庚 (表)
[20]
ポカポカと温かい午後の日差しの中を、魔法の箒一本引き連れ、魔理沙が歩いて行く。
黒い厚手のドレスに、白いエプロンと、普段通りの…もとい、由緒正しき『魔法使い』の装い。その胸一杯にお日様の光を浴びられる様、両手は腰の蝶結びの上へ。
歩を進める度に立ち昇る土の香り。それを鼻腔で感じる度、魔理沙は上機嫌な笑みを浮かべ、頬を陽気で撫でる様に小首を傾げた。
だらだらと長い道程は丘へ差し掛かり、彼女と一本の脇を、風が通り抜けていく。目の端では、冷たい風に撫でつけられた草原の上を、キラリッと、光の筋が滑る。
それを見た魔理沙は、すかさず、箒の柄先に引っ掛けて居たトンガリ帽子を、彼女のトレードマークを救助。帽子のツバを手掴みに、通り抜けていく強い風を笑う。
…足を止め、瞳を閉じ…しばしの間、砂埃が通り過ぎるのを待つ。耳元には、ギッ、ギギッと、箒の柄に吊り下げた、バスケットの取っ手がしなる音。
その大きく振れる感触を聞くに…籐編みのバスケットの中には、たくさんの食べ物と、魔理沙の気合いが…それと、小っ恥ずかしげな愛情が少々…所狭しと詰め込まれているのであろう。
そんな心尽くしの土産を従えた魔理沙の足が、再び、ゆるい坂道を登り始めた。
遠くに見える、青と蒼の地平線。そうか、ここは…アナタと魔理沙が初めて出会った場所…。
彼女はきっと、回り道の道すがら、この草原を歩いて居るのだろうな。まぁ、そう言う気分に成るのも無理はない。何せ、こんなにも好い天気なのだ。
野を越え、丘を越え、『魔女の森』を横に見て、魔理沙はぶらぶらと人道を歩いて行く。後はもう、この道の傍らにある家へ、アナタの家へ辿り着くだけ。
…っと、空に浮かぶ雲を見つめていた彼女の足取りが、不意に、止まる。そこはまだ、アナタ家からは10メートルばかり離れていると言うのに…。
魔理沙は片手で、『ちょっと待て』と空飛ぶ箒へ指図する。それから、こんな小春日和には勿体無いからと脱いでいた帽子を、頭に乗せた。
一体、太陽に背けと彼女の心境を変えたものは、何なのだろうか。
頷く様に視線を下ろし、アナタの家へと向かう、魔理沙。
彼女が見上げていた青空を辿ると、見えてくる。頭の遥か上に浮かぶ雲が…そして、その雲へと一直線に登って行く、白煙の細い筋道が…。
アナタの家の前でもう一度足を止め、魔理沙は大勝負へ挑むかの様に、意気込んで肩を揺らす。…どうやら、白煙はアナタの家の裏手から登っているらしい。
つまりは、この晴れの日和の下、家に引き籠って薪ストーブを燃やしている。それが現在のアナタの状況なのだろう。率直に言って、健康的ではない。
そんなアナタの生活態度を、魔理沙は一喝しに来た…のかは判然とはしないが、彼女の表情に並々ならぬ決意が宿っている事は、間違いない。
ここは一先ず、アナタの処遇をどうするかは、魔理沙に一任するとして…何が起こるのか、じっくり見物させて貰うとしよう…。
[21]
「今、戻ったぜ。いやぁ、すっげぇ雪だな、外は…。」
そう言うと魔理沙は、押し開けた扉の前で、手で肩を払い、エプロンを叩き、そしてトンガリ帽子の胴を掴み、家の外側に向け振り回す。
それだけの仰々しい儀式を済ませてから、やっと、魔理沙がアナタの家の敷居を跨ぐ。
さて、その一連の動作を見ているはずの家主様は…如何ほどに驚き、呆れ、彼女のご帰還を迎えたのであろうか…。
昼間の薄暗がりを強調する様に、煌々(こうこう)と燃える薪ストーブ。その間近に置かれた椅子に腰かけ、さながら特等席に陣取った風なアナタは…どうしてそう成るのか…生地の分厚い着物の上に毛布まで羽織り、じっとして居る。…ごく内々で、我慢大会が行われている…まさかな…。
箒を迎え入れ、彼女が扉を閉める瞬間。恰も寒風が家の中へと入り込んだかの様に、アナタは毛布に包まって、身震いした。
「あれから、もう三日経つって言うのに…一向に止む気配を見せやがらない。それにしても…魔理沙、お前そんな薄着をして、よく平気で動き回れるよな。」
と、口の中が凍った訳でもあるまいに…アナタの言葉付きは、固く、歯切れが悪い。
アナタのそんな恨めしげな言動にも、魔理沙は物腰柔らかく、むしろ、少し嬉しそうに、
「私か。私は『魔法』で体温を調節しているから、暑かろうと、寒かろうと関係なく、いつでも快適だぜ。」
「…なっ、お前、そう言う裏技が…あるなら、早く教えてくれよ。いや、遅いとか、早いとか、そんな事はどうだって良い。頼む。一つ魔理沙さんのお力で、俺にも『体温調節の魔法』という奴を施してやってくれ。」
毛布を跳ねのけ、手を合わせて拝む、アナタ。切羽詰また眼差しを見れば、それ程に寒いのだろう事が窺える…。
魔理沙は申し訳なさそうにまつ毛を伏せて…しかしながら口の端は、さも可笑しそうに吊り上がっていく。
「私も、そうしてやりたいのはやまやまだぜ。如何せん、『能力』が解放されたばかりだからなぁ、アナタは…。それでも、はっきりと『こう言う異常が起きている』と解かれば、話は違ってくるんだが…アナタ自身にも、『能力が完全な状態で発動して居る』、自覚はないんだろ。」
彼女のその問いにアナタは、合わせた手を下ろし、首も縦に振った。
「そう言うのが一番、扱いに困るんだよな。下手に取っ付いって、アナタがどうにか成らないとも限らないし…『能力』という意味では質の近いだろう、私の『魔法』をそこに重ねるとなると…即、引き金を引く行為に繋がり兼ねない。」
と、魔理沙は勿体ぶった様子で、そう言葉を継いでから、後ろ髪を掻き掻き。琥珀色の瞳を、アナタの渋い表情の上に突き付けて、
「でも、アナタがどうしてもと言うなら、灰に成っても…じゃなかったぜ。『廃人に成っても良いから、暖を取りたい』と言うのなら、アナタの体感気温を『うららかな春の午後』だろうと、『灼熱の砂漠』だろうと、お好み通りに調節してやるよ。…その後の責任は、持てないけどな。」
