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熔ける微笑  作者: 梟小路
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[26]

 しゃがみ込む氷の妖精を囲んで、手を繋いだ火の精霊たちが踊り続ける。

 オルゴールの如く、一定の周期で廻る人影。チルノの羽に映る炎の揺らめきは、万華鏡にも似て、刻々とその様相を変えていく。

 薄氷で出来た羽は、熱狂的で、容赦のない舞踏に溶かされ…。ポタポタと垂れ落ちた雫が、青草の茎を滑る。

 細ったその羽では、最早、飛び立つ事は出来ない。それどころか、羽ばたき一つで、チルノの羽は砕け散るであろう。

 魔理沙は逃げ出す力を失った彼女を…それでも…未だ自分への敵意を失って居ない、ラムネ色の瞳を見つめる。

 その瞳はあらゆる負の感情で濁っていた。

 怒り、嫉妬、害意、拒絶…。チルノは、それらありったけの『気持ち』を絞り出し、魔理沙にぶつける。それなのに…そこには、『どうして自分がこんな目に』、『どうして魔理沙はこんな事を』などと言う、疑問の感情だけが含まれていない…。

 『その目は見逃せない』と言った魔理沙の思いが、今、解かった気がする。

 魔理沙は、チルノの心に淀む(おり)を忌み嫌った訳ではなかった。…この様な状況に…淀みの中に置かれても…彼女の瞳は、ガラスの如き清冷さを失っては居ない。自分が、そして他人が、アナタを好きだと思う『気持ち』。それを、少しも疑っていないのだ。

 どのような悪感情の中に在っても、純粋にアナタを思う『気持ち』だけは捨てない。チルノの瞳に残るそんな輝きをこそ、魔理沙は疎ましく思ったのであろう。

 くすんだ琥珀色の瞳を妖しく輝かせ、魔理沙は…チルノの心の奥底を…氷の板を見下ろす。

 「こんな、爪楊枝(つまようじ)の一本を凍らせる位、お前には造作もない事なんだろ。だがお前は…そんな何て事もない作業に、強い思いを込めた…。まるで自分の恋心であいつを包み込むみたいに、爪楊枝を凍らせていった。あいつからべっこう飴を手渡される度、一本、一本…。」

 そこまで言って魔理沙は、静かに口を閉じると、氷の板を地面へと放り落とした。

 当然、そんな様を見せつけられて、チルノが黙って居られるはずもない。

 身を起こすと、周りをチラつく火の精霊を押し退け様と…しかしながら、彼女の『力』は、魔理沙のそれに及ばない…。

 火の精霊と取っ組みあった途端、彼女の手は焼け(ただれ)、ドライアイスの煙に似た蒸気が上がる。

 溶け崩れかけたチルノの手の痛々しさ、そして、それと重なる自分の手の痛み。魔理沙は我に返った様に、冷たく湿り気を帯びた自分の右手を目に入れた。

 氷の板を持ち続けて居たからだろう。右手は赤くなり、軽い霜焼けを起こしている様だ。…ピリピリと、急き立てる様な(かゆ)みが、胸苦しく、腹立たしい。

 (アナタの為にも、出来るだけ早く終わらせないと…。それに、チルノを無用に傷付ける意味だって…だけど…言わずには居られない。こいつの『気持ち』に負けっ放しなんて、許されないだろ…証明しなくちゃ、私の方がアナタを好きだって事…。)

 自分の目の前に居るのは、幼気(いたいけ)な少女の姿をした妖精。そして魔理沙は、自分の為、アナタの為に、その妖精に危害を加えて居る。…いいや、どのように当たり障りのない表現を選んだとして…彼女は自分勝手な判断で、利己的な行いをしている…その事実は(くつがえ)らない。同じく、魔理沙があえて泥を被るのは、アナタの為であるという現実も変わらない。…アナタが汚れない白雪の『幻覚』に居たとして…変えようもない…。

 それならば、はっきりと言おうではないか。理由の如何を問わず、魔理沙はチルノと言う存在を溶かしてしまおうとしている。自分より力の劣る存在を、破壊しようというのだ。

 そんな殺伐とした心境でさえ、アナタを思う『気持ち』の一部。それに気付いたからこそ魔理沙は…奇しくも、アリスの予言した通りに…内から湧き上がる残酷さを喜びへ、そして匂い立つ様に凄惨な、微笑へと変える。

 魔理沙は、膝でスカートを膨らませながら、(おもむろ)に足を上げた。

 自分へ見せ付ける様なその動きだけで、チルノは魔理沙の意図を察したのだろう。無駄と知りつつも、再び、火の精霊の輪に突進。…だが、結局は弾かれ、尻持ちを突かさるのが関の山…。

 熱を追い出そうと冷気の白煙を上げる肩を抑え、それでも光を失わない、ラムネ色の瞳。

 その青い瞳に睨み付けられながら、魔理沙は微笑みを消し去って…地面に転がる氷の板を、静かに踏み付けた。

 「あいつにとって、お前の『気持ち』は重荷なんだ。」

 グイッ、グイッと、足へ体重を掛ける、魔理沙。草むらに隠れ、肝心の氷の板の様子は見えない。しかし、彼女が執拗(しつよう)にそれを踏みつけて居るのは、揺れ動くスカートから見て取れる。

 燃え上がる火の精霊の身体から、暗い空へ、火の子が舞い上がり始めた。

 いや、実際には、そうではない。空へと昇って行く火の子が目に映るまでに、二人の傍へ夜が近付いてきたのだ。

 そして火の子の行く付く先も…空中で雪の結晶に変質してから、瞬時に、溶けて消える…その姿にも、魔理沙は気付いて居る。気付いて居て、自然現象とはかけ離れた事象が起きていると知って居て、それでも、魔理沙は氷の板を踏み続ける。チルノへと鋭い言葉を突き立て続ける。

 「あいつも私たちと同じ様に、『幻想郷(げんそうきょう)』から『能力』を授けられている。その『能力』が何を成す為に存在するか…それはこの際、関係ない。今問題なのは、どうしたって足りなくなるあいつの『魔力』を、補う方法なんだ。」

 グッと、一際強く、足の裏へ加重を掛ける。魔理沙はそのままの姿勢で顔を上げると、琥珀色の瞳でチルノを見据えた。

 チルノは、涙と、溶けた身体の一部で顔をくしゃくしゃにして…それなのに…不思議と神妙な表情を浮かべ、食い入る様に魔理沙を見つめ返している。

 そんなチルノの態度が、また、魔理沙には癇に障るらしい。一時も氷の板を踏み付ける力は緩めず、反して、足に力が加わるほどに、彼女の口元は(やわ)らいでいく。

 「そうか…。お前なりに、あいつへ災いが及んでいる事を感じって居たんだな。…けど、これは知っているか…。その災いの現況は、私たちなんだぜ。」

 それは…魔理沙の告げた言葉は、チルノにとってまったく思いも寄らない事。…そうであったなら…彼女が両の目を見開き、怖気に身を震わせる事はなかったであろう。

 チルノは疑いの余地を探す様に、必死で、俯き加減の魔理沙の表情を窺う。しかしながら、その面持ちからは、前髪と宵闇に隠れ、何一つ浮かび上がってはこなかった。…魔理沙の笑みが深まったこと以外、何一つ…。

 「ふーんっ、そうかよ。なるほどねぇ。」

 チラリッと覗いた白い歯が、魔理沙の微笑みに、皮肉っぽい深みを与える。

 魔理沙は、抑えきれぬ加虐心を奥歯で噛み締めながら、さも愉快そうに呟く。

 「お前…自分の『気持ち』が、あいつに(まと)わり付いているの…薄々は気付いて居たんだろ。」

 その刹那、パキリッと、魔理沙の足元で氷の割れる音が響く。

 音の大きさからして、割れたのは表面だけであろうが…もう一押し…そう彼女に確信させるには、それで十分。

 魔理沙はわざと足に掛ける力を弱め、顔を上げる。

 「流石に妖精だけの事はあるな。人間や妖怪に比べ、より、象徴界、想像界に近い分、現実界に形を持たない思いにも、鼻が利くって訳か。しかし…だとすると私は、お前に礼を言わないと成らないな。」

 彼女の声付きは、茶化すかの様にふわふわしている。だが、目付き、表情は、少しも笑っていない。

 無感動、無表情な、魔理沙の足元から…また、メキメキと、氷の砕ける音が漏れ聞こえ出した。

 「アリスと絶縁状態に成ってから、私に出会うまでの何カ月か。その間も、あいつは人形を作り、それを操って劇を開いていた。…気には成っていたんだ。アリスも私も傍に居ない時、あいつはどこから…誰から『魔力』を得て居たのかってな。」

 再び、足元の氷の板が鳴き止む。えずく様な破壊音を耳にして、火の精霊たちの連なる影から、顔面蒼白のチルノが魔理沙を睨みつけて居る。…果たして、あと何度…あの氷の板は…彼女の『気持ち』は…持ちこたえられるのであろうか…。

 魔理沙の視線は、チルノの身体から抜け出して行く冷気よりも、なお冷やかに彼女を値踏みする。

 二人とも気付いていた。解かっていた。

 チルノの身体が、『気持ち』が弱る度、氷の板は(もろ)く成って行く。そして、氷の板が踏み砕かれる度、チルノの身も、心も、決して修復する事の出来ない傷を負っていく。

 一層、強く。氷の表層から、深層へ…彼女の心の深層へ亀裂を伸ばすかの如く、魔理沙は足元を踏み締めた。

 「自分でも気付かない内に、味を占めていたんだろ。勿論、べっこう飴の事を言って居るんじゃないぜ。あいつへ、『魔力』と一緒に自分の『気持ち』流し込む…お前がいつからか覚えていた、その楽しみの話さ。」

 火の精霊に囲まれて、蒸し風呂の中。いいや、氷の妖精であるチルノにとっては、それ以上の苦境であろう。そんな最中にあって、力無く地面に座り込みながらも、彼女が頭を垂れる事はない。

 真っ向から睨み返すラムネ色の瞳と、音を上げる事を止めた足元の『気持ち』に…魔理沙は少しだけ口元を柔らかくして、

「例えどんな結果が訪れようと、あいつの為にやっていた事を悔みはしない。そう言いたいんだろ。…あぁ、良く解かるぜ。私も今、そんな『気持ち』を味わっているところだ。それに…これからも、こんな『気持ち』を味わい、生きていけるのかと思うと…楽しみでしょうがない。私もどうしようもなく好きなんだ。あいつの事が…あいつの為の行いと、自分の為の行い。その境界線が、あの赤く染まった地平線みたいにぼやけていく…この感覚も…好きで、好きで、しょうがないんだよ。」

と、優しい微笑を浮かべて居た口の端が、吊り上がり、底意地悪そうな笑顔に変わった。

 「だからさぁ…私は、お前の事が不憫でしょうがないぜ。こんな幸せな気持ちを、お前はあいつと共有できない。可哀想だけど、お前の『気持ち』はあいつの為に成らないんだ。」

 地平線に消える瞬間、鮮紅色の薄日は、魔理沙の唇へ血の様な赤を重ねた。

 溶け始めたチルノの瞼は重く、瞳を開き切る事も出来ない。それでも、目の前の女に屈してやるものかと、肩を怒らせ、立ち上がる。

 その眠そうにも見える氷の妖精の眼差しに、魔理沙は…メキメキと、三度、氷の板を踏み砕きに掛かった…。

 「どうして、私がこんな真似をするのか…どうして、自分に危害を加える事が、あいつの為に成るって言うのか…解からないだろうな。私もまさか、お前がそこまでの自負心をもっているなんて…お前があいつを守って居る積りだったとは、思いもしなかったぜ…。」

 そう問い掛けた魔理沙の声付きからは、先程まであった、探る様な、躊躇する様な気配が消えて居た。

 薄氷で作られたチルノの羽の一枚が、根元から抜け落ちる。一回りは小さく成っていても、鋭く地面に突き刺さり、二人の様相を溶けた上辺に写し取った。

 濡れた氷の表面の微笑みが、唇を動かす。

 「教えてやるよ…。あいつの世界は今、お前の『気持ち』で覆われている。お前の『気持ち』が見せる吹雪の中に居る。…と、そう言ったところで、『あいつがそう言う能力の持ち主だから』なんて言い方じゃあ、お前には伝わらないよな。…だから、仕方ない。少し酷な様だけど、有り体に言うぜ。」

 魔理沙は軽く俯き、靴底を氷の板から離して…、

「あいつはこれまで、人形劇を開く為に『魔力』を失い…。無くなった分の『魔力』は、べっこう飴と交換する様にお前からもらっていた。お前たちは、この氷の中に埋め込まれている爪楊枝の数だけ、そういう事を繰り返して来たんだろう。なぁ、チルノ。お前はどんな事を思いながら、あいつに『魔力』をくれてやっていたんだ。あいつが寄越した爪楊枝一本分の心の欠片を、どんな思いで凍らせていたんだ。…なぁ、チルノ…爪楊枝を凍らせている時の、その満ち足りた『気持ち』は…あいつに伝わっているんだぜ…と言ったら、お前、どんな『気持ち』に成る。」

 チルノにはまだ、魔理沙の言わんとしている意図が、飲み込めていない。しかし…よほど恐ろしいもの想像し、よほど救われない『気持ち』に成ったのであろう。溶け落ちかけた瞼に塞がれ、半目になったチルノの瞳が…不安に震えている…。

