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熔ける微笑  作者: 梟小路
6/9

[14]

 十文字を二つ並べた様な木枠。それが外側で、窓ガラスから漏れ出る灯りを六つの正方形に間仕切りしている。

 六つの(まばゆ)い画面の中を、パタパタと、行き来する人影たち。

 その一人が本棚の上から長い髪を垂らすと、その綱の様な三つ編みを掴んで、すきっ歯な書物の絶壁を様々な影が伝い上っていく。

 ある者は…ワルツのステップを踏むのならともかく…クライミングには不向きな引き裾のドレスを纏い。それをヒールのある靴で、踏ん付け、踏ん付け。

 ある者は…雲まで伸びる豆の木に比べれば、何ほどの事も無いと…スルスルと三つ編みを巻き取る様に、軽快な足取りでよじ登る。

 また、ある者は…大きな耳、大きな手、大きな口…その凶暴そうなシルエットとは裏腹に、頭巾姿の、自分より一回り小さい影を首にしがみ付かせ、本棚を上がっていった。

 本棚から部屋の中央の辺りに目を移すと、そこにも似た様な影が見える。

 集まった影達は、まるで乗合バスにでも乗り込む様に、席を詰めあって細長い棒の上に腰掛けた。

 すると、その棒はふわりと浮かび上がり、乗り合わせた人影たちを天井へと運んでいく。ちなみに…人影を乗せた棒が画面から消える際…チラッと、棒の端、毛先の様な部分に、片手が鉤爪(かいぎづめ)の人影が引っ掛かって居た様な…まぁ、気の所為であろう…。

 そんな光景を見たアナタは、家の中で繰り広げられているてんやわんやを思い、小さな笑気を漏らす。

 身体の末端。指先から容赦なく体温を奪っていく冷たい風に武者震いをしながら…アナタは長い影を引き連れ、明るい家の前から隣の建物へ…暗いアトリエへと入って行った。

 アトリエの入り口で、建て付けの悪い木製の扉が軋みを上げて閉じる。丁度、その頃…人形たちを元の場所へ返し終えた魔理沙(まりさ)と、アリスが…薪ストーブの火に当たりながら、お喋りを始める様だ…。

 おっと、これはしたり、まだ一人、床板の上に人形が残って居るではないか。

 二人が炉辺(ろばた)へ椅子を置き、腰を下ろそうとした。…その刹那、本棚から飛び降りた一つの影が…。

 その影は、天井の梁や、本棚の上へ戻っていく他の人形たちとは反対に、颯爽と魔理沙嬢の方へ駆け寄った。

 魔理沙は、自分の足元に(ひざまず)いた人形に気付くと、

「そう言えば、お前に預けて置いたんだったな。ご苦労さん。助かったぜ。」

 そう言って、彼が(うやうや)しく両手で(ささ)げた物を…彼女のトレードマークである、黒いトンガリ帽子を受取った。

 彼とはつまり、『ラプンツェル』の王子さま。確かに魔理沙は、帽子を投げ渡していたが…王子はレディーのお召し物を守る大役を、立派に果たしていたと言う訳だ。

 王子は胸に手を宛て、無類の栄誉すら霞む様な、魔理沙の微笑みへお辞儀を返す。そして、彼女の美貌を賛美するかの如く、両腕を真っ直ぐに差し出し…背後からの蹴りに、そのままの体勢で床につんのめった。

 魅了の魔力を纏った女性との、王子の謁見(えっけん)を台無しにした不埒(ふらち)者。その正体は…細腕に束ねたロープの様な髪の毛を携えた…勇ましい『ラプンツェル』のお姫さま。

 お姫さまは、慌てて起き上がろうとする王子の首根っこを引っ掴んで、力尽くで本棚の方へ連行していく。そんな、どこかで見た様な一場面に笑い声を漏らして…魔理沙は、すでに椅子に腰掛けているアリスに…、

「やっぱり、私には自信ないぜ。…本当に、アレで、あいつの為に成ったのかな…。」

 急に静まり返った部屋に、彼女の呟きが浸み込んでいった。

 アリスは薪ストーブの火から、スカートの膝を折り椅子に座る…魔理沙の女性的な仕草へと瞳を移す。

 「彼の為に成るのか…それは解からない。…と言うより、私にとっては、彼の為に成るかどうかなんて問題では無いのだもの…。」

 その語調は、惚けている様子では無い、宣告する様子も無い。むしろ、魔理沙から何らかの感情を探り出そうとしている様であった。

 (あたか)も鏡からの反射光を目元に向けられた…。そんな彼女の視線に、魔理沙は琥珀(こはく)色の瞳を潜めながらも、

 「アリスの事だから、よっぽどの綿密な策略の元、そんな不用心な事を口走っているのだろうけど…まずは、あいつをこの部屋から追い払ったのは正解だったぜ。今みたいなアリスの台詞は、聞かせられない。」 

 複雑な感情が入り混じり、拒絶し合う。そんな心境の最中、魔理沙は歯痒そうに口角を上げ笑った。

 アリスは薪ストーブから立ち昇る熱気に、白い手を差し入れ、二、三度確かめる様に横切らせる。

 「私、貴女たちに最悪の方向へは行って欲しくないの。だから、二人の心の準備が出来るその前に、不都合と対峙しなくても済む様…それとなく先送りにさせたに過ぎないわ。それは、貴女たちが直面するであろう問題を取り除いた事でも無ければ、私の思い描く『理想の二人』へと導いたのとも違う。魔理沙は魔理沙で…私だって、私だもの…。策略なんてとんでもない話よ。」

「それじゃ、何か…アリスは掻き回すだけ掻き回して…やっぱり、掻き回しただけでしたと…。」

 「そうとも言えるわね。主目的は時間稼ぎだったから…。お料理でも時にはそう言う手配りが必要でしょう。生煮えを防ぐ為に…。」

 熱気を帯びた右手を胸元へと引き寄せ、左手で(さす)る。アリスのそんな姿から魔理沙は目を逸らした。

 「生煮え…それがあいつの『能力』の現状って事だな。それは私も同意見だよ。純粋に、『能力』と肉体、そして心の不一致を(なら)す事に手間取っているのか…それとも、あいつの『能力』への認識が不足しているのか…。あるいは、その両方か…兎にも角にも、アリスの思惑の通り、時間は稼げた訳だ。」

と、魔理沙は、キッと、薪ストーブの中の火の化身を睨みつけて、

「こう成る可能性は低くなかった。いや、アリスにならこう成る事は目に見えていたはずだぜ。それをお前は、私の腕を縛り上げてまで、あいつの『能力』の覚醒を焦った。私は…そこにアリスの熱意を見た気がしたから…それだから、アリスが本気であいつの為を思って居るんだと思えば…あいつの望んだ通りにさせてやったんだ。その結果がこれだなんて…アリス、お前…どういう積りなんだ。」

 彼女の苛烈(かれつ)な視線に、アリスは手の甲を摩るのを止めた。どこか自嘲的な、どこか充足感に浸る様なその苦い笑いの意味するものは…。

 「『あいつの望んだ通り』か…魔理沙って本当に優しいのね。だけど、その善し悪しも時と場合によるのよ。気の回し過ぎが相手に辛い思いをさせる時もある。特に、相手が恋敵(こいがたき)場合には…しかも、その相手が、貴女を無二の友としたって居る女だとすれば…尚の事、相手に(みじ)めな思いをさせる事になるわ。」

 窓の上隅から、結露した水滴が垂れ落ちていった。…アリスが重ねた両手を膝の上に置き、言葉を続ける。

 「魔理沙、はっきりとさせて置きましょう。彼の、肉体、精神の両面から(かんが)みるに、その『能力』自体は完全に発動していると見て間違いない。私の『糸』があのテーブル覆っていた…魔理沙ですら目視は出来ない事象の、全容を彼の目が見抜いた。それが良い証拠。」

 やや後ろめたそうな俯き加減の、魔理沙。浅い傾斜の付いた首で、アリスの確認の声に頷く。…アナタがテーブルに(から)みついた糸の話をした時、二人が…少なくとも魔理沙が、どこかそわそわして見えたのは…そういう理由であったのか…。

 「だけど彼は、未だ、それが『幻覚』か、もしくは現実の光景なのか…自分の見たものがそのどちらであるのか判別し切れて居ない。つまり、発動した『能力』を制御できて居ないという事に成るわね。ここまでは、私の予想した通りの様相を呈している。」

 アリスの冷徹な声、そして、瞳。魔理沙は即座に口を開いて…しかしながら、『どういう積りなんだ』とは既に尋ね終えている…それを思い出すと、一端、口を閉じて、

「私が、あいつの後ろ髪を掻き回すイメージ。それを、あいつは現実と見紛うほど鮮明に捉え、痛みまで感じていた。あいつ自身は、気付けて居なかったからな。ついつい、私が『魔力』を用いてあいつにイメージを送ったと、話を合わせちまったけど…あいつの『能力』が強まっているのは確実だ。今なら、あいつの『幻覚』の正体が良く解かる。こっちから、伝えよう、伝えたいと思う気持ちが『解釈の容易いイメージ』だとすれば、あいつの見る『幻覚』は…伝えきれない…押し殺した気持ちだったんだろうな。」

 右手の指で帽子のつばを弄び、左手で尖がった冠部分を押し潰す。そんな彼女の手慰みから、アリスは薪ストーブの火へと瞳を戻した。

 パチッ、パチッと、乾いた薪木の燃え、千切れていく音。

 余所余所しげに帽子を目深に被った魔理沙が、唇を開く。

 「もし私が、『こっちの手の内を、丸ごとあいつに伝えよう』…そう提案したなら…アリスは多分、『そんな事は止めろ』って言うんだろ。」

 アリスは、揺らめく炎の赤から目を外さないで、

「今なら…彼の中で『幻覚』と『現実』の境が曖昧な、今なら…彼に訪れるであろう不都合を、彼に知られずに消してしまう事が出来る…。私はその好機を、自ら捨てるべきではないと思うわ。」

 その声音から感じとれるのは、平静さと、微かな矜持(きょうじ)

 魔理沙は根負けした様に、大きな溜息を漏らした。

 「説得は無理だな。アリスのその台詞からすると…。解かったよ。ここからは私の判断で…例え、それがアリスの策略を出し抜く事だとしても…私の裁量でやらせて貰うぜ。」

「えぇ、それで良いのよ、魔理沙。本当なら、とっくに、私が口出しするべき状況は終わっていたの。それを…貴女たちが奥手で、鈍いのを好い事に、厚かましくも長居してしまったわ。けれど、それも、ここら辺りが良い潮時…。」

 アリスは椅子から立ち上がると…帽子のつばに隠れた…魔理沙の琥珀色の瞳の前を横切って行った。

 「帰るのか。まだ、あいつが戻って来ていないのに…。燻製だって、アリスの分も頼んであるんだぜ。それ、どうする積りなんだ。」

「燻製は貴女たち二人で食べなさい。私はもう、充分に味わったわ…。」

と、歩を進める、アリス。その歩みが、隔たる木製の扉の前に行き付いて…ピタリッと、止まった。

 「そうそう…彼の『能力』に関して、もう一つ解かった事がるの。魔理沙に餞別(せんべつ)として教えといて上げる。」

 彼女は扉を向いたまま話し続けた。

 その背中を見上げ、魔理沙は…黙って、その先の言葉を待つ事しか出来なかった…。

 「彼は自分が、他人の『心象』を直接イメージにしていると思って居た様だけど…おそらく、そうではないわね。彼が受取り手の場合にも、彼にイメージを伝える媒介が存在して居るのよ。彼はそれを無意識に体内に吸収し、そこから相手のイメージを読み取っていた。そして、媒介とは即ち…私たちが発する『力』。各々の『能力』を、維持、行使する為の源である…『魔力』ね。」

 アリスの言葉を耳にした魔理沙は、薪ストーブの火を凝視していた瞳を更に見張った。

 まるでその眼力に潰されたかの様に…積み上がった薪木が崩れ、一瞬、炎が大きく燃え上がる。

 「私たちの『力』を取り込む…。あいつ、そこまでの芸当をやっていたんだと言いたいのか…いや、違うよな。アリスが残す餞別が『単なる知識』だなんて、そんな気の利かないもののはずがない。」

 網膜に受けた強い光に、魔理沙は瞳を閉ざしたまま顔を上げた。

 多分、アリスは振り返っては居ないであろう。(まぶた)を落とした目ではそれも定かではない。だから…魔理沙の作りだした『火の化身』は、なかなかに良い仕事をしたのかも知れない…。

 真っ暗な視野。彼女の瞼の裏側では、焼き付いた退紅(あらぞめ)色が(しぼ)んでは膨らみ、膨らんではまた萎む。そして…。

 「まさか…あいつは私たちの放出した『魔力』を取り込んで…取り込んでいたから、死なずに済んできた。じゃあ…それが本当の、『幻覚』の正体なんだな。」

 見開いた魔理沙の瞳に、こちらを向き、首を縦に振るアリスの姿が映る。

 「彼には可哀想だけれど…やっぱり、彼、とことんまで『能力』を行使する才に欠けている。他の多くの、幻想郷に足を踏み入れ、望んでもいない『能力』を与えられた者たちと同じにね。だけど彼には、自らの『能力』を最大限受動的に活用する素質があった。」

