丁
[10]
アナタたち三人、そして人形たちが、肩を寄せ合う木造家屋。
そこは人里の端に位置し、『魔女の森』のほとりを掠めて吹き付ける草原からの夜風を、もろに外壁に浴びせかけられている。
この辺の事は触り程度に説明していたと思うが…そう言えばもう一つ…アナタの家の扉の修繕が終り、宵闇と、月明かりが完全に締め出されてしまう前に、もう一つ解説を付け加えて置かねばならない事があった…。
それは今、カンテラのねっとりとした灯りに照らされているアナタが、カタカタと隙間風に揺れる窓の向こうに見ているもの。アナタの住居の隣に並ぶ、木造家屋の事だ。
そう、実は、アナタの家は一軒家では無い。…とは言っても、当然、立派なお住まいが二軒居並んでいる訳ではなく…三人の居る掘立小屋の隣に、それと同じ位のサイズの掘立小屋がある…と、まぁ、そういう事なのである。
この家はアナタの寝起きする場所だとして、さて、お隣はどちら様のお宅なのか…。アナタがぼんやりとしながら、そんな思索に耽って居たのかは定かではない。
しかしながら、フッと気の抜けた様な音を残して、隙間風の冷たさと、十字型に木枠で間仕切りされた窓の震えが止まった。…兎にも角にも、扉の修繕は終了。当て所を家の外に探す様な、うわの空で居られるのもここまでらしい…。
仕事を終えた人形たちが、何の未練も、憂いも無しに、アナタの傍から離れて行く。蝶番を直していた『七人の小人』がぞろぞろと移動を始め、一緒に成って扉を支えていた『フック船長』もアナタの股下を潜ってどこかへと歩き去った。
(結局…どうして魔理沙は、いきなり不機嫌に成ったのか…解からず仕舞いだったな。)
そんな事を胸中で零しながらアナタも、人形たちの行方を追う様に、灯りの差し込む方を振り返った。
そこには、煌々(こうこう)と燃える人工の光に照らし出された、実に『絵に成る』なる二人の金髪の女性が居る。
一人は、ホワイトゴールドに輝くくすみの無い髪の女性。遂さっきまで、アナタとお喋りを楽しんでいたアリス・マーガトロイド嬢だ。
テーブルの、自分の目の前に置かれた木製の深皿にシチューがよそわれるのを眺めながら…アリスはもう一人の女性と楽しそうにお喋りをしている。…アナタとの間に持たれていた会話が、二人のお喋りに溶けて、自然消滅した事は言うまでも無い…。
それでは、アナタとアリスの会話を奪い取った憎き人物。上機嫌のアリスが、組んだ脚の、革靴の踵で椅子の脚を小突きながら、お喋りしている給仕役に付いても…アナタは若干、気後れしている様だが…見てみよう。
テーブルに置かれた深皿に次々とシチューをよそいながら、ハニーゴールドの髪を甘やかな香と揺らす女性。その女性こそが…現在、この家の家主であるはずのアナタに、もの凄く肩身の狭い思いを強いている元凶の…『霧雨魔理沙』嬢である。
アナタは『七人の小人』たち…と、『フック船長』が直してくれたばかりの扉に、背中でもたれ掛った。…すると、シチューから立ち昇る湯気の先に見えてくるのは…あれもこれもと、テーブルの上に並べられた魔理沙の優しさ…。
アナタはその、一つ、一つを見つめながら彼女との時間を思い出していく。
この家にまともな調理器具の一つも無い。分厚いナイフの一本を遣い回して、アナタが日々の食事の用意をこなしていたと知った時に…魔理沙が初めにここへ持ち込んだ生活用品は、使い古され、焦げ付いた鍋掴みであった。
(あの日も、シチューを鍋に入れて持って来てくれたんだったな…。それから帰る時に成って…『泡立て器とか、計量カップを渡したところで、まともに料理をしようって気が無い奴には無用の長物だろ。その点、これさえ置いておけば、私が気紛れで鍋に料理を詰めて持って来てやった時には、重宝するのは間違いないだぜ。』と、そう言って残して行ったんだっけ…。)
青年は、今もテーブルの上のシチューの鍋の隣で、仲良く重なっている鍋掴みを見ながら、苦笑を漏らした。…つまりは、魔理沙が厳正なる判断の上、置いて行った『調理器具』は…随分と重宝したという事であろう…。
そんな事を思いながらテーブルを眺めれば、そこにあるのは全て魔理沙が持参したものである事が見えてくる。テーブルの真ん中の陶器の鍋は言うに及ばず、その隣で、シチューと共にメインを張っているクロワッサンの乗せられた籐編みのトレーも、トレーとクロワッサンの間に敷かれたキッチンペーパーさえも、彼女が持ち込んだものなのだ。
(道具が一つ増える事に、魔理沙が俺に食事を運んで来てくれる回数も増えていった。今では五日と間を置かずに、何かしらの食い物を携え、この家を訪れてくれている。大して働き者でもない俺に、こうして忘れずに餌を届けてくれるんだ。魔理沙も大概、物好きだよな。…まぁ、冬の間の食料にと、俺が保存して置いた燻製を食い荒らした分…その穴埋めの積りという事も考えられるけどな…。それにしても最近は、公演で忙しくて、魚を燻している時間も無いからなぁ。どうしたもんか…本格的に寒くなって、雪でも降ったら…魔理沙だって食い物を持って来てくれるか怪しいものだし…皿だけあってもねぇ。)
と、アナタは、シチューのよそわれた深皿を見つめると…また、クスリッと苦笑いで、
(そう言えばその皿だって、俺がブリキ板を叩いて作った皿のみすぼらしいのを見かねて、魔理沙がくれた物だったな。)
そうしてくすぐったそうに笑うアナタの目の前で、光源の一つがテーブルの上からふわりと舞い上がる。魔理沙がオイルラップを魔法の箒に引っ掛けて、天井の梁の傍へと浮かべたのだ。
天井近くから部屋中を照らし出すカンテラの灯り。それだけで、内部の見通しの良さは、カンテラがテーブルの上にあった時とは雲泥の差。
アナタは、天井から夜の闇が追い払われる幻想的な光景を、さも面白そうに見上げながら思う。
(魔理沙が不機嫌になった原因は…俺にあるのか…でなければ、あれだろう…と、望みを捨てないでいたけど…。ああして宙吊りの刑に成っているところを見ると、案外、悪いのは本当にあのランプだったりして…な訳ないよなぁ。馬鹿言って、俺まであぁ成る前に、何に対して謝るべきかだけでも…アリスから聞きださないとな。)
と、童心と、男の打算の間を行ったり来たりしているアナタは…頭上から漏れ聞こえる…ブツブツと、燃える火で空気を噛むカンテラの愚痴に耳を傾けながら、鬱陶しそうに苦り切った顔で、振り子の様に揺れる灯火を見上げた。
カンテラのガラスの胴の中に封じられた、液体燃料を燃やす匂いと、ジリジリとした熱気。アナタの瞳がその向こうに見るのは…カンテラに火が灯された瞬間の事だった…。
魔理沙が素っ頓狂な声を上げた瞬間。それと時を同じくして、灯火が部屋の中を照らし出した。
『三匹の子ブタ』の兄弟がカンテラにマッチの火を入れたのだが…それにしても、まったくよくやったよな…兄弟そろって可燃性の身体をしているのに…。
床の上に置かれたカンテラの土台を長男が抑える。そして、内部でオイルが燃焼しているのを確認した二男が、風防ガラスを土台にはめ込んだ。
土台の溝部分にガラスの収まる、鈍い音。急に明るく成った視界にぶり返す肌寒さ。アナタは身震いして…ふと、思い出す。そう言えば、末の弟ブタはどうしたのか。
一声も無い魔理沙を…通り越して…見れば、この家の中を忙しく飛びまわる妖精の様な、光の玉が行ったり来たりして居るではないか。…まぁ、正直に見たままを行ってしまえば…火を消す事の出来なかった弟ブタが、聖火ランナーの様にマッチを掲げて、そこら中を走り回っているだけなのだがな。
可燃性の身体では火を揉み消す事は難しい。さりとて、板張りの床に投げ出すことも許されず…黒く焼け焦げ、後が無くなってきたマッチ棒に…進退極まった弟ブタは、とうとう、アナタと、魔理沙の間に割って入ってきた。
アナタの方へ向けてマッチの火を差し出すその様子は、勿論、無表情である。…人形だからな。
だが、申し訳なさそうに俯き、そうかと思えば火の回り具合を気にして顔を上げる。…そうかと見ると、また、顔を伏せてみたり…おずおずとして、独力で仕事を果たせなかったやり切れなさを感じさせるのだ。
アナタは、そんな自分を当てにしている弟ブタに、渋い顔をする訳でも、笑い掛ける訳でもなく、ただただ神妙な面持ちを返した。
そうしてアナタは、差し伸べられたマッチの火をフッと吹き消し、緊張の面持ちのまま一度だけ頷く。
弟ブタもアナタに対して同じ様に相槌を返すと、先程と同じ様にランタンを担いで待つ兄たちの所へ、駆けだした。
兄ブタたちへと火の消えた事を報告する様に、黒ずんだマッチ棒を突き出して駆け寄る、弟ブタ。
アナタは『三匹の子ブタ』の兄弟が合流したのを見届けてから、やれやれと、『まったく、しょうがないやつだよなぁ。』とその後ろ姿に笑い掛けた。
そして、その可笑しさを分かち合おうと、アナタは魔理沙の方へと緩んだ笑顔を向ける。
だがしかし…笑って居ない…。目の前の女性の顔は、間違いなく、1ミリたりとも微笑んで居ないのだ。
見ようによっては笑うアナタの顔と同じく、魔理沙の頬も膨れている。…けれどもそれは、明らかに頬が緩んでの事では無く、忌々(いまいま)しげに奥歯を噛んでいる結果らしい。
それより何より、彼女の瞳だ。どうして今の今まで気付かなかったのかと不思議に思う位、完全にアナタの顔を睨んでいるではないか。
『お前、何を怒っているんだ。』
と、迂闊に喉から発せられそうに成った言葉を、何とか呑み下して…アナタは、渇いた愛想笑いを小さく吐いてから…、
「ま、まぁ、なんだ…魔理沙が何をしに来たのかは、後でゆっくりと話を聞けば良いとして…今日もまた、ついでに食い物を持って来てくれたんだろ。とりあえず、積る話はそれを頂いてからにしようや。丁度、腹ぺこだったんだよな、俺も…。」
と、如何にもわざとらしく、腹を摩ってアピールした。…言うまでも無く、色々と勘弁して下さいと…。
「事のついでとは言え、お前が遠路遥々(えんろはるばる)運んでくれた料理なんだ。折角だし、温かい内に食べようぜ。…ほら、大荷物を抱えて疲れているんなら、また、手を貸してやるからさ。」
そう言うとアナタは…逃げる様に…逸早く立ち上がって、魔理沙へ手を伸ばした。
見下ろせば、ちょこんと正座する彼女の身体は、華奢で、頼りなげに感じる。しかし…ひしひしと感じる不穏なオーラは…見る角度が変わっても、以前、健在である…。
そんな魔理沙が、アナタに聞かせる積りはさらさらない様な小声で、ボソリッと呟く。
「そりゃあ確かに、『物のついでの土産だ』とか、『余ったから恵んでやる』とか…食べ物を持ってくる時には私も、その度に適当な理由を見繕ってはいたぜ。…けどな…アナタに食事を届けに来ただけって理由じゃ…駄目なのかよ…。」
魔理沙は、すぅっと、大きく息を吸い込む。それから顔を上げ、アナタの『その場しのぎ』の笑みを睨め上げた。
その魔理沙の顔付に、噛まれるとでも思っただろうな…アナタは咄嗟に手を引っ込めようと…しかしながら、その躊躇いがちな手を奪い取り、魔理沙が握り締める。…両手で…しっかりと…。
そのまま、グイッと、アナタが前のめりに倒れそうに成るのもお構いなしで、魔理沙はアナタの右手を引き寄せ様に起き上がる。
目を丸くして驚いている、アナタ。しかし魔理沙は…それでも足りない…と、見せ付けるかの様に、両手で掴まえているアナタの手を胸元に引き寄せて…ギュッと、ギュギュッと、力強く…それはもう、力強く包み込んで、
「ありがとう。」
「…どういたしまして…。」