魔理沙からの事実上の不承諾を得た、アナタ。すっかり落胆してしまった様子で、もう一度首を縦に振りお返事。
それから、裏返しで椅子の背もたれに被さっている毛布を、ガバッと、肩に羽織り直した。
アナタのその不貞腐れた面持ちを見守りながら…魔理沙は素知らぬ顔で視線を逸らして、
(アナタが苦しんでいる時に不謹慎だろうけど…ちょっと、可愛い。)
ニッと、充実感あふれる笑顔の魔理沙は、空気を変える様に、ハキハキと手を動かし始めた。
「ほらほら、寒いくらいで落ち込んでいるなよな。だいたい、身体を温めたいなら『魔法』に頼らなくても、他に確実なのがあるぜ。」
そう言いつつ、魔理沙は箒にぶら下がったバスケットの中へ両手を突っ込む。その手が慎重に取りだしたのは、陶器の深皿からはみ出る程に膨らんだ、焦げ目も芳しい大きなパイ。
魔理沙はそれをアナタの膝の上へ、ドカッと置いて、『どうだ』と言いたげに腰に手を当てた。
アナタは深皿を両手で抱えると、
「これは…。」
ぼんやりとした口調で、そんな寝惚けた事を訪ねるアナタに…得意気だった魔理沙も、流石に溜息を漏らして
「パンプキンパイだよ。思いがけず、形の良い、それも大振りのカボチャを譲ってもらってさ。だから、手土産にな…。」
愛嬌を振りまく様に…ちょっとだけ、かわいこぶって見せる様に…魔理沙は小さく頷いた。
その愛らしい仕草を見たアナタは、何故か、不審そうな目付きで彼女に向ける。
「なっ、なんだよ、その目は…。」
「『カボチャを譲ってもらった』だ…。お前が『譲ってもらった』とか言う時は、大概、怪しいんだよなぁ。」
アナタは、じぃっと…話の皆まで聞かずとも、小刻みに、首を左右へ振り始めている…魔理沙を凝視しながら、続ける。
「お前、雪が積もっているのを良い事にして…また、人様の畑から野菜を拝借したんじゃなかろうな。」
「ばっ、馬鹿な事を言うなよ。」
と、魔理沙は、毛布に掴み掛からんばかりの勢いで、アナタへと詰め寄って、
「幾らアナタの為だからって、私もそこまではしないぜ。本当に…。いや、そもそも、『自分の為なら、私が盗みでも働く』とか考えるのは…それはお前、私を安く見積もり過ぎってもんだろ。」
そう興奮してがなる彼女に、余程、驚いたと見える。アナタは一言もなく、目を丸くして魔理沙の言動のされるがままに成っていた。
そんなアナタに、反論し、言い負かす事を目的としていたはずの魔理沙は…ついつい、口籠る。
「な、何だよ、その目は…。嘘じゃなくて、本当に譲ってもらったんだぜ。運び屋が、お菓子の材料を持って来た時、オマケしてくれたんだ…。」
そう呟きながら、魔理沙はしゅんとして俯いてしまう。
アナタは、彼女の寂しそうな表情、それから、粉砂糖で装われたパンプキンパイを見比べて、
「そうだったか。魔理沙、疑って悪かったよ。」
と、膝の深皿を持ち上げ、パイの香ばしい匂いを吸い込む。
「美味そうだ。…って、それだけ…確かな事だけ言えば良かった。やっぱり、人間は身体を動かさないと駄目だな。こう家に缶詰だと、考え方まで捻くれていく。折角、魔理沙が俺を気遣って…『俺の為に』、このパイを焼いてくれたって言うのに…。」
魔理沙は、コクンッと頷いて…それから…はたと気づいた。
「あっ、いや…いやいや、私は特別、アナタの為だから、どうしたって事は…。このパイだって今言った様に、偶々(たまたま)、材料の方から羽を付けて飛んできたから…だから、ついでの事にでだなぁ…。」
「『アナタの為に』と、そう言ったのは魔理沙だろ。」
「うぐっ…それは言葉の綾というか…。もしかしてアナタ、そうやって私の事をからかうのが目的で、謝った訳じゃないよな。」
アナタは毛布を羽織ったまま立ち上がる。それから深皿をテーブルの上に置くと、カラカラと、彼女の疑問を笑い飛ばした。
「そうじゃないさ。本心から、魔理沙の厚意を無碍に扱って、悪い事をしたなと思ったんだ。それと、安易な考えで『魔法』に頼って暖を取ろうとした事も…。」
その少しの間だけ寒さを忘れられた様に、アナタはテーブルの脇にある小さな水屋箪笥から、ケーキナイフを取り出す。
そして、魔理沙の傍まで歩いて行って、それを彼女に手渡した。
「生き物はやっぱり、飯を食って、体力付けて、そうやって身体を温めるのが一番だからな。」
魔理沙はケーキナイフを受取り、アナタがまた薪ストーブの前に腰掛けるのを見送って、ぼやく。
「それ、私が言おうと思ったのに…。美味しいところ、全部持って行くんだもんな。参るぜ、まったく。」
その詰まらなそうな声を、ぶるっと、身を震わせて笑う、アナタ。
「独り占めなんかしないよ。魔理沙も一緒に食べてくれるんだろ、パンプキンパイ。」
その言い回しを聞いた魔理沙から、不服そうな鼻息が一つ。
「自分が上手いこと切り返したとか、思っているんだろ。正直、そんなでもないし…私は、そんなのじゃあ誤魔化されないぜ。…けど、まっ…とりあえず、腹ごしらえとするか…。」
と、拍子抜けするほど大人しく、洗い場に移動。そして、ケーキナイフを水で濯ぎ始めた。
アナタは小さな苦笑を漏らす。
「どうして、『もう怒ってない』の一言が出ないかな。素直じゃないのは、お互い様だが…。」
「あっ、何か言ったか。」
「…あの運び屋にお菓子の材料を届けさせたって、お前、そう言っていただろ。その材料は、俺が荷車を引いて受け取りに行く…確か、そういう約束だったよな。」
魔理沙はアナタの見え見えの逃げ口上に…楽しい記憶が甦ったかの様に…笑う。
「あぁ、そうだったぜ。付け加えて言えば、材料と一緒に霧雨魔理沙の事も、行き帰りをその荷車で、面倒見てもらおうと思って居た。」
「んっ、そうだったっけ…まぁ、どっちにしろ、てんで役に立てなかった今と成っては、すまなかったな。」