「これで、私の頭の中でも辻褄(つじつま)があったぜ…。」

と、魔理沙は、アリスの言葉を引き継ぐ様に答えって…自らの理解の『辻』から、重なり合う『褄』への筋道を辿り始める。

 「『心象を表象にする程度の能力』は、あいつの手に余る。幻想郷に踏み入って早々、妖怪に喰い殺され掛け…その逆境があいつの内側から引き摺りだした、強力すぎる『能力』だ。あいつの本能が無意識に『能力』へ制限を設けるのも、当然。乱用したなら、精神が持たないものな。…そこまでは不自然じゃない。あいつが生きる為にも、必要な事だったはず…だが、考えてみれば…どうして『幻覚』なんて…他人のイメージを拾うなんて言う、明らかに精神への負担の大きいものが…どうして、制限の枠の中に入って居ないのか…。私は『あいつの処理能力が不足している』と解釈していたけど、あいつが『魔力』を取り込めるのなら、話は違ってくるよな。」

 魔理沙の瞳の一瞥(いちべつ)を受けて、アリスは再び頷くと、

 「強力な『能力』の行使には、身の内に潜在する多く『力』を要するわ。人間を止めた、私。『魔力』の潜在量に恵まれていた、魔理沙。…私たちの様な例外を除けば、そもそも、常人に『能力』を行使するのは難しい…。そこで彼の本能は、『能力』を逆転させる利用法で、積極的に『魔力』を取り込む事にした。これだけの数の作品を作り出し、それに加えて、魔理沙との人形劇をこなす。そのハードスケジュールに付いて行けたのも、『魔力』を取り込む事が出来てこそ…。でもなければ彼、絵を一枚描く度に、二、三日寝込む。…と、そんな事だけを繰り返す生活を送って居たでしょうね。」

「考えれば、考える程…おっかない話だぜ…。」

 改めて壁に飾られた絵画を見回し、魔理沙はしみじみと呟いた。

 扉のすぐ隣。アリスの立つ背後にも一枚の風景画が飾られている。魔理沙の視線は部屋の壁を一周してから、彼女の肩越しに見えた、その絵に釘付けになった。

 「私たちは自分を基準に物を考えていた。『力』を使ったとして、疲れる程度。それが普通なんだと…。自分本位で、それに浅はかだな、私は…。何度も『才能がない』と言って置いて、そんなあいつが私たちと同じ様にピンピンしている…そっちの違和感には気が付かないんだから…私の方こそ、見る目がないよな。」

「あまり自分を責めてはいけないわよ。貴女の否定的な感情が、これからの彼を追い詰める事に成り得るのだから…。だいたい魔理沙は、これまでも、一心に彼の状態の安定をこそ願ってきた。仮初にであれ、彼と、彼の『能力』の折り合いが付いているのなら、その小康状態を崩そうなんて考えもしないのが普通だわ。…普通の、人間の女の思いなのだわ。」

 そう言うと…まるで、魔理沙の不安の理由すら、自分が引っ被る様に…アリスは頭を垂れた。それが魔理沙には、少しだけ寂しくて…そして、少しだけ…(ねた)ましい。だから…その瞳は、アリスの向こうに見える風景を、見詰めたまま…。

 彼女の瞳の虚ろさに気が付くと、アリスは顔を背け、急ぎ足に結論を口にする。

 「そういう事だから…貴女が悲観することはない…ううん、悲観してはいけないわ。これ以上、『押し殺したイメージ』で、彼の精神に負担を与えない為にもね。…それは…。」

「…なぁ。何であいつの本能は、私たちが…私がさっきみたいに、真っ直ぐあいつへと向ける気持ちで無く…自分でも手に余る様な気持ちを…私の押し殺した気持ちなんかを選んだんだろな。」

と、アリスの話の続きを遮って、魔理沙が尋ねた。

 心ここにあらず。視線もこちらには向けられて居ない。その事をアリスも知って居ながら、だが…咎められるはずもない。そこへ魔理沙を誘ったのは、アナタと、そして、アリスなのだから…。

 最早、アリスに出来る事は、魔理沙の全てを受容し、どんな理由であれ彼女を許す。たった、それだけが残されているだけなのだ。

 「私に聞くまでもなく、魔理沙なら察しが付いているでしょう。…まぁ、良いわ。確認の意味も込め、答えてあげる。知っての通り、感情と『魔力』は分かち難いもの。一方が勢いを増せば、それに伴い、もう一方も強く顕在化する。それ故、彼の本能が効率的に『魔力』を取り込もうとするなら、多くの『魔力』を伴って発せられる、私たちの強い感情を吸収するのは当たり前のこと。例え、『魔力』を得る度に『幻覚』を見る羽目に成るのだとしてもね。だから、この事は特別、彼の意識が反映されているなんて話じゃないのよ。」

「そう…だよな…。私もそう思ってはいたんだ。やっぱ、私、まだまだ、アリスには敵わないぜ。」

 琥珀色の虹彩(こうさい)の中央で、大きく広がっていた瞳孔が小さく成っていく。

 わずかな変化は、アリスの目に映り様もないなかったであろう。それでも彼女には、風景画を見据えていた魔理沙の瞳が…蜂蜜をたっぷりと溶かしたレモンジュースの様な、その風景から…自分の方へと向けられたのが解かった。

 「私に敵わない…この子ったら、何を当然の話をしているのだか…。本当、生意気なのよね。貴女も、それに彼も…。」

 アナタの描いた風景画の中の夕陽。恰もその逆光で生まれた暗がりに隠す様に、アリスは儚く、躊躇いがいな照れ笑いを浮かべた。

 薪ストーブから立ち昇る蒸気が、窓から差し込む月明かりにさざ波の様な影を作る。その影は、寒空の下に広がる草原を揺らし…アリスの青い瞳にも、付箋(ふせん)に似た波を立てた。

 …鍵盤を小突く様な、彼女の含み笑い…その、病み疲れた、ぎこちない旋律…。

 魔理沙もそこへ、味わい深い苦笑を重ねて、

「だよな。それだから、私も、あいつも、アリスの忠告は素直に聞くんだぜ。…まぁ、ギリギリ、譲歩できる範囲内での…素直さだけどな。」

 「また…。ふふっ…でも、素直だろうと、(へそ)を曲げているのだろうと、私の言葉が魔理沙の耳に届いて居るのなら大丈夫よね。私の言った事が不要なら、不要で終わるのなら、それが一番。聞き流して、忘れてしまってくれて構わない。けれど、どんなに時間が掛ったとしても、もし私の言った事が必要になると思ったならば…貴女は賢い子だもの。彼が思い出せなくても貴女は、そこに利用価値があれば、きっと、私の言った事を思い出してくれる。だから私、今この瞬間の魔理沙が臍曲がりさんだとしても、心配はしていないのよ。」

「まったく、褒めてんだか、馬鹿にしているんだか…。正直、素直には聞けないぜ。ただ、まぁ、『あいつには他人のイメージと共に、魔力を体内に取り込む事が出来るだろう』っていうお前からの『餞別』、それは有り難く受け取っておくさ。つまり、あいつが『能力』の使い過ぎでバテている時に、私が近くで良からぬ思索に(ふけ)って居れば…あいつも『魔力』の補充が出来るし、私は元気に成ったあいつをどう()き使うかの妙案が得られる。…っと、そう言う訳だろ。うん、悪くは無い。一石二鳥ってとこだな。知恵を付けてくれたアリスには感謝…はしているけどさ。物笑いの種にして良いとは、言った積りはないんだが…。」

 「あら、ごめんなさい。うふふっ、だけど魔理沙が、『良からぬ思索』と言ったでしょう。それって…もしかして、焼きもちじゃないかしら…。駄目よ。私には良いけど、彼の前であんまり拗ねて見せたり…腹立ち紛れに、彼を扱き使おうだなんていうのは…。彼も貴女と同じで、まだまだ純朴さの抜けてないところがあるから、プレッシャーを与え過ぎると可哀想だわ。魔理沙だって、彼と喧嘩なんかしたくはないんでしょう。」

「そ、それは、出来れば仲良く…じゃなくって…。」

 「『じゃない』の…。」

「いやいや、そうでも無くてだ。私、別に、焼きもちなんて焼いてないから…それを誤解されたままだと、困るって事をだな。」

 「ふふっ…そうよね。つくづく気が利かなくて、ごめんなさいね。その気持ちは魔理沙と、彼だけのものだものね。…じゃあ、私、今度こそ行くから…後は貴女一人で、ゆっくり顔の熱冷ましをなさいな。」

 アリスはそう言い残すと、扉の真鍮(しんちゅう)のノブに手を掛けた。

 ガチャッと、どこか空回る様な音を耳にしている、一時。その一時の間に彼女は、今日一日の出来事に思いを馳せる。

 そして、目まぐるしい走馬灯の最後に…魔理沙が目の前の扉を蹴破った光景を思い起こし…満ち足りた気持ちに自らを埋める様な、澄み切った無表情を浮かべた。

 冴え冴えとした月光が、扉の隙間から差し込み、部屋全体を灰色に変える。そこへ便乗するかの様に入り込む寒風が、魔理沙の周りからも暖かさを奪っていく。

 今しも立ち去ろうとするアリスの横顔。魔理沙は、その端正な…人形の様に思惑を閉じ籠めた表情に、問い掛ける。

 「待ってくれ、アリス。もう、一緒に居て欲しいなんて引き留めやしない。だけど…最後に一つだけ聞かせて欲しい事があるんだ。」

 魔理沙の呼び掛けにアリスは、ノブの外側を掴んだまま、青い瞳を振り返らせた。

 「アリスは、『あいつの為に成ったのか』と言った私に、『自分にとっては、あいつの為に成るかどうかは問題じゃない』…そう言ったよな。私は、その真意が知りたいんだ。」

と、問い質す彼女の声に、アリスは…努めて…感情の希薄な、作り物の様な愛想笑いを返して、

「真意も、何も…言った通りの、貴女が聞いた通りの意味よ、魔理沙。それ以上でも、以下でもないわ。」

 「そんなはずは無いだろ。…アリスだって本当は、あいつの事が…。」

 その先に続く言葉を、魔理沙には継ぐ事が叶わなかった。…言葉を止めた胸のわだかまり。それは冷たく成った着衣の胸元の所為か…それとも、不意にアリスが見せた、寂しげな笑みの所為だったのか…それは、彼女自身にも解からない…。

 小さく身を震わす様に、ドアノブを少しだけ手繰り寄せる。それからアリスは、去り際を濁らさぬ様、余韻の無い澄んだ声で呟く。

 「私は、彼の為を思う魔理沙の為に成る…そう思えた事をしたに過ぎないわ。…それだけなのよ。」

 アリスは扉を引いて、一歩、家の外へと足を踏み出した。

 手を離せばその反動だけで、扉は彼女を締め出すのだろう。それだから、細く、遠く成った部屋の内側に向けて…扉の隙間に自分を見つめ続ける、魔理沙に向けて…アリスは楽しそうに、口元を(ほころ)ばせた。

 「さようなら、魔理沙。彼に…いいえ、彼の事をよろしくね。…ほら、あれでも一応、私の弟子だから…。」

 軽口と、別れ際の笑顔を最後に覗かせ、アリスは扉の隙間を完全に閉ざした。

 魔理沙はしばらくの間、まじろぎもなく木製の扉を、アリスの行方を見つめてから…その目線を、薪ストーブの、燃える火の中へ投じる。

 メラメラと燃え上がる炎は、指先を熱し、容易に着衣を通り抜け、彼女の身体中を温めた。…胸のわだかまりなど、燃え尽きて仕舞った様に感じられた…。

 だがそれなのに…。魔理沙にはどうしても、痛いほど冷え切った自分の頬に触れる…たったそれだけ勇気が、見つからなかった…。

[15]

 「アリスは…まさか、俺を使いへ出している間に…帰ったのか。」

 開口一番。この家に戻ってきたアナタは、扉も閉じずに尋ねた。

 魔理沙にはそんなアナタの言葉が、まるで…『何故、アリスの事を引きとめて置いてくれなかったんだ。』…そう聞こえて…悔しさと、(みじ)めさに両手を握り締める…。

 (こいつの精神へ負担を掛ける様な『気持ち』に成るのは、控えよう…少なくとも、こいつの『魔力』が底を突くまでは控えるべきだと思っていたのに…。アリスも、こんな『気持ち』でいたのか…こんな…後ろ髪を引っ掻き回して、息が詰まりそうで、むしゃくしゃする感覚を、粉々にして…アリスも、こんな『気持ち』で居たのかな…。)

 一入(ひとしお)、彼女の握り拳へ力が籠る。それに従って掌は熱を帯び、そして、魔理沙にあの感触を…アナタの後ろ首を掴んでいた時の、あの感触を思い出させた。

 押し黙り、力は込めず、心を込めて…。ただ、アナタが自らを責め苛もうとする『気持ち』を、寸分たがわず、自分の感じた通りの深刻さで送り返した。…送り返した積りだった。しかしながら、

(『自分の感じた通り』というのが曲者(くせもの)だったな。今更に考えてみれば、あのときの私の『気持ち』…不純物混じりまくっていたと思う…。結局は、こいつに対して、私が一番腹を立てて居た訳だ。自分一人で抱え込んで、自分で自分を悪者にするなって…私が傍に居るのにって…。それに…。)