 「その顔からするとお前自身、良からぬ事を思っていると心得た上で、爪楊枝を凍らせていたみたいだな。」

と、魔理沙はしたり顔で含み笑いを漏らすと、琥珀色の瞳が妖しく光る確度に、首を(かた)げて、

 「…その『気持ち』がどんなだか…お前がどんな事を思いながら爪楊枝を凍らせていのかを、私が当ててやろうか。」

 羽のもう一枚が抜け落ち、その反動でチルノの肩が、グラリッと揺れる。だがしかし、こんな状態となった今も、彼女は膝を折ろうとはしない。ラムネ色の瞳からも、意志の輝きは失われてはいなかった。

 魔理沙はチルノのその姿に…一呼吸の間だけ言葉を詰まらせて…言葉を続ける。

 「一本の爪楊枝を凍らせる。そうしてお前は、あいつへ『魔力』を与える為に、『気持ち』を送っていた。自然の(ことわり)の一部であるお前が、どれくらい自覚的にそれを行って居たか、それは解からない。多分、お前だって解かっちゃあいないはずだ。…けど、お前はよく知って居たんだよな。人間の男と女が、どんな風にお互いを思い合うか。お互いの『気持ち』を交わし合う姿が、どんなだか…。あいつの人形劇を見る内に、お前はそれを肌で感じ取って居た。『恋する気持ち』がどれ位の体温を持つのかを、妖精のお前はあいつの演じる物語から知っていた。だから、それを真似て『魔力』を…『気持ち』を、あいつへと送ってやったんだろ。」

 チルノは戦慄く腕で目元を擦り、魔理沙を見つめる。

 魔理沙の様子を必死に窺おうとする、驚きに満ちたチルノの表情。どうして自分の気持ちが解かるのか、不思議で仕方がないのであろう。

 そんなチルノの目の前で、魔理沙は氷の板を踏み付ける。今までの様な、氷の表面が砕けるのとは明らかに異なる音。

 白く濁りの混じった瞳を見開いた、チルノ。その憐れなほど落胆した氷の妖精を前に、魔理沙はクスリッともせず呟く。

 「いつからなんだろうな…。いつから、手段でしかなかったはず物が、目的になったのか…。いつから私は…誰かの思いを踏み(にじ)る様な、最低な女に成ったか…。そもそも、自分が女なんだって事さえ、あいつと出会うまでは意識する事もなかったんだぜ。それが…今はこんな、自分で自分が解からなくなる位に混乱して居る。」

 そう呟きながら魔理沙は、無残に破壊された氷の板を、とうとうと、踏み砕き続ける。それはほんの一握り、ほんの一欠片の『気持ち』も見逃すまいとする様に、執拗で、無慈悲な作業であった。

 チルノは、ガックリと、地面に膝を突く。

 溶けて形の崩れた、彼女の下瞼。そこに溜まった涙が、細長いつららに変わり垂れ落ちる。しかし、その涙の結晶ですら、火の精霊の輪の中で溶かされ、ドロドロの、シャーベット状になって積み上がっていった。

 足元から噴き上がる断末魔の冷気が止む頃、魔理沙は地面を踏み付ける足を退く。

 「あぁ、そうだった。話しながらですっかり忘れて居たけど、私…私がどれくらいあいつの事を好きなのか…それを見せつけようと思って、こんな真似をしていたんだっけな。少しは伝わったか、私のあいつへの思い。」

 彼女の口にしたその言葉…。その言葉で、チルノの目尻から伸びたつららが、パキリッと、音を立てて砕け散った。

 一定のリズムで廻り踊っていた火の精霊たち。その姿が大きく揺らめいてから、精霊たちの動きが止まる。

 それは魔理沙の意思によるものか…いいや、そうではない。チルノの小さな身体から(ほとばし)る冷気が、彼女の周りの地面を伝い、精霊たちの足を凍らせてしまったのだ。

 暴風とかした冷気は、まさしく小規模な吹雪。その風の中に混じる氷の結晶が、(つぶて)となって、火の精霊たちを責めさいなむ。しかしながら…そんな、彼らにとって危機的天気概況にあっても…それどころか、踊り回っていた先程までよりなお固く…精霊たちはお互いの手を取り合い、氷の妖精の吐き出す吹雪を耐え忍んでいる。

 (あたか)も、自分たちの外側へ吹雪の影響を及ぼさぬ様に…。恰も、予めから、こうしろと指示を受けて居たかの様に…。

 絶え間なくはためき続ける人型の灯火。その光を浴びながら、魔理沙は黒いドレスの右袖を捲りあげる。その炯々(けいけい)とした琥珀色の瞳は、荒れ狂ったチルノの視線を睨み返し、臆した気配など微塵もない。

 それに対してチルノは、まさに怒りの化身と成ったか…。溶けかけた身体を(いびつ)に凍結させた、鋭利な氷塊を(まと)って居る。

 そんな『氷の妖精の本性』とも呼ぶべき姿へ、ゆっくりと歩み寄りながら、魔理沙はさりげなく右手を胸元へ引き寄せた。

 「その様子だと、ちゃんと伝わったらしいな。なっ、最低だろ、私。何せ、お前の大切な『恋心の器』を、私の『気持ち』を証明するのに利用する様な女だもんな。それも、あいつを思う、お前の『気持ち』を知った上で…。」

 火の精霊の熱気と、その隙間からわずかに漏れだす冷気。二つの相反する温度を肌に感じる距離で、魔理沙は立ち止まる。

 チルノは、凍りに(よろ)われた手が溶けるのも構わず、火の精霊を押し退け、死んだ魚の様な瞳を彼女へ突き付けた。

 「さぁ、どうする。私に壊された今、『あれ』はもうお前の『恋心の器』じゃないぜ。『あれ』は…お前があいつを思う『気持ち』より、私があいつを思う『気持ち』の方が強い…それを証明する為の物に変わっている。解かるだろ。落ちて居る爪楊枝を集めて、また、凍らせたとしても無駄なのは…。例え、私に見つからない様に隠したとして…二度と踏み躙られる事がなくても…それはただの、『爪楊枝を凍らせて物』でしかないって事はな。」

 瞳が吊り上がるに連れ、チルノの瞼の上に細かな亀裂が広がって行く。しかし、その痛ましさとは裏腹に、悔しさが、嫉妬心が、不純物の混じる氷の様だった白い瞳へ、澄んだラムネ色を際立たせる。

 魔理沙は胸元に押し当てた手で、自分の心臓の鼓動を確かめながら、  

 「…どうする。やり場の無くなった『気持ち』を、お前は何に向ければ良い…。いっそ、あいつの事は全面的に私に任せて、砕けた『器』と一緒にその『気持ち』も捨ててしまうか。そうなれば、お前の『魔力』も、『気持ち』も、今までの様にはあいつへ届けられない。けど、そうする事は…お前の『気持ち』であいつが傷つかないで済む様に成る…そう言う事でもある。なに、心配しなくても、大丈夫だぜ。あいつの『魔力』は、この身を削ってでも、私が補ってやる積りだからな。」

と、そう高揚する心のままに、言い切った。

 そんな気負いのない声音を聞いて、たじろぎ、曇ったチルノの瞳。凍ったまつ毛の一本が粉々に成る。その瞳は彼女の『気持ち』に触れた事で…その熱量を間近で感じた事で…圧倒された様に色を失って居た。

 だがそれでもなお、猜疑心の淀みは明白としている。

 チルノはきっと、そんな瞳で、魔理沙にこう問いかけて居るのであろう…。

 『自分の気持ちは、アナタに負担を掛けたのかも知れない。それなら、お前の気持ちはどうなんだ。私の心を踏み砕いたお前の気持ちが、アナタの負担に成らない…お前にはそう言い切れるのか。』

 魔理沙は不敵な笑みを浮かべると、胸元の右手をまたさりげなく、下ろした。…チルノはまだ気付いて居ない…その手が、まるでマッチを擦ったかの様に、青く、妖しい輝きを放ち始めた事に…。

 「どうやら、私の言った事が『お気に召した』みたいだな。で、どれがそんなに気に入ったんだ。『気持ちを捨ててしまえ』と、言った事か。そうじゃないとしたら、えっと…何て言ったんだっけ…あぁ、そうそう、『お前の気持ちで、あいつが傷つかずに済む』とも言ったよな。それとも…。」

 鼻先で舞い落ちる氷の結晶を、フッと、吐息で吹き飛ばして、

「『この身を削って』なんて言ったのが…そんなにも羨ましかったのか。まぁ、妖精のお前には、出来ない発想だろうからな。」

 そう魔理沙に問われても、チルノは見当も付かないといった顔をしている。実際、表情からは、困惑しか見て取れない。それなのに、

「図星か…。」

と、チルノの瞳に宿る不明瞭さすら溶解しそうな…熱っぽく、確信に満ちた声で、魔理沙が呟いた。

 勿論、魔理沙のその声を聞いても、チルノの当惑の色は変わらない。…いいや、むしろ、こんなにも思わせ振りな言い草を聞いたにしては…変化がなさ過ぎる…。

 よくよく見れば、チルノの目線も、顔も、小刻みに震えては、どこを向いて良いのかを決めあぐねている様だ。

 魔理沙はチルノの目線を引き寄せる様に、やや潜めた声音を継ぐ。

 「私には出来るぜ。あいつの為に…あいつに必要なものを手渡してやる事が…。食事も、嘘も、そして…。」

 容赦のないチルノの眼差しに晒されながら、魔理沙は涼しげな面持ちで、口元を(ほころ)ばせる。

 「そうそう、勿論なことだが…お前が食べたパンプキンパイ。あれも例外じゃあないぜ。」

 その言葉を聞いた途端、揺れ動いていたラムネ色の瞳が固まる。

 波立たず、音もない。それはまさしく、嵐の前の静けさであった。

 夜の湖面の如き瞳に映るは、くすんだ金髪と、柔和な口元。その両目に宿る魔理沙が、(まばた)かないチルノへ告げる。

 「パイをお前にも食わせてやって欲しい。そう私に頼んだのは、あいつだ。だから、あいつからの『差し入れ』と言った事は、嘘じゃない。だけどな、元はと言えばそれ…あいつの為、私が作ったものなんだ。あいつの事を思いながら…。」

 ギョクンッと、チルノの身体が大きく縦に揺れた。

 必死に押し退け様としていた、火の精霊。その肩から手を離し、フラフラと、輪の真ん中へ後ずさる。

 魔理沙は、地面に腰を落としたチルノを窺いつつ、火の精霊たちに視線で指示を送る。すると、彼女の正面…チルノが苦闘の末、()じ開けられなかった精霊たちの輪…その繋がれた手の一箇所が、まるで道を譲るかの様に放たれた。

 精霊の輪の中へと歩み入る魔理沙の足元。チルノは、手で口と腹を抑え、吐き気を(こら)(うずくま)って居る。

 身体に吹き付ける冷気を、涼しい顔で受け流して、魔理沙が苦笑を漏らした。

 「腹の中のあいつの『気持ち』は吐き出したくない。でも、あいつを思う私の『気持ち』は追い出したい…ってところかな。何も、そんなに嫌がる事はないだろ。…とは思う反面…お前のその『気持ち』も解からなくは…なくもないぜ。この手の、生理的に受け付けない感覚は、理屈じゃないからな。」

 魔理沙は、二、三度深呼吸を繰り返し、それから鼻息を一つ。

 「私だって出来る事なら、あいつの『魔力』を補うのに、他の奴の力を当てにしたくはなかったさ。だけど、これはあいつが望んだ事でもあるからな…。」

 さも仕方なさそうに呟いて、魔理沙は再び、チルノへと語り掛け始める。

 「さぁさぁ、そのままで良いのか。お前があいつを思う『恋心の器』はないんだ。そして、お前自身も…お前の『気持ち』が、私の『気持ち』より強いんだと…それを証明しない限り、お前の感じている嫌悪感は消えないぜ。…なら、どうする。やっぱり、大人しく、あいつへ思いを寄せる事を諦めるか。どうせお前も、もう、べっこう飴じゃ満足できはしないだろうしな。それとも…。」

 それは悪魔の囁きか、あるいは、神の啓示か。魔理沙の一言、一言に、追い詰められチルノの瞳は、自分の『気持ち』の証を求め、それを…地面に置かれた洋銀製のティーポットを見付けた。

 「それじゃあ、無理だな。それじゃあ、お前の『気持ち』の強さを証明する事は出来ないぜ。自分でも気付いて居るんだろ。自分があいつに向けた思いは、溶けてただの水に戻れる程、純粋な『気持ち』じゃないって…。だから、お前は『器』の交換に応じなかったし…それが出来るくらいなら、恋心だけを切り離せるようなら、私はこんな苦労を…おっと、こんな文句、お前に言ってもしょうがないな。」

と、魔理沙は、ティーポットに向けた瞳を…ギラギラと獲物を狙う様な瞳を…今度は、自分に向けてくるチルノへと笑い掛けた。

 吐き気を忘れたかの様に、ダラリと、両腕が肩から垂れる。チルノはそのまま…魔理沙の顔を見つめたまま…刺々しい氷結を纏った手を揺らし、凍って靴底に(から)みついた青草を引き裂き、ゆっくりと立ち上がる。

 それは、寒気に身の竦み上がりそうな、自然の無機質さ。そして、怖気を振るう様な、人の情念。その相反する二つの意思が、分かち難いまでに強く、(いびつ)に、少女の形として結びついている。