謝ると言うよりは、礼を述べているかの様に、語気は穏やか。そんなアナタの言葉に、魔理沙は、パッ、パッと、ケーキナイフの水滴を払い落して、
「気にするなよ。この雪じゃあ、どうしたって、『飛んでいく』か、『飛んで来させる』以外にやり様はなかった。アナタが悪い訳じゃない。それにさぁ…今回は手伝ってもらえなかっただけの事で、何も、アナタが明日以降の荷物運びを免れた…って事とは、一緒にしてもらっちゃあ困るぜ。」
と、魔理沙は、テーブルへ向かうすれ違い様に、ポンッと、アナタの肩を叩いた。
「君の双肩には、期待しているよ。」
「甚だ、光栄だね。馬車馬の様に、無言を貫ける自身はないけどな。」
じんわりと胸に沁みる、二人の掛け合い。お互い、クスクスと、惜しむ事も無く…失われる事など考えもせず…ひたすら、そして、心からの温もりを交わす。
笑いを零しつつ、魔理沙は深皿のパイにナイフを入れる。アナタは、フラフラと、疲労困憊の様子の箒から、バスケットを取り外してやった。…疲れるのだな、『魔法の箒』でも…いいや、『魔法の箒』だからか…。
箒は、徐々に高度を下げ、扉の近くへ。そうして、くるっと、90°ターン。穂先を上に、自らを壁に立てかける。
アナタは、それを興味深く眺めながら…ふと、両手に掛かる重さに気付いて、
「これ、まだ何か入っているのか。」
そう、粉砂糖の付いた指を銜えている、魔理沙に尋ねた。
ケーキナイフをテーブルに置き、指をエプロンで拭う。
何気ない仕草、そして、少しだけこの瞬間が長続きして欲しい…魔理沙はそんな期待にも似た感情を胸に秘め、口を開く。
「気に成るなら、捲ってみろよ。」
可笑しさを抑えた様に、あるいは、からかう様にも聞こえる、彼女の言葉。アナタは、何となく興が逸れる様な感触を味わいながら…しかし、ここで彼女の『お遊び』を避けて、ムクれられてもな…。
不承不承、アナタはバスケットに被せられた白い布を捲くった。
…で、そこに有ったのは…白い布の下には、これまた白い、
「おぉっ、ミルクか。それも、ほとんど一瓶丸ごととはな。今日は、馬鹿に…じゃなくて、いつも以上に気前が良いな。さては、これも貰い物だろ。」
そのアナタの言い草に、魔理沙は小さく鼻を鳴らす。
「それは、お菓子作り様に私が買った分だよ。…日持ちするものじゃないから、仕方なく、残念だけど、お土産行きとなったのさ。まぁ、このパイ焼くのに、少し貰ったけどな。」
「十分だって。これだけあれば…。」
「はいはい、どうせまた、ミルクティーなんだろ。解かっていますよ。じゃっ、私には、特別に良いカップで頼むぜ。」
と、実に用意の行き届いた事で、魔理沙は、アナタの抱えたバスケットから皿を二枚取り出した。…懐具合も、台所事情も、完璧に把握されていると言う訳だ…。
ところが、そんな面白可笑しい一場面にも、アナタは大きく瞬きをしただけ。その上、魔理沙の呼び掛けには、ミルクの瓶を見つめたまま、
「ああ…了解。」
生返事で、ぼんやりとしている。
「おい、大丈夫かよ。そんなに、ミルクを見つめて…ママが恋しいって歳でもないだろ。」
そう言って魔理沙は、アナタの傍らにしゃがみ込み、寝惚けた様な顔を覗き込んだ。
視界に割り込んだ金髪美女の微笑が、気付け薬に成ったのだろう。アナタは、慌てて二、三度瞬きをして、
「あ、ああ、すまん、ボーッとしていた…。魔理沙はミルクティーが好いんだったよな。茶葉は、どれにする。」
心ここにあらずなアナタの態度に、魔理沙は眉根を寄せる。
「茶葉…そんなのは、アナタと同じもので良いよ。それより、どこか具合でも悪いんじゃないのか。何となく、気には成って居たんだけど…アナタの顔色、あまり元気そうとは言えないぜ。」
気遣わしそうな、心細そうな、彼女の問い掛け。アナタは再び、すっきりとしない毛布の温もりを、肩から払い落して、
「寒くて、どうにも気分が乗らないと…それだけだよ。他は至って快調で…快調過ぎて、大した運動もしてないってのに、腹は空くんだよな。燻製でも齧って、当座をしのごうかと…そんな事を思って居る時、丁度良く、魔理沙が堪え難い匂いを持ち込んで来たろ。渡りに舟とは、この事だよな。」
話の最中にも、しゃがみこんだ魔理沙の耳へ…ぐーっと…アナタの腹の虫が、食事の催促。
魔理沙もその音を聞いたら、ようやく、一安心。後はもう、自分の用意したものを、気持ちを受け入れてもらえた、その充足感だけ。
「そっか、食欲があるなら大丈夫だ。よし、そうと解かったら一刻も早く、腹ペコで落ち込んでいるアナタに、パイを頬張って貰わないといけないな。はら、貸して。紅茶も、私が…特別に濃いのを、淹れてやるぜ。」
と、魔理沙は引っ手繰る様に、アナタからミルクの瓶を受け取って、
「フォークもそのバスケットの中だから、先に食べ始めていても良いぜ。…えーとっ、じゃあこっちは…とにかく、お湯を沸かさないとだな。」
そう言って、瓶をテーブルに残し、洗い場の方へヤカンを取りに走る、魔理沙。
アナタの目は、未だ、置き去りにされたミルクの瓶を見つめている。
「なぁ、魔理沙…。」
「うんっ、どうした。」
「お前は好きに紅茶を飲んでくれれば良いが…俺は折角だし、贅沢して、ホットミルクでも飲もうかな。」
不意に漏れ聞こえた、さりげないアナタの呟き。魔理沙は、その声のたどたどしさを敏感に察知して、持ち上げた空のヤカンを戻した。
「ホットミルク…紅茶馬鹿のアナタが…。」
探る様な低い声とともに、ツカツカと、歩み寄ってくる彼女に…やや、面喰った様子で、
「偶には、それも良いかなと…別に、何も変な事はないだろ。ただの気紛れだって…。」
と、アナタは、魔理沙の気を逸らそうとするかの様に、緩慢な動きで毛布に手を掛けた。…が、そんな後出しの言い逃れより、魔理沙の追及の手が速いに決まっている。
いつの間に詰め寄られたのやら。胸襟を毛布で覆い隠さんとするアナタの腕を、魔理沙の小さな手が握り締めた。