と、アリスのこれまでの忠告に…自分の『気持ち』に素直に成った魔理沙の手から…すぅっと、力が抜けていた。

 それはきっと、彼女にはこだわりや、プライドを緩めてでも、その掌で触れていたいものがあるからなのだろう。

 両の掌を横断する点線の様な爪跡。魔理沙はそれを見下ろしながら…『好機を、自ら捨てるべきではない』…そう言った時の、アリスの横顔が目に浮かぶ。

 (焼きもちか…焼いて居たのかも知れないな…私も…。)

 薪ストーブの火は、変わること無く赤々と燃えている。そうだと言うのに、トンガリ帽子の薄っぺらいつば一枚に阻まれ、アナタには魔理沙の顔色を窺い知る事が出来ない。

 「魔理沙…。」

 一言もなく座りこむ彼女の名を、アナタが呼んだ。飾り気も無ければ、溢れんばかりの好意など感じられもしない…。しかし、簡素ではあるが、確かに魔理沙の事を心配している。彼女の事を気に掛けているアナタの心情が、その声からは感じられた。

 魔理沙は、ゆっくりと両手を持ち上げていく。項垂れた顔を覆う様なその仕草は…まるでアナタに自分の表情を読み取らせまいとする様に…一段と、顔を包む夜の闇を濃くしていった。

 「魔理沙、どうしたんだ。アリスと喧嘩でもしたか…。まさか、また俺の『能力』の事が原因で…。」

 顔を伏せている彼女に対して、アナタから漏れ出た声は、顔向け出来ないと詫びる様に苦い。

 三人で濃い目の紅茶を分けあった事を、遥か昔の出来事だった様に感じながら…その一方で魔理沙は、今、心底から思って居る事があった。

 (私を責めるのは構わない。アリスを庇いたい『気持ち』があっても不思議じゃない…。だけど、もし…今のアナタの声に、私に向けられるどんな感情も無かったとしたら…。私、間違いなく…アナタの事を殺していた…。)

 抑えきれぬアナタへの加虐(かじゃく)心が、眼球まで数ミリという所に来ている魔理沙の爪を、小刻みに震わせる。

 琥珀色の瞳を(まばた)かせる事もなく、爪先の圧迫感を味わう。アナタには…暗がりの渦中(かちゅう)にある魔理沙の双眸(そうぼう)が…自分を見つめて居ると解かっていた。

 それだからアナタは、キッと、魔理沙の瞳へ強い眼差しを送り返して、

「魔理沙、怒るぞ。」

 ドクンッと、魔理沙の心臓が跳ねた。

 その衝撃は、胸を、肩を、肘を揺さ振り…彼女の眼前にあった指先を、大きく横揺れさせる…。だが、そんなものは、彼女の心の揺動(ようどう)に比べれば微々たるもの。

 アナタに心臓を鷲掴みにされた様な感覚は、魔理沙の身体を貫き…未だ、彼女の背中を温めていた。

 魔理沙は、『ヤレヤレ』と、『しょうがないな』と、さも嬉しそうに呟く様に、惚れた弱みに酔いしれ頬を染める。

 舌の根まで、冷たく、熱く、微笑ましくて…魔理沙は、手を動かさずに、コクリッと、頷いた。

 「おっ、おい、何しているんだよ。お前、目が…。」

と、喋り掛けたアナタはすぐに、彼女が両手で帽子を取り上げた事に気付いて、安堵の吐息を漏らした。

 トンガリ帽子を膝の上に置くと、魔理沙の顔から夜の帳が消え去っていく。

 『安堵の吐息』に続けて、蹴飛ばされた扉の閉まる音を聞きながら、魔理沙は…、

(あぁ…私…何て安っぽい女だったんだろう…。この人の一挙一動で、喜んだり、不安になったり、まるで操り人形みたいに…。人形か…さっきは、『アリスの代役なんて…』と言ったけれど…案外それも悪くは無いのかな…。)

 自分の胸中に広がる艶めかしく、熱い泥の如く逃れ難い感情に…ほんの少し前までは、大嫌いだった『気持ち』に浸りながら、魔理沙は爽やかに微笑む。

 (アリスの口元を押さえながら…この人は、私の足元にある『何か』を拾うおうとしていた。アレはきっと、あの時の私が否定し、それでいて、押し殺すことの出来なかった『気持ち』…。知らなかった…考えもしなかったけど…私って、独占欲の強いタイプだったんだな。)

 愉快そうに笑う自分の隣を、アナタが通り過ぎていく。その姿を瞳で追い掛けながら、

(今なら、それを受け入れられる。いや、受け入れるって決めてやったぜ。有り難く思えよな。)

 魔理沙は、ニンマリと白い歯を見せて…胸中の呟きを、そう締めくくった…。

 テーブルの上に、英字新聞で(くる)まれた二包みの燻製が重ねられる。

 アナタは(いぶ)しげに魔理沙の顔を見据えて、

「あんまり、人の『能力』を玩具にしようとするなよな。危うく、『自分の首から血が垂れる()』の十倍は嫌なものを見るところだったぞ。」

 そう話し掛けるアナタの目には…出会った日に、夕焼けに照らし出されたのと同じ表情が…ストーブの白い光に照らされた魔理沙の、悪巧みに夢中な笑顔が映っていた。

 それにしても…どうやらアナタは、魔理沙の今しがたの情動から、『幻覚』を見なかった様子。アリスの言葉を借りるのであれば…その事こそ、魔理沙が自分の『気持ち』を受け入れた証拠…と、するべきであろうか…。

 魔理沙はアナタの勘違いを正そうとする素振りも見せずに、微笑み、下瞼を指で引き下げる。

 そこへオマケにペロッと舌を見せて、あっかんべーの出来上がり。

 呆れた様に、安心したかの様に、アナタは鼻息を一つ。

 「それで…アリスの奴は、お前の退屈しのぎの相手もせず、どこへ行ったんだ。」

「んっ、アリスは帰ったぜ。食後のお茶も済んだからな。」

 「…どうして、その一言を喋るのにこんな手間が…。まぁ、良いんだが…。」

 アナタはテーブルの端にもたれ掛かると、手元にある燻製の包みへ目線を移す。

 「アリスは、何か言って居なかったのか…。」

 その言葉に、当てや、含むところがあった訳では無かった。…だが、それ故に…。

 「『何か』って、例えばどんな…。」

 問い返した魔理沙の声は、すり潰された様に脆く、アナタの耳に届いた瞬間に熔けて消える。

 何の気なしに笑いを漏らしながら、アナタは魔理沙へと視線を戻す。

 「そうだな、例えば…まず、この燻製の事だろ。そうでなければ、俺の作った人形の事を…いや、そうじゃないな。一番有力なのは、ティーカップの事だろうな。それを近い内に受取りに来るから、首を洗って、カップも綺麗に磨いて、待っていろ。…と、俺が断り切れないのを良い事に、捨て台詞を残して行く可能性は十分にある。」

 いつの間にか、薪ストーブの方へ顔を向けていた、魔理沙。アナタの話に一区切り付いたと言うのに…火影に浮かぶその無表情は、人形の様に…アリスの様に、心を閉ざしていた。

 「本当に…お前たち、喧嘩していた訳じゃないんだろうな…。」

と、魔理沙の頑なな応対に、アナタは眉を潜め、もう一度、そう尋ねた。

 それに魔理沙は、明滅する炉辺の光の上で唇を泳がせながら、

「喧嘩なんかしてないぜ。だいたい…仮に、私とアリスが喧嘩をしたとして…私がそんな状態を許したまま、喧嘩別れなんてするはずないだろ。」

 そうして口では答えたものの、視線は動かさず、面影にどんな感情も表われては居ない。

 彼女のにべも無い態度を目の当たりにして、アナタは後ろ髪へと手を回す。…いつも都合の悪く成る度、アナタがその仕草を取る理由…魔理沙にはそれが解かった気がした。

 (そんな風に、首の後ろに手を宛てていれば…自然と俯き加減に成って、私みたいな融通の利かない女から目を逸らせるもんな…。本気で、こういう時こそ、アナタの方からこっちを見つめてくれよ。私だって、アナタの事を真っ直ぐに見つめられる…そんな心境でばかりでも居られないんだ。)

 薪ストーブの間近に居る所為か、瞳はいとも容易く乾いて、泣けてくる。零れ出しそうな涙を、『気持ち』を閉じ込める様に、魔理沙は静かに目を瞑った。

 アナタは、自分と同じ仕草で後ろ髪を掻いた彼女の笑顔を思い浮かべながら、首の後ろへ回した手を下ろす。

 「そうか…なら…。お前が良いなら、俺も構わないけどな…。」

 居心地の悪さから思わず口を衝いた、迂闊(うかつ)な言葉。

 そのアナタの歯切れの悪さ、一抹の不満の念に、魔理沙は潤んだ琥珀色の瞳を吊り上げる。

 『はぁっ、お前が良いならってのは何だよ、お前が良いならって…。私に文句があるんなら、アナタの方こそはっきり言えば良いだろ。自分の居ない間にアリスを帰らせやがって、この役立たずってな。』

 魔理沙はそんな思いの丈をアナタにぶつけてやろうと、確かに口は開いたのだ。口は開いたのだが…首筋を、後ろ髪を這い上る寒気に…声が出ない、言葉に成らない。

 アナタの顔を睨んだまま、血の凍る様な首の後ろへ、手を押し付ける。それから魔理沙は、ほんの少しだけ温まった声で、

「してないさ…喧嘩なんて…。考えても見ろって…燻製に、人形に、ティーカップだっけ…。そんな話題で、私とアリスが喧嘩するわけもないだろ。」

 結局、アナタに応えるその声は優しく、瞳も穏やかに細められていく。

 …魔理沙には、言えない…『幻覚』がアナタの精神へ負担を掛ける。そんな理由が有ろうと、無かろうと…恐ろしくて言えなかった…。

 険の無い彼女の声に言い返され、アナタは安心した様に、しかし、どこか残念そうに苦笑する。

 「そうだろうな。こんな掘立小屋じゃ、喧嘩をしようにも、理由に成りそうなものも有りはしないか…。悪かったな。何度も、変な事を聞いて…。」

 薪木が黒ずみ形を失っていく音。この家に吹き付け、ガタガタと窓を揺さ振る夜風の息遣い。その二つを除いては、完全な沈黙がこの場を支配している。

 いいや、アナタはともかく、魔理沙は…魔理沙の胸は、周りの音など耳に入らない程に、強くざわめいている。

 テーブルの上に転がる、無残にも胸倉を抉り取られた、ドライレモン。静寂を(こら)え切れず、アナタはその残骸を取り上げた。

 それと同時に、アナタとは正反対の焦燥感から魔理沙が呟く。

 「アリスは言っていたぜ。アナタによろしく伝えてくれと…。それから、燻製は私たち二人で食べなさいって…。」

 声に心のざわめきが紛れ込まない様に、魔理沙は自分の胸倉を掴んだ。そこへ…彼女の胸の内の葛藤など、知る由もないアナタの声が届く。

 「無愛想な言伝だな。だけど、まぁ、アリスらしいか、それ位の方が…。」

 深く頷きながら肺に溜まった空気を吐き切る。そうして、アナタは人心地ついたとばかりに、テーブルの端から立ち上がった。

 肩口から照らすカンテラの灯りに映る、アナタの晴れやかな顔。

 言葉の中に包み隠す積りもないアナタの『気持ち』は、魔理沙にも伝わっている…。

 それは、アリスと同じ場所で過ごし、同じと時間を共有した充足感。それは、また、今夜の様に彼女と…アリスと一緒に居られるだろうと期待と、感謝。…そう…魔理沙への…今、この瞬間にこの場に居る自分への感謝の念なのだろう…。

 (解かっていた事だし…無理ない事だとも思う…。アリスは、私なんかよりもずっと落ち着いて居て、ずっと女っぽくて…アナタが好きに成るのも当たり前…。告白して、振られたからって…忘れられるはずもないよな。だから…きっと、アリスを基準に、私をアリスと比較したりもするんだろうって…覚悟はしていた。だけど、正直、キツイよな。)

 奥歯を噛み締め、胸倉を掴む力を強める。しかし、そんな事では到底、表わせない、埋め合わせにすらならない。魔理沙の思いは、それ程までに深く、それ程までに熱い。

 こんな自分の姿から、アナタは『幻覚』を見てしまうかも知れない。だが…そんな事、構うものか…そう言って焼き(ごて)を突き付けるかの如く、魔理沙は琥珀色の瞳で真っ直ぐにアナタを見る。

 (私、アリスとの比較対象ですらなかったんだな…。アナタからすると、私の存在はアリスの延長線上にあって…だから、どこまで行っても…いつか私の存在が、アナタの中でアリスを追い越したとしても…ずっとアリスの存在が影を引いたまま…ずっとどこまでも付き(まと)う…。アナタの世界の私が、影法師でしかないのと同じに…。)

 嗚咽(おえつ)を懸命に隠しながら、しかし、忍ばせ様とすればする程に、目尻から零れる涙が頬を流れ落ちる。

 魔理沙は泣き顔をアナタに見せまいと、荒っぽくトンガリ帽子を被り、高く脚を組む。どうにかそれで、アナタの目を誤魔化す事は出来た様だ。

 自分で隠している癖に、自分の涙に気付かない、気付こうともしない、アナタの安穏とした顔が憎たらしい。不快で、胸糞悪くて、啜り泣いて居る内に、吐き気までし始めてきた。

