12時間
低い音の鳴り響く飛行機内。
窓の外には白き雲海。
皆大抵寝ているか、新聞を読んでいるか、搭載されたテレビの映画を見ている。
ああ、12時間も飛行機の中だなんて本当に地獄じゃないか。
ずっと雲海眺めてろ……か。
この俺、佐藤大斗は今、中三の修学旅行でロンドンに向かっている最中だ。
海外修学旅行は確かに大きなイベントだが、それ以上に俺には大きな意味があった。
俺は懐から、肌身離さず持っている一枚の写真を出した。
そこには俺と、一人の少女が写っている。
艶のあるストレートの黒髪に真っ白い雪の様な肌。
目を閉じればオルゴールの様な可憐な声が聞こえてくるようだ。
ぐああ、可愛過ぎるぜ!
俺はこの学園のマドンナに告白するんだ。この修学旅行中にな!
と、俺がマドンナが写っている写真をこっそり見て悶えている矢先、
左隣の席から氷の様に冷えた声が降りかかった。
「大斗さん、その写真には私の愛する方が写っています。
貴殿も告白する気なのですね」
うわ、出たよ藤原翔!
やけに馬鹿でかい身長を持つ藤原氏の末裔。
確か……180㎝位だったか。
少なくとも俺より20㎝は高い事は確かだ。
背の高い奴がショウで、チビの俺がダイとは、こりゃ全く皮肉なこった!
「大斗さん、宜しければ、私と偉人ゲームをしませんか?」
突然翔がバカ丁寧な敬語でそう話しかけてきた。
退屈だったし俺は翔のゲームに付き合う事にした。
「偉人ゲームって何だ? 翔」
翔は微笑んで言った。
「一方が偉人の名を言い、もう一方がその偉業を答える。それを交互に繰り返し、
言えなくなった方を負けとします。そして……」
翔の目の奥がキラリと鋭く光った。
「このゲームの勝者には告白の権利が与えられます」
くっ、やはりな。俺は思わず写真を握り締めた。
破壊的に美人なマドンナさんだ、やはり翔も狙っていたのか。
だがこの佐藤大斗、男の誇りを賭けてそれだけは譲らんよ。
翔は、理系コースで有名で「数学博士」とも呼ばれる秀才だ。
だが文系コースの俺も悪い方じゃないぜ。
「歴史博士」……とまでは呼ばれたことはないが、そっち方面こそ専門。大の得意だ。
翔が油断しているのなら痛い目にあわせてやる。ライバルは叩いておくべきだからな。
「面白そうじゃん。で、先攻はどっちから?
ここは紳士的に翔さんに譲ることにするぜ」
翔は丁寧に礼をするといきなりとんでもない人名を出した。
「……秀吉君」
ハッ? 君付け! 戦国武将に君付けるか? 普通!
まあ、取り敢えず落ち着け……。
「豊臣秀吉は天下統一を果たした武将ね、
でも普通、後に君は付けないと思うよ、うん」
余裕を持って忠告を少し付け加えてやる。
次は俺の番だ。
ここはメジャーじゃなくてマイナーな人物を……。
「じゃ、始皇帝ね」
言った直後に跳ね返された。
「始皇帝は、万里の長城を築いた人ですね、歴史が得意と聞いていたので、
もっとマイナーな人物を出題すると思ってましたよ」
しゃ、斜に構えて少しドヤ顔で、微ドヤで言いやがった!
こいつめ、やりおるな。
そう思うと勝負が何だか楽しくなってきた。
俺たちは偉人とその功績を次々と挙げていった。
時計が時を刻み、食事の時間になっても、俺たちは勝負を中断しなかった。
口をモゴモゴと動かし、サンドイッチの隙間から偉人の名を唱え続けた。
しかし、翔が歴史にここまで詳しいとは思わなかった。
もうゲームを始めてから六時間経っている。
そろそろ在庫が切れてきてもおかしくない。
だが、俺のマイナーなお題を涼やかな顔で切り返して来る。
まあいい、この勝負、在庫切れの確率が高まる後半戦がメインだ。
気を引き締めていかないと、愛しのマドンナを取られてしまう。
そう思いながらスパゲッティを、派手な音を立てて啜った。
「さて、ロンドンまであと六時間。要するにこっからは後半戦だ。
じゃあいくぜ、次は紂王だ!」
紂王とは、中国の古代王朝、殷の最後の王である。
酒池肉林や、炮烙などの暴政で、後に周の王に滅ぼされたという。
さて、これを答えられるか!
翔は一瞬の間を置いてから答えた。
「紂王とは、殷の最後の王の事ですね。
妃の妲己に溺れ、暴政をした、文字通りの暴君です」
さすが翔、と褒めたい所だが、俺の脳内に濃霧が発生した。
何故だ、何故ここまで返せるんだ。
数Ⅰ、数Aにおいて毎回満点を繰り出し、
「数学博士」と恐れられた超理数系の翔だが、文系の点はそこそこだったはずだ。
「では、私はトイレットに行って参ります」
そう言って翔は席を立った。
相変わらず気に食わん言い方だ。
普通に「トイレ行ってくるー」って言えば良いのに。
席を立った翔を見て俺はある事に気がついた。
残された翔の上着のポケットに『偉人って良くね? 五百選』という歴史の参考書があったのだ!
翔は今日の勝負に備えて参考書を読み耽っていたに違いない!
おお、何て偉いんだ、翔!