右手首に感じる彼女の指の滑らかさ、そして、虚を突かれた緊迫感に、アナタの心臓は鼓動を速める。
この行為の後、この距離で…魔理沙は一体、どの様な詰問の言葉を口にするのであろう…。
「ホットミルクは…砂糖ありが好い…。それとも、なしが好い…。」
また随分と、アナタの予想の斜め上を行く質問だ。彼女の平静な声色にアナタは、若干、息を詰まらせつつ応える。
「え…っと、それじゃあ、砂糖ありでお願いします。」
魔理沙はアナタの回答に、うんともすんとも言わない。その代わり手首を離した指で、愛情を込め、アナタの下瞼を撫でる。
「眠れていない…。そうなんだろ。」
アナタは指の感触を頬に感じながら、瞳をやや大きく開いて…観念した様だ。
「ああ、ここ三日くらいは、底冷えする所為か酷く眠りが浅くてな…。最後に良く眠れたのは、魔理沙が泊っていった夜。あの晩は、アトリエで蝋を削っている内、知らず知らず眠って…結局、日が昇ったのも気付かないで寝こけたまま…。そこをカンカンに成ったお前に、椅子蹴飛ばして、起こしてもらったんだったよな。あの後からぷっつりと眠れなくなった事を思うと、『そんな所で眠っていると、身体を壊すぞ』って、魔理沙の言う事は正しかったみたいだ。やれやれ…。」
後ろ髪に手をやり、小さく俯く。それはまるで、彼女の掌へと頬を寄せる様な仕草。…少なくとも魔理沙には…素直に、疑いの余地も無く…そんな風に感じられた。
体温を感じる幸福感と、求められる事の充足感。魔理沙は感情を抑制する事さえ忘れて、慰める様にアナタの頬を撫でる。
「可哀想に…。」
魔理沙の手から、声から伝わる『気持ち』に…生のままの、彼女の『女性』に…アナタは後ろ髪を掻く手を止めた。
露骨にその手を拒絶する事は、何となく、アナタには出来ない。しかし、自然に彼女の手に添おうにも…赤裸々(せきらら)な彼女の声音を聞いた、その背筋の痺れが取れず…ぎこちない。
そんなアナタの焦燥を、知ってから知らずか…。魔理沙は、スッと頬から手を放し、物柔らかく微笑む。
「よし、待ってな。今、うーんと甘いホットミルク、作ってやるからな。」
牛乳瓶を手に、魔理沙は急ぎ足で洗い場へ取って返す。
ヤカンを水瓶の脇に戻し、入れ違いで掴み取ったのは、小奇麗な片手鍋。
凹みと、黒焦げが年輪と成って、ヤカンには使い込まれた歳月が表れている。それに比べると、木製の持ち手の付いたその片手鍋は、明らかに目新しい。…まっ、大方、魔理沙が都合した物の一つであろう…。
例の如く、真水で鍋を濯ぐ。それから、注ぎ口に固く押し込まれたコルクの蓋を、
「待て、待て、そんなやり方だと、爪を傷めるだろ。俺が…。」
と、そう言って立ち上がろうとしたアナタを待たず…と言うよりは、アナタの声が掛った瞬間、更に力を入れて…ポンッと、栓を抜いてしまった。
彼女の横顔から醸し出される、どことなく、近寄り難い雰囲気。
「あっ、あの…。」
アナタは、何やら言い掛けて居た様だが…。結局、大人しく、かつ懸命に、椅子の上に尻を戻した。
魔理沙が瓶の中身全てを鍋へと開ける。
その後すぐ、彼女の顔に浮かんだ『しまった。薪ストーブの近くで鍋に移せばよかった。』と言いたげな、後悔の色。
しかし、それも数秒…アナタの方へは、助けを求め一瞥をくれる事も無く…魔理沙は意を決して、片手鍋の持ち手を両手で掴み、慎重な足取りで踵を返した。…何やら、彼女が意地に成っているのは間違いないのだが…理由を尋ねる事は…ちょっと、アナタには出来そうにない…。
肘を胸に密着させて、極力、腕の震えが伝わらない様にしている。それなにの、魔理沙が一歩、また一歩と歩く度、鍋に八分目ほど入ったミルクが、グラグラ揺れた。
荒波の跳ね上がり、鍋の縁から零れ出しそうに成るのを、
「わっ…あっ…。」
と、微かな悲鳴を漏らしながら、だが、彼女の目線は、薪ストーブの向こうを見ようとおしない。それどころか、頑なに見ようとしないあまり、変に歩幅が小さく成って居る。
そして誰しもが怖れて居た通り、つま先が床板の隙間に引っ掛かって、魔理沙の身体が1センチくらい前へとつんのめった。
かくして、一巻の終りと成り果てるか…そう思われた刹那。
彼女の腕が正面に突き出した鍋の、その鉄製の本体部分を、アナタの両手が掴んでいた。
「あっ…。」
さっきまでの悲鳴から、一段と深みを増した魔理沙の悲鳴。心細さ、そして、申し訳なさが漏れ聞こえ…彼女の目は、アナタの着物に出来た白い染みにくぎ付けに成る。
アナタは鍋の持ち手を放せずに居る彼女に向って、話し掛ける。
「馬鹿…。この位で大袈裟な声を出すなよな。ほら、俺が運ぶから、貸せって。」
第一声に、ビクリッと、肩を震わせ。それに続く言葉に、顔を上げ。最後に、魔理沙は頷いて、静かに持ち手を放した。
「なんだよ。ホットミルクはお前が作ってくれるんじゃなかったのか。」
所在無げに佇む彼女へ、可笑しそうに、アナタが呼び掛けた。
魔理沙は少しうろたえつつ、とりあえず、胸にくっついたままだった肘下の力を抜いて、
「そうだ、うっかりしていた。私がやるから、お鍋、返せよな。…良いから、アナタは座っていてくれ。」
と、そう言って、薪ストーブの上の鍋と、アナタの間に割って入るのだった。
「はいはい、解かってますよ。解かってますから…魔理沙こそ、この椅子に座れって。」
アナタから特等席を譲られ、魔理沙はやっと腰を落ち着ける事が出来た様だな。…背もたれに掛かった毛布に残る、アナタの体温…あれだけ寒がっていた割には、暖かい…。
その暖かさが、彼女の胸は切なくする。
『ごめんなさい。服を汚してしまって…。許して…くれるかな。』
思わずそんな言葉が口を突きそうになる。だが、手に残るアナタの頬の強張りが忘れられないのだろう。…結局は、ぶっきら棒な態度で、
「うん。」