 それもこれも、アナタの所為だと腹を立てながら…露骨な嫉妬の炎に胸を焼き焦がしていても、アナタの幸せそうな顔を憎み切れない…そんな自分に一番、腹が立つ。

 ムカムカする胸の奥から長い息を吐き出す。魔理沙はまた、アナタに気付かれぬ様に泣き、そして笑う。

 (お笑いだぜ。『代役は嫌だ』と突っぱねたけれど、その結果、アナタにとっての私の…『アナタにとっての霧雨魔理沙(きりさめまりさ)』という存在の厚みの無さを、平べったさを思い知らされる羽目に成った…。てっきりアリスは、自分が離れる事で、アナタが私の事を見やすい場所を開けてくれている…そんな積りで居るのだと思っていたのに…今の私には、アナタの中でアリスに取って代われるだけの現実感さえ無かったなんて…。ううん、アリスが居る限り…どんな形であれアナタの心に、記憶に、アリスの存在がある限り…霧雨魔理沙は、アリスの影法師としてしか在り得ない。それは私に現実感があろうと、無かろうと、同じ事なんだ。…だって、私が成りたい者は…アナタの中の霧雨魔理沙が成ろうとしたものは、アリスの影法師そのもの…。アリスから遠ざかっていく事は私にも出来ていた。…だけど、アリスの影を出て、『アナタが好きなアリス』の延長線上の外から…アリスなしの私で、今更、何て言えば良いんだよ。)

 魔理沙は、組んだ脚を静かに(ほど)いて、少しだけ(うず)く両方の膝を不規則に撫でる。

 椅子の上で前のめりに成ったその小さな姿は、アナタの目にも、随分とくたびれて見えた。

 彼女の小さな背中と、椅子の背もたれの間を埋めるもの…それは、暗い影。それは、隣に置かれた無人の椅子の、その上に未だ腰掛けている…誰かの影…。

 アナタには影がある事など当たり前の事なのだから、もう一度、当たり前の声で彼女に呼び掛けた。

 「お前は、これからどうする気なんだ。明日の公演もある事だし、朝方には自分の家に戻って居ないと不味いよな。まぁ、一眠りして行く積りなら、ここを好きに使ってくれれば良いが…。俺はもうしばらく火の番をして…んっ、そう言えば、ストーブの火に『魔法』を掛けていたけど…もしかして、火の番の必要は無かったりするのかな。」

 (ほの)温かく魔理沙の身を労わる様に、アナタの声は尋ねつつ、決断を迫ろうとはしない。

 魔理沙には…それすら…『アリスが帰ったのに、どうして、その影だけがここに残っているんだ。』…まるで、アナタがそう言って居るかの様に聞こえてしまう。

 彼女の瞳を包みこんでいた潤みが、大粒の涙となって零れ落ちた。

 肩を張り、二の腕を目元に寄せて、魔理沙はアナタに悟られぬ様に涙を拭う。薪ストーブの光に照らされたそのシルエットは、アナタの背後の壁一面に投影され、うつらうつらと転寝(うたたね)する様に揺らめいて居た。

 アナタは、天井に頭をぶつけるほど大きな彼女の影を(かえり)みつつ、さも可笑しそうな声で、

「何だよ。やけにご機嫌斜めだなと思っていたら、『おねむ』だった訳か…。眠くてムシの居所が悪く成るとか、魔理沙も変なところが子供っぽかったりするよな。俺と同じで…。」

 彼女の耳に届いて居るかも解からないまま、独り言の様に小さな声で呟く、アナタ。

 魔理沙の答えの無かろう事も、織り込み済みでからかって居たのだろう。彼女の知らん顔…もとい、人影の素知らぬ振幅に対して、アナタは顔を綻ばせ、頷いた。

 「まぁ、今日も一日、霧雨魔理沙は大活躍だったもんな。一足先に眠られても、文句は言わないよ。…さて、毛布でも持って来てやるか…。」

 そう言うとアナタは、ガサッと音を立てて、テーブルの上から燻製の包みを取り上げた。

 アナタの手の中で潰れた新聞紙が、乾いたさざめきを漏らす。

 その切ないもの音を…力を込めず、大事そうに燻製の包みを取り上げる…歯痒く成るほどの名残惜しさを耳にした刹那。膝を掴み、スカートの裾を巻き込んでいた魔理沙の指から…力が抜けて行く。

 (私って…。)

 靴下の上から足首を擦る感触。そして、手首からの下に言い様の無いだるさ。

 …言うまい、言うまいと、魔理沙は固唾を呑んで息を殺し…だが、嬉しく思う『気持ち』は…アナタが喜んでくれる事をしたいと思う単純な『気持ち』は…殺せない…。

 寝室へと向かうアナタの背中に向けて、喉のつかえを吐きだす様な早口で、魔理沙が一息に喋り掛ける。

 「今なら、まだ間に合う。…一足違いだったんだ。」

 彼女の声に、手隙の右手でドライレモンを拾い上げたアナタは、

「良いって、焦らなくても…。やらなくちゃ成らない事も残っているし、魔理沙はまだ寝て居ろよ。」

 そう笑って応えると、ドライレモンを一齧(かじ)り。渋くて、爽やかな表情をしながら、歩みを寝室の方へと戻した。

 「違うっ。」

と、二歩もアナタが進まぬ内に、再び、魔理沙の声が背中を叩いた。…彼女の張り上げた声は…叫んでいると言うよりも、嘆いている様な…怒っていると言うよりも、痛い…アナタにはそんな風に聞こえる…。

 ドライレモンの酸味と、口の中の唾液とを、喉を鳴らして飲み下す。そうしてアナタは、怪訝そうな、やや危ぶむ様な顔付で、椅子に座る彼女へと振り返る。

 「私の事じゃなくって…アリスの事なんだ。あいつがこの家を出たのは、アナタが戻って来るほんの少し前で…本当に、一足違いだったんだよ、お前たち…。」

 魔理沙は、自分でも不思議に成るくらい一生懸命に、あるいは躍起に成って、アナタへと伝え続けた。…今なら、まだ間に合うと…。

 おそらくはアナタにも、薪ストーブの灯火(ともしび)(またた)く間に、魔理沙の言わんとしている事の意味は理解できている。知っているからこそ、アナタの両の瞳は、物怖じしで曇っていく。

 冷たい肩越しにその目線の弱まりを感じ取って…勇気づけられた様な、不安にさせられた様なあやふや心持で、魔理沙はなおも言葉を続ける。

 「だからさ、きっと、走ればすぐに追い付けると思う…。折角、アナタがアリスの為に見繕った燻製だろ。無駄にするのは勿体無いぜ。」

 『アリスを追いかけろ』と勧める彼女に、アナタはポツリと呟く。

 「いいよ、もう…。アリスは、『燻製は俺たち二人で食べろ』と、そう言ったんだろ。だったら、無理に持たせなくても、あいつの言う通り俺達で食べてしまえば良いさ。元々、半分は魔理沙に渡す積りだった事もあるしな。だから、魔理沙の分は俺が食べるとして…残りの半分は…アリスの代わりに魔理沙が食べてくれるなら、それで構わないよ。」

 …『アリスの代わりに』…無造作にアナタの口から発せられた本心を…魔理沙は奥歯を食い縛って我慢する…我慢する…我慢…し切れるわけは無い。

 「いいから、行けって。『霧雨魔理沙と居れば、アリスがセットで付いてくる』、『アリスとはまたすぐに…いつでも会える。それなら、燻製は次の機会に渡せば良い』…アナタはそう思って居るのかも知れないけどな。例え、私がアナタたちの間に収まって居ても…それだけで、アリスが私の居場所を通り越して、アナタの傍に現れるとは限らない…。いつだって、最後には自分から相手に歩み寄らないと…全力で走って、駆け寄らなければ、その人の傍には居られないんだ。…アナタ、解かっているのか。もし今、アリスを追い掛けなければ…もう二度と、その燻製を渡すチャンスは訪れないかも知れないだぜ。」

 言い終えて、全てを伝え終わっても、魔理沙が振り返り、アナタを見る事は無かった。

 本心からアナタに後悔させたくないと思う気持ち、それから…そんな気持ちと、どうしても切り離すことが出来ない…後悔も、未練も、綺麗に捨て去った最後に、真新しい気持ちで自分の事を選んで欲しい。

 親切で、お節介な振りをして、自分は自分の為にアナタを試している。魔理沙は、罪悪感と淡い期待の入り混ざった寒々しい炎で臓腑を焼きながら、冷たい息を吐き出す。

 アナタは、ストーブの火の前で凍えている魔理沙の…魔理沙の傍に歩み寄ると、右手に(たずさ)えた燻製の包みを差し出した。

 「えっ、どうして…。」

 心底から意外そうな声で呟いて、それなのに、魔理沙の泣き晴らした顔は喜びに満ち溢れていた。

 彼女の救われた様な微笑みに、アナタは優しく頷き…そして、こう続ける。

 「一つは魔理沙の分だから、取ってくれ。もう一つは…俺が全力で走って、必ずアリスに届けてくるからさ。」

 絶対零度の黒い炎が這い上がり、内側から魔理沙の微笑を硬直させた。

 その顔に気付かれまい、頬に残る涙の筋を見せまいと、顔を正面に戻し、俯く。…それが、彼女の精一杯であった…。

 差し出した包みを拒絶する様な彼女の仕草に、焦れるでもなく、不思議がるでも無く、アナタは快く笑って、

「遠慮して居る積りなのか…あぁ、『こんな事をしている暇があるなら、さっさとアリスを追え』って言いたいんだろ。心得ているよ。だけど、ほら、走るのには、一つでもお荷物が少ない方が良いに決まっているし、それにやっぱり…全部、魔理沙のお陰なんだよな…。だから、礼の足しにも成らないけど、これは魔理沙に持って行って欲しんだ。」

 アナタの言葉の一つ、一つが、万力の如く、折れ掛けた彼女の心を更に締め上げていく。

 魔理沙は、身体中の血管が細っていく様な胸の痛みに…助けを求めて…差し伸べられたアナタの腕に手を掛ける。

 「私の…私の分は要らない。私はいつだって、好きな時にここに居られるだろ。だから、それは貰えない。…二つとも、アリスに渡してやれよ。」

と、そう言って魔理沙は、細腕に力と意地を込め、燻製の包みを押し返した。

 (私の中に、足りないものを探そうとするのは止めて…。今更どう頑張ったところで、私はアリスには成れない。何より、私が何をしても、アナタがアリスを忘れる事はない。…ならせめて、私は、薄っぺらな影のままで居させてくれよ。アリスの形をした、真っ黒な影で構わないから…。)

 許しを請うかの様に、泣き言を零すかの様に胸中で呟きながら、頑なに燻製の包みを押しやる、魔理沙。

 その様子に、ようやく彼女の複雑な心境に思い至ったのか…。アナタは、自分をけしかける言葉とは裏腹な魔理沙の面持ちを、押し返してくる彼女の腕の先に見つめた。

 「早く行けって…。アリスの足でも、アナタがここでうかうかして居る内に、『魔女の森』へ差し掛かっているかも知れないんだぜ。森に入ってしまえば、どんなに急いでも、どんなに走っても、追い付く事は叶わない。…今行くのか、それとも留まるのか…これ以上、私の手に理由を探して居ないで…アナタの、その両手だけで決めろ。私は…ここで待っているから…。」

 最後に…そう気力を振り絞って…魔理沙は関節の砕けた人形の様に、ズルリッと、アナタの腕から手を下ろすのだった。

 果たしてアナタは、彼女が置いていったもの、アナタの手に残した切ない『気持ち』を、どう受け取ったのだろうか…。

 アナタは、俯く魔理沙の手に燻製を持った手…では無く…もう一方の手から、軽々とドライレモンを放り渡すと、

「魔理沙、ありがとうな。俺…行って来るよ。」

 そう言い置いて、ポンッと彼女の肩を叩く。そうして、アナタはその場から駆け出し、扉の外へ…振り返る事無く、消えて行った。

 もうこの場には、気を遣うべき何ものも居ない。人形だって聞き耳など立てているはずもないのに…魔理沙は誰の耳にも届かぬ様、そっと、扉の閉まる音に合わせ溜息を吐き出す。

 「私はアナタにとって、こんな物の…こんなスカスカな物一つ分の重荷にも成れないんだな。」

 ドライレモンを口元に寄せると、甦るのは酸っぱそうな顔をしていたアナタの面影。

 琥珀色の瞳の中、涙の様に熱い火の光を映して…魔理沙はクスクスと笑い、呟いた…。

 「まったく、安っぽいったらないぜ、私…。アリスとは大違いだって…アナタも、そう思ってくれるよな…。」

 自嘲的に、しかし、どこか誇らしげに口の端を吊り上げる、魔理沙。

 その艶めいた唇でドライレモンに触れ、瞳を閉ざし…ただ無心に、乾き切った甘酸っぱさを噛み締めた…。

[16]