 彼女の異形を見れば、魔理沙の言った事も頷ける。確かに、チルノから恋心だけを取り出すなど無理な話であろう。

 神は分け隔てる事無く、万人の頭上に雨雪を降らす。そこに何らかの作為が存在したとして、雨雪が唯一人の頭を目掛け降りしきるものだったとして…。偶然の域をはずれ、その意図を、その『気持ち』を悟られてしまう様では…それは最早、自然の理ではない。

 そんな心を無理にティーポットに閉じ込めたとして、チルノに何が残ると言うのか。

 そうここは最早、惚れた()れたと言う、それだけの『気持ち』を競う場所ではない。今やこの場は、自分の存在意義を懸けた根競べの…白雪も薄汚れる、泥仕合の真っ只中にあるのだ。

 片や、アナタの全てを、べっこう飴一本分の思いさえ失わぬ様、覆い尽くしてしまおうとする『気持ち』。

 片や、思いの所在は本人にも定かではないのかも知れない…。しかしながら、背負って居るものの為に…アナタの為になら、一歩も引いてやるものか…そう意地を張る様な、負けん気の強い、男勝りな『気持ち』。

 心身ともに追い詰められているのは、チルノの方なのだろう。だが彼女の『気持ち』は…魔理沙のそれに勝る程に強い。その恋心は…『器』と一緒に砕け散っては居ない。

 そうだ。そうに違いないのだ…。

 魔理沙はきっと、行き場を失った思いの丈を、チルノの『気持ち』を、受けて立とうしているに違いないのだ。

 ハニーブロンドの神も、眉も、真向かいからの吹雪にさらされ、雪に塗れていく。絶え間なくはためくエプロンと、厚手のスカート。そして、その影に潜めた…揺らめく青い光を纏う、右の握り拳…。

 ギュッと固めたその手を開き、魔理沙はチルノへと問い掛ける。

 「お前は何に恋心を託す…何を『恋心の器』に選ぶ。何を破壊すれば…その『気持ち』はあいつへ伝わるかな…。」

 彼女の一言一句に触発され、応じるかの如く、凍り付いたチルノの指が、パキッ、パキッと、音を立てた。…彼女もまた砕いたのだ…自らの心の表層を…やり方は、目の前で見て良く知ってもいたから…。

 夜が訪れる。鬼気迫る妖精と魔法使いの根競べに、夜空すら焦がす火の精霊たちも色を失い、燻っていた。

 何もかもが青褪めていく世界の下。熔けてしまいそうな微笑を浮かべた魔理沙が、呟く。

 「私が居なくなれば…私の居た場所が、お前の居場所に成る。そこが、お前の『恋心の器』に成るんだぜ…。」

 風雪に消え入りそうな声を耳にした、その瞬間。チルノは、魔理沙の両肩目掛け、掴みかかった。

 それに対して魔理沙は…動かない。

 掴まれた両肩が凍り付き始め、氷の膜が首筋へと這い上り始めても、まだ、動こうとしない。それどころか、

「それで良いぜ…。もっともっと、お前の『気持ち』を私にぶつけてこい。私の存在を消し去り、成り変代わる…ただそれだけ、強く願うんだ。自分の事が…あいつの事が、どうでも良くなる位にな…。」

 チルノの手から広がる氷は、根を張り伸ばす様にゆっくりと、そして着実に、魔理沙を凍らせていく。

 遂には魔理沙の顔の右半分が氷に覆われ、とてもじゃないが、常人では正気を保ってさえ居られないだろう。それなのに、冷たく、心の通わない氷晶の奥でも、魔理沙の微笑みは瑞々(みずみず)しさを絶やさない。

 そんな、女性である事を謳歌している、眩いばかりの魅力に溢れた笑顔を見せつけられて…チルノは()れた様に歯を食い縛り、魔理沙の肩を掴む手に力を込めた。

 一層、加速していく身体の完全凍結。氷の根は魔理沙の手首にまでおよんでいる。

 自分は意地の張り合いを制した。そう確信したチルノが、気を許したその時…芯まで凍ったはずの唇が動いたのは、まさに、その時であった。

 「う…受け取ったな、私を…。じゃあ今度は…私が…私たちが…お前の『魔力』をもらう番だ。」

 目の前の女から感じる凄まじい寒気に、氷の妖精の彼女は、慌てて身を離そうとした。…だがしかし…。

 魔理沙の何もかもを奪おうとしたチルノの手は、彼女の肩の上、彼女の存在と共に凍り付いている。

そしてこの一瞬の遅れが、チルノにとって命取りであった。

 氷塊の内部からチルノの手が引き抜かれる、それよりも早く…身体に纏わり付いていた氷を壊し、チルノの両腕さえも砕き、魔理沙の青く光る右手が彼女の胸元へと…人間ならば心臓のある部分へと、突き入れられた。

 妖精であるチルノが、肉体の痛み、苦しみを、人のそれと同じ様に感じるのか。それは人知の及ぶところではないだろう。

 だが、胸元を抉られた瞬間の…瞳を張り裂けんばかりに見開き、白い息をぽっかりと吐き出した…その表情を見れば、明らかな事がある。

 魔理沙の右手は今、チルノの命脈に触れているのだ。

 そしてもう一つ…腕の砕け散った反動で、チルノは背後に倒れ込んでいく。その身体がどれ程も傾かない内に、ガクンッと、それ以上は地面に引き寄せられなく成った…。

 そう、魔理沙の手は、ただチルノの命脈に触れているだけではなかった。

 魔理沙の右手は今、チルノの命脈を掴んでいるのだ。

 我々はどうやら、勘違いをしていたらしい。チルノが魔理沙に挑みかかった…その時に、二人の根競べは終わったものと思い込んでいた。

 しかしそうではなかったのだ。二人の意地の張り合いはまだ、始まってすら居ない。そして、本当の根競べが、これから始まろとしている。

 冴え冴えとした青い光芒が、チルノの胸の内に押し込まれていく。

 遂には手が隠れてしまうまで潜り込み、それでも、魔理沙は手を休めようとしない。より力強くチルノの命脈を握ろうと、伸び切った腕で更に、手首を曲げる。

 夜空に一番星が輝く頃。火の精霊の輪から、冷たい風が抜け出して行った。

 その風に巻き上げられた無数の火の子と、その光景を見つめるチルノの瞳は…まるで、草原に寝っ転がり、旅立っていくタンポポの綿毛を見送る様な…静かで、澄み渡った、青空の色をしている。

 魔理沙はそんな無垢な瞳に見つめられて、不意に、戸惑った様な、押し潰されそうな表情を浮かべた。

 だが、ここでこの手を放したとしたら、アナタの命を守る事が出来ない…。その何ものにも代え難い『気持ち』が…恐怖心が…折れそうに成った彼女の決意を、後押しする。…少しだけ強く、そして、少しだけ残酷に…。

 自分にアナタへの思いの丈をぶつけ、抜け殻の様に成っている、チルノ。儚げなその姿を映す魔理沙の目付きが、再び、鋭く変わっていく。すると、それが合図だったかの様に、火の精霊たちはそろって、繋ぎ合わせていた手を放した。

 恰も炎が強く燃え上がるかの様に、精霊たちは諸手を空へ向け、夜空に伸び上がっていく。その背丈が2メートルを超える程に大きく成ると、精霊たちはチルノを見下ろす様に腰を曲げ、それどころか、身体全体を反物(たんもの)の如くくねらせ始めた。

 チルノの瞳に映る青を、幾重にも重なる火の衣が朱に染める。

 そして、火の精霊たちは、チルノの首を、胴を、脚を目掛けて、伸ばした身体を器用に巻き付け…しかし…。それでいて、ミイラの様なぐるぐる巻きにする積りはないらしい。

 精霊たちは次に、両手でチルノの身体に掴み掛かる。そうしてから、膨らんだ自分たちの身体を船の帆の様にたわませると、グイグイと引っ張り出した。…それも、魔理沙の居る正面とは、反対へ。

 掴み出す積りなのだ…。魔理沙は本気で、チルノの命を掴み出そうとしているのだ。

 されるがままの瞳には、生気の一欠片も見当たらない。しかし魔理沙は、依然として、その手中にあるものを『手に入れて』は居ない。

 彼女とて不安なはずだ。

 アナタを思う『気持ち』を巧みに自分へと向けさせ、その隙を突いて、チルノの命脈を握り締めた。…後はもう、精霊たちの力を借り、それを引っ張り出すだけ…それだけだと言うのに…。

 まるで、未練に縛られ成仏する事の出来ない、人の魂の様に…チルノの心はいつまでも、アナタの良く知る『少女の形をした器』を、離れようとはしない。

 手首の先、チルノの胸に埋められた魔理沙の右手が、焼け付く様な痛みを感じた。

 それは、彼女の『魔力』を貫通し、体温を奪われている痛み。そしてこの痛みは、間もなく、手の細胞が壊死(えし)する(しび)れへと変わるのであろう。

 長引いたなら魔理沙であっても、ただでは済まない。特に、不安で指先の覚束(おぼつか)ない時には…。 

 彼女だってそんな事は、痛いほど解かっている。それなのに…それなのにどうして…魔理沙は変わらず、微笑んで居られるのだろうか。

 火の精霊たちに引かれ、踏ん張っている自分の足まで引き摺られて行く。魔理沙は、足元で響く砂を削る音を聞きながら、楽しそうに、嬉しそうに、苦笑を漏らした。

 「なぁ、チルノ…。まだ、あいつの事が好きなら…あいつを忘れられないのなら…私と、最後の一勝負をしようぜ。」

 その呟きを耳にしても、チルノは瞬き一つ返さない。だがその瞳は、熱を帯びた魔理沙の声に溶かされたかの様に、潤み、力強い輝きを取り戻していた。

 根限りの『気持ち』を胸に、二人の意地の引っ張り合いが始まる…。

[27]

 煮え立つ鍋の中身をぶちまけた様な音をさせて、蒸気が夜空を湿らせる。氷柱(つらら)の先から(したた)る雪溶け水が、ポタポタと、土を濡らす。

 そうして二人の思いは、限りなく、尽きる事も知らず、この空と大地に広がって行く。

 凍傷の痛みとは、灼熱の炎で焼かれるのに似ていると言う。

 つまりは、オーブンに手を入れた様なもの。それならば、日頃からケーキやビスケットを焼いている魔理沙に、(こら)えられない道理はない。

 だから、彼女が漏らした小さな(うめ)きも、音を上げたなどでは決してなく…そう、あれだ、火加減に満足して笑ったに違いない。

 片や、両腕の砕け散ったチルノは、袖口から絶え間なく水滴を落としている。しかし、雪を(あざむ)く様なその白い肌は、艶やかさを失わずに、美しい。

 しかもその柔肌は、この世のどんな純水よりも汚れない清水に包まれ、燦然(さんぜん)と輝きを放っているのだ。心配するべきはむしろ、チルノが溶けて居なく成る事より、意気消沈した星々が流れ星に成って逃げ出しやしないかと言う事であろうな。

 魔理沙は容色衰えぬチルノに、頬を持ち上げ、笑い掛ける。

 「今のお前は、本当に綺麗だ。羨ましく成るぜ。」

 そんな彼女を見つめるラムネ色の瞳。その水晶の様な表面が溶けて、涙が白い頬を伝う。

 「不思議か。私が、お前の事を褒めるなんて…。まぁ、確かにな。自分でも馬鹿だなと思うよ。こんな状況で、これから手に掛けようって相手を羨望の目で見るなんてな。さもしいにも程がある…。」

と、自嘲的で、それでいて、どこか穏やかな笑顔を浮かべる、魔理沙。気恥かしそうに逸らしていた琥珀色の瞳を、また、チルノの顔の上へと戻して、

「…けどな、やっぱり、羨ましいものは羨ましい。あいつが、お前みたいな白い肌を好きだって知っているから…。もし、私を氷漬けにして、お前が生き残ったなら試してみろよ。」

 そう言った魔理沙を見つめる、チルノの目。その目は…その目を見ていれば気付かされる。彼女の白目には、一筋の血管もない事に…。

 やはりチルノは、アナタや、魔理沙とは違い、人ではない。幾ら端正に作り込まれていても…いいや、その容姿が端正であればある程に、人のそれとは違う。それが作り物の美しさなのだと、思い知らされる事に成る。

 人の身では太刀打ち出来ようはずもないと、思い知るのだ。

 もう一度、改めてチルノの姿を見れば、確かに似ている。肌の白さも、人形の如く洗練された容貌も、確かに、『彼女』に似ている…。

 ラムネ色の瞳に、清涼な月の光が映り込む。

 魔理沙は、ハッとした様に我に返ると、落とし掛けていた肩へ力を入れる。そして再び、気恥かしそうに笑顔を見せた。

 「んっ、『どうやって試せば良いんだ』って顔して居るな。バーカッ、そう言うのは、自分で考えるから楽しんだぜ。」

 ニコニコと笑う魔理沙の顔にも、放心した様子でその笑顔を見つめるチルノの顔にも、気味が悪い程に敵意が無い。一体、怒りも、憎しみもなく…どうして、互いに痛みを与えあえるのであろう。痛みを分かち合えるのであろうか…。