それだけ応え、コトコトと、湯気を上げるミルクを見つめ始めた。
しばらく黙ってミルクを温めていると、頼まれてもいないのに、ガタガタと、ストーブの傍へもう一脚椅子を用意する音が…それから、言わずもがな、アナタは魔理沙の隣に…というより、彼女の姿を目の前で見物する様な位置に、腰掛けた。
魔理沙は少し嫌そうに、アナタの方へ顔を向け、ポッカリと口を開ける。声は無くとも、『はぁっ。』とか、『何、見て居るんだよ。』と、彼女が言いたかろう事は、不思議と伝わるらしいな。
アナタは彼女の不興を、含み笑いで押し返して、
「別に、魔理沙がまたミルクを零さないかと、監視して居る訳じゃないぞ。単に…お前の料理を、何度となくご馳走に成っているだろ。なのに、お前が料理をして居るところは、間近で見た記憶が無いなと…そう思っただけだ。」
そう言って、楽しそうに笑う、アナタ。魔理沙は琥珀色の瞳を、注意深く、ホットミルクと、アナタの笑顔の間で行き来させて、
「思い出作りって訳か…。」
「好奇心からだよ、そこまで高尚な目的じゃなくてさ。第一、自分でホットミルクを作る事なんて…世話焼きの『魔法使い』が居るんだ。この先も多分、機会は訪れないだろうからな。」
その笑顔は…数分前に、着物を汚された事も…目の前の女が明日には、傍に居ないかも知れない事も…本当に、本当に、腹が立つくらい、意に介して居ない。
魔理沙は鍋の中のミルクへ視線を落とし、短い溜息を一つ。
(今、はっきりと解かった。…手遅れだ。私はもう、この人に好きに成ってもらう以外、どうしようもない。そこまで…どっぷりと、浸りきって居たんだな…。)
立ち昇るミルクの良い香りに、口元が自然と緩んでいく。
(私と居る事で…アナタにも、こんな『気持ち』を味わって欲しい…ううん、一緒に味わいたいから…私の心、決まったぜ…。)
どうやら彼女は、何か、重大な決意を固めたらしい。それと同時に、魔理沙の表情からは、一切の陰りが消えていく。
「好奇心か。なるほど、そいつは良い事だぜ。けど悪いが、ホットミルクなんてそのものずばりで、ミルクを温めて、あと砂糖を入れる他は、特にやる事もないからなぁ。…んっ、そうでもないかも。」
どこか空っ惚けた様に、魔理沙は目線を虚空で彷徨わせながら、右手でエプロンのポケットを、ゴソゴソ。
程なく、茶色で、スティック状の何かを、ポケットから取り出した。
「これできっと、よく眠れるだろうぜ。」
そうニヤニヤと得意満面で笑う魔理沙の変貌を、アナタは流石に、少し面喰った様子で見つめる。しかし、さしあたって彼女の上機嫌以外、アナタが望むものは無い。
魔理沙の気分を損なわない様、素朴な受け答えに、これ努める。
「そいつはありがたいな。…で、それは、何だ。」
待って居ましたとばかり、そして、更なる注意を引こうとする様に、魔理沙はスティックを見せ付けて、
「これが何かは…自分の鼻に聞いてみろよ。」
と、言うや、茶色のスティックを、鍋の中へ放り込む。
泡の弾け出したミルクは、沸騰寸前。その白い湯船の中でスティックが熱せられ、芳香を放つ。
熱気に混じって広がる甘い匂いに、アナタは鼻をヒクつかせる。
「シナモンの匂いだな、これ。…うん、確かにこれなら、よく眠れるかもな。」
そう応えったアナタの口は…大きく開いて、眠そうに欠伸をする。
魔理沙は幸せそうに微笑みながら、片手鍋を軽く揺すって、
「あと、もう一煮立ちさせて…。その後に必要に成るのは…。」
「砂糖と、ティーカップだよな。」
「それとスプーンも。」
「了解だ。」
彼女の指令を受けて、寝室の方へと急ぐ、アナタの後ろ姿。
その張りの無い背中を、彼女の瞳が優しく見守っていた。
耳元ではて、グツグツと、急き立てる様に煮えたぎる音。
「大丈夫。…心配いらない。今晩は必ず、グッスリと眠れるぜ。…今晩中に…私が助けてやるからな。」
ギュッと、鍋の持ち手を握り締めて、魔理沙が呟いた。
[22]
しんと静まり返った部屋の中。薪ストーブの火はチロチロと燃え、音も無い。考えてみれば…ずっと…魔理沙が、毛布に包まったアナタを訪ねた時から…ずっと、火の勢いはこんなものであった。
そんな静寂の空間に、カタンッ、タンッと、伝播する物音が二つ。
音の発生源はおそらく寝室の内側。そこから、床板を、壁を、扉を伝わり、無人のこちら側へと音が、続いて声が聞こえてくる。
「駄目に決まっているだろ。アナタ、自分は寝不足だって言った癖してまだ、自分へ負担を掛ける積りかよ。」
今聞こえた声は、魔理沙だろう。もう少し詳細に言えば、魔理沙がアナタを叱りつける声だな。
それから数秒の間を置いて、アナタの声が…いや、言い訳するアナタの声が続く。
「負担なんて…そんな大層なものじゃ…。ただちょっと、スプーンで胸像の顎のラインを整えようって…それだけの事だ。それにもう二度と、アトリエで転寝するなんてヘマは…。」
「それだけの事じゃないっ。」
アナタの言葉を掻き消す、魔理沙の怒声。その後に連なって聞こえた衝撃音は、彼女が地団太を踏んだ音か、それとも壁を殴り付けた音か…何にせよ、穏やかではないな。
更に数秒を経て、しかし今度は、アナタからの反論がない。おそらくは、伝わっているのだろう。
魔理沙は気に入らないから怒鳴った訳ではないと…彼女は本気なのだと…。
「アナタが作品を作るのには、無意識下で『能力』を活用してという事に成る。そうだろ。『能力』を使うとなれば、体力も、『魔力』も、精神力だって消耗するし、それをあえて、睡眠不足の状態で行使しようとするなんて言うのは…全力疾走した後に、動悸も、息切れも治まらないまま、海に飛び込む様なものだぜ。正気の沙汰じゃない。」
「『正気の沙汰』って、そこまで言う事は…。まぁ、でも、言いたい事は解かったよ。しばらくは、アトリエに近づかない事にする。それで良いだろ。…じゃあ、そろそろ、ベッドの奴に俺を解放する様、言ってくれないか。これがもう窮屈で、本当、仕方ないんだよな。」