 目前に広がるのは、麻張りのキャンバスに根気よく木炭を(なりす)り付けたかの様な、夜の森。

 垂れ込める繁った梢が風に揺れる度、キャンバスの上の塗り(むら)の如く、枝葉の間から星空が見え隠れする。

 深く、暗い森の入口で…しかし、アリスが立ち止まったのは、森の奥に広がる黒々とした闇を怖れたからではない。

 彼女が足を止めたのは、夜風の冷たさも清雅な、葉擦れの音色。その途切れ毎に、聞こえる、近づいてくる、息急(いきせ)き切って駆ける足音。

 一直線に自分へと走り寄る力強い足取りに、その場に立ち尽くしていたアリスは…やっぱり、思い直したか…相変わらずの無表情で、森の中へ一歩踏み出した。

 「おいっ、ちょっと待って。もうすぐ着くから…。」

 寝静まった夜の森に、動物たちが慌てて起き出しそうな大音声。

 『これ以上、騒がれる訳にも…。』と、そんな念慮(ねんりょ)も手伝って、アリスはようやく来た道を振り返った。

 そこへ、ゼーッ、ハーッと、荒い呼吸を吐きながら、アナタの姿が近寄って来る。

 足取りを、全力疾走から、ぶらりとした夜歩きにまで減速させ…アナタは彼女の正面へ。

 それから、膝に手を突き、いきなり謝罪を始めたのかと思う程、深々と頭を下げて一息。

 その息も絶え絶えなアナタの様子に、アリスは仕方なさそうに…やっと笑顔を見せ、口を開く…。

 「そんなに成ってまで、一体、何をしに来たのよ。あれほど、『魔理沙の事をお願いね』と頼んでおいたのに…。」

 言い終えたアリスの唇から、また、『仕方なさそうな』笑い声が零れた。

 「生憎だが、俺はその魔理沙に尻を蹴飛ばされて…ここに…来ているんだよな…。」

 そう答えながらも、息が上がってアリスの顔すら見られない、アナタ。背筋を伸ばし、やっとこさ彼女とのお目通りが叶ったのは、七度目の深呼吸の後の事だった。

 「忘れ物。魔理沙が、自分の取り分もアリスに渡してやれってさ。」

 アナタの差し出した二包みの燻製を、アリスは…一度は立ち去ろうとした割に…大人しく受取って、

「魔理沙はそう言った…で、アナタ、それをそのまま鵜呑みにしたの…。」

 「えっ、何だって、よく聞こえなかったんだけどな。」

と、バクッ、バクッと、耳に入った傍から音を食らう心臓の鼓動。そして、まだ落ち着きを取り戻し切れていない息遣いに掻き消され、アリスの囁きはアナタに伝わらなかった。

 アリスは、アルファベットの縦横に走る包みを胸に抱いて、首を横に振って見せる。

 「ううん、気にしないでちょうだい。燻製、わざわざありがとう。…じゃあ、帰りの夜道、気を付けて…おやすみなさい。」

「あっ、いや…待ってくれ。」

 森の方へと(きびす)を返し掛けたアリスの耳に、アナタの慌てた…と言うより、戸惑った様な声。

 当然、アリスにはそれを黙殺する事も出来た。…アナタも、むしろ…そうして自然に見えなくなるのをこそ期待して居たのかも知れない。

 実際、彼女を制止したアナタの口から、次の言葉は続かない…。

 どこか後ろ向きなアナタの心境を感じ取ったのだろう。アリスはたじろぐアナタのへと身を寄せ…隣を通り過ぎて…垂れこめる木々の梢から、月明かりに照らし出された場所へと移動する。

 彼女に背中側へ回られてはな…。アナタも腹は決め、満天の星々の下に歩み出た。

 「…何のご用。」

 輪郭を、影を際立たせ、全ての色を霞ませる冴え冴えとした月光。だが…白く、淡やかな月下にあっても…アリスの肌は、髪は…輝くばかりに美しい…。

 夜の空気を吸い込み、吐き出し、喉は痛いほど乾いて居る。アナタはその鈍痛すら忘れた様に、息を止め、ガラス細工の様に繊細な(たたず)まいを見つめていた。

 月明かりと、アナタの眼差しをその身に浴びながら、アリスは透明感のある無表情で語り続ける。

 「まぁ、アナタの言いたい事は…アナタの目的は、だいたい察しがつくわね…。確認しに来たのでしょう。自分が、前ほどは私の事を思って居ない…それが勘違いかどうか…。」

 アナタは少しだけ驚いた様に、目を丸くし、小さく息を漏らすと、

「気付いて居たのか…。いや、この場合、気付かれていないと思っていた、俺が間抜けだったんだろう。」

 そう応えながら、それとなく視線を逸らして、アリスの元へ…月明の下へと歩み寄る、アナタ。

 整っていたはずのアナタの息遣いが、ゴニョゴニョと、難しそうに乱れる。それにアリスは、ちょっとだけ得意気な笑みを浮かべて、

「アナタが、アナタ自身の潜在意識と会話し終えた後からだったわ。ティーポットを掴みながらこっちらを見るアナタの視線で、すぐに解かったわ。だって、あれほどこそばゆかったアナタの視線に、熱っぽさが無かったのだもの。起き抜けとは言え、思わず、『薄情者』と罵りそうに成った。」

 青白い野山を見つめていた瞳を、アリスへと向ける。そうしてアナタは、おどけて笑い返した。

 「今なら、ちょうどジョギングも終えたばかりで、すっきり目は醒めているはずだけど…どうかな。また、情熱的な眼差しに成っているんじゃないか。」

 アリスは、青い瞳に広がる波紋を消す様に、しっとりと(まばた)きをしてから…、

「薄情者。」

と、蠱惑(こわく)的で、茶目っ気たっぷりな笑顔を作った。

 アナタは可笑しそうに、少し呆れた様に笑気を漏らす。

 「どっちが…。そっちこそ相変わらずで、俺になんて興味ないんだろ。熱が収まって、ようやく、自分がどれだけ無謀な挑戦をしていたのか気付いたよ。」

「そっちこそ、相変わらず…鈍いわねぇ。」

 瞳を細め、そう囁いて…アリスが間髪入れずに、言葉を続ける。

 「…で、私への思慕の情が急に冷めて、それで怖く成って、矢も盾もたまらずに私のお尻を追い掛けてきたと…。結局、前とやっている事は同じだけれど、満足できたのかしら…。」

 そう問われたアナタは、喉を反らせ、顧みる事の出来るはずのない我が身を顧みる様に、空に浮かぶ目の(くら)む様な月を見上げた。

 「いいや、満足なんて出来ない。」

 喉を震わさずに答えた声は、宙を朧気(おぼろげ)に浸み渡っていく。

 アナタは、頭一つ分は優に小柄な、彼女のもの淋しげな無表情を見つめ、続ける。

 「多分、俺のこの満たされない感覚は…もう一度、君の事を心から好きだと思えるまで…どうしようもないだろうな。…多分だけど…。」

「無理よ。」

 アリスは表情を変えずに、首を横に振って答える。

 「無理だわ。今こうして居る、この瞬間…どんな女にも分け隔てなく降り注ぐ、魔法のスポットライトの下で…そんなお誂え向きの状況に在っても、アナタの目は私にのぼせあがっていない。数時間前の様にはね。だから、もう…無理なのよ。」

 そう言うと今度はアリスが、ひんやりとして、微笑もうともしない、魔法のスポットライトを見上げる。

 「月並みな言い方だけれど、それはきっと、永遠に…アナタは永遠に、幻の私を取り戻す事はない。でもそれは、アナタにとって私が必要なく成ったと言うこと…いいえ、現実の私は、初めから、アナタには必要のない存在だったのでしょうね。」

 (まぶ)しそうにまつ毛を伏せて、細めた瞳を閉じる。それでも、まだ、月光の冷たい手は頬に触れたまま…。

 アナタは、彼女に向かって言葉を…とにかく多くの言葉を贈ろうと、口を開く。だがしかし、何から話したら良いのか、何を話したら良いのか、弁解か、それとも、哀願か…。

 とうとう、アリスの下した結論を砕き、否定するに及ばず、アナタは力なく呟く。

 「それじゃあ俺は、この先ずっと…永遠に…誰かを思う、あの満たされた気持ちを取り戻すことは出来ないんだな。」

 アナタの言葉はしみじみと、そして、どこか投げやり転がっていく。

 『アナタには、魔理沙が居るじゃないの』。アリスはついそんな一言を口走りそうに成る喉を、キュッと、手で締める。

 その一言は、アナタに対しても、魔理沙に対しても、あまりに失礼なもの…そう、アリスは強く思ったのであろう。

 アリスは青い瞳を左側に動かして、小さく見えるアナタの家を、小屋の窓辺に映る灯りを見つめる。

 …目に焼き付いた光と、魔理沙の不安そうな、それでいて誰よりも充実した微笑…瞼を閉ざしても瞳から消えること無い思いを抱きながら、アリスは心中で静かに呟く。

 (覚悟は出来ている積りだったけど…ううん、今にして思うと、私…心のどこかで、この人に自分が愛されるのは当たり前の事なんだと思い込んでいたのかも知れない。人間だった頃から、色恋には縁遠かったし、それに…魔理沙の様に、この人に好かれたいと、努力をして得た好意ではなかったから…失ってみるまで、その価値には気付けなかった。)

と、アリスは瞳を開き、意味深長な目付きで、緩めた口元をアナタに向けながら、

(だからと言って私の様な『生き人形』に、人を愛する、人の愛情に応える資格が無い…アナタの思いを受取るだけの価値が無い…その答えには変わりはないのだけれど…。だって、しょうがないわよね。)

 口元の笑みが少しだけ皮肉っぽく、少しだけ得意気に深まる。

 そんな時…いいや、どんな『気持ち』の込められた笑顔であっても、それが自分に向けられた彼女の笑顔なら、アナタはドギマギとして落ち着かなさそうに目線を泳がせていた。

 だが今のアナタは、(とぼ)けた顔で、臆面もなくアリスの笑みを見つめている。

 アリスは頷くともなく、やや首を傾げて、アナタへと眼差しを向けた。

 「しょうがないわよね。私も、アナタも人形師。人形を思いのままに繰り動かす事は出来ても、人の心を手玉に取るのは専門外だもの。」

 会釈する様に少しだけ頭を下げて、アナタは後ろ髪を掻きながら、

「それって…アリスには、俺を手玉に取ろうという気持ちがあった…俺は、それ位の希望は持っても良いって事なのかな。」

 アナタのその問いに、アリスは首を傾げ、意味有り気に片方の瞳を細めて見せる。

 「その答えは…もし私が、アナタの追い付くより先に『魔女の森』に入り込んでいたとしたら…その時、アナタがどうしていたかに()るわね。」

「うーんっ、これはまた、何とも厄介なはぐらかし方だな。全力の走りで森を迂回(うかい)して、『幻想郷(げんそうきょう)』の入り口に先回りした…で、答えとしては、どうだ。」

 楽しそうに、(うな)りつつ、頭を(ひね)りつつ、アナタが出した回答。それにアリスは、細めた瞳を閉じ、ウインクでまず応じた。

 「『君に追い付く事しか考えて居なかった』とでも言ってくれていれば、及第点をあげられたのに…。」

「なるほど、そう言う答えのぼかし方もあった訳か…あーあっ、惜しい事をしたな。」

 「そうね…。わざわざ、私の事を追いかけて来てくれた。それだけで十分、高得点だったのよ。なのに、余計な軽口を付けたしたりするから…勿体無いったらない。」

「おいおい、俺の健脚っ振りに蛇足を生やす様に仕向けたのは、アリスの方だろ。」

 「あらっ、そうだったかしら。」

「そうだよ。こっちは出題された問いに答えたに過ぎないんだから、ぜひ、採点のやり直しを要求したい。…それが駄目なら。」

と、一拍置いてから、アナタはまた後ろ髪を掻こうと手を持ち上げた。

 しかし今度は、肩の高さまで持ち上げた右手を、ギュッと、握り締めて…アナタは、自分を励ますかの様に、握った拳で力強く胸を叩く。

 「点数が今のまま変わらないなら、今のままの評価で構わない。今の評価で、一つだけ、俺の頼みを聞いてくれないか。」

 言い終えた声に、アナタの気合いの程が窺える、ゴホッ、ゴホッと、咳き込む吐息が続く。

 気を抜くと滑り落ちてしまう。そんな新聞紙の感触を抱き寄せて…アリスは、張りぼての如き無表情に、淡い感情を塗り固めた…。

 「今の点数だと、さっき質問には答えて上げられないわよ。」

「どの道…答えて貰ったところで俺には、『魔女の森』の中へ踏み入る勇気は無いと思う…。だから今夜は、一歩手前で…俺の領分で出来る事を頼もうと思って居るんだ。聞いてくれるかな。」

 アナタの言葉にアリスは、紅い唇を爽やかに引き結んで、ゆっくりと頷いた。

 「アリスも知っての通り、現在、俺は胸像のモデルを探している。…それで、そのモデル…是非、君に務めて貰いたいと…。」

 意表を突かれたアリスは、わずかに唇を開いて…しかし、そんな事も数瞬ばかり…それ限りですぐ、口元に笑みを引いた無表情へと戻る。

 「『君に務めて貰いたい』なんて遠回しな言い方だと…私、お受けしかねるわね。」

 彼女のその返答に…いいや、そのメッセージに、アナタは拳を握り、眉間に皺を寄せ、肩肘、足腰に力を込める。

 満身の力で休憩中だった心臓を、心を奮い立たせ…胸を張り、肩を持ち上げて…大袈裟に深呼吸…。

 それからアナタは、おどけた様な笑みを浮かべ、後ろ髪に掻き掻き…背筋だけは伸ばして、アリスに語り掛ける。

 「あの(ろう)を削る時、俺はアリスの事を思うよ。」

 穏やかで、力の抜けた声。そのアナタの気持ちに…そして、自分のやる瀬無い気持ちに…アリスは、少しだけ細い喉首を反らし、夜空を仰ぐ。

 流星は(またた)く間に、アリスの目の届かない所へと消える。その度、彼女の青い瞳の底で、何かが弾けて散った様な胸騒ぎと、寂寞(せきばく)とした余剰が、光の粒と成って降り注いでいった。