 どこまでも広がる草原。燃え続ける精霊たちの(からわ)らと、箒の柄に掛かったランタンの火だけが、ポツンッ、ポツンッと、夜の暗闇に取り残されていた。

 その昼間の様な明るさの中、不意に俯いた魔理沙の面持ちへ、暗い陰が差す。

 「もしも、お前が私にとって変わったなら…あいつの近くに居て、色んな顔を見せてやると良い。笑ったり、怒ったり、ヤキモチ焼いたりして…これからはそうやって、あいつの『魔力』を補ってやってくれ。…ごめんな。元はと言えば、あいつの『能力』を強めてしまったのは、私なんだ。それが、あいつの心と、お前の『気持ち』とのバランスを崩してしまった。お前だって、出来る事なら、あいつを傷付けるたくないだろうにな。だけど、安心しろよ。あいつはまだ、お前が自分を好きだなんて知っちゃいないからさ。お前の口から告白されたら、きっと驚いて…。」

と、話の途中で、魔理沙の声が止む。動いたのだ。ほんの数ミリ、しかしながら、確実に…掴んでいるチルノの命脈が…彼女の『気持ち』が、こちらへと動いたのだ。

 魔理沙の目的を思えば、この機を逃さず、そして有りっ丈の力で、その命の塊を手繰り寄せなければならない。

 それなのに…自分がチルノの胸を抉っている事も忘れたかのように…魔理沙はただ呆然と、顔を上げた。

 「お前…もしかして…。」

 目の前に有ったのは、先程までの(ほう)けた表情ではない。驚きと、困惑に、面喰った顔。それが失望の気色(けしき)へと変わり、最後に、悲しそうな薄ら笑い浮かべた。

 「そうだったのか。いいや、すぐに気付いても良さそうなものだったのに…。あいつの『能力』は、より強い『魔力』を伴う、『押し殺した気持ち』を好む傾向があった。真っ直ぐな、なに(はばか)る事もない気持ちなんかじゃ、『魔力』も、思いの丈も、あいつの心へは届かない。だったら、あいつへ『魔力』を与え終えてもなお、降り止む事のない幻を見せるお前の『気持ち』は…。」

 小さな溜息と一緒に、肩が、肘が、垂れ下がっていく。魔理沙はあえて、最後まで言おうとはしなかった。

 火の精霊たちも、彼女らの心境を反映するかの様に潮垂れ、ゆっくりとチルノの上へ被さっていく。その薄絹の如き身体が、袖口から零れた水滴に触れて、また、蒸気をほとばしらせる。

 湯気の向こうに霞むチルノの顔は、ゆらゆらと、皮肉な笑みを震わせていた。…魔理沙は、そんな彼女へ笑い返す事が出来ないまま、まつ毛を伏せて、

「ごめんな。私は、お前の『気持ち』を勘違いしていた。あいつの事を一人占めしたいと、そんな程度の思いだと決めつけていた…。始めから、べっこう飴に籠ったあいつの『気持ち』を…それが自分に向けられたものじゃない事も…知っていたのか。それだからお前は…。…ごめんな。」

 三度目になる謝罪の言葉の後、魔理沙は悲しそうに微笑んだ。

 「あいつが本当に好きなのは…アリスなんだ。…私じゃないんだ。私にとって代わっても、爪楊枝を凍らせていた『気持ち』の、埋め合わせにもならないし…べっこう飴に込められていた『気持ち』を、自分へ向けさせる事も出来ない。私は本当に…ただ、あいつの傍に居る。それだけなんだ…。」

 胸の内を語り終えた疲労感が、魔理沙から気力を奪い去っていく。

 はためいて居た帯状の光も、琥珀色の瞳から失せ消え。しかし口元だけは…寂しい笑みを捨てられずにいる…。

 「結局、私はお前と張り合う資格がなかったのかもな。あいつが思っているのは、私じゃない。お前の『気持ち』が…あいつに吹雪の幻を見せるくらい、強い『気持ち』が…本心から遠ざけたかったのだって、私じゃなかった。なんだか、情けなく成るぜ、我ながら…。」

 そう言うと魔理沙は、引き()った自嘲的な笑いを零しながら、チルノの胸の内から手を引き放そうと…だが、

「いっその事、私の『魔力』を全部、あいつに…。」

と、(てのひら)の皮が張り付いたかの様に、チルノの命脈を握った手は、指一本、動かない。

 次の瞬間、魔理沙が苦しげな(うめ)きを漏らす。そして、その苦悶の声をすら掻き消し、音を立てて空に昇って行く蒸気。

 しかも、そんな蒸気でさえ急速に凍え、透明な冷気へと変わる。それを素肌で感じ取った魔理沙は、睨む様に目を凝らし、チルノを見た。

 白煙の帳の向こうでは、憐れ、火の精霊たちが寒風に(あお)られている。煽られ、弄ばれる内に身も細り…細りに細って、ぷつりと、真っ二つに成ってしまう。

 そうして、コントロールを失った火の精霊の切れ端は、まるで糸の切れた(たこ)の様に、こちらへと飛んで来るではないか。

 魔理沙は首を横に倒し、紙一重で火の切片をかわす。頬に残る熱気をたどり、背後を振り向けば…火の精霊の身体の一部は、風にもまれ、散り散りに成って燃え尽きた…。

 グンッと、チルノの命脈を掴んだ彼女の手に、重みが加わる。その、手の皮がすっかりくっ付いてしまった様な違和感。…しかしながら、そんな感触を味わう事が無かったとしても…魔理沙はチルノを(かえり)みたであろう。

 先程から、スカートの内側、足首に感じる、この身を切られる様な冷たさ。そして、水分を凍らされた青草が、自らの重みに、パチパチッと悲鳴を上げる音。

 薄氷の道を踏む様な心許(こころもと)なさで、彼女の瞳から1メートルと離れない位置に、チルノの面差しを見た。

 その表情を目の当たりにした魔理沙は、急に寒気を覚えたのか、ビクリッと肩を震わせて…、

「わ、私は…私は、違う…。私は、そんな積りじゃ…。」

と、何やらうわ言の様に口走った途端、顔色から見る見る血の気が失せていく。

 チルノの脚に絡み付いて居た最後の火の妖精も、二人の思いに翻弄されながら、昼と夜の(ちまた)に消えて行った。

 ようやく白煙の晴れた濃紺の中。カンテラの灯りに照らされ、()け反る魔理沙の手元に浮かんだのは…皮肉な笑顔が溶けて(あら)わになった、人形の様な無表情…。

 感情の泡と消えたラムネ色の虹彩。そんな硝子の目玉が…チルノの瞳が、魔理沙へ訴え掛けてくる。

 綺麗事を抜かすなと…私の命を奪う理由を、私の『気持ち』とすり替えるなと…お前だって、アナタに愛されている訳ではない癖にと…魔理沙にはチルノから、そう(なじ)られて聞こえるのだ。

 「私は心から…お前が、あいつに『魔力』を与えてくれていた事を感謝して…。そう思えたから、お前と『魔力』の…居場所の奪い合いを…。」

 それは(あたか)も魔理沙の口振りに合わせたかの様に、恰もチルノの『気持ち』を表わしたかの様に、どろりと、溶けた(まぶた)が瞳に被さり、チルノの表情が変わって見える。

 そうして、睨む様な顔付きをした彼女は、(ののし)っているかも知れない。…お前のその手は何だと…。お前のその手は、奪おうとしている手ではない…その手は、受け取ろうとしている手ではないか。

 塞がり切る瞬間、チルノの右目が言い放つ。お前はここまで来て、まだ、自分の手を汚す事を躊躇って居るのだと…。

 「そんな事は、絶対にない。私は、例えこの身を削ったとしても、あいつの事を守りたいんだ。それで、あいつが私を…。」

 思わず口走りそうに成った言葉が…いいや、胸中に差しれられた、見えないチルノの手が…魔理沙の心臓を掴んだ。

 チルノの口の端に入ったヒビが、せせら笑う様に続ける。愛されなかったとしたら、どうするんだと…。

 『アナタの為に身を削り、手を汚して…それでも、愛されなかったとしたら…お前も、溶け残り薄汚れた雪と成って、消えていくしかない。今の私の様に…。お前は怖れて居るんだ。』

「怖れる、そんな必要はないだろ。私はこれまで、聖人君子みたいな生き方をしてきた訳じゃないぜ。それを今更、お前を殺した位で、自分が救いようのないほど汚れただなんて、思うかよ。」

 『その救いにしたって…アナタに愛されて居ればこそのものだろ…。やっぱり、お前は怖れて居るんだよ。どんなに手を汚しても、愛されないかも知れない事を…どんなに思っても、アナタが愛しているのは…。』

「やめろっ。もう止せ…。お前の『気持ち』なんて、私の知った事か。…そうだ。最初からこうして、ただ奪い取れば良かったんだ。早く帰って、私があいつを元気にしてやらなくてどうする。」

 『そして…元気に成ったアナタは、また、アリスの顔を(ろう)に刻みつけるんだぜ。魔力が尽きるまでな…。お前は…私は一体、いつまでそれに付き合う積りなんだ。胸像が完成するまでか。それとも、この先ずっと…。愛されるはずないって、知っている癖に…。」

「うるさい、黙れ。お前なんかに、私の…私たちの何が解かるんだ。私は、あいつがアリスの事を好きなのを知った上で、それでも…それでも…。」

 魔理沙の唇は悔しそうに引き結ばれ、その先を口にしようとはしなかった。

 『それでも』…彼女へと問い掛けられた言葉。結局、魔理沙はその言葉を振り切る事が出来なかったのだ…。それに、もうそろそろ、彼女自身が気付くべき時が訪れるようとしている。

 チルノの身体から吹き抜ける風が、魔理沙の髪をすり抜け、箒の柄に掛けられたカンテラを揺らした。

 木製の柄を引っ掻く様な…まるで扉の蝶番の動く様な音が、吹雪の夜に響く。

 背後で聞こえた音に背中を押され、我に返る、魔理沙。少し躊躇しながらも、言い返してやる気だけは捨てず、背けていた顔を前に向けた。

 「どうしてだ…。どうして…いつから…。」

 胸を衝かれ吐き出したその声は、総毛立つ様な、寒々しい呟きへと凝結する。

 しかし、それも仕方のない事であろう。

 揺れ動くカンテラの灯りに照らされ、照らされてはまた夜の闇に隠れる、澄ました無表情。どこか陶然としたその顔は…生気の感じられない硝子玉の瞳は…魔理沙を、見てはいないのだから…。

 「いつから…。」

 もう一度、魔理沙が囁く。『いつから』か…そんな事は彼女も、察している。

 琥珀色の瞳で、チルノの目線をたどるまでもなく。足元を凍らせる氷の結晶が、人道の先へと伸びている…それを確認するまでもなく。解かっている。

 チルノはただ一途(いちず)に、アナタの居る方を向いて、アナタの事を見つめていた。…それだけなのだ。

 「最初から…私に『魔力』を掴まれたときからなのか。なら、私の右手を焼いたものは…私に訴え掛けて来たあの瞳はなんだったんだよ。まさか…まさか、あれは…お前の『能力』を介して現れた、私の『魔力』…逆流した私の『気持ち』が、私の手を焼いた…。」

 『魔法』による体温調節の出来る魔理沙が、この位の吹雪で寒さを感じるはずもない。それなのに、赤く血の気の浮いた少女の様な頬は、強張り、霜焼けの痛みを彼女へ伝える。

 こんな夜には、こんな寒い夜風の中では、魔法使いも、普通の人間もない。ただ、白い息を吐いては、頬の(しび)れを忍び笑うだけ…。

 魔理沙は、歪んだ笑いに肩を震わせながら、誰にともなく問い掛ける。

 「それじゃあ、さっきからの痛みは全部…私の一人芝居…。私を傷付けていたのは、こいつの『気持ち』じゃなくて…素通りした私の『気持ち』が、自分に返ってきた…。こいつの『気持ち』は、一途に、アナタの方へ向かい…私の『気持ち』なんて、寄せ付けなかった…。」

 握り潰さんばかりに、力の込められた右手。張り付いて離れないと思ったその感触すら、今となっては、手応えのなさを言い(つくろ)う、下手な(なぐさ)めだった様に思えてくる。

 冷たい風が通り抜けて、また、箒の柄に掛けられたカンテラを揺らした。…いつからであろう。

 草原の向こうから来た風を、チルノの起こした吹雪と勘違いしていたのは…。現実の片隅で生まれた風…その冷たさを魔理沙が忘れていたのは…。

 魔理沙は、つま先から昇り詰める怖気に、生唾を飲む。

 「また負けたのか…私の『気持ち』は…。」

 冷え切った歯の根で呟いた、その直後。まるで最後の支えを失ったかの様に、チルノの足首が砕け散った。

 崩れ落ちるチルノの身体に腕を引かれ、魔理沙も倒れ込み、地面に膝を突く。

 チルノの身に付けている真っ青な服の内側で、そして、彼女が照れ隠しに引っ掻いていた首の付け根からも…分厚い氷の割れる…鈍い音が響いた。

 「そんな…現に、私がこうして、こいつの『魔力』を掴まえているんだぞ。」

 無機質な音に促され、見下ろしたそこにあったのは…魔理沙の見失っていたもの…物言わぬ氷の塊と成り果てた、無残なチルノの亡骸(なきがら)