俺なんか前日は寝っ転がりながらポテチ食ってゲームをしていたんだぜ!
俺が翔に敵わないのは、多分この差なんだろうな。
不思議と悔しさは湧いてはこなかった。
代わりにこの勝負に絶対勝とうという決心が強くなった。
「貴殿、気づいたのですね、私の秘策に」
トイレから帰ってきた翔が笑みを浮かべて言った。
俺は不敵な笑みをしながら答えた。
「フフフ、お前が執着するのも無理ないがこの勝負、俺の勝ちとさせてもらうぜ」
翔の顔面から微笑が消えた。
「フム、よろしい。あなたが本気ならば此方も本気を出させて頂きます。
この勝負で私の愛が不変である事を証明するのです」
翔が次に出してきたお題は「グレゴリウス七世について」だった。
畜生、名前は知ってんだ、でも何したんだっけ……。
あ~、思い出せん。何かの屈辱で有名だった人。
そう、ハインリヒを裸足で謝罪させた事件。
ああ、もう分からん、トイレで頭を冷やしてこよう。
俺は力なく翔に言った。
「少々トイレットに行かせて頂く」
くそっ、まるで翔みたいな口調になってきた。
まあ睡魔も襲って来てるし、寝ぼけているのだろう。
俺はトイレの洗面台で顔を洗った。
冷水が火照った心身共に冷却し、思考回路が元に戻ってきた。
そうか、カノッサの屈辱だ!
冷静になったと同時に言うべき言葉が蘇ってきた。
意気揚々と席に戻り、翔に返した。
「カノッサの屈辱、どうだ」
「正解です。調子が戻ってきた様ですね、大斗さん」
***
こんな風に対戦は続いた。
しかし後半戦に入っても、まだ余裕の表情でいられる翔にはつくづく感心させられる。
実を言うと、俺の方は既に在庫が切れかけている。
例えば、修道会を設立したフランチェスコを最初、
「何か頭がグニャッと曲がってる人」と回答してしまった。
直後に思い出し「フランチェスコ修道会を設立した」と答えたから良かったものの、
負けるのにさほど時間はかかるまい。
知恵を振り絞り、俺はお題を出した。
「と、徳川……伊右衛門綱!」
徳川伊右衛門綱。
日本史上そんな将軍は存在しない。
単に机の上に置いてあった飲みかけの伊右衛門を見て偶々思いつきで発した名である。
それにも翔はスラリと回答した。
「江戸幕府四代目将軍。あの人は慶安の変で大変苦労しましたね。ご苦労様です」
翔の奴、徳川伊右衛門綱を江戸幕府四代目将軍の徳川家綱と誤解している様だ。
まあ、ここは良しとしよう、ちゃんと説明も合っているしな!
「では私ですね、エビフライ・ハンでお願いします」
翔の口から発せられた言葉に俺は驚愕した。
エビフライ・ハンだって? そんなのいるわけないじゃないか!
さては、在庫がついに切れたか。
確かに翔の表情は最初の頃から一変し、苦悶の表情になっている。
知っている偉人を少しモジってくる、苦肉の策に出たわけか。
やった、俺の勝ちだ。告白権は俺のものだ!
「へッ、翔! お前の負けだな!」
だが、俺の勝ち誇った言葉は驚くべき言葉で迎えられた。
「ええ、さっきの徳川伊右衛門綱は、
この本を読んでいなかったら答えられないところでした。
そして本に載っていたのは、このエビフライ・ハンが最後です。
これを大斗さんに答えられたら私は終わりです」
翔が『偉人って良くね? 五百選』の表紙を撫でながら言った。
ちょ、ちょっと待て。
え、エビフライ・ハンっていたの?
徳川伊右衛門綱って本当にいたわけ?
俺が知らないだけなのか?
そんなはずがないと思いながらも、俺は自信が持てなかった。
翔は卑怯な振る舞いを嫌う奴だ。わざわざ自分が不利な歴史で、
勝負を申し込んできたことからもそれがわかる。
俺は大きな息をついてある決断を下した。
俺は翔を片手で制し、項垂れながら言った。
「もういい、勝負はお前の勝ちだ。マドンナはお前にやろう。
さあ、告白すると良い」
やはり俺はこいつには勝てなかった。
悔しさに手の平から血が滲み出るほど拳を握り締めた。
すると目の前の翔から意外な言葉が降ってきた。
「ならば大斗さん、貴殿、私と付き合って下さい。私は貴殿を愛しています」
「げっ、何っ? だってこの写真のマドンナを」
「ええ、マドンナさんと一緒に写っている貴殿を愛しています!」
翔は俺の持っている写真を取り上げると、鼻息を荒くして言った。
「私は貴方に告白するつもりで勝負を挑んだのです!
勝つために手段を選ばなかったのも全て愛のためです!」
チ……チクショウ! やはりエビフライ・ハンは嘘か!
そうだ、そろそろこの飛行機はロンドンに着陸するはずだ!
その時、アナウンスが流れる。
「あと1時間半でロンドンに到着いたしま~す」
うわっ! あと1時間半もあるぞ!
目の前には鼻息の荒い翔の巨体。
「さあ、私の愛を、受け取るのです!」
あああ、待ってくれ、俺にはそんな趣味は無い!
止めてくれ、俺はお前の愛なんか受け取りたくないって!
止めてくれ! 誰か飛行機を止めてくれ~!
(END)