 「良いわ…。アナタの削り出す私の似姿が、私にどんな『気持ち』を伝えるのか…楽しみに待たせて貰います。」

「あぁ、待って居てくれ…。」

 アナタの手は、ギュッと、何かを掴み取った手応えに打ち震えていた。

 「ところで、話は変わるけれど…アナタって、彫刻の為の道具は準備して居るの。あれ程の(ろう)を買い求めたのだから、それは、道具の方もさぞ立派な物を揃えたのでしょうねぇ。」

と、唐突に、見透かした様な、皮肉る様な声で、アリスがアナタへと尋ねた。

 「まぁ、そこのところは…手近にある物でどうにか成りそうだから…。それに、ほら、道具の良し悪しにばかり気を取られているようじゃ、作品と向かい合う上で、もっと大事なものが(おろそ)かに成るだろうし…。あえて不利を選ぶ事も、芸術には必要かなと…。」

 如何にも困った様に、如何にも言い訳がましく、アナタは口を動かす。…ニヤけながら…。

 アリスも…瞳の奥底に降り積もった、光の粒を探すのを止めて…外連味(けれんみ)たっぷりに、目くじらを立てて見せる。

 「名論卓説は大いに結構だけど…具体的には、アナタの手近にある何が、彫刻刀の代わりをさせられるのかしら…。」

「一応、バターナイフとスプーンを使おうかなと…それで(けず)って、()いですれば…充分、事足りるんじゃないかと思っているんだが…どうでしょうか。」

 「まさか、その二つだけって事は無いんでしょう。」

「具合の悪さを感じたら、その時には、改めて道具を調達するだろうけど…今のところは、バターナイフ、スプーン以外に考えていません。」

 「それはつまり、食事の合間に、カトラリーを使い回して、私の顔貌(かおかたち)を蝋から削り出してくれると…そう言う事かしら…。」

「そうなる…かな…。家には、金属のスプーンも、バターナイフも一本切りしかないし…燻製を切り分けるのに使っているナイフは、彫刻には刃渡りが長すぎだろ。…でも、アリスが『バターの香のする胸像に成るよりは、煙の匂いのこびり付いている方がマシだ』と言うのなら、試してみるのもやぶさかでないけどな。」

 「アナタねぇ…。」

 アリスは、左手を腰に宛がい、挑戦的に小首を傾げる。だが…アナタとの一時を、手放しで楽しんで居られるのもここまで…アナタがこれから辿る帰路の先へ、そろそろ、アナタを送り返してやれなくてならない…アナタの帰りを待ち()びて居るであろう、『彼女』の為に…。 

 夢見心地の終りを、脇腹に触れる冷え切った指から告げられ…アリスは、小さな溜息を漏らす。

 「『道具がそれだけ揃えば、アナタの思いの丈を表現する事が出来る』と、アナタの『能力』が見定めたのだもの。きっと、アナタの心を(かたど)るに相応しい、非凡な胸像が出来上がる事でしょうね。だけど、あまり自分の『能力』の言い成りにばかりなっていると、気安さに紛れ気付かぬ内に、自分の精神に負担を掛けかねない。険しい近道を突き進むばかりでは、駄目。時には、なだらかな回り道を歩む勇気と、心のゆとりが必要になる場合もあるわ。その事は、頭の片隅にでも(とど)めて置いてちょうだい。」

「要するに、バターの香りも、煙の臭いのもお気に召さないと…冗談だよ。睨まなくても良いだろ。お言葉は、有り難く心に留め置かせて貰うさ。それに、助言にも従う事にして、追っ付け彫刻刀の一本でも調達いたしますよ。ただし、アリスの薫陶(くんとう)賜物(たまもの)だけに、多少は、説教臭い胸像が出来上がらないとも限らないが…なんてんな。」

 鼻の頭を指で擦って、アナタは少年の様にわんぱくそうな笑みを浮かべた。 

 月夜の晩に夜更かしして居る事を自慢する様な…些細な事すら誇らしそうで…。その鼻高々、得意満面な笑顔が、自分へと向けられている『気持ち』だと伝わるほどに…アリスは、ポッと、照れた様に熱っぽく成った指先から、毒気の抜けて行くのを感じていた…。

 「不思議なものね。」

 軽く成った気持ちから、我知らずの内に零れ出した言葉。アナタはそれに少しはしゃいだ様子で、

「まったくだ。」

と、快活に応じた。

 それからアナタは、ゆっくりと…鼻に触れていた右の掌を、暗澹(あんたん)とした虚空に差し出し…続ける。

 「こんな時期に雪とはなぁ。冷え込む訳だ…。」

 その言葉を耳にして、アナタの掌の上を見つめていたアリスが、怪訝そうな声を漏らす。

 「えっ…。」

「何だ、気付いてなかったのかよ。まっ、そう言う俺も、鼻の上に雪が迷い込んで来て、初めて気付いたんだけどな。」

 そう言ってアナタは、また、鼻の頭を指で擦る。

 アナタの仕草を見るアリスの面持ちは…無表情で…その心情を量り知る事は難しい。

 しかし、それは、感情を押し殺した『普段のアリスの無表情』とは違う。どこか素直で、硬さのない…それは、(きた)るべき時を悟った清々しさにも似た…悲愁さ故に何よりも穏やかな、別れ際の笑顔…。

 アリスは、今にも落ちてきそうな、広大な星空を仰ぎ見る。それに習いアナタも空を見上げて、

「見渡すばかり、一面の星空だって言うのに…風は一体、どこから雪を運んでくるのやら…。不思議だよな、本当に…。」

 陶然と、舞い落ちる雪に見とれながら呟く、アナタ。…と、不意に、アリスの横顔に目線を移す。

 「そう言えば、さっきの、アリスの言った『不思議なもの』って何の話だったんだ。俺が教えるまで、雪には気付いてなかったみたいだし…これとは別の事なんだろ。」

 (てのひら)の上に居座って、一向に溶ける気配のない牡丹雪(ぼたんゆき)。アナタはそれを、首を揺らしてアリスに示した。

 眼を曇らせる星の瞬きを残したまま、アリスは再びアナタの掌を見つめる。

 …その(おぼ)れてしまいそうな…青い瞳の憂鬱な光…。

 まるで星々の狭間(はざま)から降りしきる様な雪に隠れ、アナタはそんな彼女の眼差しを見付ける事が叶わなかった。

 「多分、私の『気持ち』も、その『雪』と変わらないものなのよね。だから、訂正するわ。不思議じゃない…何も、不思議な事なんてない。」

「はぁっ、どういう意味だ、それは…。んっ、んんっ、聞いても無駄か。その笑顔を見れば解かるよ。『答える気はさらさら無い』って、意地の悪そうな字面で書いてあるからな。」

 「どうしても知りたいのなら、魔理沙に聞いてみることね。あの子には答えが解かっているはずだわ。」

「で、『そんな事も解からないのか、この石頭は』と、魔理沙に、散々っぱら嘲り笑われた上で、呆れられろと…。そいつは、御免だね。ただでさえ『幻覚』とすぐ親しく成るって減点評価が付いているって言うのに…これ以上悪癖が重なったら今度こそ、お払い箱だ。ようやく、人形劇に本腰を入れる決意が固めたんだ。固まった途端に腰砕けって落ちは、洒落に成らないよ。」

 アナタの目の下を、含み笑いを漏らしながらアリスが通り過ぎた。

 その足は人道を離れ、青草の繁る道へと一歩踏み出す。アナタは、音もなく根土を踏み締める彼女を目で追いながら、

「せめて、もう少しくらいは良いんじゃないか…。」

 そんなアナタの発言に、アリスは少なからず驚いたらしく、足を止め、思わず振り返る。

 「それって…魔理沙の事を言って居るの…。」

 アナタが、彼女に苦笑を返す。

 「いいや、俺は君にお伺いを立てているんだよ。…にしても、アリスは余っ程、魔理沙と俺をくっつけたいみたいだな…。」

 そう、クックッと、小さな笑いを喉で掻き消してから、喉に引っ掛かる様な声でアナタが言葉を次ぐ。

 「もしも…もしも俺が、『そこまでして俺の事を遠ざけたいのか』と続けたら…君は怒るかな。」

「…怒らないわ。」

 「本当だ…その笑顔は、君が怒っている時の笑顔じゃない…。どうしてか、理由を聞いても良いかな。」

 「『不思議』だったから…それに、アナタの心配して居るのは、私が怒るかどうかではないもの。アナタが本当に心配して居るのは…魔理沙が怒るかどうか…そうなのでしょう。」

 平静な声。平静な声の奥に、嬉しそうな、冷やかす様な響き入り混じった、アリスの声。

 しんしんと降り募る雪。その行方を見つめながら、アナタは白い吐息を一つ。

 「不思議だ。本当に、不思議な雪だよな…。」

「そうね…。」

 そう言ってアリスは、一歩、二歩と後退り。風に乗り、雪の吸い込まれて行く森へとよろめいた。

 「何も、今この場で答えを出す事はない。ううん、むしろ、こんな所で答えを出してしまったら…あの子、絶対に怒るわよ。」

 軽快にステップを踏む様な彼女の足取りに、アナタは歩み寄るでもなく、手を伸ばす訳でもなく、立ち尽くしていた。

 「アリスはそんな風にして、まるで、魔理沙の奴が俺に気のあるみたいな事を言うけど…正直、俺からすると半信半疑なんだよな。…と言うか、むしろ、アリスの思わせ振りな入れ知恵の所為で、こっちが意識し過ぎているだけで…魔理沙の方は、ただ単純に、あいつにとっての楽しみを追及している。人形劇にしろ、俺との掛け合いにしろ、面白味を味わう以上の他意がある様には感じないんだがな。」

「それに…そう思って居た方がアナタだって、私への未練を抱え続けるのに都合が好いものね…。」

 「おいおい…ちょっと、きついんじゃないか、アリス…。だいたい俺は、魔理沙が居ようと、居まいと、君を…。」

「どうせこの燻製も…一人分は魔理沙に渡そうと…けれど、あの子が頑なに受取らず、私のところへ二人分を持って行けと言って譲らなかった。だから今、こうして私の手元にあるんでしょう。…『どうして、そんな事が解かるんだ。』といった顔ね。簡単よ。あの子がどんな気持ちで、アナタを送り出したかを考えれば…。」

 ガサッと、包みを抱えるアリスの腕が、強く胸を抱いた。

 その音を耳にした途端、少しだけ気忙しそうに来た道を…『彼女』の待つ家の方を振り返る、アナタ。

 アリスはそんなアナタの様子に、クスリッと、温かな吐息を漏らし…流れ星降り止まぬ、夜空を見上げる…。

 「さてと…積る前に、立ち話はお開きにしましょうか…。」

「積るって、雪の事か。そんなに心配しなくても、足を取られる位まで積るのには、一晩は掛るだろ。」

 「違うわよ。私の言って居るのは、『雪』じゃなくて、『話』。…お互い、帰れなくなる前に、足を取り合うのはこの辺りにして置きましょう。」

 そう言うとアリスは、また、二、三歩後退り…『魔女の森』の立派な門構え…くねった木の太い幹の隣へ…。その距離から、追って来ないアナタの姿を…数秒かけ…確認。そうして、アリスはやや皮肉っぽく微笑む。

 「思わせ振りな事ばかり言う。アナタを惑わす。淑女として大変申し訳なく存じますわ。ですけど…どうぞ、別れしなの…最後の一言を口にする栄誉を、私に頂けないかしら。」

 アナタは笑い返して、何かを喋ろうと口を開く。だが、すぐに思い直し、首を縦に振ってアリスへと答えた。

 「これから先、アナタの見る『幻覚』は更に常軌を逸する事に成るわ。それでもし、もうどうしようもないと、手に負えないと言って、魔理沙がアナタを見捨てたとしたら…遠慮する事はないから、私を頼っていらっしゃいな。寝惚けていたアナタの『能力』を目覚めさせる、その片棒を(かつ)いだ行き掛り上…アナタの寿命が尽きる位の間は、私が面倒を看ますから…。まぁ、そんな事には、どう転んでも成らないでしょうけどね。とにかく、心配しないで、安心して居て…。」

