第8話 文壇交流会活用ノスゝメ
書籍の発行部数は、過去は著者検印(2センチ角程度の薄紙に著者の捺印があり奥付に糊貼りする)によって、著者が直接管理していましたが、極めて手間がかかるため戦後相次いで出版社が検印制度を廃止しました。
その後、書籍の発行部数は出版社が印刷会社を通じて管理するようになりましたが、正確な印税対象発行部数は、実は、把握するのが困難です。
そもそも、発行部数の定義がないため、次のような微妙な書籍が存在します。
見本書等……編集部や担当者が持つほか、著者献本、書評対策本(書評担当編集や記者などに送られる)、営業見本(書店買取扱を除く)、印刷所予備(ヤレ等)など多くの部数が印刷されます。この部数が明らかにされないため、著作者は初刷1万などの出版社の言う刷り部数を信じざるをえない状況です。そのため、出版社がゾッキ本に手を染めているようなところだと、お手上げになります。
ゾッキ本……何らかの理由で正規ルートから外れた新古本。特売本とも。発生は一般には返本によるものですが、初刷を水増しして出版社が関与したり、出版社が倒産して管財人により中古書籍市場に流れるものもあります。
ゾッキ本なんて、昔の検印時代になくなっている説も有りますが、恒常的に部数水増しがあるとの噂もあります。もちろん、真偽は確かめようがありません。
なお、オリコンなどの発表部数は推定部数で実売との乖離はいつも指摘されているとおりです。
さて、本日は3500字となりました。どうぞよろしくお願いいたします。
ソファに腰を沈めた俺に、川絵さんは藪から棒に質問を投げかけてくる。
「ぶたにん、あんた誰かにメグさんがプロットで詰まって書かれへんこと、しゃべったりしてへんやんな?」
「え? なんで……」
明らかに動揺する俺に、征次編集長が説明を加える。
「『二編』の全容を知っているのは、サンラ編集部関係者とコミック学習局長までだ。それから上の常務会は黙認、逆に、そこから下には作家を過保護にしている編集部だと誤解させている」
なんだ、猪又さんはサンラ編集部だから大丈夫じゃないか、と俺は心を落ち着ける。
しかし、使い捨てしているとまで言っていた作家を『過保護にする』ってどう言う意味だろう。俺は訊いてみる。
「か、過保護って、どういう意味なんですか?」
「私も過保護にするつもりはないんだ。ただ、『二編』の体制が漏れるリスクは最小限に留めたい。だから、編集作家を一般向けイベントには出さないようにして、グループ内出版物への対応だけに留めている。まあ、露出を増やしたいマルチメディア企画室や営業部からの鞘当ては厳しいけどね」
「そや、営業部の灰江奈関東ブロック長とか怪しいんちゃう。木盧先生のサイン会とかブックフェアの参加オファー全部断ってるやん。鎌内先生でさえ、ブックフェア初日のサイン会はやったのにってブツブツ言うてるん、この前、私、聞いたで」
そうなの? 俺もサイン会とか嫌いだし、そもそもサイン以前に字が汚くて見せるのも恥ずかしい。
俺のサイン会なんて、開くとラクガキ量産で営業妨害になる可能性のほうが高いだろう。
最近、熱で消えるインクが流行っているから、やむを得ずサイン会を開く時は、一旦、そのインクでサインして、苦情が出たら、レンジでチンして消すことにしよう。
一度ぶたにん思考に囚われると、妙なところで思考が回り始める。
「営業に合わない作家さんはいるさ。鶫野君は人見知りするタイプだし、イベント事は嫌いだろう。しかし、編集作家は最低限、書くと言ってくれないと実績はあっても職務怠慢と言わざるを得ない」
そういう編集長を前に、川絵さんは首を左右に振りながら言う。
「あれは無理やで、取り付く島もないってああいうことを言うんやわ。なあ、ぶたにんもさっき一緒におったやろ」