女手に力一杯握り締められても、元が大した握力では無いので、はっきり言って痛くも痒くもない。むしろアナタにすれば、外連味たっぷりに科を作った声に比べて…少しも笑って居ない魔理沙の顔の方が恐ろしい。
そんな状態からアナタがそれとなく手を引き抜こうとしているのを見て、魔理沙は…相変わらず目は笑って居ないが…口元を綻ばせる。
「ところで、唐突にまた『幻覚』の話の続きをするけど…。アナタは、私が何をしにここに来たのか解からないんだよな。」
と、外連味を凄味が凌駕し始めた笑顔で、魔理沙に脅され…もとい、尋ねられたアナタは、
「あっ、あぁ…悪いんだけど皆目、見当もつかないな。つまりは、俺の『能力』なんて、そんなに便利なものじゃないって事だろうな。」
そう言って、空笑いで、何となく自分の『能力』に責任を押し付けてみたりしていた。…余程、目の前の彼女が怖いのだと見える…。
そんな気後れ気味のアナタに、底意を愛らしい顔の奥に秘めた魔理沙が、質問を繰り返す。
「ふーんっ、それじゃあ…さっき私が機嫌を悪くした理由と、今の私が腹を立てている理由が違うって事も…解かる訳は無いよな。」
魔理沙の少しわざとらしい、まるで子供をあやす様な抑揚の付いた声色。アナタはその言い草から、敏感に小馬鹿にする様な気配を察知して、
「そんなのは解からないな。…当たり前だろ。」
と、素知らぬ風を装いながらも、ムスっとした様に、どこか余所余所しく答えた。
この手の…異性のこの様な態度のあしらい方に慣れていない…。お互いの底意までは、まだ、捕らえきれなくても…お互いに相手に対してこんな引け目を、そして、お互いに相手こそがまだまだ子供などという優越感を抱いている。だからこそ、ちょっとした冷やかしが悔しいのだろう。
しかし、そのどんぐりの背比べの如き微差を制しているのは…どちらかと言えば、魔理沙であろうな。なにせ、相手が…アナタが無意識にでも悔しいと感じていると言う事が、それが恋愛感情に直結したものではないにしろ、自分より優位に立とうという対抗心を示してくれる事が…こんなにも楽しくて…嬉しくてしょうがないのだから…。
アナタは、我知らず口から発せられた子供染みたい語気に、内心で冷や汗をかいていた。
そうして…おっかない笑顔の魔理沙に謝ってしまおうか…と、そんな躊躇いが脳裏を過った瞬間であった。
それはアナタを、一番弱らせる表情。それでいてアナタが、彼女の魅力を一番深く感じる表情なのだろう…。
琥珀色の瞳は優しく細められ、険のあった口元も微かに柔らかさを止めただけ…そんな非の打ち所のない魔理沙の微笑が、アナタの小さな不満や、申し訳なさを吹き飛ばしてしまった。
きっと魔理沙本人も、自分の微笑みがかくも大きな影響をアナタに与えたなどとは、自覚していないのだろう。なぜなら…折角の微笑も数秒の後には…ピクピクッと、苛立たしげな眉の動きで、崩れてしまったのだから…やっぱり、二人とも子供染みたところが抜けきれないな…。
そんな子供っぽさに引っ張り返された魔理沙は、自分は大人だとアピールするかの様に、極力そのままの微笑みで…不敵に…笑うと、
「そっか、だったら良いんだ。何でも感でも一目で知れてしまったら面白くもないもんな。私だって、じっくり考えて解かって貰った方が、嬉しい事もあるし…。」
魔理沙は、眉の動きや、笑顔の割には満足気な声で、確かに大人な対応を示して見せた。
それにはアナタも目を見張り、ちょっとは感心させられた様であったが…しかし、そうそう上手くも行かないのが、恋の駆け引き…とまではいかないまでも、男女間の親密なやり取りというやつなのだ。
魔理沙は今度、アナタの顔を見ている内に、『自分は怒っている』とアピールしたくて辛抱しきれなくなった様である。瞳の端に一瞬だけ、アナタの馴れ馴れしく緩んだ面差しを捉えてから、プイッと、そっぽを向いた。
「おいっ、そこの子ブタども。…そう、お前たちだよ。ちょっと、こっちまでそのランタンを持ってきな。」
と、怒鳴るという程ではないにしろ、抑制の効かない感情にムキに成った様な、魔理沙の声。
呼びつけられた『三匹の子ブタ』たちは、飛び上がって怖れ慄くと、後ろ脚をもつれさせ、空回りさせつつ、駆け足で彼女の方へと走り寄る。
そんな三兄弟の慌てぶりに釣られアナタも、瞳を逸らした魔理沙の横顔から、彼女の足元へゆっくりと視線を下ろす。…で、その途中で『面白い』ものに気が付くや、ニヤリッと底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「なぁ、魔理沙。」
「なんだよ。」
「そう、つっけんどんに成らなくても良いだろ。ただ少し、聞いて欲しい…それから見て欲しい事があるってだけだよ…。別に他意は無いさ。…なぁ、少し位ならいいだろ。」
「アナタがそんな風に、甘えた様な言い方をする時って…。」
「甘えた様な言い方をする時って…なんだ。」
「…別に、なんでもないぜ…。いいから、私に聞いて、それで、見て欲しいものの話をしろよ。」
魔理沙は『ガキっぽい悪戯をする時に決まっている』という言葉を呑み込んで、アナタに先を促した。…顔を横に向けたままの無愛想な言い方の割に、そそくさと、目線はアナタの方へと走らせて…。
最初に魔理沙の目に飛び込んできたのは、自分の鼻先を指差す、アナタの人差し指であった。
そのいつぞやの時の様なアナタの仕草に、魔理沙は…誰にでもこういう事をしているのか…では無くて、こんな無礼な癖でもあったのかと呆れながら、しらけた横向きの顔を戻す。
魔理沙は次に、下ばかりを見て自分の方を見ないアナタに…何となく…苛立ちを覚えつつ、アナタの今の状況を確認する。右手は人差し指を突き出し自分の目の前に、左手は前に傾いだ体勢を支える様に膝に宛がわれていた。
そうして、顔を上げようとしないアナタに文句の一つでも零してやろうかと、魔理沙が口をへの字に結び始めた頃合いに…アナタがまた意表を突く形で応えた。
「お前、じっくり考えて解かった方が嬉しいって言っていたろ。それなら早速、喜ばせてやろうかなって思ってさ。」
と、楽しげなアナタの口振りを聞いて…魔理沙は、まるで口紅の色を馴染ませるかの様に結んでいた唇を、プッと、小さな音を漏らしつつ開いて…、
「何か、嫌な予感のする言い回しだなぁ…。それで、聞いてやったけど次は…。」
「まぁ、いいから、ちょっと見ていろよな。」
そう、何とも複雑そうな面持ちの魔理沙が急かすのを遮り、アナタは指を、スゥッと、魔理沙の目の前から下ろしていく。
鼻先から、喉に、胸元にと…空をなぞる指の感触をむず痒そうにしながらも、魔理沙の瞳はその後を辿って行った。
そして…人差し指が魔理沙のエプロンの高さにまで下ろされた時…アナタが、どこかからかう様な、どこか弾んだ語気で呟く。
「ほらなっ。」
「…って、言われても…何がだよ。」
「だから、お前の手だってば。」
「私の手…。」
と、アナタに言われるまま、自分の付けているエプロンを見下ろした魔理沙の表情が…ムッとしていたその顔が…出し抜けに驚き一色へ変わった。…魔理沙本人は、まったく、これっぽっちも気付いては居なかったようだが…彼女の手はずっと、エプロンを握り締めていたらしい。それも、生地が揉みくちゃに成るほど強く。
「あっ…。」
「その様を見る限りだと…要するに今のお前の気持ちは…。」
きっと『幻覚』になどに頼るまでも無く、魔理沙の心情を見透かしたアナタの一言が続くであろう。その刹那、
「そのエプロンの手荒な扱いから言って…痛ってぇ。」
…魔理沙の馬革の靴の踵が、アナタが履き古した牛革の長靴のつま先…ギュッと、踏み締めたのだ。
アナタは、魔理沙のエプロンを指差して居た手を引っ込め、右膝を掴んで痛みを堪える。そして、ズキズキと疼く脚の指に刺激を与えぬ様に、静かに、奥歯を噛み締めた。
「酷ぇなぁ。俺はただ…リクエスト通りにお前を喜ばそうと…。」
と、か細く、切れ切れに成りながらもアナタが垂れる文句。それに魔理沙は、
「喧しい。ふざけるのも大概にしろ。…だいたい、これは、アレだ…手が乾き切ってなかったから、拭いていただけで…。」
そんな彼女の必死の訴えが、アナタの心を打った…かどうかは定かではないが…どうやら、デリケートな状態のつま先に障ったらしい。
アナタは一度、ビクリッと、身体を震わせて…それから恐る恐る、彼女に懇願する。
「解かったよ。解かったから、大声出すのだけは勘弁してくれ…脚の指に余計な負担が…。」
言うまでも無くアナタのこの反応は、本心三割、大袈裟な演技七割の配分で構成されている。
それを先刻ご承知のアリスなどは、勿論、伏せたまつ毛を小揺るぎもさせない。…テーブルに寄り掛かり頬杖ついた姿勢は、今しも鼻歌でも口ずさみそうに優雅なままだ。
だから魔理沙だって…何もそんなに…悪いことした様な、悲しそうな顔をしなくても良いと思うのだがな…。
アナタの蹲る姿を見ている内…不意に…エプロンを握り締めていた自分の手が力を失っていくのに気付いた、魔理沙。
思わず勢いに任せで、アナタに何かを言おうと、小さく、小さく口を開いて…それでも、やはり、大声を上げる事は我慢できても、アナタに勝ちを譲る事は勘弁ならなかった様で…。
魔理沙は、聞こえよがしの鼻息を漏らしてから、
「お前たち、そのランタン持って付いて来な。」
と、心持は潜めた声で『三匹の子ブタ』を促して、薪ストーブの傍へと移動し始めた。
アナタは、魔理沙が正面から姿を消した事を確認すると、やれやれと言いたげな、それでいて満足気な笑みを零す。
それから、スクッと、何事も無かった様に立ち上がると…慌ててお姫さま人形たちが、薪ストーブの前に椅子を運んでいく姿を…その椅子にチョコンッと前傾姿勢で座った魔理沙が、労いを含んだ優しい微笑みで『三匹の子ブタ』たちからランタンを受け取るのを…そして、目線を横にずらして…瞳を閉じたままのアリスを見つめた。
(君の事だからきっと…目は瞑って居ても、人形を通して何でもお見通しなんだろうな。)
薄らと満足の余韻を引いた様なアリスの無表情に、アナタの口から苦笑が漏れる。
そうしてアナタは、『幻覚』の騒ぎに取り紛れ、放り出されたままに成っていた薪木を拾い集めて…まだ少しだけジンジンと痛む足で薪ストーブの元へと…魔理沙の元へと歩み寄った。
魔理沙もその足音に気付いたのであろう。薪ストーブの中の灰を、火掻き棒で均す手を忙しくなし始めた。
そうして魔理沙、薪木を抱えたアナタが隣に屈むと、如何にも『ご自由に、どうぞ』と素知らぬ風に、かつ如才なく、出番を譲るべく火掻き棒を速やかに引っ込める。…つくづく、勝気な娘である…。
アナタは薪木を、一本、一本と、投入口から滑り込ませながら、
「長い脚でその体勢は大変だろうな。」
と、その声は混ぜ込まれた可笑しさに踊っていた。
恰も戴冠式の一幕の様に、椅子の上から、恭しく火掻き棒を『白雪姫』の王子に渡していた魔理沙は…その声音に反して、面白く無さそうに鼻息を一つ。
「んっ、それって私に喧嘩売っているのか。それとも、また足を踏んで欲しいて言う意思表示の積りなのか。」
「どっちでもないって…単純に、屈んだ方がそういう作業は楽だろうに無理して…俺や、アリスだけじゃなくて、人形にまで気を遣うんだからさぁ…ご苦労な事だなと思ってな。」
火を付けた時、燃え具合に偏りが出来ない様にと…ストーブの中へ薪木を置くアナタの顔には、衒いなどない。そして、どこか険しくさえ見えた…。
冗談言を話す口振りとは裏腹に、やや頑なにさえ映るアナタの表情。そんな横顔に魔理沙は、どこか気後れした様に、どこか踏みこみ切れずに、椅子の背もたれに腕を掛けるとわざとらしく寛いで見せる。