 話の間に一度。そして、話の終りにも一度。…アナタは二度、アリスの言葉に頷いた。

 アリスはその度毎に、降る雪を眺めるかの様に視線を彷徨(さまよ)わせ…(ささや)く。

 「ねぇ、お願い…。アナタが私の所を訪れるとしたら…その時は…その時には、私…欲しい…。」

「あぁ、心得ている。『ハドンホールのカップとソーサ』だったな。持って行くよ。この森を通り抜け、君に会いに行く。その勇気が、俺の中で形に成ったなら、必ず…。」

 そこまで話した後で、アナタはゆっくりと口に手を宛がって、『しまった』とわざとらしく苦笑い。

 「君に別れの一言を譲るはずが、うっかりして居た。どうだ、アリス。良かったら、もう一声。」

 ちょっと気取った様に、人差し指を立て、ニッと歯を見せ笑う。そんなアナタの口振りは、アドバイスと言うよりは、リクエストそのものに聞こえた。

 (あたか)も顔に掛かる雪から瞳を守る様に、アリスはまつ毛を伏せ、口を(つぐ)む。それから、閉じた唇ではにかんだ様に笑って、ゆっくりと首を横に振った。

 辺りは一面、見渡す限り白く、白く、染まっていく。

 硬く乾いた人道の土の上に、湿った青草の根土の上に、雪は分け隔てなく降り積もる。そうして、境界も、痕跡すらも覆い隠してしてしまう。

 それでもアナタは、雪が消してくれた境界の先へ…アリスの世界へと進む事が出来なかった。

 彼女がアナタに背中を向け、森の中に姿を消す。青草の間から除く彼女の靴跡が、少しずつ、雪の白に埋まっていく。

 その光景を前に、凝然(ぎょうぜん)として(たたず)むアナタの足元も、アナタの目も、白の中に平衡感覚を失っていった。

 それでも…それでもアナタには…アリスの後を追う事が、出来なかったのだ…。

[17]

 風の強い夜だった。

 魔理沙は夜風が扉を揺らす度に、チラリッ、チラリッと、そちらの方を窺って…だが、幾度となくそんな事を繰り返しても、開かない扉に、頭から消える事の無いアナタの気配に…遂には、椅子の上へと長い脚を抱え上げ…額に膝を押し付けて、項垂れてしまった。

 閉じた瞳の映るのは、ガタンッ、ガタンッと、音を立てて身を(よじ)る窓。そして、ガタッ、ガタッと、内開きの扉を押し開け、この部屋の中へと走り込むアナタの笑顔…。

 ハッとして、顔を上げる、魔理沙。勢い余って、(かかと)で椅子の縁を蹴り付けつつ、床板へ飛び降りた。

 笑い返し、『おかえり』と、そう声を掛け様と開いた『お』の口のまま、彼女の微笑みは固まる。

 琥珀色の瞳で見下ろしても、足音は無い。見上げても、息遣いはない。見渡しても…アナタの姿は無かった…。

 ただただ奥行と、自分だけが居座る空虚な部屋。それを見ないで済む様、魔理沙はまた目線を下ろし、瞳を閉じ、椅子へと腰掛ける。

 (馬鹿だぜ、本当、馬鹿だ、私…。第一、あいつが上機嫌で帰って来たとしたら…怒るんだろ。多分…。)

 溜息とも、情けないと嘆く涙声とも付かない声色で喉を鳴らす。それから魔理沙は、スカートの裾をたくし上げながら、再び両脚を抱えた。

 北風は、低くて近く、高くて遠い、草笛の音に似て…アナタが今どこに居るのかなど、皆目見当が付かない…。いっその事、この小さな煩わしさと一緒に、アナタの存在も北風へと手放してしまおうか。

 太腿(ふともも)に強く押し付けた瞼の裏側。魔理沙が、自らの有るか無しかの冷酷さに、微かな笑みを浮かべた瞬間。…カチャッ…と、扉のドアノブの回る音が聞こえる。

 (帰って来た…今度こそ、帰って来てくれやがった…。)

 彼女がそう思うのが先だったか、あるいは、心臓が鼓動を速めた活気にそんな考えが頭を廻ったのか…しかしながら今と成っては、そんな事はどうだって良い。何せ、魔理沙には、アナタが扉を開け切る前に、やっておかなければならない事があるのだから…。

 高鳴る胸のリズムに気を取られ、焦らぬ様に、慌てぬ様に、かつ急いで…魔理沙は音を立てずに、足を床に下ろし、両手を膝の上に重ねる。加えて、顎を少し下げれば万事オッケー。

 そうして、如何にも『特にこれと言った心配事も無く、ほらこの通り、転寝(うたたね)をしておりましたよ。』とでも言いたげなポーズを極め込んだ。…まったく、乙女心とは複雑怪奇なものだ…。

 (アナタが帰ってくる前に、『アナタを迎え入れる悪い例』を、予行練習しておけて助かったぜ。そこだけは、風に感謝だな。…これで今夜の、何度となく気を揉ませてくれた事は、大目に見てやるよ。)

 …風よ、命拾いをしたな。まぁ、それはそれとして…魔理沙の早業から数瞬遅れで、扉の隙間から冷たい夜の空気が流れ込む。

 その威力は、扉が開いて行くに連れ、大きく、強く成る。そうして、(うつむ)いて居た魔理沙の頭から、フワッと、トンガリ帽子を浮かび上がらせた。

 (アッ…。)

と、事態の変遷に気付いた魔理沙は、一も二もなく立ち上がり、あっさりと帽子のツバをキャッチした。

 そこへ、開いた入口の前でパッパッと肩の雪を払うアナタの、ご帰還後の最初の一声が飛んで来る。

 「丁寧な出迎えご苦労さん。…けど、何もわざわざ立ち上がって、帽子まで外して歓迎してくれなくても良かったのにな。」

「えっ、これは、そう言うのじゃ…。」

 言い掛けた魔理沙は、茶化す様に笑うアナタの晴れやかさに、

(クッ…。)

と、二重の意味で、歯噛みした。

 だがしかし、ここで意固地に成れば、アナタの思うつぼであるからして…魔理沙は、アナタへ向けて上品に一礼。そうしてから、トンガリ帽子を頭に戻し、椅子に腰かけ直す。

 「アナタの帰りが待ち切れなかったもんだから、思わず立ち上がっちまったんだぜ。…あっ、そう言えば、まだだったよな。おかえりなさい、アナタ。」

「はい、はい、ただいま。…良く言うよな、まったく…。」

 全体の経緯(いきさつ)を見れば、多少の不首尾も有った。現在進行形で、ムズムズと、尻の置き心地の悪さも感じては居る。…とは言え、彼女の自己採点としては…、

(まっ、上出来だろう。あれ以上、好い気にさせずに済んだし…。何より、やっと、帰って来てくれた。)

 魔理沙は、ずっと物足りなかった胸の奥で、深呼吸。心地良さそうに息を吸い込む。

 「ところで、何をそんな所に突っ立っている気だ。いい加減、家の中に入れよな。」

「『何を』って…見たら分かるだろ。」

 「…いや、解からないから聞いているんだけどな…。でかい蜘蛛の巣にでも引っ掛かったか。」

「お前、どこに目を付けているんだよ…。」

 アナタは呆れた果てたとばかりに、深々と頭を下げ…髪の毛以外には、何も見当たらないそこを…肩と同じ様に、パタパタ、(はた)いて見せた。

 「雪だよ、雪。アリスと話している最中、急に降り出されてさ。参った、参った。この分だと、一晩でどれだけ積ることやら…ぞっとするよ。」

 アナタはそう言うと、(なご)んだ苦笑いから溜息を漏らす。それから、ようやく納得がいったらしく、我が家の床板の上へ足を踏み入れ、扉を閉めた。

 扉が雪崩れ込む外気を遮断した弾みに、部屋の奥から吸い寄せられる、生温い風。

 魔理沙はそれに前髪を撫でられながら…だが、(すだれ)の様に瞼をくすぐる髪の感触にも、彼女は瞬き一つせずに…ジッと、アナタのそぶりを見つめている。

 火に当たろうと、薪ストーブの傍へ近づく…。その自分の動きに合わせ、顔を上げて注視する、魔理沙。…これにはアナタも、自分の家のど真ん中とは言え、居心地が悪そうに…、

「何だよ、そんな、ジロジロ見て…俺の身体に、変な物でもくっ付いてでも見えるのかよ…。」

 「ううん…。」

と、即答した魔理沙は…何を思ったのか…、

「雪以外には別に、面白そうな物は見えないぜ。」

 そう敢えて言い直してから、言葉を続ける。

 「ただ、明日の朝までに雪が積ったとしたら、私は箒で移動すれば問題無いが…アナタの方はどうなるのかなと思ってさ…。さしあたり確認しておくけど、アナタの人形劇を心待ちにしている観客たちの為に、舞台を背負って、雪道を歩き回る根性はあるのかな。」

 魔理沙の質問を耳にする内、大方、膝下まで届く雪の中を歩いていく、自分の悲惨な未来を思い描いたのであろう。足元から這い上る寒気に身震いしつつ、アナタは首を左右に振って、断固拒否の意志を伝えた。

 「とんでもない。そもそもこの分じゃ、明日には、足の踏み場は勿論、腰を下ろしてゆるりと観劇なんてスペースは、どこを探しても見付けられないだろ。…一面の銀世界以外に…。そんな状態だとすると…それでも無理すれば、公演をやってやれない事は無いだろうけどな。しかし、肝心の客の方が寄り付きはしないって…そうなったら、折角、魔理沙が作った菓子も無駄に成る。お前だって、赤字を出すのは嫌だろ。」

「まぁなぁ、在庫の引き取り手ならここに居るけど…そいつの懐具合から言って、買い取り手には成ってくれそうにもないしなぁ。」

 「ご明察の通りだよ。言うまでもなく、喜んで引き取り手に成るだろうって推測も、当たりだ。…で、その聡明な魔理沙に頼みたい…いや、お願いします。」

と、アナタは、ストーブの火に温まった両手、両指を合わせて、少しだけ緊張している風にも見える魔理沙を拝んだ。

 「魔理沙、しばらくの間、公演は見合(みあわ)すと言う方向で…どうにかなりませんでしょうか…。積った雪が溶けて消えるまでとは言わない。俺にしても、稼ぎのつてはこれ切りだから…茶葉が底を突くまでには…もとい、雪と風が治まって、晴れ間が覗いたらすぐにでも公演を打ちたいさ。そう意欲はあるんだ、それも、欲得ずくの切羽詰まった奴が…と言う訳で、手始めに明日の公演はキャンセルして、様子を見てみるのはどうだろうな。」

 休養が欲しい一心で、ギリギリの線を()り合わせ、(てのひら)も擦り合わせて頼み込む、アナタ。

 暫定的には、天候と積雪の有り様を量るべく、一日の休み。『きまぐれ』がチャームポイントである魔理沙との交渉では、まぁまぁ、善戦したと言えるであろう。…しかしながら、アナタは忘れては居やしませんか…魔理沙には、これまた魅力的な、それも実に『魔法使い』らしい、『意地悪』というチャームポイントも有ったと言う事を…。

 到底、すんなりとは、アナタの要求が受諾されそうもない。

 そんなアナタの覚悟を試すかの様に、魔理沙はやおら立ち上がって、

「そうだな…。ここのところ、お互いに働き詰めだった事もある。ここらで二、三日くらい、休暇を取るのも悪くはないだろ。」

と、そう答えると、スタスタと洗い場の方へ。それから黙々と、水瓶(みずがめ)の真水を、焦げ付き、凹みのあるヤカンの中に注ぎ込み始めた。…って、あれ、随分とまた、あっさりと折れたな…『きまぐれ』で、『意地悪』な彼女にしては…。

 調理中と同様のテキパキとした動作で、柄杓(ひしゃく)で汲んだ水をヤカンにぶち込み、(ふた)をする。それから魔理沙は…ヤカンに水を入れたのだから、やる事は一つだろう…読者諸賢もお察しの通り、水の入ったヤカンを薪ストーブの火に掛けた。

 アナタは…さて、何事から尋ねていいものやら…勝手知ったるアナタの家を闊歩(かっぽ)する彼女へ、突っ立ったままに呼び掛ける。

 「あーっ、えっと…俺、お陰さまで腹は空いてないし…確かに走って来たんだが、喉もそんなに渇いてないんだよな。」

「あっ、そっ。」

 魔理沙は、要するに『だからどうした』と述べつつ…どこから持ってきたのか…ドカッと、アナタの足元に、丸く、底の浅い、大振りの木桶を置いた。

 遂さっき火に掛けたばかりのヤカンが、(あたか)も魔法の如き速やかさで、口から蒸気を吹きあげる。…いいや、そう言えば、ストーブの内部で燃えているのは、薪木と、火の化身なのだから…魔法そのものなのであったな…。

 テーブルの上の鍋掴みを右手にだけはめる。そうして魔理沙は、グラグラと沸騰したお湯の対流を、手首に掛かる重みで感じ取りながら…えっちら、おっちら、木桶の傍ににじり寄る。

 それから、苦笑混じりにアナタの呟いた…、

「『魔法』の業を持ってしても、ヤカンの取っ手まで熱く成るジレンマは、解消し得ないんだな。」

とのお言葉に…魔理沙は、首を横に並んだアナタの方へ向け、(とろ)ける様な笑みを浮かべる。

 「万能の技術、全能の力なんてものは存在しないぜ。それに…精霊にあんまり高度な注文を付けると、碌な事が無いんだ。それこそ、お湯が沸く前に、あいつの頭が沸騰してしまいかねない。…そう成ったら、アナタのお家がどんな災難に見舞われるか…言わなくても、察しはつくだろ。」