 魔理沙も本当は理解している。それでいて耳触りの好い考えに、あるいは、遺骸に触れている嫌悪感に、身を(ゆだ)ねてしまいたい。

 目の当たりにしているものから…ぐずぐずに崩れ、単なる氷と化した彼女から…その黒ずんだ瞳を逸らせるのなら、どんな理由でも、どんな感情でも構わなかった。

 しかし、砕けてなお真っ直ぐなチルノの瞳が、その透明な瞳に映る自分の姿が…ぼやけた影が…魔理沙の唇を動かし、尋ね掛ける。

 「それなら…それなら私は…いったい、誰に向かってこんな『気持ち』を…私、本当は…誰の手を焼こうとして居たんだ。」

 それは、張り裂ける寸前の彼女の思いが、足元の氷の塊へ…チルノへ、初めて伝わった瞬間だったのかも知れない。

 氷の板を踏み割った、あの音。あの音を聞いた気がして、魔理沙はチルノを見下ろした。

 立ち昇る冷気が鼻先をかすめる。

 その火の灯りに立った透明なさざ波は、チルノの顔を縦断する大きな亀裂から吹き出し…そして…魔理沙の脳裏を過る。

 透明な膜の向こうに彼女が見たもの、それは…薪ストーブから立ち昇る熱気へと、可笑しそうに手をかざす姿。それは…、

「アリス…。」

 喉を突き上げていた空気の塊がしぼみ、か細い声に変わった。

 悲鳴にも似たその声、確信に満ちたその声が、止めどなく頭の中で鳴り響く。

 「うるさいっ。」

 気付いたとき魔理沙は、冷気の向こうへ、チルノの瞳に映る自分へ、絶叫して居た。

 「うるさい…うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。」

 考えたくもない言葉を、聞きたくもない声を掻き消す。それだけの為に魔理沙は、叫び続ける。ただただ、叫び続ける…。

 琥珀色の瞳の中央で瞳孔が収縮を繰り返し、恰もその動きに引き摺られるかの様に、魔理沙の白目が血走って行く。彼女の人間的な『気持ち』が…偽らざる本心が、口を衝く。

 「居なくなれ…。」

 まるで、凍り付いた歯茎が裂けて、口の中へ血が(にじ)み出したかの様な歯痒(はがゆ)さ。魔理沙にはそれが、得も言われぬ程の…快感だった。

 右手を持ち上げれば未だ、かつてチルノの身体だった氷の塊が、彼女の命脈に纏わり付いている。

 膝下の黒いスカートの裾と暗闇を巻き込み、チルノの顔だった氷塊に覆い被さる、魔理沙のその表情。その満ち足りた微笑みは…何と汚らわしく、何と切なげなのだろう…。

 魔理沙は、下瞼から一滴の涙を零す事なく、地面へチルノの遺骸を打ちつける。

 「居なくなれ。」

 チルノの身に付けていた青い服。その背中の部分が、湿った土に(まみ)れていく。氷の割れる鈍い音はない。だが、彼女の身体だったものは、確実に崩れている…。袖口から、あるいは、スカートから滑り落ちる氷の破片が、それを物語っていた。

 右腕を振り上げ、氷の欠片を()き散らして、小さく成ったチルノの身体を打ちつける。

 「壊れて、居なくなれ。」

 身体全体で心臓を押し潰そうとする様な、魔理沙の一撃。そして、その声…。

 噛み砕かれる寸前、氷は不快な音を上げる。自分の口にしている濁った言葉が、まさに、それなのだと知りながら…胸中で凍りついていた『気持ち』を、チルノ身体を…魔理沙は飽く事なく、砕き続ける。

 細い首が打ち壊され、頭がもげ落ちても。土に塗れ、擦り切れた青い服が、剥がれ落ちても。魔理沙は砕き続けた。

 「壊れて…消えてしまえ…。」

 地面へ叩き付けた瞬間、チルノの胴体がバラバラに成る感触と、その手応えを噛み締める。ようやく…魔理沙はようやく、自分の『気持ち』にしっくりとくる言葉を、手に入れたのだ。

 後はもう、ひたすらに、その言葉で頭を一杯にすれば良い。

 「消えてしまえ。消えてしまえ。消えてしまえ。消えてしまえ。」

 自分の『気持ち』そのままの言葉が、チルノの身体だったものを…チルノの存在を…面白い様に、こなごなにしていく。彼女にはそれで充分であった。

 だから魔理沙は、氷の内部から右手を、その手に掴んだチルノの『魔力』を引き抜いても、まだ、嬉々として右腕を振り上げる。

 「消えてしまえ。」

 高く振り上げた右手が、地面へと吸い込まれて、激突する…その寸での所、出し抜けに魔理沙の腕が止まった。

 「うぅ…くっ…。」

 突然、彼女の右手を耐えがたい痛みが襲う。

 手の皮を裂き、肉を、骨を貫かれた様な苦しみ。魔理沙は左手で、右の手首を力任せに握り締めた。しかし、この痛みは…手を引き千切られる痛みは…一向に、(やわ)らぐ気配もない。

 魔理沙は(せわ)しなく息を吐きながらも、右腕を引き寄せようと、肘を落とす。だが、ほんの少し肩から力が抜けただけで、右手に激痛が走った。

 どうやら右腕一本の自力だけでは、肩より低い位置へ下ろす事さえ、困難そうだ。

 それでも魔理沙は、自分の手を苛む痛みの正体を知ろうと、それこそ強引に、手首を掴んだ左手で右腕を引っ張り下ろす。

 固く(つむ)った上瞼が、下瞼の中へ潜り込んで行く…。顔の筋肉がそんな錯覚を起こすまで、辛抱に辛抱を重ね…そうやって、どうにかこうにか、彼女の右手は俯いた頭の真下へ。

 一際大きな溜息と、痛みに震える細い眉毛。少しずつこじ開けられていくピンぼけした視界に、魔理沙が見たもの…。

 それは、右手全体に広がる大きな亀裂。

 針の如く細かった魔理沙の目が、弾けたかの様に見開かれた。

 「こんな…こんな(あざ)に…。」

 その言葉の通り、彼女の手を縦横無尽に走っているそれは、本物のひび割れではなく、ひび割れによく似た青痣であった。

 おそらくは、あの時に…。チルノの胸を抉った魔理沙の手が、焼け付く様な痛みを覚えたあの時…苦痛を伴うこの痣が、刻まれたのであろう。

 驚きと嫌悪の入り混じった影が、魔理沙の表情を曇らせる。

 しかし…暗澹たる心境に(ひた)っていたのも、(つか)の間…魔理沙は、そんな泥の様に纏わり付く心持ちを引き摺りながら、下らないと、大した事はないと笑った。

 「なんだ…。私の『気持ち』、溢れ出して、こんな所にまで及んでいたのか。まったく、自分の思いに手を咬まれていたら、世話ないぜ。」

 大息を吐いた喉は渇いて、舌の上に残るのは、苦笑いの渋さだけ。…二人でお茶をした…二人で共有した時間だけ…。

 ティーカップを口に運び、眉根を止せて苦味を(こら)える。そうして彼女の淹れた紅茶を『楽しんで』いた、アナタの顔。その表情が可笑しくて仕方なかった彼女へ、ちょっと困った様子で、ちょっと呆れつつも、アナタはいつだって笑い返してくれた。

 それはまるで、自分の排他的な『気持ち』にさえ居場所を与えてくれる様な…ゆっくりと沈み込み、ゆっくりと思いの形を見出していける…魔理沙にとっては、何ものにも代えがたい時間だったのであろう。

 魔理沙は、冷たく、焼け焦げた臭いのする空気を吸い込む。それから、ポツリッと、真面目腐った顔で呟く。

 「だけど、そこはやっぱり、アナタへの『気持ち』だぜ。アナタに必要なものだけはちゃんと、壊さない様に、守ってくれた…。正直、かなり痛かったけどな。」

 右手の痣を満たしていた思いを、深く、深く、胸の奥に吸い込む。すると、あれほど耐えがたかった凍傷の痛みが、温い泥で包まれたかの様に、(やわ)らいでいく。

 そうして、魔理沙は右の手首を(かえ)して、その手に掴んでいるものを見つめる。

 彼女の手にしたものそれは、ラムネ色の光を放つ氷の(たま)

 (てのひら)に収まる程の大きさのそれが、チルノの身体を、心を形作っていた。…そして、その水晶玉の如き(まなこ)で…募り行くアナタへの思いを…ただ静かに、見つめていたのであろう。

 透き通るチルノの『命』の向こうには、やや薄らいだ様にも見える、青痣。

 魔理沙はそっと氷の珠を握り、立ち上がった。

 「アナタに吹雪の『幻覚』を見せていたチルノは…その『気持ち』は砕いた。これで、アナタの世界を覆っていた雪は止むはず…異常な寒気も消える。後は、アナタに足りていない…『魔力』を補いないさえすれば…補いさえすれば…。」

 チルノの崩れた身体に背を向け、カンテラの灯りに歩み寄る。魔理沙の足取りは目に見えてふら付いて居た。

 そんな危なっかしい身体を支えようと、魔法の箒が宙を滑り、彼女に付き従う。

 しかし魔理沙は、それを肩で押し退けると、真っ直ぐに灯火の先へ…真っ暗な地面の上に置かれた、ティーポットの前へと歩を進める。

 後ろから追い付いてきたカンテラの光が、洋銀の表面で反射して、琥珀色の瞳を(さいな)む。

 こんなことでさえ、疲労の極みに在る魔理沙の心には、やる瀬ない。そして…、

「『魔力』を補ったら、すぐ…また、一緒に人形劇が出来るよな。」

 寂しくて、恋しくて…。唇を噛み締めながら、右手を開いた。

 「もしも、それが…次にやる人形劇が、私たちの最後に成ったとして…。もしも、アナタが私の行いを知って…私を許さなかったとして…それでも…。その一回切りで悔いはない。私は、私の為にチルノを殺したし…例え自己満足だと罵られるとしても、確かに…確かに、私はアナタの命を守った。守る事が出来たんだって…自分だけには…私だけには、胸を張って言えるから…。」

 午後の日差しの様に、やわやわと頬照らす、カンテラの灯火。

 後ろめたそうに、(ろう)の如く蒼白い微笑みを、その一灯から背けて、

「随分、遅く成ってしまったけれど…今、薬を持って行ってやるぜ。」

 魔理沙はそう言うと、蓋の開いたティーポットの真上に、右手を、チルノの『命』を差し出す。

 瞳を閉じた凛々しい顔付きには、当たり前の作業をこなす自信と、神聖な儀式を執り行う緊張感が現れている。そして、魔理沙はチルノの『命』へと(ささや)いた。

 「(ことわり)の結晶よ、熔けろ、熔けて一掬(ひとすく)いの(かて)となれ。」

 彼女が小声で(とな)えた言葉は、おそらく、呪文の類であったろう。それが切っ掛けと成り、チルノの『命』の珠が、強く輝き始める。

 いいや、輝きを増しただけには留まらず、くるくると、回り始めたではないか…。

 恰も高速で回転する独楽(こま)の如く、一見しただけでは、ピタリッと静止している様にも見える。しかしながら、実体は、反時計回りの運動を際限なく繰り返しているのだろう。

 運動量の増加に息を合わせるかの様に、益々、ラムネ色の輝きが強くなる。加えて、その光をぐにゃぐにゃと屈折させるものが…摩擦熱の所為か、氷の珠の周りから冷気が立ち昇っているらしいのだ…。

 それら手中に現れた変化を確認して、魔理沙の瞳の奥で青い火花が散った。…っと、次の瞬間。

 唐突に魔理沙が右腕を下ろし…下ろし切らぬ内に、今度は、勢いよく夜空へ向けて振り上げる。

 右手にあった氷の珠も、(あお)りを受け、瞬く星々の狭間へ放り込まれた。

 それは物語に彩られた星座の世界でも、飛び抜けて、あるいは『飛び込んできた』幻想的な光景。まるで星の光とチルノの『命』の光が共鳴したかの様に、ラムネ色の輝きが(うず)を巻き、星雲の如く広がっていく。そして…星雲の大きく広がるのとは対照的に…氷の珠は、少しずつ、縮んできている様に見える…。

 そう、これは間違いなく、魔理沙の唱えた呪文の影響。

 魔理沙の口にした言葉を思い出して欲しい。彼女は確かに、こう言った。…『熔けろ、熔けて一掬いの糧と成れ』。

 星雲はどんどん広がって行く。毛糸玉を(ほど)く様に、細く、薄い、ひも状の光と成り、幾重にも夜空を(いろど)って行く。

 その液状化したラムネ色の光の下。今や遅しと、エプロンのポケットからポットの蓋を取り出して、魔理沙が待ち構えている。

 見上げた空一面に清涼な光が広がった頃。チルノの『命』の塊だったものは、遂に、跡形も無く熔けて消えた。

 もう一度、魔理沙が腕を振り上げる。手にした蓋を指揮棒の如く(かか)げれば、(たちま)ち、ラムネ色の渦は動くのを止め、星空に静寂が訪れる。

 そんな厳粛(げんしゅく)さの中、微かに残る…どうしても拭い切れなかった罪の意識。そして、アナタと過ごすであろうこれからの時間と…星座の向こうに垣間(かいま)見えた、幸福の予感…。

 魔理沙は自分の手前勝手さに、小さく苦笑いを浮かべ、俯く。すると、それを合図と受け取った星々の光が、ラムネ色の流れ星と成って魔理沙の足元へ、ティーポットへと落ちてくる。