「別に無理してなんて居ないぜ。こっちだって…ううん、私の方がアナタよりもずっと単純な話で、屈んで長い脚を抱きかかえての作業より、椅子に腰かけていた方が楽だったってだけの事さ。…だいたい。」
と、魔理沙は逃げ腰な自分を踏み止める様に、革靴の底を床板に擦り付けて、
「『ご苦労』ってのは…当てつけがましいと言うか…随分な言い草に聞こえるんだけどなぁ。アナタはもしかして…私の事、責めているのか。」
魔理沙は、背もたれに掛けた腕に頬を乗せ、寝そべる様な体勢からアナタを見つめる。その不安定な姿勢に、そして、ほのかな艶めかしさに…まだ薪ストーブに火が入れられていないと言うのにアナタは、熱に当てられた様な焦燥感を覚えながら…とりあえずは、彼女が背もたれごと後ろに倒れてしまわぬ様に、椅子の脚の一本を掴んだ。
「責めている…か…。そうかも知れないな。俺はずっと待っていた…人形劇をしながら…人形を作りながら…べっこう飴を焼いてみたりしながら…ずっと自分にとって都合の良い瞬間が訪れるのを、ただ待っていた。お前はそんな…一歩踏み出すことを恐れていた俺を引っ掴んで、俺だけでは到底見る事の出来なかった、高い、高い場所へ飛び上がってくれた。それなのに…俺の常識を掻き乱しておいて、お前は…。」
と、アナタは、寝言の様にブツブツと呟きを積み上げながら、魔理沙の足元に居た『三匹の子ブタ』へと空いた手を伸ばした。
流石にアナタの作った操り人形だな。何も言わずとも末の弟ブタには、アナタが何を欲しているのかが理解できたらしい。
弟ブタは魔理沙のスカートの上を越境してきたアナタの手へ、おずおずと近付いていく。それから…右の前足に器用に握っている、焼け焦げたマッチの燃え滓にしようか…左の小脇に挟んだマッチ箱にしようか…あたふたと兄たちを振り返りながら悩んでから…アナタの手へマッチ箱を差し出した。
弟ブタはもう一歩踏み出し切れずに居る為、残念ながら今のアナタの手の位置では届きはしない様だ。そう言う訳でアナタは、ずいっと、更に腕を伸ばし、その手を弟ブタの近くへ…けれども、マッチ箱がアナタの掌の上へ置かれるその前に…まるで貝殻が閉じる様に、アナタの手は塞がれてしまう。
魔理沙の…彼女の手が、アナタの手の上に重ねられたのだ…。
「任せて。」
その魔理沙の言葉の意味が、最初、アナタには上手く飲み込めない…だが…、
「あ、あぁ…じゃあ、頼む。」
と、思わず、何の事かも不確かなまま、アナタは彼女に一任してしまった。…まぁ、こうまで鮮やかに、手を塞がれてしまっては…口出しのしようも無いよな…。
魔理沙は、自分の冷たく柔らかい手を、アナタの熱くざらついた手から離す。それから、その手で、優しく弟ブタの頭を撫でてやりつつ、
「ランタンを…。」
と、長男ブタと、次男ブタから、眩しい光が防風ガラスを突き抜けるランタンを受け取った。
アナタは小さな息を漏らすと、光を抱いた魔理沙の姿に目を細める。…魅入られていく…。
そんなアナタの目の前で、魔理沙は分厚い防風ガラスを上にスライドさせて、燃え盛る火を剥き出しする。そして、オイルの燃焼する独特の…あのシューッという音へ向けて、フッと息を吹き付けた。
その瞬間、大きく魔理沙の顔とは反対側に傾いた炎から…恰も、花弁が舞い落ちる様に…赤かと燃える火の塊が、薪ストーブの内部へと入り込む。それはきっと…、
(『魔法』か…。)
そうアナタが直感した通りで、間違い無かろう。…でなければ、炎が人型をしているはずはないのだから…。
そうなのだ。魔理沙の吐息と、魔力を吹き付けられた火は、薪木の上に取り付くや忽ち萌芽。ムクムクと膨らんで人型の…例えるならアレだ。パーティーなどで良く見かける人型のクッキーの様な姿に変わった。
「それじゃあ、シチューを温め直すから、とろ火で頼むぜ。」
魔理沙は、自分の生み出した火の化身たる小人にそう言い付けると、薪ストーブの投入口の蓋を閉ざした。…微かに潤んだ唇は、楽しげで…それだけに、アナタには少しおっかない…。
頼みの綱と思われた『三匹の子ブタ』たちも…おそらく、アリスの『心配り』の賜物であろう…魔理沙からランタンを受取ると、いつの間にやら、テーブルの方へと移動し終えている。
アナタは、やれやれと零す様な具合に、椅子の脚から手を放して、立ち上がると…、
「この家で、お前のそんな姿を見る事に成るとはな。なんだか、ここが俺の家だって気がしなくなってきた。」
「まっ、私には、私の予定があるって事だ。そういう訳でもうちょっと掛りそうだから、アナタは人形たちの手伝いでもしていろよ。」
と、『赤ずきん』から木製のお玉を手渡されている、魔理沙が応え返した。
ストーブから噴き上がる熱気。その折角の暖かさが、開け放たれた出入り口の方へと流れているのを感じる。…確かに、これは放っては置けないだろうな…。
アナタはその場で回れ右をすると、『フック船長』が懸命に起こそうとしている扉に手を掛ける。その丸めた背中に向けて、声が飛んだ。
「アナタさぁ…今日は随分と帰りが遅かったけど、一体、どこに行っていたんだ。」
…魔理沙の声音は…拗ねた様な、可笑しそうな…ふわりとして儚いシャボン玉の様な耳触りであった。
アナタは、鉤爪で引っ掛かった『フック船長』ごと扉を立たせると、首だけ彼女の方を向いて、
「どこって…沢の近くだよ。薪木を割にな。」
と、答えながら、器用に船長を救出して差し上げていた。
魔理沙はお玉が水で濯いであるのを確認。その後、人形たちがバスケットごと持ってきた鍋の中身を一掻き。…塩梅は悪くなかったと見えて、いよいよ、鍋を薪ストーブの火にかけ始めた。
部屋中に広がるクリームシチューの甘い匂い。それは勿論、風下に立つアナタの元へ一番に届く。
空きっ腹をくすぐられる香りに、アナタは赤ん坊みたいに上機嫌な顔に成って、『フック船長』を床板の上へと解放した。…魔理沙のシチューには、大悪人に恩赦を与えさせる程の魅力がある様だ…。
そんな素直に喜ぶアナタの顔色を変えたのは、誰あろうシチューの作った者…魔理沙の唐突な一事であった。
「嘘付けよ。」
その至極詰まらなそうな魔理沙の口振りに、アナタは怪訝そうな顔で肩にもたれ掛かる扉を押し返して、
「嘘っ…て、事はないだろ。俺だって霞を食って生きている訳でもないんだからな。どうしたって薪木は必要になるよ。あぁ、だけど…霞じゃなく、このシチューの香りでなら…二、三日くらいはしのげるかも知れないけどな。」
そうして調子の良い答えを返すアナタに…どういう積りなのか…魔理沙は鍋が焦げ付かぬ様、丁寧に鍋の中身を掻き混ぜながら、
「嘘だね。嘘に決まっているぜ。」
と、その顔は不思議と悪気のなさそうな、それでいて、アナタを小馬鹿にする様な薄笑いを浮かべていた。
彼女のやけにくどい物言いに、アナタは…不愉快そうと言うよりは、少し尻込みする様に…愛想笑いを返しつつ、持ち上げた扉をその場に下ろす。
「いや、そんな事は無いって…魔理沙が何をどう勘違いしているのかは知らないけど…て言うか、こんな時間だろ。薪割り以外にやれる事っていても、人形作りとか、魚を燻したりが精々で…あっ、そうか。お前、俺の家の扉を壊した事を気に病んでいるんだろ。それで…。」
「その、こんな時間と言うのが一番気に成るんだよな。」
「えっ。」
アナタは自分の逃げ口上が、何の気なく持ち上げたものが、自らの退路を塞いだ様な感覚に、勢いの無い声を漏らした。…アナタが薪木を持って帰って来たのは…別に、誰かに対して言い訳する為では無かったはずが…どうしてこんな事に…。
そんな気持ちを困り顔の笑みに変えているアナタへ、なおもくどくどと魔理沙が続ける。
「だってそうだろ。こんな時間に沢で薪割りって言うのは、どう考えても変だ。それでなくとも寒い時節に、あえて冷える沢を選んで薪割りするのも変だし…それにそもそも、こんな真っ暗な夜に、月明かりだけを頼って薪割りっていうのも不自然なんだよな。本当は、私に隠れて良からぬ事をしていたんじゃないだろうなぁ。誰と会っていたのかは知らないけど、謝るなら今の内だぜ。」
と、如何にも可笑しそうに語り掛ける魔理沙の微笑みを見ても、彼女が冗談の積りでこんな言葉を吐いているのだと解かる。しかしながら、まったく、どういう積りでこんな言葉を口にしているのかが解からない。
だからアナタは、一先ず…ゆっくりと、ゆっくりと、シチューと、自分の言葉を混ぜっ返す彼女の…魔理沙の圧迫感を押し返す事にしたらしい。
アナタは出入り口脇の壁に、木製の扉を立て掛け、
「謝る…。そもそも、何をどう謝れって魔理沙が言っているのか、解からないけど…それが解かったところで、俺は謝る気はさらさらないよ。」
と、片手を扉の上に突き、斜に構えた体勢で言い放つ。それに対して…、
「まぁ、お言葉ですこと…。」
魔理沙はクスクスと笑いながら、一際大きく鍋の底を掻き回した。
どうやら彼女は、更なるアナタの『お言葉』をご所望の様ですな…。その事だけは解かったアナタは、小さく、不満げな鼻息を漏らしてから…言葉を続ける。
「『お言葉』も何も…当たり前だろ。俺が日の暮れてから、それも、小寒いと解かり切っていても沢で薪割りしなければ成らなかった理由の半分は、お前にあるんだかな。」
「私に…まさか…。だって、私がいつアナタに、『薪木を作って来て下さいな』とお願いしました。」
それは普段の魔理沙なら絶対にしない様な言葉使い。まるでアリスと喋っている様にさえ、アナタは感じ始めていた。…そう、それだからこそ…彼女のお遊びだと知りながらも…アナタには引く事が出来なくなって来ている…。
遊びにしてもたおやかで、薄絹の様にさらりと艶のある魔理沙の声。何が以外かと言えば、その声が目の前でシチューを温め直している女性の姿に重なって、少しも違和感を覚えない事だろう。
アナタは得体の知れないもどかしさに、靴の中の脚の指をギュッと握り締めて、
「確かに薪木を用意したのは、俺が必要だからであってお前には関係ないな。だが、俺の言っているのはそう言う事じゃなくて…なんで俺が、こんな時間に、しかも場所を変えて薪割をしなくちゃ成らなくなったかってことだよ。」
そのアナタの放する言葉は、魔理沙を通じて誰かの…誰かの閉ざされた瞳の奥へと投げかけられた様だった。
魔理沙もそれを感じとってか、お玉を動かす右手を止める。そして、小さく頷き、微笑むと…、
「それはきっと…私が、こんな時間に薪割りをしなければ成らなくなる位に、アナタを色々な場所に連れ回しているからでしょうね。それから、アナタが場所を変えているのは…決まっているわね。夜中に薪割り何かを始めては近所迷惑だわ。それで沢に下りて、世間様のお耳を騒がせない様にしたと…。」
「まぁな。あと付け加えるなら…『魔女の森』には怖い生き物がわんさか巣食っているだろ。だから、比較的安全な沢を選ぶしか無かったって事だな。」
と、アナタが補足するのを魔理沙は、お玉で鍋の底を突きながら、可笑しそうに笑い声を漏らす。
「もう意地悪ねぇ。どうせ、『魔女の森に巣食う怖い生き物』の中には、『霧雨魔理沙』も含まれているんでしょう。…フフッ。だけど、まっ…今回のところは信じてやるとするぜ。」
そう言った魔理沙の最後の言葉は、『男勝り』ないつもの彼女の姿をしていた。
魔理沙は、恰も熔けた出した自分の微笑が…感情がシチューに混ざり込む事を嫌う様に…白い歯を見せた満面の笑顔をアナタに向ける。
アナタは魔理沙の右手がお玉を動かし始めたのを見止めると…どこか安心した様に…背中を外れた扉に持たれ掛けさせた。
「なんだ、ままごと遊びはもう終りにするのか。…俺は結構、楽しかったんだがなぁ。」