 アナタの顔へ琥珀色の瞳で狙いを付けたまま、魔理沙はヤカンのお湯を木桶へ流し込む。

 モワッと浮かび上がる、一塊の蒸気。顎を上げ、仰け反り、アナタは逃げる様に魔理沙の腰掛けていた椅子へ座った。

 「なぁ、『二、三日休んで構わない』なんて、本音で言っているのか。…まぁ、この二本の脚以外、俺には移動手段の無いんだ。雪中行軍に駆り出されず済むのは、助かる。こっちは、嘘偽(うそいつわ)りなく、俺の本音に違いないが…。魔理沙は…。」

 飛び散る極小の水滴が、アナタの靴のつま先を濡らす。チラリッと見上げた目にも、湯気の向こうに隠れて、彼女の表情は見て取れない。

 コポコポと、ヤカンの湯を注ぐ水音が終り…白く(けぶ)る引き幕の背後で、蒸気の…もとい、上機嫌そうな、魔理沙の笑気が浮かんだ。

 「私だって…こう寒いのに、朝からお菓子作りは憂鬱だな。二、三日くらいは朝寝坊を極め込んで居たい。…って、考えている事は、アナタと一緒だぜ。本音はな。しっかし、アナタの今の口振りを聞いて居ると…。」

 もう一度、魔理沙の小さな笑い声が響く。その笑気に吹き飛ばされた様に、湯気の先から、彼女の微笑みが覗く。

 「どうも…『私がアナタとの公演に熱心でないと、気に入らない。』と、そんな仰り様に聞こえてくるんだけど…私の勘違いだよなぁ。」

 勘ぐる魔理沙の視線と、冷えた汗に、アナタは着物の内側で窮屈そうに身動ぎする。

 「それは…。」

 言い訳の言葉など出てこない。魔理沙の顔も真っ直ぐには見詰め辛い…何せ、本心は…本心は未だ、アリスの(かたわ)らにあるのだから…。

 アナタはそのままの素直な気持ちを、魔理沙の勘ぐりですら見抜けない真っ直ぐな…真っ直ぐに彼女を通り越していく気持ちを…口にする。

 「確かに、魔理沙には俺より熱心で居て貰わないと困る。それでもって、怠け者な俺の首に縄付けて、引っ張って行って貰わないといけないしな。だから、そう言う…パートナーには俺の動機であって貰いたいって気持ちは…そうだよな。やっぱ、魔理沙には誰よりも、俺よりも公演に熱心で居て欲しい。そうじゃないと気に入らない…かもな…。」

 そこまで話してからアナタは、自分が、休暇を巡り彼女と直談判中だった事を思い出した。

 「あっ、こうは言ったけどさ。雪舟(そり)じゃあるまいし、雪道を引っ張られても、付いて行けないって事は…。」

と、数秒間だけ逸らしていた目線を、彼女の顔へと戻す、アナタ。 

 魔理沙はハニーゴールドの髪を振って、向こう面を背けたまま応える。

 「知っているよ、何度も聞かなくても…。だから私も、もう言わないぜ。」

 首から下を顔の方へと動かし、魔理沙はアナタと目を合わせること無く、洗い場の方へと戻って行った。

 アナタは、不思議そうにその背中を見つめながら、鼻息を一つ。それから、自分の言葉の軽薄さと、アリスから言われた事を思い出して…自分を戒めるかの様に、ガリガリと、後ろ髪を掻いた。

 俯いて後ろ髪を掻く音は、アナタの視線が自分から外れた事を、魔理沙に伝える。

 行李(こうり)に残ったタオルを取り上げ、それを胸に押し当てると…魔理沙の唇から安堵の吐息が零れた。

 そうして、アナタに気付かれぬ様に胸を撫で下ろした魔理沙は、真っ赤に成った顔で…不憫なほど赤い顔で、喜びを噛み締め微笑んだ。気の毒に…気の毒に…。

 「さてと、それじゃあ私は先に寝るから、アナタは…せめて身体くらい拭けよな。汗臭いぜ、かなり。」

 そう言うと魔理沙は、スタスタとアナタに歩み寄って、タオルを投げ渡す。それから、やはり、振り返りもせず寝室の方へ。

 「お、おい。寝るって、俺のベッドでかよ。この家の唯一のベッドを魔理沙に使われたら…俺の寝床がないんですけど…。」

「はぁ、それじゃあ、何…アナタは、この雪のチラつく中を飛んで帰れとでも、私に言う積りなのか。」

 「そう言う訳じゃないが…。」

 アナタは真っ黒い窓の向こうを、遠目に見つめて、

「『チラつく』どころか、吹雪(ふぶ)いて来ているところを、帰れなんて薄情な事は言わないが…お前は嫌だとは思わないのかよ。お嬢さんの潜り込もうとしているのは、仮にも、野郎のベッドなんですぜ。一応は、衛生面を気にして、こまめに選択して居るけど…近頃は忙しかったからなぁ。朝、飛び起きた…そのままの状態に成っているはず…。」

 寝室の入り口の縁に、腕組みした肩でもたれ掛かる。その斜に構えた体勢から、魔理沙は悪戯っ子の笑顔を見せた。

 「私は別に気にしないぜ。ちなみに、どういう惨状を(てい)して居るのかは、ティーセットを戻しに行った時にこの目で確かめたから、心配ない。カンテラで照らしてみたけど、まぁ…その椅子で寝るアナタの事を思えば…十分、許容範囲だろうな。」

「あぁ、俺がアリスを追い掛けている間に、カップや、ポット、片付けておいてくれたのか。流石は、魔理沙。(かゆ)い所に手が届く心配りだ。」

 またまた、後ろ髪を掻いて見せながら、ニッと、歯を見せる、アナタ。

 魔理沙、苦労の末、やっとこさ治まった血の気を頬の下に覚えて、

「そうだなぁ。アナタの手間を一つ省いてやったんだ。甘い顔をする必要は、もう無いな。」

と、口の端を強引に吊り上げ、面目の潰れかねない赤ら顔を(こら)えた。

 椅子の背もたれに頬杖つき、そんな魔理沙の様子を眺めて…アナタから面倒くさそうな舌打ちが漏れる。しかし、すぐに考え直した様に、頭を(てのひら)へ押し付け、小さく(うめ)く。

 「どっちにしても…魔理沙がこの椅子で、俺がベッド眠ったとしても…居心地が悪くて、安眠できっこないか。それ位なら、俺が椅子で寝た方がまだ良い。」

「アナタの男らしさに感謝するぜ。まっ、安心しろよ。毛布の一枚はそっちに回してやるからな。」

 帽子を外して、ペコリと一礼。それから魔理沙は、さも気楽な顔でそう言った。

 「いいよ。毛布のもう一枚くらい、倉庫にあった…はずだ。俺の事は大丈夫だから、魔理沙こそ風邪引かない様に、温かくして寝てくれよ。」

 そう優しい言葉を掛けられた魔理沙は、たどたどしく二、三度頷いて、

「う、うん、そうする。」

 素の部分を包み隠すこと無く、微笑み、応えた。

 「あっ、カンテラを持って行けよ。こっちは、ストーブの火があるんだから…。それと、薪木は勝手に足させてもらった。『火の精霊』にも節約しろとは言い聞かせてあるし、今晩は、それ以上薪木を足さなくても良いぜ。」

 椅子から立ち上がったアナタの背に、これを持て、あれもどうぞと、魔理沙のプレゼント攻勢。…媚を売っている積りなど無かろうが…土壇場(どたんば)で気を遣い(まく)る位なら、始めから…いや、言うまい…。

 アナタもその魔理沙の物腰には、可笑しいと言うより、何やら奇妙な印象を受けた様だな。しかしながら、多少の困惑を覚えつつも、愛想の良い笑いを浮かべる。

 「そうか…それは色々と、ありがとうな。じゃあ、カンテラ持って、行って来るか。」

「私は先に寝かせて頂くとするけど…どうしても、人肌恋しくて眠れないって場合には…ベッドに割り込んで来るのはアナタの自由だぜ。当然、自己責任で…。」

 「遠慮しておく。俺だって、我が身は可愛いからな。お前の方こそ、俺が身体を拭いて居るのを覗き見するなよ。」

 魔理沙はトンガリ帽子を持った手を、パタパタと振って、『早く行け』とジェスチェーで応えた。

 寝室の扉が閉まる音を耳の端で聞きながら、アナタはテーブルの上からカンテラを取り上げる。反対の耳には、家の壁をかすめる突風の、誘う様な、押し止める様な轟音(ごうおん)

 ドアノブを(ひね)り、アナタは、チラリッと寝室の方を顧みた。…その間も、押し寄せる風に、扉はあっぷ、あっぷと、忙しく息継ぎを繰り返しいる。

 小さな溜息と、吸い込まれる様に舞い降りた牡丹雪を残し、アナタは扉の隙間に身体を押し込む。

 カンテラが風に揺られて、キコキコと、寂しい音色を響かせていた。

[18]

 背後から覆い被さる吹雪に(あお)られ、アトリエ兼倉庫の扉が一片に開き切る。

 アナタは、大急ぎで目の前の暗闇に潜って、投げつける様に内開きの扉を閉めた。

 スゥッと、浸み込むかの如く広がる、カンテラの灯り。アトリエの広さは、アナタの寝起きして居る家の四分の一ほどだろうか…。

 左右の壁際にはゴチャゴチャと荷物が積み上げられて居る。その為、足の踏み場は、点々と絵具に染まる正面の一本道。

 毛布を探し、左右に振られていたカンテラの灯りも…徐々に、アトリエの奥へと収束していく。

 アナタが歩く度、床板がやけに軋む。それに、利用目的の出発が倉庫だったにしては、天窓と言い、左右の壁の荷物に埋もれた窓枠と言い、明り取りが多すぎる。

 もしかしたらこの戸建は、住処(すみか)を作る前の練習台…あるいは、失敗作だったのかも知れないな。

 …と、そうこうしている内にアナタが、左の壁の中程に毛布を発見。身を屈め、工具箱や、ペンキの缶の間から引っ張り出そうと、手を伸ばす。

 そんな無造作な瞬間に、空から天恵は降り注ぐ。

 天窓から清浄なる月明かりが差し込み、部屋の奥を照らし出したのだ。

 アナタは掴んでいた毛布を放し、カンテラを床の上に置いたまま、ギシッ、ギシッと、導かれる様に青白い光の中へ進んでいった。

 そこには、間に合わせで作られた様な、細い脚の机が一台。それに、背もたれの無い丸椅子が一脚。

 机の真ん中には、見覚えのあるベニヤ板で組まれた箱が置かれ…そのすぐ脇には、スプーンと、バターナイフが一本ずつ…。

 この光景を見れば解かる。

 アナタは、ずっと前から思い描いて居たのであろう。(ろう)の塊が手元に着いたなら、ここに腰掛け、目の前の机で彫刻しようと…。スプーンと、バターナイフを並べて置けば、いつからでも始められると…。自分はここで、最愛の女性の面影を蝋の塊へ刻み付けるのであろうと…。

 そして、今のこの時、その全てがアナタの手の届く所にあった。

 天窓を見上げれば、どういった塩梅でか、一摘まみの雪さえ降り積もっては居ない。アナタは箱の(ふち)に指を引っ掛け、ちょっとずつ手繰り寄せながら、物思いに(ふけ)る。

 (…妙だな。これだけ吹雪いて居て…それに、月の光が差し込む様な雲間があると言うのも、不自然だ。…けど、何にしても…。)

と、アナタは、空の彼方のお月様へ送る様に、満面の笑みを浮かべて、

「随分と、気が利いているよな。」

 丸椅子を身体の下に押し遣り、腰を下ろす。くしゃくしゃの英字新聞を机に撒き散らし、取り出した蝋の塊に映るのは…月光と、そして…。

 アナタは、青白い光に沈む『彼女』へと囁き掛けるかの様に、手に持ったバターナイフの切っ先で、蝋の塊を削り始めた。

[19]

 毛布を取りにアナタがこの家を出て、おおよそ、1時間が経過して居た。

 暖を取る者もなく、それでも、ひたすらに燃え続ける火の眩しさと、薪木の焼ける音だけが単調に続いている。

 そんな部屋の中に、わずかばかりの変化と、冷たいそよ風が舞い込んだ。

 寝室の扉が独りでに…いや、独りでを装った様に、ススッと部屋の内側に引き込まれていく。そして、その暗がりの奥で光る、こっちらを覗く琥珀(こはく)色の二つの瞳…。

 おそらく、瞳の主は扉にへばり付いて居るのだろう。注意深く、ストーブの周囲の様子を観察。それから、そろりそろりと、扉の外へと姿を現した。

 コツコツと、裸足を直接突っ込んだ革靴で、ストーブに近寄るのは…当然、魔理沙だ。

 パジャマ代わりに、現地調達したと思しき着物の上を、ガウンの様に纏って居る。そんな彼女が、木桶の前にしゃがんで、小一時間前まで湯だったものに手先を通す。…そうして、溜息を一つ。

 魔理沙は、着物の裾を床に擦りつけ立ち上がると、この家の出入り口へと歩いて行く。そして、躊躇なく、吹雪いて居るはずの外と繋がる扉を開いた。

 「やっぱりね。そんな事だろうと思ったぜ…。」

と、倉庫兼アトリエから漏れる光に、小言を述べた。たちどころに、アナタが何をやっているのかを察したのだろうな。

 それから、魔理沙は顔を正面へと向けると、

「雪か…。」

 そう、見渡す限りの草原を、雲一つない星空を眺め、呟く。

 「遂に、来るものが来たってところかな…。」

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