 無数の流れ星は薄絹のベールを引きながら、一つ、また一つと、それぞれが結びつき、一本の大きな水筋に変わっていく。

 アナタと居た時に、彼女は胸中で『部屋の水蒸気を雪に変え、そして今度は、それをヤカンの火にかけた』と、呟いて居た。…彼女がそんな徒労に励んだのも…その頃には、『自分はこうするんだ』と、心に決めていたからなのかも知れない。

 空から流れ落ちる青い水筋は、形を整える様な魔理沙の手振りに従い、地面に近い方から締め上げられていく。

 それは、例えるなら、そう…彼女もケーキ作りで使う事の多い、クリームの詰まった絞り袋。その形によく似ている様だ。

 魔理沙はゆっくりと、蓋を掴んだ右手を下ろす。それに連れて、ラムネ色の光の詰まった絞り袋も、ティーポットへ向かい、静かに下降していった。

 本物の絞り袋であれば、星型の口金が付いていそうな、光の先端。それを、ティーポットの口にぶつかるギリギリまで近づけて…魔理沙はポットの蓋を持ったまま、両手の平を、ギュッと、押し付け始める…。

 そんな本当にクリームを絞り出している様な動きに、『力』に押し出されて、ラムネ色の光が(しぼ)んでいく。しかも、そこは料理上手な彼女だ。絞り袋の上部から、順を追って、全体が綺麗に成らされているのが解かる。

 ティーポットを揺らさぬ様、一滴も零さぬ様、細心の注意を払いつつ、作業は目に見えて進行していく。

 ラムネ色の絞り袋は、細りに細って一本の水筋に変わった後、ポットの中へ。そうして、やっと、大掛かりデコレーションは、その『しめ』の作業を向かえた様だ。

 魔理沙は手にした蓋で、ティーポットの口を閉じる。それから…何を思ったのか…ああも慎重に扱っていたポットを、右手で叩いた。

 呼び鈴を鳴らす様に、彼女の右手が蓋の摘まみの部分に被さる。当然だが、音らしい音もない。しかし…魔理沙が蓋を叩く同時に、雷でも落ちたのかと思う程の閃光が、ティーポットから辺りへ走る…。

 一瞬の閃光を、彼女は瞬きもせずに見つめていた。

 光に霞んだその瞳に、鮮やかな琥珀色が戻る頃。魔理沙は、ティーポットに重ねていた右手を退()ける。

 すると、どうだろう。彼女の手の下に在ったはずの、ポットの蓋が消えているではないか。

 いいや、『蓋が消えている』と言うのは、正しい表現ではなかった。

 ポットに蓋はあるのだ。…と言うより、蓋であった所は、あるにはあるのだ。ちゃんと、蓋の摘まみ『だった』部分も、その形を止めては居るし…口も、閉じられているのだから…。

 そう、隙間なく、蓋が閉じられているのは間違いない。だがしかし、ほんの少しの隙間も、それどころか、ポットの本体と蓋との境目まで、消えてしまっている。それはまるで、蓋が溶接されてしまったかの如く…。

 勿論、著者とて、『魔理沙の魔法が、瞬きする間に蓋を溶接した』として…そんな事を驚いている訳ではない。彼女の『魔法』の強力さを思えば、それ位の事をやってのけて、不思議はなかろう。

 著者はそんな事より、本体と蓋を一体化させた…二度と蓋を開ける積りのない…彼女のその『気持ち』に驚いているのだ。…アナタはどう思う。アナタには…魔理沙のこんな『気持ち』を、受け入れる事が出来るだろうか。

 元は蓋の縁がきていた周囲を、見た事もない、呪文の様な文字が輪に成って囲んでいる。この刻印を見る限り、ただ蓋と本体をくっつけた…だけでもなさそうだ。

 魔理沙はポットの口を消すのと同時に、チルノの『魔力』を内部に封じる為の、何らかの魔術を用いたのかも知れない。

 止んでいた風が、彼女の頬を撫でた。

 ギョッとして、振り返っても、熔け残った氷の塊が転がっているだけで、何があろうはずもないのに…。

 痛みのぶり返し始めた右手を(さす)りながら、見上げる満天の星空。その星空がぼやけて、ぐらりっと揺れた。

 唐突な立ち(くら)みに見舞われ、魔理沙は倒れる様に地面に腰を下ろす。そして、深く、大きな息を一つ。…彼女の吐息が…肩を落とし、身体を折り曲げて吐き出した…(しん)からの吐息が物語っている。終わったのだと…彼女はアナタの為、やれる事をやったのだと…。

 座り込んだままでティーポットを拾い上げ、そこに付いた土を払い落す。

 それから、呼ばれるまでもなく傍へと近寄っていた、魔法の箒。その柄に下げられたバスケットの中へ、また、大事そうにポットを仕舞い込む。

 簡単ながら、それで帰り支度も済んだ。先程まで、この場所で展開し…そして、砕け散った…壮絶な出来事の数々を思えば、ポッカリッと、胸に穴の開いた様な空虚感は否めない。

 魔理沙は疲れ切った顔で、のそのそと、バスケットと白布の間から両手を出した。

 「あぁ…流石に、これを見られるのは不味いよな…。」

 ランタンの火に照らされ、彼女の右手の青痣が暗闇から浮かび上がる。

 また、重苦しい一息。それから魔理沙は、立ち上がろうと、もう一方の手を地面に突いて…掌に当たる思い掛けない感触に気付いた。

 無言のまま立ち上がるのを止め、左手に取り上げたものを見つめる、魔理沙。彼女の琥珀色の瞳に映ったのは、そう…じっとりと湿った土のこびり付く、薄汚れた爪楊枝が数本…。

 魔理沙は少しの間、息をするのも忘れ、爪楊枝を見つめていた。

 そうしている内、指の隙間から覗く土の上、まだ爪楊枝が落ちているのに気付いて…生々しい痣のある右手で、一本、一本、爪楊枝を拾い集め始める。

 一本拾っては、左手へ。また一本拾っては、左手へ…。彼女は一体、どんな『気持ち』で…いいや、どんな料簡(りょうけん)で、自分が踏み砕き、蹴り散らかした残骸を集めているのだろうか…。

 辺りに散らばった爪楊枝を集め終えてみれば、それは全てを合わせても、彼女の片手で収まる程度。

 ズキリッと、胸に、右手に痛みを抱えながら、魔理沙はチルノの思いの名残を左手で包み込んだ。

 閉じた左手に引かれる様に歩みだす、黒衣の魔法使い。その後ろを、まるで葬儀の参列者の如く、灯りを持った空飛ぶ箒が続く。

 魔理沙は、倒れ伏したチルノの残骸の前で脚を止めた。

 その周囲だけ凍り付き、青草の匂いもない。そこにあったのは、ただただ冷たい空気と、どこか現実味ない…妖精の思い描いた恋模様だけ…。

 歯を食い縛り、溜息を吐き出したくなるのを(こら)える。瞳を見開き、涙で押し流したい衝動に(あらが)う。ここで弱さをさらす事を、一番女性らしい部分を表に出すのを、彼女は潔しとしなかった。

 しかし、それでも魔理沙は、女性としてここに居る。最後の最後まで男勝りでは、居られなかった…最後の最後まで、チルノの尊厳を奪い尽くす事が出来なかった…。

 魔理沙は、震える左腕を、琥珀色の瞳を揺らさぬ様に、ゆっくりと、手を差し出す。そして、バラバラと…チルノの傍で手首を(かた)げ、掌から爪楊枝を滑り落とした。

 「あの時…お前が私の肩を掴んだあの時に…私の『気持ち』は、お前の『気持ち』に負けていたんだろうな…。気付かされたよ。私は、あいつの心が誰かを見ているのを…私の以外の誰かの『気持ち』へ向いて居るのを、許せなかった。だから、私はここに居る。…だけど、お前は…あいつが誰かを思って居たから…。べっこう飴に込められた『気持ち』は、自分へ向けられたものじゃない。それに気付いて居ながら…それでも、あいつが『誰か』を思っていたから…その思いを糧に、ここに居たんだよな。ここで、あいつが来るのを待って居たんだよな。私にはそんな事…到底、出来っこない…。」

 並んだ箒からカンテラを受け取り、魔理沙はその場で腰を屈めた。

 葉に浮いた氷の重みを忍んだ青草も、彼女の厚手のスカートに圧され、沈んでいく。さながら、(こうべ)を垂れて、哀悼の意を示すかの様に…。

 魔理沙の右手が、硝子(ガラス)の軋む音を上げ、カンテラの風防を外す。

 「自分の思いを(おとし)める積りはないぜ。私だって、あいつの事を好きだから…だけどな、私もべっこう飴を食べたんだ。私にもあったんだ…お前にとってのべっこう飴が…それなのにな…。私の『気持ち』は(よこしま)で、狭っ苦しくて、自分本位で…お前の『気持ち』を掻っ(さら)っていく事もできそうにない。誰かとあいつを共有するなんて、まっぴらごめんだ。」

 泣き出した青草たちが、ポタッ、ポタッ、滴を落とす。その悲しげな音調に聞き入り、瞼を閉じて、魔理沙は青草へカンテラの火を放った。

 今度も、火には彼女の『力』が込められていたのだろう。燃え上がった炎は、人型はしていないものの、綺麗にチルノの周囲で巻き上がり、空へと伸びていく。

 悲嘆に暮れる青草を、打ち捨てられた爪楊枝を、千切れた青い布を巻き上げ、赤々とした炎は夜の黒へと吸い込まれた。

 魔理沙は熱気によろめくと、尻持ち突きそうになりながらも、何とか立ち上がって、

「さようならだ、チルノ…。」

 カンテラを胸に押し抱き、亀裂の広がる右手で硝子の風防を握り締める。魔理沙はよっぽど、心の(おり)を吐き出してしまいたかった。

 自分の欲しいものの為、相手の思いを踏み(にじ)り、命まで奪う。あまつさえ、自分は言い訳まで相手に用意させて、代わりに罪悪感を置いて行く積りなのか…。頭ではその浅ましさを理解しながら、一方で、考えれば考える程に、

(今更、恥や、外聞を気にしたところで…それこそ、私に何が残るでもない。私が自分で言った事だぜ。アナタに思われているのは、私じゃない。アナタに思われているのは…アリスだって…。)

 胸に抱いた灯火は、暗闇の底に人道を照らし出している。それなのに魔理沙は、帰り道を見失った子供の様に、途方に暮れていた。

 立ち(すく)み、俯き、いよいよ胸の(つか)えを言葉にしてしまおう。そう心を決め、魔理沙が噛み締めていた唇を開く…その瞳に、微笑みが映った。

 口に出し掛けた醜い『気持ち』は、思いがけず、小さな吐息に消える。

 驚きに満ちた琥珀色の瞳。そこに映った『微笑み』は…半分だけの微笑み、そして、真っ直ぐに自分の思いを伝える微笑み。

 魔理沙は振り返らなかった。

 振り返らずとも、チルノの見つめている場所は変わらない。顔の左半分が崩れていても…暗闇に覆われ、そして、どんなに遠く離れていても…炎の中のその微笑みが、自分の見つめるべき方向を失うはずないのだから…。

 「そうだった…あいつは、そっちに居るんだったよな。だから、お前がここに居て、私がここに居る。その『気持ち』があいつの命を(おびや)かし、それと同じ…いいや、ちょっと薄汚れた私の『気持ち』がお前の命を奪った。それだけ…それだけの事だったな。」

 ポタリッ、ポタリッ、滴が垂れ落ちる。ポタリッ、ポタリッ、魔理沙の熔けた微笑みから、涙の滴が垂れ落ちる。

 「アナタに思われていればな…。せめて、私か、お前のどちらかが、そうであったなら…。」

 涙は彼女の右手へと落ちて、生々しい青痣を撫でた。

 その浸み入ってくる様な痛みを、固く瞳を閉じて耐えながらも、

「あぁ、解かっている。解かっているよ。」

 魔理沙は口元の微笑みを絶やすことはなかった。…そして、涙目で満面の笑みを浮かべる。

 「お前は、あいつが誰の事を好きで、誰があいつの事を好きでも、関係ない。いつだって、あいつを見つめるだけなんだろ。解かっているさ。だから、羨ましいって言ったんだ。何せ、私には…消せないからな。」

 カンテラを右の人差し指に下げ、両腕を胸から下ろす、魔理沙。少し目の前が暗くは成ったが、反面、目の前の炎の内部は良く見える。

 何もかもが燃え尽き、溶けてしまった中、そこにはまだ、半分に成った微笑みだけが残っていた。

 魔理沙はその微笑みに頷き返し、言葉を続ける。

 「こうして、お前の身体を、『気持ち』を消し去ることが出来ても。私には、あいつの中のお前を消す事は出来ない。…でも、あいつにとっても、私にとっても、その方が良いのかも知れない。でないと、私は…。」

 ニヤッと、歯を見せ、おどけて見せて、

「なっ、お前だって、そう思うだろ。」

 チルノの右半分の笑顔は、一瞬、炎の中で口元を柔らかくした…そう、魔理沙には見えた。

 それも束の間、その笑顔は…溶けたか、蒸発したか…この地上から、この満天下から、完全に消えてしまう。

 役目を終え、小さく成っていく炎。魔理沙はうなじを焼く感触を背中に、カンテラを箒の柄に戻し、トレードマークのトンガリ帽子を被る。

 チルノの『命』を奪い…そして彼女自身も、心と身体の両方に、簡単には癒す事の出来ない傷を負った…。それでも、その微笑みは曇っては居ても、そこに後悔の暗さはない。

 あるのは、彼女を背中から包み込み、世界を照らしてくれる存在感。それと、その暖かさの傍で、ゆっくりと熔けていく彼女の『気持ち』。

 きっと、魔理沙は知っているのだろう。

 右手の亀裂は自分の『気持ち』の現れ。だから、自分の一人の『気持ち』だけで癒せるものではないと…。そして、この亀裂が右手にある間は…自分は、自分の思う霧雨魔理沙で居られるのだと…。