アナタは自分の口から零れ出た、辺に余裕を見せる様な、相手を煽る様な言葉に、我が事ながらドキリッと心臓の鼓動を早めていく。
そんなアナタが気にしているのは魔理沙の心境だろうか…それとも…。
魔理沙もアナタのその口振りには少し驚いた様に、照れた様に頬を赤らめる。
「それは、それは…お楽しみのところを中断して申し訳ないことをしたな。でも…名残を惜しんでいるアナタには悪いけど、この『ままごとお遊び』は私の方が限界だぜ。」
彼女の屈託の見えない…ある意味では勝気な魔理沙の『敗北宣言』とも受け取れる…発言。
アナタはその魔理沙の態度から、下手に出られた様な、あるいは、突き放された様な感覚を覚えて、
「なんだ、それ。お前から勝手にままごと遊びを始めて置いて、勝手にギブアップかよ。…たく、せめて、俺がどちら様の役をやらされるのか位は、教えといて欲しかったな。」
と、グラグラする立ち位置から、笑いを漏らしつつ退こうとする。しかし…、
「アナタにやって欲しかった役は、いつもの…アナタ自身。だから…別に演じる積りでやって貰う事じゃないから、言わなかった。それだけだぜ…。」
魔理沙はアナタに、目を細め、まつ毛を揺らしながら、そう伝えた。
アナタは…どちらかと言えば職人気質で、言い方によれば朴念仁の部類に属する男性であった。
そんな『幻覚』の効用を除けば察しの悪いアナタでも、魔理沙の胸に秘めているものに気付いている。彼女が何か、彼女自身の一大決心を打ち明けようとしていると…それはきっと、もう一押しすれば溢れだす感情なのだと…。
壁際に佇むアナタと、部屋の真ん中辺りに腰掛ける魔理沙。背の低い人形が歩き回っているだけで、二人の間には遮る何ものも無い。
そんな距離で、そんな遠さで、アナタは…ついさっきに自分の手が、彼女の胸元へ引き寄せられていた時の感触を思い出していた。…そう、そんな近さが、今の二人の心の居場所なのかもしれない。だからアナタは、誘われるままに彼女の胸中に触れる…。
「子供の遊びのはずが…何か、柄にもなく高尚な話に成ってしまったな。…それで、高尚ついでに好奇心で聞くけどな…そういう訳だから、言いたくなければ答えなくても良いんだが…。俺は、俺自身の役を受け持っていたとして、それで良い。我ながら憎まれ口を叩きながらの、俺らしい好演だった思っている。…じゃあ、魔理沙は誰を演じたんだ。こう、ネチネチとして…なかなか堂々たる演技をしている様だったけど、誰の事を、どう言う積りで演じていたんだよ。」
アナタの問いに魔理沙は、鍋の縁に乗せたお玉の柄を人差し指で玩具にしながら、
「誰を演じたかなんて…別に聞くまでも無いんじゃないか。そう、アナタが思った通りの人を演じたのさ。まぁ、私でもその人のお淑やかさの代役が務まるかなって、試しにやってみたんだ。勿論、その理由は…好奇心からだぜ。」
と、魔理沙は、呑気そうに、はにかむ様に、ニンマリとした笑いをアリスに向けた。
その当のご本人さんは相変わらず瞳を閉じたままで、柳眉を逆立てる事も、物言いを付ける様な事もして来ないところを見ると…魔理沙の演技は及第点を貰えたのかも知れないな…。
「それにしても、本人の前でそいつの真似を始めるんだからなぁ。…お前も大概、良い度胸している…って事こそ、今更、言うまでも、聞くまでも無いな。それで、どうよ…仮初にも『アリス・マーガトロイド』の代役を務めてみた感想の方は…。」
「えっ、感想…。」
「何も無いって事はないんだろ。例えば、ほら、好奇心を存分に満たせました…とか、さもなければ…窮屈だったとか、これからは自分も心を入れ替えてお淑やかに生きる気に成ったとか…おっと、誤解の無い様に言っておくけど、俺は何も、『魔理沙がお淑やかじゃない』とは言ってないからな。そもそも、家事全般に関しては間違いなく、アリスよりも随分と立派な淑女だと思っているよ。特に、俺の胃袋の奴とかがな。」
「はいはい。私も、素直に『お腹が空いた』の一言も言えないアナタの事は、可愛い坊やだと思っているぜ。んで…感想ねぇ…。」
アナタに尋ねられて、魔理沙は顎に左手をやって物思いに耽る。そんな彼女の横顔を、またゆるゆるとシチューを掻き混ぜる手を動かし始めた様子を、真剣な眼差しで見つめるのは…無数の不知火の燃える蒼い海原の様な…仄暗いアリスの瞳。
一体、今のアナタと魔理沙のやり取りのどこに…魔理沙に任せようと心に決めたアリスの瞳を開かせる…何があったと言うのであろうか。
しばらくの間、お玉でくるくると渦を描いていた魔理沙が…グツグツ煮立つシチューを見つめながら応える…。
「感想があるとすれば…さっき、私がストーブに火を入れる前に…アナタが言い掛けた言葉の続きが、私の本心から想っている事だろうな。」
「『俺が言い掛けた言葉』…魔理沙がストーブに火を入れる前…って、俺、何を言っていたっけ…。魔理沙が、『魔法』で火加減を調節していたのは覚えているんだが…そっちのインパクトが強烈すぎて、俺が何を喋っていたのかなんて、どこかに行ってしまったよ。…なぁ。それで結局、俺は何を言い掛けていたんだ。」
「んっ、何って…何だったかな、不覚にも私も忘れてしまったな。…さぁさぁ、もうままごと遊びは終わって食事の支度の時間なんだから、余計な話で邪魔しないでくれよ。シチューが焦げ付くのは、アナタだって嫌だろ。それに、ほら、アナタは早く扉を元に戻さないと成らないしな。人形たちも待っているぜ。」
魔理沙はアナタの方を見もしないで、そんな事を告げた。それから先は、一言も無く…満ち足りた様に、幸福感を丸く描きだす様に、ただひたすらシチューを掻き回すだけ…。
そんな彼女の居住まいから、取り付く島も無い事を感じとったアナタは、
「本当にマイペースと言うか…横着なやつだ。流石の俺も脱帽だよ。」
と、少々、小言を述べてから…魔理沙の帽子を抱えて座る『ラプンツェル』の王子を飛び越して…自分の足元に目をやる。すると確かに、新しい蝶番の金具や、釘を手ん手に持ち寄った『七人の小人』たちが整列していた。…気付かない方も気付かない方だが…どうも彼女には適わない様だな…。
アナタもそんな事を思ったのか、やれやれと安堵した様な、気の抜けた様な吐息を漏らすと、さっさと扉を出入り口にはめ込んだ。
あとはもう、所在無げに立ち竦む『フック船長』を、
「んっ、暇なんだったら、一緒にこの扉を支えているか。」
と、アナタが誘って…。魔理沙も、アナタも、人形たちも、夕餉の支度が整うまでの、それぞれの役目をこなし始めたのであった。
そして、アリスは…一斉に動き出した登場人物たちの、小気味良いさざめきに耳を傾けながら…うつらうつらと瞼を波打たせ、思考の船を漕いでいく。
アナタが魔理沙に対して言い掛けた言葉。それは確か…『俺の常識を掻き乱しておいて、お前は…。』と、そこまでで途切れていた。
そして魔理沙はその後に続く言葉が…アナタの言おうとしていた事こそが、ままごと遊びを終えた自分の『感想』なのだと言っていたな…。
背景となる音たちさえ吸い込まれて行く、そんな…朝靄の湖の上を、こくりこくりと、小舟に乗って進む様な…アリスのまどろみ。
そのまどろみの中、アナタの言葉と、魔理沙の心の内を求め、船縁から湖面に向かって差し伸べられたアリスの手を…水底より浮かび出た女の手が掴み取る…。
アリスは、ギョッとして、両の眼を大きく開いた。…どうやら、幾ばくかの間、眠ってしまっていたらしい。
ストーブからの熱気を頬に痛く感じる程の寒気。唐突過ぎる目覚めに、慌てて早鐘を打つ心臓。そして、眠りの縁から自分が持ち帰ったインスピレーションに…アリスは皮肉ぽく、実に楽しげにほくそ笑んだ。
…アナタは魔理沙に尋ねた…『アリスの代役をしてみた感想はどうか』と…。それに対して魔理沙は、『アナタが言い掛けた言葉の続きが、私の本心から想っている事だ』と応えた。
アナタの言い掛けた言葉の続き…『俺の常識を掻き乱しておいて、お前は…。』と呟いたその続き…。
アリスは、穏やかな魔理沙の横顔を見つめながら、小さく、小さく囁く。
「彼の常識を掻き乱しておいて、満足していない…。魔理沙、貴女はやっぱり…私の代役なんかじゃ満足できなかったのね。」
自分の耳にすら届きそうもない微かな囁きを零してから…アリスは自分の役割を、人形たちに、そして、瞼の裏に浮かぶ愛しい女性に委ねる様に…再び、その瞳を閉じた。
ここまでが、魔理沙が夕食の支度を終える今この時までに、アナタの過ごしてきた時間の全てである。
しばしの間、彼女たちと興じた戯曲に…いや、ままごと遊びに思いを馳せていたアナタであったが、とうとう、魔理沙の怒っていた直接的な理由は解からなかった。
(シチューを混ぜている間も、何となく苛立っていたし…まぁ、自分だけ働かされて、その上、仲間外れにされているとでも思っていたのかもな。)
と、また魔理沙を怒らせそうな、彼女を子供扱いする様な方向で結論づけた、アナタ。ほとんど暇潰しの座興くらい積りで始めた思索に、溜息と共に一区切りを付ける…。
「アナタも、扉が治ったのならこちらにおいでよ。」
と、テーブルの方から魔理沙が声を掛けてきた。
魔理沙がそっと背もたれを引く席は、彼女の隣、そしてアリスの座る正面。
その構図に、アナタは苦笑を漏らして、
(魔理沙のやつ、俺とアリスの会話が途中だから、気を遣ってくれたって事か…。まっ、例え隣に座って居るからと言っても、俺が不安な時に手を握ってくれるだろうと期待するのは…欲張り過ぎだな。)
アナタはそんな思いを巡らせながら、もう一度、魔理沙の手の感触を…アナタの手を包み込んだ温もりを振り返る。それは、寒さに冷え切った柔らかく女性的な手の内側の秘められた…彼女の内面を想わせる…芯の部分の優しい暖かさであった。
そうしてその温もりが、また今度も、宙ぶらりんになったアナタの心を…アナタの手を引くのだ。
「さぁさぁ、ホストが席に着いてくれないと夕食が始められないだろ。だいたい、考え事なんて空きっ腹でするもんじゃないぜ。」
と、そんな魔理沙に引かれ、よたよたと歩いていたアナタは…一層強く成ったシチューの匂いに当てられた様に…頷きつつ、味の濃い笑いを浮かべて、
「確かに、その通りだ。よし、悩むのは、腹の虫を寝かしつけてからにするぞ。」
「そうしろ、そうしろ。…それじゃあ、アナタはそこに座ってくれ。あっ、それから…解かっているとは思うけど、シチューのニンジンを残した場合は、ただじゃあおかないからその積りで…。」
二人は手を取り合って、アリスの待つ食卓へと向かう。
…魔理沙の怒っていた理由。アナタがそれをたった一つの答えとして引っ張り出す事が出来なかったのは、きっと当然だろう。
そう、全ては繋がっているのだ…彼女が拗ねたり、むくれたりするのも…照れたり、微笑んだりするのも…そして、魔理沙と、アナタも…引き離しがたく繋がっているから、そんな繋がりで彼女の心が溢れているから、何気ない一押しが彼女を動揺させたり、勇気を与えたりするのだ。
それを知っているからこそアリスも…魔理沙がその一押しを何度でも堪えて、どこまでも強く、どこまでも残酷に成れると知っているからこそ…アナタに、アナタ自身の『能力』について教えて置く気に成ったのかも知れない。
アナタに訪れるどんな過酷な未来より…魔理沙は冷酷に成れると信じて…。
[11]
「『心象を表象にする程度の能力』。それを介して生み出されたという意味では、アナタの見る『幻覚』も、この部屋に飾られた絵画や、調度品と同じなの。二つの違いを除けばだけど…。」
アリスはそう言うと、腰掛けた椅子の背もたれに身を預けた。