観念した事を示す様に、アナタの声は低姿勢で、加えて、哀願する様に従順で…と言うか、『ベッド』とか、『解放』とか…何の話をしているのだろう。
注意深く値踏みするが如き、沈黙。しかる後に、魔理沙のすっ惚けた声が響く。
「はぁっ、『ベッドに言ってくれ』って…。何の事か、さっぱりだぜ。」
「嘘付け。お前の『魔法』でもなければ、いきなりベッドが喰らい付いて来て、無理矢理に、人の事を寝かし付けようなんてするはずがあるか。ふざけて居ないで、これ…くっ、どうにかしろよ。胸像の製作を進められないにしたってな、俺には…薪木を家に運び込んだり、水を汲み足したり、部屋の掃除もしなきゃならないだ。第一、幾ら寝不足だからって、こんな昼間っから眠って居られるかよ。」
「その手の心配なら無用だぜ。アナタが言った三つの仕事は、既に、箒に言いつけてあるんだ。…もしかしたら今頃は、全部、片付け終わっているんじゃないかな。だから、アナタは安心して、高いびきを掻いて居て良いんだぞ。」
「馬鹿も休み休み言えよ。箒に…掃除はともかくとして…薪木を運んだり、水汲みしたりなんて、出来るはずないだろ。いい加減に、俺をベッドから…ムグッ…ムゥッ、グッ、ググッ…。」
突然、アナタの声の調子が低く成る。それは恰も、喋り終える間も与えられず、厚手の布に口を塞がれたかの様な…まっ、アナタがどんな事に成っているのか、おおよその見当は付く…。
「ムーッ、ムーッ。」
と、口振りは違えども、人語ですらなくとも、相も変わらない、アナタの抗議の声。それを、魔理沙はあからさまな余所余所しさでもって、
「私、隣の部屋に居るから…ちゃんと、一眠りしろよ。一眠りで良いんだ。そうしたら、ベッドはアナタを放してくれる。…多分な。正直、使い込まれた品は『魔力』の効きが良いから、いつまでとは言えないけど…その内には、ただのベッドに戻るだろ。ほら、目を瞑らないと、眠れないぜ。…えっと、じゃあ、おやすみなさい。」
魔理沙はそう言い残すと、鳴り止まぬ抗議の声を振り切って、寝室を抜け出した。
「ふぅーっ。」
閉ざされた扉を背に、自然、溜息が漏れる。その、ベッドに寝かし付けられているアナタなどより、十倍は窮屈そうな息遣いを聞くに…果たして彼女は、どれ程の気苦労を背負い込んでいるのだろか…。
パッと視線を動かす限り、部屋の中に箒は見当たらない。魔理沙の予想に反して、痩身の奮闘は継続中らしい。…にしても、本気で、薪木運びに、水汲みもやらせているのだな。
薪ストーブの方へ歩きながら、一仕事終えた喜びを味わう様に、袖で額を拭う。否、そうではない。
疲れの色濃い魔理沙の額には、玉の汗が浮かんでいる。つまり、仕事を片付けたポーズを取っている訳ではなく、実際のところ…この家の中は暑いのだ。
だがしかし、アナタの一緒に居る時の魔理沙は、それをおくびにも出さなかった。
アナタの為に、火の精霊を使役し、この家の異常に高い室温を保ち…。アナタが不自然さを覚えない様に、自分の体温を『魔法』で調節し、同時に箒を宙へ浮かべ、更には、ベッドにアナタを確保させる。
彼女はアナタの知らぬ内、アナタに知られぬ様、それだけの並行作業をこなしていた。
すべては、アナタが知らなくても済む様に…とは言え、生半可な消耗ではなかったであろう。魔理沙が自分で話した事だったな。『能力』を行使すれば、体力、『魔力』、精神力を消耗すると…。
「私が涼んでいる間、お前も少し休んで居ろよ。」
通り過ぎ様、魔理沙はストーブに宿る火の精霊に命じた。
精霊がその言い付けに応えたかの様に、ボッと、火は空気を吸い込んだ音を立てる。それから、火勢がやわらいだ事を示す様に、部屋の内側に垂れこめていた午後の影が、天井へと登って行った。
小さな明るさの変化。目を細めてそれをやり過ごし、魔理沙は家の入口へ。そして、内開きの扉を開いた。
陽射しの眩さが目に沁みる。魔理沙は涙を絞り出す様に、ギュッと瞼を閉じて…だが、口の端は嬉しそうに吊り上がっている。
ドレスの襟から滑り込み、汗ばんだ胸元をくすぐる爽快な風。並行作業に疲れた戦士を、しばしの間、癒してくれる事であろう。
魔理沙は扉の木枠に背をもたれ掛けて…ズリズリと、エプロンドレスの背中を、腰の辺りの蝶結びを擦りながら…その場に、両脚を抱えて座り込んだ。
「ふぅっ…。」
何はともあれ、まったりとした溜息を一つ。自分の漏らす声の艶っぽさ、そこに入り混じる充実感に、魔理沙は微笑みを浮かべる。
「どうにか…今日まで誤魔化して来た。騙(だま』し、騙し、乗り切ってきたけれど…もう、限界だな。それに、このまま放って置いたとしたら…あいつの精神が持たないだろう。」
人道に真っ二つにされた鮮やかな緑の色。木枠に弾かれたトンガリ帽子が、風に転がされて、足元に戻って来た。
コマ送りの様に揺れ動く草原の姿を眺めながら、魔理沙はしみじみと呟く。
「やっぱり、根本的な解決を図る以外、手はないか。でも、そうすると…『幻想郷』には、戻り辛く成るかな…。」
と、『幻想郷』に住む友人たちの顔を思い出したのだろう。魔理沙はまた、ニッコリ、微笑んでから、
「いや、あいつらは気にも留めないか…別に…。妖怪とか、神霊とか、その辺はサバサバしたもんだし…。」
真顔で自分の言った言葉を打ち消し、腑に落ちた様に頷いた。…しかしながら、彼女の憂慮は尽きない。
両脚を抱き寄せる力を強くして、魔理沙は弱り切った声を漏らす。
「『幻想郷』の、薄情の連中の事は問題じゃないんだ。仮に、やいのやいのと言われたところで…そんなのはどうとでもなる。だけど…アナタはきっと、怒るんだろうなぁ。」
日の当たる場所で、気持ち良さそうな風にそよぐ草原。それをぼんやりと見つめて、魔理沙は俯き、柔らかい頬を膝に埋める。