 魔理沙は炎の燃え尽きるのを確認しないまま、人道を歩み始めた。

 チルノの残した暗い影と、自分自身の『気持ち』をその手に…黙って一本道を進んでいく。

 『自分の為に』、『アナタに許されなくても構わない』、彼女はそう言っていた。…もし、『アナタの為に』と、『アナタなら解かってくれる』と言えていたなら…魔理沙はこんな、諦めにも似た感覚に、無力感に苛まれなくてよかったのかも知れない。自分が自分でいる為、心に亀裂を走らせる必要もなかったかも知れない。

 だが、今は、帰ろう。明日、魔理沙が、魔理沙で居られないとしても…。明日、魔理沙が、自分以外の

『誰か』に…アナタに思いを寄せられる『誰か』に、変わる事を望むとしても…。

 それでも、今日は、帰ろう。この道の向こうには、霧雨魔理沙の帰りを待つ…アナタが居る。

[28]

 暑い…。まどろみの中に居るアナタにも、その事だけは解かっていた。

 膝に掛けられた毛布は、着物の脚を汗ばませる。正面から受ける薪ストーブの熱気には…暑くて、暑くて…いびきとも、(うめ)きともつかない、寝苦しそうな声を漏らす。

 そんな気持ち良く眠るのに打って付け…とは言い難い状況でも、アナタは順調に睡魔の小舟を()いでいく。

 アナタが(まぶた)の裏に描いている風景は、おそらく、いつかの時と同じ湖。しかし今回は、炎天下。おまけに風もない。

 想像してもらえただろうか…。上からは、景気よく降り注ぐ直射日光。下からは、湖面に反射した照り返し。『眠りの森』の奥深くへ、うつら…うつら…。漕いでも…漕いでも…その状況が終わらない。

 むせ返る様な陽炎を吹き払う、涼風の一陣たりともなく。息苦しさも、こくり、こくり…もとい、刻々と、膨れ上がっていった。

 突然、湖を漕ぎ進んでいたアナタの目に、眩い光が差し込む。

 その、絵空事の産物とは思えない、浸み入る様な痛み。溢れ出した涙は、小舟を転覆させかねない勢いだ。

 この危機的状況を鑑みるに、現実では…多分、アナタの目の中へ汗が入り込んだ…そうに違いなかろう。

 これは最早、夢見がどうのと言って居られる状態ではない。十人中十人が、夢と現実の境を飛び越え、跳ね起きるはず…しかしながら、苦悶の表情を浮かべながらも、アナタは一向に目覚めない。

 (あたか)も目で歯ぎしりする様に、もぞもぞと、眠りながら器用に瞼を動かし、涙と汗を瞳の外へ追い出している。

 そうまでして眠っていたいのか。それとも、そうしてでも起きたくないのか。アナタ自身、尋ねられたところで、『ただただ眠るのに疲れた』以上の感想は持ち合わせていまい。

 しかしそんなに成ってでも、アナタの身体は浅い眠りを(むさぼ)り続ける。まるで、やっと思い出した船の漕ぎ方を満喫するかの様に…まぁ、この進み具合を見る限り、オールは岸辺に忘れてきたのだろがな…。

 まさしく涙ぐましい努力によって、夢に漕ぎ出したアナタの小舟は、転覆を免れた。

 頬を伝う涙の筋。その生温い感触も、ストーブの熱気の前では…いやいや、照り付ける日差しの中では、かえって心地よい。そよ風の様に柔らかく頬を撫で、瞼の下を(ぬぐ)う、この感触も…。

 「アリスッ。」

 アナタは浅い眠りの水面(みなも)から、湖畔(こはん)(たたず)む女へ、呼び掛けた。

 しかし女は、アナタに背を向けたまま、木々の(こずえ)の下を動こうとしない。…あの夜、『魔女の森』へと消えた後ろ姿…そのままに…。

 湖水を掻いて居た右手を引き上げ、もう一度、アナタは女へ呼び掛ける。

 「アリスッ。」

 彼女はこっちに気付いている。気付いていながら、こっちを見ようとはしない。そんな事は解かっている。解かっている…。

 漕ぎ手を失った小舟は、徐々に、森の出口へと押し流されて行く。だがそんな事は…眠っていようと、起きて居ようと…そんな事は、今のアナタには関係ない。

 アナタはひたすらに、遠退(とおの)く人影に…アリスに呼び掛けながら、湖畔へ飛び移ろうと、船縁に手を突く。

 そしてアナタは…ドボンッと、バランスを崩した小舟から、落っこちた。

 「アリスッ…。」

 自分が立ち上がろうとして居たのか、()け反ろうとして居たのか、それはアナタにも解からない。知った事ではない…。

 だが、周りの状況を理解するその前に、しこたま背中を打ち付けた痛み。この痛みは間違いない。間違いなく、現実の痛みだ。

 見開いた目を細め、背中から胸倉を突き上げられた様な息苦しさを、堪える。そうしている内、アナタにも、ぼつぼつ、現状が見えてきた。

 ここはアナタの家で、それも、薪ストーブの真ん前。流石は住み慣れた我が家だけあって、瞼の隙間から見えるぼやけた色に、すぐさま、輪郭が定まって行く。

 一つ状況が呑み込めれば、後は、ドミノ倒しと同じ。アナタは今の要領で、『夢の湖面』から這い上がり始めた。

 記憶を頼りに、辺りを眺める。すると、ここで暮した長年の経験が囁く。『お前の目線の高さは、椅子に腰掛けている時の、それだぞ』と…。

 つまり、自分が身体を預けている背もたれこそ、痛みの元凶。それに気付いたアナタは、深い、安堵の吐息を漏らす。どうやら、自分が眠っていた事を、そして、湖に落ちた事…あれは夢だったのだと、一足飛びに了解したようだな。しかし、それならば…それならばアナタの心臓は、どうして、鼓動を弱めないのだろうか…。

 いいや、そんな事は問題ではない。自分の心音の喧しさ、胸苦しさには、アナタはずっと前から気付いている。夢の中で彼女の人影を見てから、ずっと、気付いていた。

 だから、心臓の鼓動が今も強い事は…そんな事は問題ではない。本当に問題なのは…夢から覚めたはずなのに、夢で見た彼女が自分の目の前に居る…それが、問題なのだ。

 綺麗な金髪を細い肩の上で揺らし、彼女は微笑む。…好い気なものだよな。アナタが、どれだけ胸を高鳴らせているかも…アナタが、どれほど恋い焦がれているのかも知らずに…。

 彼女の手が、ゆっくりと白い布を…いつも、洗面台の上、籐編みの籠に入っているタオルを…アナタの目元へ近づける。

 夢現(ゆめうつつ)に感じた、そよ風。その意外な正体に、彼女の優しさに、アナタは…胸の鼓動の隙間を()って、自分の耳に、そして彼女の耳に届く様に…愛おしげに呟いた。

 「アリス…。」

 白い布の動きが、ピタリッと止まる。

 それに…気の所為だろうか。彼女の微笑みが、離れていくのを感じられた。…自分の居る場所も、彼女の居る場所も、同じはずなのだが…。

 折角、こうして彼女が目の前に居てくれる。そうだと言うのに、奇妙な感覚は…甘い夢を払拭(ふっしょく)する現実感は、鮮明に成って行く。

 やっと血の通い始めた様に、思考は視界の外側へと広がりだす。その変に冷めた頭で、アナタが最初に思い至ったのは、

(ここ数日、外は吹雪で、洗濯物は溜める一方だった。…なら、洗っていないタオルを引っ張り出して、それで俺の顔を拭いた…だとしても、まぁ、文句はない。文句はないが…するかな、アリスが…そんな色気のない真似。)

 目の届かない所で倒れ損なっていた、ドミノの列。その最後の一列が、(せき)を切った様に動き出し、音を立てる。こちらに合流しようと、近づいて来る音を…。

 (そう言えば、顔に触れたあの感触。布…には、違いなかった。しかし、タオルとは少し違ったような。)

 疑問は、次の疑問の呼び水となる。そうして、アナタの周囲を廻り廻った最後に、思いも寄らなかた疑問へ…いや、『不満』へと帰結した。

 アナタは…こう、何とも疑わしげな、何とも気に入らなそうな目付きで…正面にいる彼女を、彼女の金髪を見つめる。

 「んっ…んんっ…。」

 不服ありげな(うめ)きだった。

 目の前の彼女も一瞬、たじろいで…が、すぐに、細い肩を怒らせ、睨み返してくる。…確かに妙だな。アリスは、向こうっ気の強い娘ではなかったはず…。

 彼女のそんな反応を見て…まだ気付かないのか…疑いの色を深めたアナタは、再び、納得がいかなそうな呻きを漏らす。それから、正面の彼女へと向け、ポツリと呟く。

 「可笑しい…。アリスの金髪は、もっと、こう…綺麗だったような…。」

 一段と目を細め、一段と不服げな顔で、覗き込む様に、アナタは彼女へと顔を近づけた。

 しかしながら、幾らも近づかぬ内に、白い壁によって二人の顔と顔が離されていく。アナタの鼻を潰しながら、アナタの唇を塞ぎながら、そして…勿論、『白い壁』とは、彼女の手である。

 「包帯か。タオルじゃなく。だとしたら…。」

 顔全体に広がった柔らかな肌触りで、アナタは『白い布』の正体を掴んでいたらしいな。…掴まれているのは、アナタの方としても…。

 包帯の巻かれた(てのひら)へ唇を押し当て、それでも言葉は続けられる。

 「だとしたら…包帯だとしたら、アリスじゃない。…魔理沙。」

 アナタの声の弾みに…いいや、アナタに名前を呼ばれ『弾む』様に、彼女は包帯を巻かれた右手を離した。

 恰もその手を追うかの如く、寝惚けた野郎の顔が彼女の胸元へと寄せられる。

 例えそれが、『支えを失ってつんのめった』だけにしろ、『頬擦りして包帯の感触を確かめようとした』だけにしろ…。彼女は、未練の糸を引く様に…アリスの様に…右手を握り締め、綿布(めんぷ)を軋ませる。

 そうして彼女は、その握り拳を押し付ける様に、アナタの額へ…アナタの額へ…、

「悪かったな。綺麗な金髪じゃなくて…。」

 ゴツンと、小さな握り拳はアナタの額と衝突した。

 それは大した威力のある一撃ではなかった…はずなのだが…。首を軸に顎を振り上げたアナタは、そこから更に、全体重を背もたれへと預けて、

「アイテッ…てっ、ててっ、うわぁっ。」

と、椅子の後ろ脚二本で身体を支えられる、あの寒々しさを堪能(たんのう)した後…床板へ向け、急降下した。

 掘立小屋の壁と言わず、天井と言わず、主の粗野な振る舞いに足して、一斉に抗議を始める。そのガタピシッと言う文句の声はまだしも、舞い上がり、舞い落ちる(ほこり)の多さには参ったものだ。

 水面下に落ちる光の粒の様なそれらを見つめながら…アナタは、(はり)から落っこち掛けた人形を救った『魔法の箒』に…魔理沙に向けて、大きな泡と消える笑顔を浮かべた。

 「なんだ、帽子はそこにあったのか。」

 目の端、テーブルの上には、確かに彼女のトンガリ帽子が置いてある。しかしながら…、

「アナタ…それで、人の顔を見間違えた弁解をしている積りか。だとしたらアナタは、帽子のあるなしで、私とアリスを区別していたって事になるな。…まったく、失礼ここに極まれりだぜ。」

 彼女のそう言われたとして、当然、アナタには言い返すべき言葉もなく…。とりあえずは、頭だけ持ち上げて、後ろ髪を掻くしかない訳だ。

 「もう目は醒めたんだろうな。醒めてくれていなきゃ、困るぜ。」

 床板に近い場所にある耳に、ツカツカと、革靴の足音が響く。

 アナタは、差し伸べられた魔理沙の左手を掴んで、『眠りの湖底』から、床板の上へと座り込む。

 「あぁ、丁度、今。お前の一撃のお陰で、夢の結末を見られたからな。」

「夢の結末ね…。いつまで寝惚けているんだか。」

と、呆れた様な、安心した様な声を零す、魔理沙。

 立ち上がり、椅子を起こしているアナタから、それとなく右半身を隠す。…が、彼女の思惑を知ってから知らずか…アナタは、空っ惚けた様に尋ね掛ける。

 「それで…右手はどうしたんだ。」

 椅子の背もたれを押し、何やら促す様な、アナタ。魔理沙は自然、小さく会釈すると、

「んっ、ちょっとな…。」

 余所余所しく、アナタに二の句を継がせない様に…とはいかなかった様だ。彼女持ち前の、愛嬌がそうはさせない。…後、あれだけ苦労し、そして…そして…とにかく、少しくらい(むく)われるべきだ。魔理沙も、そう思ったのであろう…。