和やかな夕餉の時間は終り、寛いだ雰囲気を引き摺ったまま…兎にも角にも、アリスは、アナタの見る『幻覚』の正体について話を始めていた…。
人形たちは部屋のそこかしこに座り込んでは、ぼんやりと天井を眺めているもの、次の指令に備え列をなしているもの、そして、薪ストーブの燃える火を見つめながら寄り添い合って居るものと、それぞれが思い思いの時を過ごしている。
そんな食後の気だるさに包まれた部屋にあっても…自分の、それも得体の知れない部分についての話なのだ…アナタが、一人張り詰めた面持ちをしていたとして不思議でない。しかし、魔理沙はどうか…。
魔理沙は随分と、アナタが『幻覚』の正体を知ってしまう事を憂慮している様であった。そんな彼女は事ここに至った状況をどう思っているか…それは正直、テーブルに頬杖ついて話を聞いている、その顔を見ただけで計り知る事は出来そうにも無い。
だが、魔理沙の眼差しには…アリスの言葉に耳を傾けながら、アナタの真剣な顔をじっと見据えているその眼差しには…『話が不味いところに及んだなら、アナタの耳を塞いでしまおう』などという不穏な光は無く…ただ、アナタの反応を待つ様な、訪れるどんな反応をも受け入れ様としている様な…強く、静穏な、決意の光が宿っていた…。
アリスは肘掛けをゆったりと掴んで、更に数秒ほどの間を設ける。そしてアナタと魔理沙が、疑問の意識に潰されずに、きちんとと己の心の手綱を握っているのを見定めると…やおら言葉を続ける。
「この部屋に並べられたアナタの作品たちと、アナタの見る『幻覚』。そこには、具体的な現象か、想像の産物かという違いがある。それがまず、相違点の一つ目。…これに関しては、アナタも薄々は気付いていたんじゃないのかしら…。」
と、『1』と示す様に立てた人差し指を顔の高さにまで持って来て、ここで始めてアリスがアナタに尋ねた。
アナタは、自分の考えを探る様にのろのろと項垂れながら…しかし最後には、しっかりと頷いて見せる。
「確かに…絵や、人形みたいな、俺の作った物。それらに対しての『幻覚』…なんてイメージは無かったけどな。だけど確かに…『幻覚』が自分の『能力』から来ているものじゃないかと疑い始めた頃から…どうして俺は、見た『幻覚』を形にしたいと思わないのか…鉛筆でそこら辺の紙にスケッチするだけなら、さして時間も掛からないっていうのに…『能力』が見せた物のはずが…なんで、具体的な何かとして、自分の身の回りの物に焼き付けたいと思わないのかって…。そういう事は、薄々だけど疑問に思っていた。」
アリスはそんなアナタの戸惑いに頷き返すと、
「そう。『幻覚』を見ている張本人であるアナタにその自覚があったのなら、私の憶測もかなり確度の高いものと言えるかも知れない。私が思うに、ここにある作品たちとアナタの見る『幻覚』では、射手と標的があべこべになっているのよ。」
そんなザックリとした推論を聞いても、ちっとも腑に落ない。…っと、そんな顔をして固まっているアナタに、アリスはまた頷いた。
「解かり易く説明するわね。アナタが作品を製作する場合、アナタが心に思い描いたものが『心象』で、出来上がった作品が『表象』となる。更に細かい事を言えば、自分の『心象』を具体的な形にしたい…アナタの言葉を借りれば、『身の回りの物に焼き付けたい』という気持ち…それがアナタの『能力』を介して、『表象』である作品に反映される。つまりアナタの『能力』の根本は、射手であるアナタの『心象』を現象や、物体に伝える事で、そのものの在り方を『表象』へと変質させる事なんだと思うの。」
「それじゃあ、やっぱり、俺の『能力』は…絵でも、彫刻でも、思った通りの物を作り出せる『能力』…という事で良いんだよな。」
恰も懇願する様に、アナタはアリスが話終わったのかを確認する事も無く、疑問をぶつけた。…もしかすれば、アナタ自身…この先に続く彼女の言葉を聞く事に、危機感を抱いているのではあるまいか…。
アリスは、そんな明らかに切羽詰まった様子のアナタに…黙りこくって、自分の方を見ようともしない魔理沙に…小さく頷き、それから、首を左右に振って見せた。
「アナタの『能力』は汎用性が随分と高いの。だから表象を作成するという『能力』の範疇で、一級の作品を作り出す術を、そして、その為に必要な物が何かをアナタに教えてくれる。そう言う意味では、アナタの言った事は間違いでは無いわ。でも、それはアナタの『能力』の本質とは違う。それだけは私、断言する事が出来る。」
アナタの内面を、正確に、かつ大胆に切り分けて行く様なアリスの言葉。相変わらずの無表情でそれをこなしていく彼女に、アナタはどこか恨めしそうに、どこか皮肉る様に、横やりを入れる。
「断言か…。今日の今日まで俺への明言を避け続けていた君が言うと、何だか死刑宣告をされているみたいだな…。」
と、そこまで言い終えてからアナタは…自分が思わず口走った事の益体の無さ、無神経さに気付いて…恥じ入った様に、テーブルの上に手を付き、身を乗り出して深々と頭を下げる。
「今の俺の言い草…本当に、申し訳ない。こちらからアリスに頼んで話をしてもらっているというのに、つい…頭が混乱して、君に失礼な事を言ってしまった。どうか、許してくれ…。」
と、声と吐息に忸怩たる情感を滲ませ、アナタはアリスの前に頭を差し出し続けた。
そんなアナタの心苦しさの表れた低姿勢に、アリスは…大した反応も見せず…むしろ、辛そうで、居た堪れなさそうな、魔理沙の事ばかりを意識している。
その魔理沙の手が、そろそろと、慰める様に、庇う様にアナタの背中へ近付いていく…。
アリスはそれを見付けると、まるでこの場に居る全員の堪え症の無さを嘆く様に、小さな息を漏らして、
「アナタに気に病んでもらう必要は、私には無いわ。それに、謝って貰う謂われもね。だって…アナタの言った事は、まったくその通りなのだもの。」
と、ほんの少し取り澄ました様に、すっぱりとそう言い切った。…それで魔理沙嬢の手は…アナタの肩口の辺りでちょっとぐずぐずしてから…彼女の膝の上に引き下がっていく…。
魔理沙の手が離れ数秒と経たずに、アナタはいくらか上体を持ち上げてアリスの顔色を確かめる。しかしながら、一切の虚飾、無駄が省かれ、洗練されたその表情からは…言い換えるならば、若干、愛想に乏しいその顔付からは…流石に、彼女の思うところを一目瞭然に知るのは難しい。無論、幻覚とは異なった意味でな…。
そう言う訳で青年は、体勢も、声もかしこまったままでアリスにお伺いを立てる。
「あの…さぁ、アリス…。『その通り』って、どっちの事を言っているんだ…。」
アナタの質問の形式は実に順当だったと言えるだろう。これならばアリスは、二者択一の結果を一言告げるだけで済む。しかしまぁ、言うまでも無く…、
「どっちもよ。」
と、今の様に、より簡潔な答えが返ってくる場合も肝に銘じて置かなければならない。
その事と、アリスの洒落の引き出しが乏しいのをよく心得ていた、アナタ。痛ましい現実をふせる様に顔面へ手を宛がうと、グイッと、身体を椅子の背もたれまで押し込んだ。
「…なら俺は…下手をすれば自分の『能力』に殺される事に成ると…。」
「あるいは、自分の『能力』の影響に耐えきれずに、アナタ自身が死を選ぶという可能性もある。」
「なるほどね…確かにこれは、ある意味では死刑宣告だわ…。アリス、中断してすまなかった。ぜひ、話の続きを聞かせてくれ。話は…そうだ、『物を作る事が俺の能力の本質では無い』理由についてだったよな。」
そうしてアリスに死の可能性をチラつかされ、アナタは…向かい風に怯みながらも…依然として先を急ぐ事を諦める様子を見せない。
その生きる事を焦っているアナタの姿に、行く手を阻む様に、そして、向かい風から守ろうとするかの様に、堪らず魔理沙が口を挟む。
「なぁ、今日のところは、話をこの辺までにして置くのも一つの手だぜ。アナタがその『能力』を高めて、どんな優れた作品を生み出したいのかは解からないけど…。あまり根を詰め過ぎると、アナタ自身の『能力』に振り回されて、そんな意欲すらも保って居られなくなるかも知れない。そう成らない為にも…なっ、時間を掛けて、アナタの精神と、『能力』の間の溝を均していこうよ。」
そうして『無理するな』と申し出てくれる魔理沙に、アナタは目線だけむけて、
「こんな状況に成るまで、碌すっぽお前の意見に耳を貸さなかった俺の事を…まだ、気遣ってくれるのか。…本当に優しい奴だな、魔理沙は…料理も上手いし…。」
と、シチューの温かみに満たされている自分の腹に、そっと手を置いた。
アナタは、クリームシチューの舌触りが残る口元を柔らかくして、言葉を続ける。
「…けど、心配するなよ。土砂降りか、大雪にでも遭わない限りは、よしんば俺が『幻覚』に参って前後不覚の状態に陥っていたとしても、公演のスケジュールに穴を開ける積りは無いからさ。」
「ばっ…馬鹿か、お前は。私はそんな事を言っているんじゃなくて…。」
アナタのあまりに自覚を欠いた口振りに、魔理沙は顔を紅潮させて怒りを露わにした。…本当に、本当に…優しい娘だ…。
そんな彼女の反応にアナタは、有り難そうに、決まりの悪そうに様に…そして、少しだけ困った様に…小さく笑いながら、後ろ髪を撫でる。
「そんなに怒るなよな。半分は冗談だよ。」
「はぁっ、冗談だって…。」
と、魔理沙はアナタの着物の襟首を掴んで、力づくでアナタの顔を自分の方に向けさせて、
「どうも認識が甘いみたいだな…。自分が可愛いなら、よく聞け。お前が踏みこもうとしているのはな、冗談言が通用しない世界なんだよ。あんまり舐めた考えでいるとお前…死ぬ事さえもできずに、一生自分の力の影に怯えながら暮らすか…運が良くても、廃人に成って何も解からずに老いていくか…。このままだとアナタは、そのどちらかを否応も無く選ばされることに…そう成らないとも限らないのが、本当に解からないのか。」
痛切に、それでいて哀切に響き渡る、荒らげられた魔理沙の声。
アナタは、彼女の一言一言に打ちのめされた様に項垂れて…後ろ髪を撫でていた右手を、襟首を掴むその手に近づける。
「だから、あくまで半分は半分だって…。半分は解かっているんだ。魔理沙に諭されなくても、『幻覚』が…俺の『能力』が俺自身の首を締め始めている事は…。それと、魔理沙の見たてが正しくて、俺には自分の『能力』を制御する事が出来ない事も…後、それから…首が締め上げられているのを知って居ても、首がちょん切れるまで自分にはどうしようもないだろう事も…何となくは、知っているんだ。」
アナタは、無理に悲壮感を押し殺した様に、奇妙に平然として答えた。
魔理沙が驚きに血の気を失った顔色をして、自分を見ている。アナタはそれに気付いて、彼女の小刻みに震える手を着物から引き剥がすのを止めにした。そして…、
「それでな…冗談半分で、魔理沙に甘えてみたんだ…。」
と、相変わらず、強がりつつ、嘯きつつ、魔理沙の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめて、アナタは笑い掛ける。
魔理沙は、その視線を逃がさぬ様に、捕らえて放さぬ様に目を細めて、ポツリと呟きを漏らした。
「どういう意味で言っているのか…冗談じゃ無くて、真剣に話しをしてくれるのなら…聞きたいな。」
それだけ言うと多少は気も静まったのか、魔理沙は椅子に腰を落ちつけてアナタの言葉を待つ。…勿論、未だに着物の襟首は掴まれたままだで…。
まぁ、こう成ってしまっては…一段と厳しい目付きでアナタの誠意を観察するアリスも居る事だし…アナタには『真剣に話して差し上げる』以外の選択肢など無い訳だ。