「怒るよな。私が自分の為にした事だと知っても…ううん、自分の為にしたんだと知ったら…アナタは怒って…怒って…失望するんだろうぜ。自分に…私に…。そうしたら…フフッ…二度と、口を利いてくれなくなるかもな。」
口調は冗談めかしては居る。だが、陰りに沈んだ笑顔を見れば、自らへの憐れみに潤む瞳を見れば、彼女の心中が、ギリギリのところまで追い詰められている事が解かるのだ。
そして潤む視界の先で、魔理沙が見ているもの。それこそ、決意を実行に移した自分の姿なのだろう。本当に強い娘だ…彼女は、自分の手の汚し方を知っている…。
魔理沙はそんな気持ちに負けじと、笑みを深める。涙の中に映るアナタの悲しい顔へ、『アナタは悪くないんだ』と諭す様に、罪を引っ被ろうとする様に、優しく微笑む。
「私だって怒るぜ。アナタにそんな顔をされたら…頼まれた訳じゃないけど、アナタの為を思ってやった事でさ、そんな怖い顔で睨まれたらな。だけど…。」
顔を上げ、長い脚を放り出し、両手を横たえる。陽光の輝きに迷った様に、放心した様に、魔理沙が薄らと唇を開いた。
「だけど…もし、アナタが怒ってくれなかったら…。そうしたら私、どうなるんだろう…どうしようかな…。」
おぼつかない心持ちでは、口を突く言葉も否定的な言葉ばかり。そんな彼女の耳へ、唐突に、ガラガラと能天気な音が聞こえてきた。
現在の自分の心境に警鐘を鳴らされた様な気がして、魔理沙はゆっくりと、そちらへ顔を向ける。
ガラガラ、ガラガラ、傍迷惑な音をまき散らしながら、飛んで来たのは『魔法の箒』であった。
見ると、箒の柄にブリキのバケツがぶら下げられ、どうやら騒音の発生源は、その中にあるものらしい。
魔理沙は肩口で涙を拭って、自分の頭の上を通過する箒を迎える。
「ご苦労さん。もう終りにして、その辺で休んで居てくれ。」
箒は彼女の言葉が理解できたのか、どうか…。とにかく、薪ストーブの近くまで飛んで行って、バケツを床に下ろす。ついでに自分も、『魔法』が解けたかの如く、床へと落下し…結局、バケツを横倒しにしして中身を放り出してしまった。
倒れし伏した箒とバケツ。その周りに散らばるのは、ひい、ふう、みい、よお、いつ、計五本の薪木。
なるほど、これが彼…あるいは、彼女の付けて居た、『鈴』の中身という訳だ。
手も、足もない身体だ。そんな成り形の箒の君が、どの様にして薪木を、バケツに、それも五本も投入する事が出来たのか…。おそらくは、涙ぐましい苦心惨憺の賜物であろう。
その様な忠義者が文字通り『伸びている』姿が、魔理沙は白い歯を零し、笑顔に変えた。
「こっちが回復したらまた、お前にも『魔力』を吹き込んでやるからな。ちょっとの間、勘弁してくれよ。私の方も…流石に、グロッキーだぜ…。」
グッ、木枠へ頭を押し付け、心地良い疲労感と、太陽の匂いを楽しむ、魔理沙。
しかし…忘れさせては貰えない…冷たいそよ風が自分を通り越して行く度に、魔理沙の脳裏をかすめる現実。…そうだ。彼女には、アナタの命を守る為、やらなければならない事がある。やるのだと心に決めた事がある…。
大きな琥珀色の瞳を見開いて、草原の向こうを、太陽の下に広がる青空を、当て所も無く見据えた。
彼女の唇は固く閉じられ、揺ぎ無い意思が胸中で囁く。
(アナタの『能力』は確かに、完全な状態で解放された。何しろ、こんな陽気の良い日がアナタには、吹雪の一日に…青々とした草原でさえ、アナタの目には一面の銀世界と映っている。しかもそれが…一瞬だけ視界に焼き付いて消える、これまでの『幻覚』とは違い…三昼夜の間、アナタの認識を掌握し続けているんだからな。安定性、それにイメージの強さは、以前までの『幻覚』とは比べ物に成らない。お陰でもろに、アナタの日常生活へ…それどころか生命活動にも、影響が現れ始めている。)
放りだした脚を引き寄せ、再び、抱き抱える。それは、速く、大きく成る心臓の鼓動を、抑えつけようとするかの様に…。
(『幻覚』から受ける影響と、アナタの現実との間にずれがある。アナタが見ている世界が猛吹雪の真冬でも、真実の世界は暖かな小春日和。これだけで十分に、『幻覚』から受ける影響が、アナタの現実と噛み合って居ない事は明白。だけど一番の問題は、それじゃない。本当に不味いのは、現実とイメージの乖離現象ではなくて、その間のギャップを、アナタの肉体が埋められて居ないと言う事だ。)
快晴の青空に、強い風が入道雲を運ぶ。魔理沙たちの頭上に落ち着いた雲は、その大きさ、そして、その形に相応しい、分厚く、歪な影を広げる。
(私に後ろ髪を引っ掻かれる場面を幻視した、あの場合も同じ。アナタ自身は、後頭部の皮を抉られた様な錯覚を覚えて、それ相当の痛みも感じたみたいだけど…実際ところ、私の手は触れても居ない。だから、アナタの首の後ろには、かすり傷さえ付いて居なかった。この事を、そして、アナタが幻の雪を見始めてから今日までの、一連の流れを鑑みるに…『幻覚』の作用は、始まりも、終りも、アナタのイメージの世界での出来事。イメージから始まった『幻覚』が、肉体を傷つけたり、アナタの体温を下げたりはしない…。)
と、少しだけおどける様に、少しだけ自慢げに、一息零す。
「本当に、大変だったんだぜ。アナタ、ちっともストーブの傍から離れないだろ。それを…身体に熱が籠り過ぎない様に、脱水症状を起こさない様にってさぁ。アナタが気付かないところで、少しずつ、火の精霊のサイズを小さくして…かと言って、アナタの体感温度は正常だったから…幾ら『幻覚』の寒さが上乗せされているにしろ、あんまり頻繁にサイズを落として、皮膚感覚で気付かれるんじゃないかと冷や冷やしたよ。…ったく、言っていて馬鹿らしくなるな。どうして私まで、寒い思いをしなくちゃいけないだ。」
そう言って笑う魔理沙の表情は、まるで『解かっている癖に』と冷やかす様に、緩み切っていた。