急に俺に話が振られたので、驚きながらも、俺は上司川絵さんの顔を立てる。
「は、はい、たぶん無理です」
「無理でもいい。川絵、もう一度、確認に行ってくれないか。鶫野君に書く気がないなら『昨日の旅』の最終話の企画書を退職届と一緒に取ってきてくれ」
え、退職届って何それ? しかも、『昨日の旅』の最終話って、人気シリーズなのに勿体無い。
この言葉に、さすがに、川絵さんも気色ばんでソファから身を乗り出して言う。
「そんな、無茶やわ。追い詰めたらメグさん、精神的に潰れるって一番理解ってはるんは編集長やん……」
「無茶は承知だが、部長会は明後日に迫っている。もう議論の余地はない。私は、これから文壇交流会の打ち合わせだから、後のことは頼んだ」
編集長は川絵さんを制するでもなく、疑問に応えるわけでもなく、ただ、そう言ってソファから立ち上がる。
俺は、猪又さんとの会話を思い出して、征次編集長に訊く。
「あの、茶烏龍さんって、今日の文壇交流会に来ないんですか……」
俺からの突然の質問に驚いたようだが、征次編集長は思い出すようにして口を開く。
「茶烏か……あいつは、確かいま、石垣島に行っているんじゃないかな。いずれにせよ、用件があればメール入れておけばいい。アドレスは川絵に訊いてくれ」
征次編集長はそれだけ言うと足早に会場の方へと戻っていった。
そんな、遠くに行っているとは……思わなかった。俺はまた、少し気が遠くなった。
征次編集長がいなくなったのを見計らったかのようにして、隣のソファに座っていた川絵さんが小声で俺に訊く。
「なんなん、いきなり茶烏さんの話なんか出して」
「いえ、木盧さんが書かないって言っているのは、作品が嫌いなんじゃなくて、茶烏龍さんがプロットを書かないからじゃないかって、猪又さんが言ってて」
「そう言えば、さっきも最後に、プロットがないから書かれへんって、ハッキリ言うてたなあ。私もプロットがあったら書くんかってツッコみたかったんやけど」
さて、さっきのインターホンで実際にそこまでツッコめる余地があっただろうか。神ならぬ身の俺に、そこまで理解るはずもない。
とりあえず、俺は自分の考えを川絵さんにぶつける。
「だから、茶烏龍さんさえプロットを、ウンと言ってくれればとか思ったんだけど、まさか、石垣島に行っているなんて……」
「せやねんなぁ、ふつうのヒトやったら、メール出してお願いしますで、済むんやけどなあ。あの人、都合の悪いメールは全力で無視しはるからなあ。少なくとも呼び出せたらしめたもんやねんけど……」
そう言うと川絵さんは、ぷいとあらぬ方向に目をやって、何か考え事をしている。
そして、ギラリとした不純な目を、俺のほうに戻して言う。
「あんた、よう見たら、色白で細面やん。まつ毛も綺麗やし、ちょっと、目ぇ瞑ってみて、動いたらアカンで」
え、川絵さん、目の輝きが怪しすぎませんか。
まさか、俺のファーストキスを奪うつもりですか、とは口が裂けても言えないので、おとなしく言われるままに目を閉じる。
その瞬間に頬を手でグッと固定され、下唇に何かが触れる。
その感触は、しっかりと下唇を蹂躙すると、今度は口角から上唇を侵襲する。
接吻を思わせる初めての感覚に、ギュッと瞑った目を開きそうになる。
しばらく耐えるが、上唇をヌルヌル往復する感触に耐え切れなくなる。
あわわわわあっ、俺は堪えきれずに、心のなかで大声で叫びながら、顎を引っ込めると鼻の上にも何かが触れるような感覚が伝わってくる。
(母さん、俺、オトナになってしまった……かも知れない)
そんな感傷的な気分でいた俺を、現実世界に引き戻す声がする。
「ぶたにん、動いたらアカンやん。でも……なんとなく、可能性が見えてきたわ。これは、アリかもなあ」
誰が蟻なんですか?
