有り難う……」
御存知の通り、ぶたにんは人に頭を下げるのは得意なほうではない。
俺が礼を言う時には、とりあえず、相手の身分に格下げして、川絵クン程度に貶めてから礼を言わないと、俺の心が卑屈になりすぎてヤバイのだ。
とりあえず、川絵さんの様子をうかがうと、満更でもないような感じだったので、誠意だけは通じているらしい。
「警備員さん呼ぼうかと思ったけど、まあ、ええわ。蟹江のアホに抱きついたのがオトコやって思い知らせるより、猪又さんからじっくりお灸をすえて貰うたほうがダメージ大きいやろ。それより、ぶたにん、これからもう一回、化け直して写真撮るで」
「えぇ、なんでまた……」
「当たり前やん。肝心の私から茶烏さんに送る写真が撮れてないねんもん」
そして、俺は再びウィッグを付けられ、化粧をちょこちょこと直された後、カメラの前に立たされる。
そして、顎を引いて両腕で偽乳を寄せ集めた媚び目線の写真を、何度もリテイクを食らいながらも、どうにかオーケーをもらう。
早速、俺が化粧を落として、ふつうに戻る。
すると、川絵さんがスマホの写真を見ながら笑い転げるので、俺にもその写真を転送してもらう。
「ぐぅ……かわ、じゃん」
小さいながらもぐぅの音は出たが、確かに二次元の俺は、三次元の俺より間違いなく可愛らしい。
こう云う写真を使った詐欺を、次元の低い詐欺とでも言うのだろう。
ともかく、川絵さんは詐欺写真と『新しい企画書のプロット作りで悩んでいます、明日、会えませんか』という無茶な要求を、茶烏龍さんにシレっと送りつける。
ミキさんの美容室の使用料などの支払いはすべて川絵さんの指示の下、サンラ編集部蟹江氏にツケて、俺は川絵さんと品川の駅に向かう。
「とりあえず、これで茶烏龍さんについて、対策できることはやったで」
川絵さんは満足そうに言う。コレには俺も百パーセント同意だ。
「あ、あとは、メグさんか」
俺が、促すように言うと、返ってきた川絵さんの声のトーンは少し低い。
「メグさんには、メールしといたんやけど……返ってきたメールがなあ」
いつもは勢いに任せて進む川絵さんに珍しく勢いがない。
俺は、川絵さんのもとに届いたメールを確かめるため、川絵さんのスマホを覗き込んだ。