アナタは小さく息を吐き出してから、表情を引き締めて彼女たちの視線に応え始める。
「俺も、魔理沙とやる公演を楽しみにしているんだよ…。確かに最初の俺は、ずっと消極的だった。しばらく『お試し期間』の公演をこなせば魔理沙も、金に成らない事に気付いてさっさと切り上げるだろう位に思っていたんだ。それなのに…俺の予想の通りに、申し分ないだけの収益は得られていないだろうはずなのにな…魔理沙はそんなこと以上に、外の世界へ、より広い可能性に自分と、そしてこの俺なんかを試してみようとしてくれていた。そんな肩の力の抜けた…けど、自分の仕事に手を抜く事はしない魔理沙を見ていると…尊敬して居るとか、負けずに頑張ろうと思うとか、そんな高級な話じゃないんだ。ただ、お前と居ると手応えがあるんだ。自分は今、何かを握り締めているという手応えがあるんだ…。それは多分、ずっと俺の求めてきたもので…それに気付いた時に、思えたんだよ。俺もだろって…俺も…俺も試してみたいんだなって…。魔理沙が期待を掛けてくれた人形繰りに、俺の持てる全部をぶつけてみたいんだって…なら…それならやっぱり、この便利な『能力』は欠かす事が出来ないだろうってな。」
まるで実感を握り締めるかの様に、膝の上に置いたアナタの拳へ力が籠る。そんな自分とは反対に、着物の襟を掴む魔理沙の手が、弱弱しく成っていくのに気付いて…、
「魔理沙…もしも、自分が俺を追い詰めているなんて思っているなら、それは勘違いだよ。この手応えを引っ張り返そうとしているのは、あくまでも俺なんだからな。それに俺には…自分が『幻覚』の世界から抜け出せなくなったとして…その時、魔理沙に公演のパートナーとしての俺を見捨てる積りがあるのか、それとも無いのか…俺はそう言うのをお前任せにしたくないんだよ。」
そう訴えかけるアナタの声に、魔理沙は何かの衝動を堪える様に、キュッと、唇を引き結んだ。その自分よりも辛そうな表情をしている彼女に、アナタは…謝る様に、許しを請う様に、穏やかに笑い掛ける。
「結局は俺、魔理沙に甘え切っているよな。それに、『死ぬかも知れない』なんて言われればさ、俺だって本当は怖くて仕方ないんだ。だけど、怖ければ怖いほど思い知らされるんだよな。俺が一番恐れているのは、今の面白くも何ともない自分のままで死ぬ事で…それに比べたら、有り余る自分の才能に…それこそ制御できない才能に潰れて死んで逝けたらとしら本望だろ。…なんてな…。」
そう言うとアナタは、暗い死の影に塗れたその顔で、さも可笑しそうに笑うのだった。
魔理沙は琥珀色の瞳を閉じて、すうっと、息を吸い込んでから、
「馬鹿…。」
「知っているよ…だから、半分は冗談って事にさせて貰う。」
…指先に微かな摩擦と、万感の余韻だけ残して、魔理沙が着物の襟を手放した。
アリスは少しも表情を変えること無く、二人のやり取りの決着までを見守っていた。それから何故か、二人に一度ずつ小さく頭を下げて…胸中で静かに呟く。
(ありがとう…私は感情に乏しい女だけど、アナタにはとても感謝しています。それから魔理沙…ごめんなさいね。私がこの場に居なければきっと、彼を抱き締めてあげる事が出来たでしょうに…。)
そう、少しの満足感を微笑に変えて…また無表情に戻ったアリスが口を開く。
「それじゃあ、お二人さん。話も纏まった様だから続けさせてもらうわね。…えぇっと、どこまで話したのだったかしら…。」
と、平静なアリスの声音に、魔理沙と、アナタは少々ドギマギしつつ、
「…確か、こいつの『能力』の本質についてだったと思うぜ。」
「そうそう、それで俺が、『俺の能力が物作りの為のものでないと、どうして断言できるのか』って、アリスの言葉を追求していたんだよな。」
アリスは居住まいを直すアナタたちを見ながら、しかし今度はさっさと話を進行させる。
「そう言えば、まだそんな話をしていたのだったわね。それにしも、アナタにはその位の事は思い当って居ても良いと思うのだけど…。あぁ、そうか…なるほど、そう言う可能性もあったのよね。」
「おいおい、またこっちを置いてけぼりにする気か。こっちの心の準備は出来ているから、遠慮しないで教えてくれ。」
と、アナタのやや能天気に映る顔に、アリスは呆れた様に小さな顎に宛てていた手を下ろして、
「…もし、アナタの『能力』が…アナタの言う通り、『思った通りの物を作り出せる程度の能力』だったとしたら…私とアナタが始めてあったあの日…どうしてアナタは、あの人食い小娘に喰い殺されずに生きていられたの。」
「それは…。」
人生で最も死に近接した瞬間。愛らしい少女が、愛らしい笑顔を浮かべて牙を剥いたその瞬間を思い返して…アナタは、食べるという事の業の深さと、食後の満足感を抱えた腹を撫でた。
そうして、アナタは解かり切った事の答えをアリスへと返す。
「それは、やっぱり…俺の吹いた草笛の音に、ルーミアが聞き惚れて…あいつの殺意が削がれたからだと…。それを俺に説明してくれたのはアリス、君だろ。『幻想郷』に入り込む事で芽吹く、各々が固有の『能力』を得る可能性。それが、生命の危機に瀕した影響を受け、俺の中で開花した。それで、無意識に『能力』を使ったお陰で死なずに済んだって…。」
と、アナタは、今や自らの頭の中で確固たる解釈と成っているイメージを紐解き、言葉として送りだした。
すると…アナタは忽ち、その経緯と、それを事実として受け取っていた自分の認識の中に、歴然とした錯誤がある事に気付かされる。
「そうだよな…俺は何でこんな事に気付かなかったんだ…。俺の『能力』が『思った通りの物を作りだす能力』だったのなら、あの瞬間…今にも喰い殺されるっていうあの時には、何の力も発揮できなかったはずだ…。そうだな…そうだ…。」
それはまるで、己の心の内に封じられた物を解読し、己の言葉に翻訳し直す様な作業。
そこにアナタの『能力』が大きく関わっている事に…アナタが自らの心に『心象を表象にする程度の力』を行使している事に気付いて…魔理沙は再びアナタの着物の襟首を掴み取って、気付けに大きく揺す振ろうとする。だが…何かの力が作用した様に、唐突に肘から下が言う事を利かなくなった…。
その原因を瞬時に察した魔理沙が、鋭い敵意を孕んだ目付きでアリスを睨む。
「どういう積りだ…。」
「魔理沙にも解かっているはず…ここは、彼が自分の『能力』の最奥に至れるかに関わる、重大な局面だと…。邪魔をしないでちょうだい。」
答え返したアリスの声は静穏そのもの、そして、魔理沙を諌める様に差し出された彼女の右手は…翡翠色の輝きを放つ、魔性のオーラを纏っている。
その右手の指が…クイッ、クイッと…精妙に、軽快に、鍵盤を叩く様な、それぞれの指から伸びる糸を引く様な仕草をする度に…少しずつ、アナタの着物の襟首を掴む魔理沙の指が開いていき、肩肘も力を失っていく。
どうやら、アリスが何らかの力を使って、魔理沙の肘から下の動きを掌握しているらしいな…。
アリスが、魔理沙の指を、手を、アナタの着物から遠ざけながら、言葉を続ける。
「魔理沙…貴女、自分の力を余す所なく受け入れたいと望む彼の気持ちを、解かって上げたのじゃ無かったの。魔理沙は今夜、彼が窮地に足を踏み入れようとする毎に、半ば以上の力づくで、強引にその意志をねじ曲げ様として来たけど…。いつまでそうして居る積りなの。そんな風に抵抗しても…。」
不意にアリスが言い淀む。そして、痛みを耐える様に眉根を曇らせて、
「…抵抗しても、誰の為にも…少なくとも彼の為には成らない。そうでしょう…。」
と、痛みに苛まれながらも魔理沙に語り掛け続けた、アリス。その右手は…魔理沙の方へと向けられた翡翠のオーラを纏う彼女の五本の指は、それぞれがてんでばらばらに、あらぬ方へと引っ張られている。
関節の可動域を無視し、腱の柔軟性すらも顧みない。魔理沙の腕の自由を奪って居るはずのアリスの指を、そうして、逆に責め苛むその力の出所を窺えば…思案するまでも無く、そんな事が出来るのは、する必要があるのは一人しかいない。
アリスの言った『抵抗』という言葉の意味を、まざまざと見せつける瑠璃色のオーラ。
魔理沙は、その紫がかった青の光輝で、アリスの束縛へ猛反発を加えながら、決然と応える。
「私だって、こいつの首に縄を付けて思い通りにしたいとは思わない。だから、そこが危険だと解かっている場所でも、こいつが命懸けで踏み越えたいと言うなら、それを尊重してやる積りでいる。友達甲斐にな…。だけどそれが、自分の爪で自分の胸を抉る様な行為なら…自分で自分の心臓を掴み出そうとしているのを見せられたなら…そんなのはな、こいつが命懸けだからとか、正気かだかなんて関係ない。」
そう言うと魔理沙は、そして同時にアリスも、アナタの方へと顔を向けた。
瞬をする事も無く、ぼんやりと、目の前にある空っぽの木皿を見つめる、アナタ。一見しただけでは、自らの心臓を抉り出す事に匹敵する暴挙を行っている様には、見えないのだが…。
しかしながら…アリスの力に強引に抗っている魔理沙…魔理沙の抵抗に合い、指が千切れんばかりに成っているアリス…二人の駆け引きの緊張感を思えば、やはり、アナタの踏み入った状況の危険度は生半可では無さそうだ。
魔理沙は、グイッと、両腕を更にアナタの懐に近づけて、
「こいつが今やっているのは、アリスが与える知識を土台にして『能力』への理解を深めるとか、そこから『能力』と精神の間の溝を埋めて行くなんて、真っ当な手順を進む事じゃない。こいつは今、無意識に自分の『能力』で封印した部分を…おそらくは、こいつ自身の『能力』に関する正しい認識を…今度は自覚的に、『能力』を使って解錠しようとしているんだぜ。そうなったら…。」
「そうなれば…彼の望んだ通り、彼固有の『能力』が完全な状態で発動する。」
「それが致命的に危険な事だから、こいつの本能は無意識の内に『能力』への認識の範囲を制限したんだろ。それ位の事はアリスだって…。」
「勿論、知って居たわ。いいえ…さっき、改めて確信した…。」
と、アリスはそう呟くと、魔理沙の力にされるがままだった右手の指を、握り締め始めた。
間髪入れず、まるで縄で縛り上げられた様に、魔理沙の両腕の手首がくっ付く。否、『まるで』などという比喩を超越し…実際に魔理沙の腕には、細い糸状の何かで締め付けられた痕が、くっきりと現れているのだ。
それだけでは、多くの事は解かり様もない。しかしながら、確実に言えるのは…アリスは本気だという事だろう。そして間違いなく、魔理沙も…次に彼女がアリスの力に抵抗する際には…手心など加える気はない…。
だからこそ魔理沙は、ギリギリと複雑に絡まり合った糸の様なこの状況で、アリスが何を語るのかに耳を澄ましているのだ。
アリスは力負けしない様に、『能力』の糸を引く右の手首を返して…言葉を続ける。
「さっきの彼との会話で、私も気付かされた。…ずっと不思議に思っていたのよ。私と彼が始めてあったあの日…喰い殺される危難をやっとの事で逃れた彼は、妙に平然としていた。普通の人間なら、しばらく口が利けない、食事も喉を通らない程のストレスを心身に受けていても可笑しくは無いはずなのに…。それなのに…彼から人形作りの技術を教えて欲しいと請われたのは、その日の夜の事だったわ…。」
と、アリスが一瞬、内面の海に呑まれ意識を深層に沈めているアナタを見つめた。
海底の深淵を覗き込むペリスコープの様な、青い瞳。そのアリスの眼差しの中に、喪失感に苦悩する様な、ガラスの様に脆く儚げな虚無感を見付けて、魔理沙は息を呑んだ。…魔理沙もまた気付いたのだ…彼女も、自分と同じ気持ちなのだと…。