持ち上げた右手の五本の指を見つめながら、まずは親指を曲げ、
「えぇっと、それから…。」
魔理沙は、クイッ、クイッと、人差し指を動かして、アナタへの献身を数え上げる。
「そうそう、家の中が乾燥するから…とりあえず、ヤカンに水を汲んで、湯を沸かし続けたんだった。んで、『湿度を保つのは大切だけど、使うなら瓶の水じゃなくて、外の雪にしろ。』って、叱られたんだったな。いやぁ、あの時は本気で、誤魔化す良い案が思い付かなくて、弱ったぜ。結局、『魔法』で部屋の水蒸気を昇華させて、雪をでっち上げた訳だけどさ。冷静に考えると…部屋の中の水分を雪にして、それをまた、ヤカンで水蒸気に戻して…これ、単に『魔力』を消耗して居るだけで、どう考えても無駄な努力だよな。あの時の私、慌て過ぎだろ。」
うん、うんと頷きながら、人差し指を折り曲げる。口では『無駄な努力』と切り捨てても、その顔付きは…指に込めた思いをいつくしみ、放そうとしているなどとは見えない。
続けて、魔理沙が残りの指を折り曲げていく。
「後は、サウナみたいな部屋の中で頑張るのに、休みなく自分の体温を調節していた。これで三つか。…いいや、まだある。四つ目は、アナタの様子を見に来る為の口実作り。人形劇だって…とてもじゃないけど、やらせられる状況じゃなかったからな。そのアナタと会う一番標準的な理由が封じられて…結果、毎日、差し入れの食事を作ったし…渡す一方だと怪しまれるだろうから、毎日、アナタの燻製をくすねって帰りもしたし…我ながら、結構な大立ち回りを演じさせられたもんだぜ。…まぁ、誰に反論されるまでも無く、こんな程度の事は…ここ数カ月の間、三日と空けずに続けていた事だけどな。」
魔理沙は白い歯を零しながら、ニッシッシッと、痛快そうに自らの苦労話を笑い飛ばした。
そうして三本指の曲げられた右手を…その中で高く掲げられた薬指を見下ろすと、
「でも、ここのところ食欲がなかったからなぁ、アナタ…。それが今日は、たくさん食べてくれて…嬉しかったぜ。」
余韻を味わう様に、ゆっくりと曲げられた、四本目の指。指折り数えて、片手で数えられる苦労もあと一つ。
優しく微笑み、残った小指を見つめ…魔理沙は仄暖かな笑気を漏らすと…何も言わず、小指を折り曲げた…。
彼女がまた、草原の方へと瞳を向ける。そのタイミングを見計らったかの様に、キィッと、蝶番が軋みを上げ、扉の開く音が耳を突いた。
音が立てたのは、魔理沙の目の前にある扉ではない。もっと離れた所の…この部屋の奥から、その音は聞こえて来るのだ。
勿論、魔理沙には扉を開けた人物に心当たりがある。方法はともかくとして、部屋の奥から寝室の扉を開けて現れるとしたら、一人しかいない。
だから魔理沙は…驚きも、可笑しさも、満更でもない気持ちも、全部、微笑みに引っ張り込んで…緑の草原を見つめ続ける。
寝室を抜け出した人物の気配は、遠慮のない足取りで、薪ストーブへと歩み寄った。
「うぅっ、寒い…。お前なぁ、温まっていた部屋をわざわざ開け放って、何して居るんだよ。」
背中を丸め、ストーブの火に当たる、アナタ。
彼女の知らん振りなど、お見通しなのだろう。言葉にしなくとも、アナタの声がそう言っている。
お尻の両脇の地面に手を突き、魔理沙がやおら立ち上がる。
スカートのよれを撫で付ける彼女の姿は、竪琴を奏でているかの様に、なかなか絵に成る。
アナタはその単調で愛らしい姿を目の端で捉えながら、薪ストーブの前にしゃがんで、投入口をノックした。
「悪い。もうちょっと、火の勢いを強くしてくれないか。」
注文を付けられた『火の精霊』は、メラメラと、その身体を大きく膨らませ始める。
そうして、精霊の従順な対応を見る限り、すでに魔理沙とは打ち合わせ済みなのであろう。
火の精霊が、ストーブの内側一杯に両腕を伸ばし、抱えられるだけの薪木を懐に抱き込んだ。
その様子を確認の後、アナタは薪ストーブの横から顔を覗かせて、魔理沙の立ち姿を見る。
「先に言っとくが、この家のストーブは煙突付きだからな。よって、『空気の入れ替えをして居た』は、受け付けかねるぞ。」
魔理沙は…自分の返事を待つアナタの、飄々(ひょうひょう)とした声付きに…短く息を漏らして、
「それじゃあ、『雪景色を見て居た』…って事にでもしとくかな。」
はぐらかすでもなく、無論、素直に答えるでもなく。魔理沙はそう一言口に出して、トンガリ帽子を拾い上げた。
「それにしても、アナタ…よく、あのベッドから抜け出せたもんだ。『アナタが一眠りし終えるまで、解放するな』と、確かに、命じたはずだったけど…。」
そう言って帽子を頭に乗せながらも、彼女の耳は、アナタが近づいて来るのを察知していた。
一瞥もせずに向かって来たアナタをかわし、魔理沙は二、三歩入口から離れる。
アナタも、まるでそれが当然であるかの様に、歩調を緩めること無く、彼女の元の立ち位置へ。そうして、何ら手間取る様子も見せず、入り口の扉を閉めた。
「昔から、『押して駄目なら、引いてみろ』と言うだろ。俺もその教えに倣ったまでさ。『力任せで駄目なら、説得してみろ』ってな。流石は、長年に渡って愛用してきた夜の友だけあって…言葉を尽くして訴えたら、どうにか放してくれたよ。しっかし、枕に頭を擦りつけながら頼み事をする日がくるとはねぇ。お前の『魔法』、まったく、大したもんだよ。」
言って居る事は、『枕に頭を擦り付けて頼んだ』とか、威張れる様な話でもないと思うのだが…アナタは得意気に破顔しつつ、薪ストーブの傍へ暖を取りに戻る。
魔理沙は、寒い、寒いと、肩を震わすアナタを目で追って、ポツリッと、呟く。
「浮気者。」
ストーブの周りに散らばった薪木を、不思議そうな面持ちで拾う、アナタ。そして、椅子の足元を照らす茜色の光。
その朧げな明りを見守りながら…魔理沙は草原の向こうに迫っていた、夕焼け空を思い出していた…。