言わないと、ヤマアリみたいに蟻酸攻撃しちゃいますよ。
しかし、そう言う俺に目もくれず、キメ顔の川絵さんはリップスティックを片手に言う。
リップスティック……ひょっとして、と唇を触ると指が赤く汚れる。
こ、これは、間接キスじゃないか……心臓はバクバクしているが、脳みそはいろいろな方面に思いを馳せる。
もう、間接キスの勢いで、川絵さんとの結婚生活まで垣間見えてくるところが厨二病ゆえの哀しさだ。
「とりあえず、ここじゃ埒があけへんからホテルの美容室行くで」
川絵さんは立ち上がるやいなや、俺の右手を拉致し、ホテルの美容室に手際よく連れ込んだ。
早々に美容室の椅子に座らされて、俺は川絵さんから刑の宣告を受ける。
「ミキさん、去年使ったロングウィッグあったやろ、アレ使って……肌は透明感出すような感じで、ルージュはピンク系の清楚な感じで仕上げて」
え、川絵さんの知り合いなの。
俺、ここでメイクされるんですか?
そう思っていると、紫のアイシャドウが印象的な横の店員のミキさんと思しき人が、眠そうな目で失敬なツッコミを入れる。
「清楚に仕上げるにしても、目の周りを処理しないと、どうしてもオトコ臭さというか、違和感が残りますよ」
「理解ってるて。せやから、カラコンと秘密兵器の二重ツケマをコンビニで買ってくるわ。目の周りは盛りに盛るで!」
秘密兵器がふつうにコンビニに売っているなんて、ニッポン万歳だ……で、その秘密兵器の搭載される先は、何処でしょう? はい、訊かずとも理解ってきちゃったよ。
「あの……」
「ぶたにん、あんたは黙って静かにしとき。お人形さんみたいに綺麗にしたるから」
いや、全然、嬉しくないし。
お人形さんよりもフィギュアのほうが、俺的には好きだし。
堪え切れずに、俺は川絵さんに尋ねる。
「川絵さん、俺、いったいどうなるんですか?」
「馬丘センセの文壇デビューや、私がアテンドしてあげるから、あんたは黙ってミキさんの言う通りしとき」
「ええと、どう見ても、その馬丘センセは、男武谷ではない気がするんですが」
「そうや、今回の騒動の責任を感じてるんやったら、茶烏龍さんの釣り出し作戦に全面的に協力してもらうで」
「あ、あの、それとこのメイクが何の関係が……」
「茶烏龍さんって清楚で巨乳が大好きやねん」
「えっ……」
川絵さんはニコニコとした、なんとも言えない笑顔、そう、例のキメ顔であられもないことを言い切りやがった。
メイク? 巨乳? 清楚?
俺は、貞操の危機を感じて縋るように言う。
「俺、その、襲われたりしないんでしょうか?」
「茶烏さんをおびき出すための餌になってもらうだけやん。大丈夫やって!」
そう言うと、川絵さんは颯爽と秘密兵器の買いにコンビニへと向かっていった。
あとに残された俺は、洗顔から始まる女子への階段を登り始める。
「結構、お肌、綺麗なんですね。羨ましい」
化粧上手なミキさんにそう言われると、俺の心の中の逞しきダンディズムがキャイ〜ンと悲鳴を上げる。
そんなに褒められても、俺はただの小説オタクの青瓢箪なだけで、スキンケアの秘訣とかは一切ない。
強いてモットーにしていることといえば、外出を極端に控えていることくらいか。
髪をウィッグネットに包まれて、化粧水、ファウンデーションと着々と基礎工事が進んでいくなか、目を瞑らされた俺の心の中は、全く穏やかではなかった。