今度は自分の心の水底を見下ろす様に、アリスが瞳を閉じる。
「あの日の私は、彼のその言葉を、振って湧いた『超常の力』を我がものにしようと躍起に成っているのだと思った。その貪欲さが何故か嬉しくて…人形の作り方を惜しみなく授けもした。それなのに彼は…人形師として一人前の技量を手にしたのちに彼がしたのは…操り糸で人形を繰り動かす事では無く、私に思いの丈をぶつける事だったわ。」
『力の糸』を引くアリスの手が止まった。…魔理沙もそれには気付いている。しかし、敢えて引っ張り返そうという気配は見せない…。
瞳の海の中。アナタから受けた煩わしさと好意の狭間を渡るアリスが、悩ましげな溜息を吐き出す。
「彼の、要領を得ない、初心な告白を受けて…私は、なんだか人形師として無感動に生きている自分を侮辱された様な気になった。…だけど、それはきっと私の心が吐いた方便だったのね。女として…人として…彼の気持ちに応える事の出来ない自分を慰める為の…。実際、私の意識は見事に操られた…我ながら人形の心を操るのはお手のもの。首尾よく、彼と言う私の心を掻き乱す不穏分子を、私の傍から追い出す事が出来た…。だけど…情けないな…。」
潤んだ瞳を少しだけ開いてアリスは、忘我の縁のアナタへ湿った恨み言を呟く。
「こんな気持ちに今更に成って気付かされるなんて…ううん、ずっと前から解かっていた事だってあった。…魔理沙…貴女と、彼の成り行きを見守る事に私は…人形師として人知を超えた存在に成る為に、『人並み』の感情を置き去りにしてきたはずの私が…いつの間にか、夢中に成っていた。浅ましい事だと知りながら貴女たちを、まるで『ままごと遊び』の人形の様に扱って居た。そして…貴女たちが幸せに成ってくれれば…私自身の中にわずかに残った人間味の…『乙女心』の密やかな慰めになるのじゃないかと…願っていた…。だって、それで私の心は、『恋』に踏ん切りを付けられると思っていたのだもの。」
乾いた木で出来た人形が、そうと知りながら、それでもなお涙を振り絞る。そんな、木肌を擦り合わせる様に痛切な、アリスの声。魔理沙は辛そうに嘆くアリスの気を引く様に、そっと、今少し『力の糸』への抵抗を緩めて、
「知っていたぜ…。だけどな、私だって始めは、アリスとこいつの接点を利用した。それに…自分でも無自覚だったけど…もしかしたら私は、アリスに成り変わってしまおうと思っていたのかも知れない。だから、アリスが気に病む様なことじゃないんだ…。それに、私が『アリスの変わりじゃ満足できない』と思ったのは、多分、そんな自分と決別しようと思ってのことだけど…それは、アリスが私を見守ろうとしてくれている気持ちを…私がこいつと出会うずっと前から傍に居てくれたアリスの思いを、否定しようなんて事じゃ…。」
「違う…そうじゃない…違うのよ…。私は…そんな理想通りでは居られなかった。人形を操る様に上手くは…私自身の心に絡みついた、彼への好意の糸を断ち切れなかったの…。」
アリスの『力の糸』が、強く、強く魔理沙の腕を締め上げる。それは、魔理沙の二の句を繋ぎとめて話さぬ様に…それは、魔理沙から何かを引き摺り出そうとする様に…。
魔理沙は、アリスから始めて感じた純粋過ぎる女性の部分に…情念に…気後れし、ただただ、手首を引き裂かれんばかりの苦痛を堪えるしか出来ない。それでも、彼女が奥歯を噛み締めているのは、きっと…痛みを感じているばかりではあるまい…。
アリスはその魔理沙の表情を見つめながら、青い瞳を閉じて、言葉を続ける。
「話が逸れて居たわね…こんな恥ずかしい話は、彼が目を覚ます前に終わらせてしまわないといけないのに…。彼の理性と本能が意見を一致させて、殺され掛けた恐怖を教訓とするより、私から人形作りを学ばせる事を選んだ理由。それはまず間違いなく、彼の『能力』の本質から関心を他所に移し、『能力』が完全な状態で発動するのを阻害するためでしょうね。そのお陰で彼自身は、自分の『能力』を『物作りの為の力』だと勘違いする事が出来たし…制御しきれない『能力』に脳細胞を焼かれずにも済んだ。そう、初めから彼には…自分の生命を守るという理由以外に、人形作りを学ぶ意味なんて無かった。それなら…私に愛の言葉を囁いた意味も…彼の好意からなんかではなくて…『能力』がある水準に達した時に起きるであろう不都合…それを私なら解決し得る。そんな風に、彼の本能が判断したに過ぎないのかも知れない。…私は、ほら…人形みたいに無感動な女だから…彼の不都合の種には成りえないと思っていたのね。だけど、お生憎様。」
と、アリスは瞳を魔理沙へと向け、不敵に微笑む。そして、キュッと、『力の糸』ごと、乱暴に魔理沙の腕をテーブルの上へと引き立てた。
ガツンッと、魔理沙の両手がテーブルを叩き、上に乗っていた皿も、鍋も、揺れ動く。魔理沙自身も、内心の動揺と、速く成る心臓の鼓動を抑えきれずに、アリスの笑顔を睨みつけた。
その感情に溢れる魔理沙の顔を穏やかに見つめて…アリスは、テーブルの上の彼女の両手に、優しく右手の指先で触れる。
「…彼が私に告白した事が、防衛本能の起こしたアクションの一つに過ぎないのだとしたら…そう思えば思う程に、私の空っぽの心は…こんなにも掻き乱されているのだもの。」
そうしてアリスの話を聞いている間にも、魔理沙は手首に巻き付けられた『力の糸』をどうにかしようと、抵抗を試みている。
しかし、オーラを纏うアリスの右手が触れている所為か、肘からはビクともしない。彼女が魔理沙の腕を引っ立てたのには、こういう思惑も含まれていたのであったか。
魔理沙も、ほんの少しもがいて見せただけで納得した様だ。…判断する時だと…彼女の言葉を聞いた後に…このまま、アナタの『能力』が完全に発動するのを待つか…それとも…全力でアリスの力に抗うか否かを…。
そして、もし、魔理沙が後者を選んだならば…彼女の抵抗を受けてへし折れ掛けたアリスの指…アリスの『力の糸』が食い込んだ彼女の手首…。それらを思い返すまでもなく、双方ともただでは済まないだろう。
だがしかし、それを承知の上で決して迎合などはしない。アナタも良く知っての通り、魔理沙とはそういう女性なのだ。
「それで…事前にこうして、知恵を付けてくれた理由は…私に対して、どうしても言ってやりたい事があるからなんだろ。…言えよ。少なくとも私は、アリスとの会話が決着するまで、不意打ちで暴れ出したりはしないぜ。」
テーブルの荒い木目に擦り付けられる感覚を向こう意気に変えて、魔理沙が挑戦的に笑った。
アリスも指の付け根に残る疼きを味わいながら、笑みを浮かべて頷いて見せる。
そんな緊張の頂上とも、弛緩の極致とも取れない混沌とした空気の中。アリスは…魔理沙との最後の意地の張り合いに赴くのだった…。
「彼に自分の『能力』を制御する事が出来ない以上は、遅かれ早かれ、彼は自分の『能力』が作り出す『幻覚』の住人になる運命。魔理沙だってそれを知りながら…それなのに彼の『能力』の発動を遅らせる事ばかりを優先して…いつまでも、彼の未来に向き合う覚悟が出来ないのなら…。」
アリスの言葉の最中。魔理沙の手に、ギュッと、掴まれる感触が強く成っていく。しかし…それは『力の糸』に締め付けられる痛みとは違う様だ…。
そこに表面的な痛みはない。だが、アリスのか弱い握力と体温から、直に感じとれる彼女の気持ちは…糸に締め上げられる様な、そんな生易しい物とは訳が違う…。
魔理沙はアリスの手から…自分の対抗心など簡単に砕け散ってしまいそうな…彼女の本気を感じとって、小さく喉を鳴らした。
そして、既に押し潰れ掛けている魔理沙の心へ、アリスは語り掛け続ける。
「今の、自分と同じ世界を見ている彼しか思う事が出来ないのなら…魔理沙…貴女は、彼に関わる一切の事を諦めなさい。人形劇も、彼の為に料理を作る事も、彼と一緒に過ごす時間もね。そうするのが…心を殺してまで彼と寄り添う覚悟が、貴女にないのなら…それがお互いの為にだわ…。」
きっぱりと、そして論理的な説得力を越えて決断を迫る、アリスの一言一言。
魔理沙もようやく理解した。…アナタが、自身の『能力』の知られざる一面と対話している間に…アリスは自分にも、未知の部分と対決する事を望んでいるのだと…。
その『未知の部分』とは…今もこうしてアリスからひしひしと感じているもの…それは、女に生まれ付いた誰しもが心の奥に潜ませる…根源的な熱情…。
外側からはアリスの焼き焦がす様な感情に炙られ、内側では自らも女であったと強く認識させる熱に熔かされて行く。
魔理沙は否応も無く、加えて、おそらくはアリスの思惑の通りに、自分の『情念』の苛烈さを理解して…しかしながら、解かっていても…いいや、解かっているが故に素直に成れない。それもまた、『女心』なのである。
「それじゃあ何か。アリスは、私に…友達が危機的状況に陥っているのを知りながら、知らぬ存ぜぬを貫けって言いたいのかよ。それはちょっと、薄情ってもんだぜ。」
と、目線を逸らし拗ねたようにアリスを、それから多分、アナタを非難した、魔理沙。それにしてもよくもまぁこの状況で、これだけふてぶてしい態度が取れるものだ…並みの神経では無い。
それでもアリスは…そう、それでも…それだけでは足りないと、冷たく突き放す様に、
「そう言う事なら心配しないで、魔理沙の手を借りなくても、彼の面倒は私が見るから…。」
そう鮮やかに答えられるとなると…不貞腐れ気味の魔理沙も黙っては居られない。まぁ…そうは言っても、
「め、面倒を見るって…それってつまり、どういうことだよ…。」
と、口を挟んだ魔理沙の言葉は、グズグズとして、擦れていったのだがな…。
アリスは澄まし顔で、ちょっとだけ気取る様に、カチューシャの前髪を掻き分ける。
「勿論、言葉通りの意味でしょうね。少なくとも、人間よりもずっと寿命の長い私になら、彼の命の火が燃え尽きる瞬間まで傍に居て上げる事が出来る。それに覚悟も…最低限、彼が人間らしい生活を営める様に…彼の見る『幻覚』に合わせて、自分の世界を歪ませる覚悟もあるわ。それできっと、十分に彼の不足を補って上げる事が可能なはず…。だから魔理沙、一度彼と貴女が縁を切ったなら、それ以降は、食事の差し入れなんかも受け付けないから…悪しからず。」
その、まるで勝ち誇るかの様な、アリスの態度。そんな挑発的な様子にも…魔理沙は受けて立つ事が出来ずに…俯く…。
「私は…アリスからみたらずっとガキかも知れないけど…そんなに、間違った事を居ているのかな…。確かにそれは、こいつにとって、いつかは必ず訪れる不都合なのかもしれない。だけどさぁ…それを少しでも先延ばしさせて上げたいって…そう思う気持ちは、そんなに悪い事なのかな…。」
そうやって魔理沙が、ポツリポツリと、零した幾重かの言葉。天井から降り注ぐランタンの灯りも、全てを隈なく照らす訳ではない。
アリスは微かに揺れる光と、震える魔理沙の声に、深い溜息を吐きだした。
「まったく…やっと本音が出た…。貴女はもっと、そんな具合に…恩着せがましく成れば良いのよ。だって貴女の本心は、『彼の為を思っている』のでは無くて、『彼を思っている』のだもの…。そこが私とは決定的に違うところなのよね。」
「アリス…。」
と、魔理沙が漏らした声に、アリスは…『そこから先は言わないで』と哀願する様に首を振った。
「人形も愛されれば、愛してくれた人の事を愛おしく思う。…けれど、人形には自分を愛する事が出来ないの。私は…彼の事が好き…。それは彼が、私の心の空白に、恋心を注ぎ込んでくれたから…。きっとこの思いがあれば…彼が、私を思ってくれた気持ちがこの胸にある限り…私は生涯、彼に尽くす事も出来るでしょう。でも…私には彼を幸せに出来ない。彼にも私を幸せになんか出来ない。なぜって、私は…私の事を愛してなんていないから…。」