 彼女が椅子に腰掛けるや、アナタの手はすぐに背もたれを離れた。

 それを、鼻を鳴らし、詰まらなそうに見送ってから…。魔理沙は…『あぁ、私は帰ってこられたんだな』…そんな味の濃い、幸せな苦笑いを浮かべる。

 「そうだ。随分、待たせたけど…アナタの為の薬。作ってきたぜ。」

 そう言うと魔理沙は、オーライ、オーライと、包帯を巻いた右手を振って、『魔法の箒』へ指示を出す。

 人形の落下を防いだ後、『魔法の箒』殿は床の掃き掃除に勤しんでおられた様子。さぞ、本望だった事であろう。

 しかしながら、一度、魔理沙の手振りが始まれば、馳せ参じぬ訳にはいかない。

 穂先を逆立て、床に置いたバスケットの取っ手を、上手い具合に自分の柄に通す。そして『魔法の箒』は、主たる『魔法使い』の傍らへ。

 箒殿の主たちは、まだ、問答に決着を見ていないらしく、

「薬…そう言えば、『良く眠れる薬』を作りに帰っていたんだったな。」

 「おいおい、忘れていたのか。私が折角…と、文句の一言も聞かせてやりたいところだけど、止しとくとするぜ。よく眠れない事を気に病み過ぎるよりは、『忘れていた』くらいの方が、ずっとありがたいからな。」

 少しだけ『気持ち』が高揚しているのかも知れない。魔理沙は、自分の口から飛び出た『ありがたい』という言葉に、微かに頬を赤らめ、俯く。

 アナタの方では、それを何程のものとも取らなかった様だ。ひたすら恐縮した様に、後ろ髪を掻き回して、

「お世話をかけまして…。しかも、結局は、薬を飲む前に転寝(うたたね)しているんだから…世話ないよな、お前にしてみたら…。まぁ、熟睡できたかと言えば、それには程遠いが…あっ、そんな事よりも…もしかしてお前の右手、薬を作ってくれ様とした時に…そうなんだろ。すまん、『眠れない』と、俺が気弱な事を言ったばかりに…。」

と、後ろ髪から手を除け、深く頭を下げた。

 彼女にしてみれば、詫びられてもなぁ。やや当て外れた様な、空回りをした様な心境で、魔理沙は柔らかく微笑む。

 「こんなのは大した怪我じゃないんだ。本当だって。うん、薬を作っている時に怪我をしたのも、本当。だけど、ちょっと火傷したくらいで、すぐに治るから…本当さ。本当だから、アナタの為に負った怪我なのを、隠さないんだぜ。」

 それでも、魔理沙の言い分を信じてなお、アナタは気遣いを絶やさずに、

「お前が嘘を吐いているとは思ってないよ。そんな顔されなくても…。しかし、その包帯は…火傷した事は本当だとして、やっぱり、酷い怪我なのを隠しているんじゃないのか。」

 どうにも、彼女に大怪我を負わせた不安を、拭いきれない様だな。

 箒の柄に下がったバスケットへ伸ばした、右手。その隙間なく包帯で覆われた手を、魔理沙は胸元へと引き戻し…かと言って、包帯の下の青痣を、アナタに見せる訳にはいかない。

 魔理沙はとにかく、労わっているのだと知らせる様に、包帯の上から右手を撫でる。擦らぬ様に、痛みよりも、むしろ…包帯の隙間から、『亀裂』が覗くのを恐れる様に…。

 「気にし過ぎだよ。ただでさえ、治りかけでむず痒いだぜ。それを…ここまで心配されると、余計に、こそばゆくなるだろ。そうだ。(かゆ)いから包帯してんの。…あと、水膨れをしていて、少し見苦しいから…。だから間違っても、『包帯を取って見せろ』なんて、言ってくれるなよ。」

 勿論、アナタにそんな事が言えるはずもない。そして…言えないのだから、仕方がない。

 アナタは、椅子に腰かけた魔理沙の隣へ(ひざまず)く。そうしてから、両手を伸ばし、

「あの…ちょっと…。」

と、どぎまぎした様子の彼女の右手を、包み込んだ。

 ほんのりと頬を赤らめ、しかし右手を引く事も出来ず、魔理沙は…観念した様な笑みを浮かべ、鼻息を一つ。…本心だったのだな。『隠す積りはない』と、彼女が言った事は…。

 大きな両手で、大事に、大事に仕舞われている。その扱われ様は、さながら、紳士に手を預ける貴婦人を思わせる。だがそれは、まだまだ、『男勝り』な彼女には早かったらしい。

 魔理沙は、自分の胸中にせり上がる気恥かしさに、思わず…『やるならやれ』と、急かす様な咳払いを漏らした。…色気のないこと(はなは)だしい。

 その咳払いに、それと、細い右腕の先にある気の毒なほど照れた顔に、アナタは慌てて、

「んっ、あぁ、悪い。つい…な…。魔理沙、迷惑かけたな。薬は、ありがたく飲ませてもらうよ。」

 そう言うと、あっさり…主に、魔理沙の感覚によるとだが…あっさり、彼女の右手を離した。

 あれっ、これは、どうも…包帯の下を暴き立てようという気は、アナタにはなかった様だな。これで一時は、右手を見られる危うさから解放される。

 包帯の下でのたくる『亀裂』を…あの異様な青痣を見られる事を思えば…。その青痣の気味の悪さに、怪我を負った(いわ)れを問い質される事を思えば…。正直言って、魔理沙には都合が良かった。…例え、チルノの件を…いつまでも隠し切れないと、知っていても…。

 それなのに彼女の面持ちには、何となく、釈然としないものが残って見える。つくづく、女心とは複雑怪奇に出来ているらしい。

 しかし、幾ら思うところがあるにしろ、いつまでも右手を差し出しても居られない。

 魔理沙は気忙しそうに、その手でバスケットを探りながら、空笑いを吐いて、

「そ、そうだぜ。私の火傷の事なんかより…。」

と、まぁ、多少は、アナタの淡白な反応を引き摺りつつ、

「まずは、自分の飲む薬の事を考えてもらわないと…。この私が手ずから、アナタの為に用意した薬だぜ。わざわざ…。そうでなくちゃ、作ってやった甲斐がないだろ。」

 「忘れちゃいないさ。心から、当てにしているよ。」

「う、うん…。えっと、気持ちを落ち着けてくれる薬だから、寝付きが良く成るだけじゃなく、疲れも取れると思うぜ。…少し、変な味がするかもしれないけどな…。」

 アナタには無論、彼女を怪しむ様子はない。そう言う意味では、大いに照れて見せた事も、好いカムフラージュだったかも知れない。

 しかしながら…愛想笑いの薄皮を剥げば…気付いたはずだ。薬の説明をする魔理沙の口振りが、スラスラと、馬鹿に滑らかだったのを…。それは、アナタに『良く眠れる薬』と信じ込ませる為、(あらかじ)め用意された言葉だったのだと…。

 思惑通りに運んでいるという実感。その強烈な緊張感が、小刻みに、彼女の両手を震えさせる。

 バスケットの中へ押し込んだ両手を、更に、深くへ。魔理沙は悟られぬ様、ギュッと手を握り締めて、震えを殺す。

 アナタの方へ首を向けた魔理沙が、ニッコリと微笑んで…取り出したのは、やはり、あのティーポットであった…。

 ポットの中に収められているもの、その正体をアナタは知らない。だが、ティーポットが薬の入れ物として現れることを、アナタも予想していたらしく、

「『お前に必要ならやる』とは言ったけどな…。もし、『ポットが薬臭くなるから、自分が引き取ってしまおう』って理由で、『必要』と言ったのなら…返してくれても、一向に構わないぞ。丁度、ハーブティー用のポットが、一つ欲しかったところだし…。」

 まぁ、洋銀製の一品だからな。目の前を行ったり来たりされれば、それは、未練に思っても仕方なかろう。

 そんな能動的で、かつ、甘ったれる様な催促に、魔理沙は…緊張していた事など、どこかへ吹っ飛んだ顔で笑う。そして…、

「私としても、残念至極だぜ。でも、そう言う訳にはいかないんだ。」

と、おもむろに薪ストーブの投入口を開くと、何やら呟き始めた。

 ボソボソとした声の為、完全には話の内容を把握できない。しかし、断片的にでも、アナタの耳へ届いた単語を並べれば、

「ポットごと呪ってくれ…強火で7、8秒くらいか…丸焦げにな…よろしく頼むぜ。」

 これだけでは、何の事かさっぱり…と言いたいところだが…。彼女は、手にしたポットを再起不能とする積りで居る。…それを知っているアナタには、彼女のやらかそうとしている事の、察しが付いてしまうのだ。

 目の前を通り過ぎていく、鏡の如く磨き上げられた銀の容色。それに待ったをかける様に、(ひざまず)いた体勢で手を伸ばす。しかし、

「いい加減、割り切れよな。少なくとも、このポットは…お前の為、我が身を犠牲にするんだ…本望だと思うぜ。多分…。」

 走り去る姫君のスカートと、『魔法使い』へ譲った物は、永遠に戻ってこない。

 心苦しそうな微笑みに、小さな悪戯心を溶かし…。魔理沙は躊躇(ためら)うことなく、洋銀製のティーポットを、ストーブの内部へと差し入れた。

 「あっ…あぁ…。」

 ポットの行方を追って、アナタの手もストーブへ向けられる。だが無情にも、扉はさっさと締められ、ガラス小窓の奥は猛火に染まる。…酷な様だが、手遅れだな。

 それが解かっていても、魂の抜けた様に成って、火の赤を見つめ続ける、アナタ。これしかなかったとは言え、自分がやった事とは言え…悪戯心もあったとは言え…。

 力の落としたアナタの姿を、心苦しそうに、悲しそうに、魔理沙は見守る。俯き、見守りながら、自分に強いて、包帯に覆われた右手をアナタへと伸ばす。そうして、

「ほら、何をぼーっとしているんだ。ティーカップ一つと…それから、鍋掴み。持って来てくれ。それとも、遠路遥々(えんろはるばる)帰った私を、まだ働かせる積りか。」

 魔理沙はまた、右拳でコツンッと、アナタの額を小突いた。

 その威力に頭を揺す振られ、口を半開きにした間抜け面をさらしつつ、

「あっ…あぁ…。」

 アナタは、やおら立ち上がると、覚束ない足取りで寝室へと向かう。

 ヨタヨタと、肩を浮き沈みさせ歩く後ろ姿。

 まだ夢を見たりないのか。少し丸まって見えるその背中を…魔理沙は微笑んで、見送る。木陰の様に暗く微笑んで…。

 「黙っていても、いつかは、アナタに知られてしまう。ずっと、隠して置けるはずもないんだ…。それなら、いっそ、私の口から…。」

 思いを込める様に抱き寄せた両手。握り合わせた包帯の奥で、鋭い痛みが消えない。

[29]

 「丸焦げ…。いや、どんな焼き方したら、そう成るんだよ。」

 包帯の上に鍋掴みをして、魔理沙が薪ストーブから取り出した物…。アナタの第一声が、その有り様を克明に表わしていた。

 形こそ、ポットのそれを止めては居る。しかし、それでいて、見た目は全く別物。

 あれほど美しかった銀色の曲線は、墨を(なす)り付けた様に黒く染まり、もう光を映しては居ない。そう、その真っ黒焦げの姿が、アナタの大切にしていた、ティーポットの成れの果てなのである。

 魔理沙は、溜息も出ないといった様子のアナタを尻目に、カップへポットの中身を注ぎ始めた。

 テーブルに付いたアナタが見つめる、その液体の色は透明。

 魔理沙はポットの中身の、最後の一滴までカップに落として、

「少し変な味がするかも知れないけど…アナタの身体の為だ。ちゃんと、飲み干すんだぜ。」

 見返した琥珀色の瞳は、真剣そのもので…異論の余地などないな…。

 アナタは意を決し、カップの中の液体に口を付ける。

 「どう、飲めそう。」

「飲めるよ。問題なく。」

 「味は…。舌が痺れたりしない。」

「いいや、別に…。ただ…。」

 「ただ、何だ。」

「かなり甘いな、これ。」

 「えっ、甘い…。」

「あぁ、砂糖を入れてくれるのは良いが…。これじゃあ、まるで、べっこう飴にする砂糖水だな。」

 「……。」

 テーブルへポットを置いて、魔理沙は静かに項垂れる。

 「ところで、お前の口振りからすると…飲めるか解からないもの出したみたいが、それは…。」

と、息継ぎの様にアナタが零す言葉も、彼女には聞こえてはいない。

 そして遂に、魔理沙が真実を告げる。

 「あのな…。アナタに頼まれていた…件だけど…。」

「んっ、あぁ、そうだったな。それで、誰か居たのか。」

 「子供は…居なかった。それに、ルーミアも…。」

「そうか。無駄足を踏ませて、悪かったな。」

 「おっ、おい、ちょっと待てよ。肝心な奴の事を…チルノの事を忘れているだろ。」

「チルノ。」

 「そうだよ。アナタだって、一番気に掛けていた…。」

「俺が…。チルノを…。」

 「そうだって。…何だ、まだ寝惚けているのか。」

「…かも知れないが、なぁ、魔理沙。どうしても思い出せないんだよな。」

 「何を。」 

「チルノって…誰だ。」

 「誰って…。」

 魔理沙は、アナタを見つめながら…チルノの命を飲み干した、アナタを見つめながら…微笑む事しか出来なかった。

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