アリスは魔理沙の手首から手を離して、椅子の背もたれに身体を添わせる。二人の間に設けられた距離、そして、それでもなお『力の糸』が解かれて居ない事が…アリスの訴えたい言葉の終りを告げていた。
魔理沙もそれをよく承知の上で、拘束された両腕をテーブルの上に持ち上げると…、
「友達甲斐なんてオブラートに包まれた様な言葉を使って居る内は…こいつと自分の間に割って入ろうとするんじゃない…。アリスはそう言いたい訳だな。…って、そっちこそ、どれだけ素直に成るのに時間を掛けているんだよ。」
「本当なら私は意固地なままで…『ツンデレ娘』でもなんでも良かったのよね。だけど、ほら…誰かさんが、『私の代役なんてやってられない』なんて言うから…こっちだって始めから、私の役割を演じて貰う事を無理強いする積りは、更々なかったのだけど…あんまりにもあっさりと否定されたものでしょ…私にも色々と思うところがあったのよ。女としてね。」
と、アリスもオーラを纏う右手を前に突き出して、魔理沙の『臨戦体勢』に応えた。
アナタが意識を深く沈めている時に起きた一悶着は、どうやら『女同士』で決着が付きそうだな。
左手で自分の右腕を掴んだアリスに、魔理沙が力を溜める様に身体を丸め、頷いた。
「女としてか…。それじゃあ、私に対する『友達甲斐』なんて、入り込む隙間も無いよな。」
「いやに混ぜっ返すのねぇ。それじゃあ私も改めて言わせてもらうけれど…別に私は、魔理沙に私の代役をやって貰いたくてこんな状況を演出している訳じゃないの。魔理沙に、いずれ彼に訪れる不都合に寄り添う度胸が無いみたいだから、私のプランに手を出さないで頂きたいだけよ。貴女が力付くで私の戒めを破るのなら…その覚悟を受け入れる心の準備くらいはしているわ。」
「なんだよ、それ…。アリスお前、私を説得して居るんじゃないのか…それとも、私がお前に抵抗する様にけしかけている積りじゃなかろうな。」
「きっと、その両方なのじゃないかしらね…。自分でも不思議に思うの。自分の気持ちならこんな風に、まるで他人事みたいに話をする事にだて抵抗は無いのに…魔理沙の事も、彼の事も…私とは違う、私とは違う他人なのに…どうしても他人事にしたくないの。だからなんでしょうね。厚かましいと解かって居ても、貴女たちには私が最善だと思えるものを選んで欲しい。私が信じたものを信じて欲しいと思うの。」
「『抵抗』か…そうだな…。誰よりもこいつの運命に抗おうとしているのは…こいつ自身や、私よりも、むしろ、アリスお前だろうぜ。こうして縛り上げられている私が言うんだから間違いはないぜ。」
「そうなのかしらね…生き人形の私には、自信を持ってそうだとは答えられないけれど…目下のところの恋敵である魔理沙にそう思って貰えているのは…嬉しいわ。多分、『女として』すごく嬉しいのだと思う。」
「アリスが嬉しいんなら、私だって嬉しいぜ。それと…恋敵っていうのも気に入ったな。アリスの案を入れるか、それとも力付くでこいつをものにするか…どっちを選ぶにしても、全力でやれる。」
「フフッ…そうね。でも、ごめんなさいね。彼に告白するその前に、こんな重大な決断を迫っちゃって…。もし、結果的に『やっぱり、俺はアリスが良いんだ』なんて事になっちゃたら、その時は恨まないでちょうだいな。」
「むっ、そう言われると、そういう可能性って低くは無いんだよなぁ…。えぇい、ままよ、女は度胸だぜ。もしも私がこいつに振られる様な事があったら…そん時は、お前ら二人分の面倒を私が見てやるよ。」
「あらっ、それ良いわねぇ。もしかして、それが最善だったかも…だけど、選ぶのは彼と…そして…。」
「私だろ。」
長い、長い二人の会話の終り。
人形たちはいつの間にか寝静まり、力無く倒れ伏す。天井から部屋の中を照らしていた『魔法の箒』も、気球の様にゆっくりと下降し、最後の力を振り絞って床にランタンを立たせると、ただの箒へと戻った。
どうやら、各所に配っていた力を集結させて、二人は全力を用いる事を決意したらしいな。…と言う事は、アリスの説得は失敗に終わったという事だろうか…。
薪ストーブの中の火の化身が消滅したのが合図。部屋が暗さが増すと同時に、二人の身体を覆う二色のオーラが輝きを放った。
アリスの右手の指が、痛みを覚え始める。それは…もう少し、あとほんの少し魔理沙が『力』を込めたなら、自分の糸は…彼女の腕を引き裂く事になるのであろう確信。
それでも…互いの気持ちを知っているからこそ…自分の気持ちを相手が解かってくれているからこそ…引けない一線がそこには在った。
そして、魔理沙が『力の糸』を引き千切りに掛った瞬間…アリスが呟く。
「最後に…私たちが決裂するその前に…一つだけ知っておいて欲しいの…。私は貴女に、恩着せがましく成れと言った。その時の…私が身を引く様な素振りを見せた時の貴女の顔…ほんの少しだけど、微笑んでいたわよね…。私、魔理沙のあんな顔が見られた事、心から嬉しかったわ…。もし私の心に『友達甲斐』なんてものがあるのだったら、きっとこんな気持ちなんだと思うの。…魔理沙、それにアナタも…私にこんなにたくさんの気持ちを与えてくれて、本当にありがとう…。」
アリスが充足感に満たされながら、右手の指に襲い掛るであろう衝撃と痛苦に備え、居心地の良さそうな笑みで奥歯を噛み締めた。
それから数秒…また数秒を待機して…その噛み締めた歯に重なる力が無駄なものだったとアリスが気付くまでには、更に数秒の時を経る必要があった。
「どうしてなの、魔理沙。貴女らしくも無い…まさか、戦わずして降参する積り…。」
待てど暮らせど露ほども抵抗の兆しを感じさせない魔理沙に、アリスは関節を軋ませる様な歯痒さに指を震わせ、問い質した。
その問いに魔理沙は…勇敢に、そして堂々と無抵抗を貫きながら…苦笑を返す。
「アリス…お前、私とはもう随分と長い付き合いのはずなのに、解からないのかよ。この私に、降参する積りなんて1ミリもあるわけないだろ。ついでに、アリスの力に抵抗しようなんて気も、さらさら無いぜ。」
「それで、私が根負けするのを待つ…なんて言うんじゃないでしょうね。」
「うーん、アリスが怒るだろうと知っていう上で、本音を言うと…それも悪くはないかなと思っている。」
そう冷やかす様に言う魔理沙の返答を聞いて、確かに、アリスは怒っているようだ。…指からは余分な
力が抜けて…震えが止まった…。
魔理沙はそんなアリスの、器用でいて、不器用な姿に、本心から愉快そうな、嬉しそうな笑みで頬を緩める。
「だってアリスは、私の力で自分の指がへし折れたとしたら…私たちの間で、何かが変わってしまう事を覚悟しているだろ。それが解かっているのに、あえてリスクを冒させるのも失礼に当たると思ってさ。」
彼女の言い分を聞いた刹那、アリスの右手がピクンッと震えた。
痛いはずなのだ。アリスの『能力』が生んだ、強靭さと、繊細さを重ね持つ見えない糸。それが、髪の毛筋一本分ほどとは言え、なおいっそう、深く肌に食い込んだのだからな。
しかし…まったくもって、彼女らしい…幾重にも巻き付いた細い糸が、縦横無尽に両腕の皮膚を苛もうと、魔理沙の顔は平然として、陰りさえ見せない。
アリスもそうと知りながら…きつく締まった糸を緩める事が出来ずに、驚きに顔を強張らせている。 糸の、一筋、一筋を介して感じとって居るのだろう。自分が言葉でしか伝えようが無かったものを…魔理沙の『覚悟』を…。
魔理沙は、アリスの瞳の奥でも確かに燃えている気持ちを、青い海原を焦がす灼熱の太陽の様な『対抗心』を見つめる。そして、『降参する積りなど無い』と言い切った心意気そのままに、口を開いた。
「その点、私なら神経が図太く出来ているんでな。両腕をズタズタに引き裂かれた位じゃ、何も変わらない。ましてや、痛みとか、傷なんかで、自分たちの事に必死に成ってくれている親友の気持ちを、見誤るはずもないぜ。…で、そんな風に考えたら思えたんだよな。」
と、魔理沙は、瞳を開いたまま夢を見ているアナタの方へと、顔を向けて、
「両腕が千切れてしまうのを我慢できる自信があるのなら、こいつが幻に見る世界も…それがどんな陰惨で、私に、それに他人に不都合を撒き散らす様な世界であっても…私、我慢できそうな気がするんだ。」
アナタの見る虚ろを、魔理沙は琥珀色の瞳でうっとり覗き込む。…その面持ちには、恍惚とした瞳の見据える先には、本当にあるのかも知れない。痛みや、不都合を越えて行ける力が…覚悟が…。
最早、苦痛など感じはていない。そんな魔理沙の穏やかな微笑に、アリスは…流石にお手上げだと零す様に…瞳を閉ざして、彼女の言葉の続きに耳を傾ける。
「それはきっと、両腕を縛り上げられている程度の窮屈とは、比べ物にならない不都合だろうし…痛みだって、腕を切り裂かれるのよりも、ずっと痛いんだと思う…。だけど、それをこいつと共有できるのなら…ほんの少しでも、こいつの苦しみを私が肩代わりしてやれているって感じられたなら…まっ、なんとでもなるさ…。そう思えるんだ、不思議と…。」
魔理沙はそう言って、アリスに白い歯を見せて笑った。
アリスは…ちょっとだけ不愉快そうに…鼻息を漏らすと、
「彼となら、どんな苦しみでも…か…。で、この私との場合だと…共感できるのはせいぜい、腕が千切れる痛みまでが限度だと…貴女、そう言いたいわけね。」
「大正解。やっぱりアリスは、私の親友だぜ。」
「まったく、惚気てくれちゃってまぁ…。可愛い魔理沙の為とは言え、これ以上は、付き合いきれないわ。」
アリスが何かを引っぺがす様に右腕を振る。すると、魔理沙の両腕を縛っていた糸の感触が、朽ちて消える様に無くなっていった。
手首の感覚を確かめながら、魔理沙がそんなアリスに笑みを向けて、
「こんな易々と放してくれちゃって良かったのか。万一、私が今言った事、アリスを鳴き落としにする嘘だった時は…どうするんだ。こいつの事、今すぐ起こしちゃうかもよ。」
そんな魔理沙の、冗談とも、本気ともつかない軽口。それに…足を組み、まるで拳銃の手入れをするかの様に右手を撫でていた、アリスは…、
「そう言えばまだ、魔理沙の口からはっきりとは聞いていなかったわね。私の意見を容れて、彼の事をそっとして置くのか、それとも…私たちがこれだけ派手に暴れても起きないのだから…文字通り叩き起こす積りなのかは…。」
魔理沙はやおらアナタの方へ右手を伸ばすと、
「この頬っぺたを思いっきりつねって起こすってのも、魅力的だとは思うけど…アリスはやっぱり、『寝顔を見守りたい派』なんだよな。…見たくないなら、あっちの方を向いていてくれて良いぜ。」
「お好きにどうぞ。私は貴女たちの為にと、荒っぽい事をしてまで『最善策』を押し付けようとしたけれど…魔理沙に、『最悪』のケースを彼と一緒に乗り越える覚悟があるのなら…私のお節介なんて不要だものね。」
「おいおい…。アリスの迫力に押されて私が、結構、背伸びしたところがあったのは解かっているだろ。あんまり、脅す様な事言うなよな。」
「さてねぇ、何のお話やら…。」
アリスの口振りに、魔理沙は困った様に、はにかんだ様に…アナタへと伸ばした手を戻して、アナタそっくりな仕草で…ハニーゴールドの髪を掻き分け、後ろ髪を掻く。それから…、
「ねぇ、どうしようか。」
そうアナタへ微笑み、語り掛けると…アナタが掻き回し、毛羽立ったアナタの後ろ髪を…その右手で、そっと、優しく撫で付けてやるのだった。