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熔ける微笑  作者: 梟小路
3/9

[8]

 草原を吹き抜ける風が民家の壁に行き当たり、横切りながら、人里を通り越していく。

 その濃紺の風を受けてなびく草むらの中、家々の連なりからポツンッと飛び出た、一軒の木造家屋があった。

 (またた)きを繰り返しながら、その家を見下ろす星たち。目下に漏れ出した温かな明りに、キラキラと歓声があがる。

 分けても一際熱心な満月が、瞳を大きく見開き、火の気の宿った曇りガラスの先を覗き込むと…注視する目配せがスポットライトとなって、舞台へ燦然と輝く光の花束が投げ入れられた。

 木製の扉が、ガタリッと、風に押されて揺れる。

 それでは、その隙間を通して…暗幕の内側では一体、どのような群像劇が演じられているのか…我々も覗かせて貰うとしよう。…隙間が閉じ掛けているので、なるべく足早に…。

 吹き付ける冷たい風を押し返す様に、ピタリッと、扉が入り口にはめ込まれた。

 チューバの音にも似た隙間風の唸り声。それが締め出されてみれば…結構、家の中では賑やかにやっている様だな。

 ただ、風が止んでしまった事で、室内に微妙な空気が淀んでいる事が良く解かる…。

 果たして、そんな不味い雰囲気を作り出した元凶は、どちら様だろうか。

 薪ストーブの上に乗せた鍋を、木製のお玉でかき混ぜている魔理沙は…陶器の鍋から漂う香りからしても、彼女が『不味い』空気を作り出しているとは思えない。 

 次に、芳しいクリームシチューの匂いを楽しみながら、扉の方に向かって、奥ゆかしげな態度で話しかけているアリスは…こちらも人形を、要所、要所で忙しく働かせ…薪ストーブの火に当たりながら、人当たりの方にも余念が無い。この能動的な様子を見る限り、場の雰囲気を乱す様な真似をしてはいないだろう。…まぜ返す様なことは、あっても…。 

 そうなると…消去法で言っても、この家の空気を悪くしている原因は…未だ修繕途中のドアを『フック船長』と抑えつつ、緊張の面持ちでアリスの問いに応えている、アナタであろう。鼻の下を伸ばし、さも嬉しそうにアリスの問い掛けに答えている姿を見れば…間違いないだろうな…。

 「やっぱりっ。大抵、そうなのじゃないかと思ったの。これだけのサイズの塊と成ると、胸像を削り出すのじゃないかしらって…。」

 アナタの取り寄せた(ろう)の塊が、予想通りに胸像用だった。

 それをアナタの口から確認したアリスが、手を叩いて、難問に正解した事を喜ぶ。…新たな指示が飛んだのかと…人形たちが一斉に彼女の方を振り返ったのは、ご愛嬌…。

 アナタは、蝶番(ちょうつがい)を取り付け直している『七人の小人』…と、足元で、セミの様に成ってドアに張り付いている『フック船長』の…作業風景で目線を紛らわせながら、アリスに応え返す。

 「あ、あぁ、そうなんだ…。良く解かったな…。」

 色めき立つ胸元から喉へと這い上がる、ムズムズとした…興奮とも、恥ずかしさとも付かない感覚。それを彼女たちに気取られまいと、アナタの声は少しだけ普段より大きく、少しだけ普段より通って聞こえた。

 その会話から一人離れ、薪ストーブの前で椅子に腰掛けていた魔理沙は…お玉で(すく)い上げたシチューを、ポタポタッと(したた)らせている。

 横目ではアナタとアリスの、ぎこちなくも、微笑ましい遣り取りを盗み見ながら…と、その魔理沙の目線に、アナタが後ろ髪を掻こうと、右手を首筋の辺りに持って行こうとしているのが映った。

 あと数センチという所まで後ろ髪に近づいて、それが…、

「へぇ、あの梟…運び屋から中身を聞いて…いや、それだけの情報から、俺が胸像を削り出そうとしている事を推測するのは、簡単じゃないだろ。最低限、彫刻の知識も要る。それに、芸術への造詣(ぞうけい)が深いに越した事は無い。…あぁ、でも…それを言ったら、こういう繊細な方面ではまだまだ駆け出しもいいところの俺が何をでっち上げ様としているのか位は、マーガトロイド大先生にはお見通しで当然だよな。…んっ、ハハッ…そう言えば、こういう言い回しが嫌いだって、説教された事があったけ…もう半年は前の事だろ、忘れていた…。しかし、アリスは相変わらずだ。…だから、相変わらず勘の鋭い女だなって…当ててみてくれよ、なんで俺が胸像を作ろうと思ったのか。…正解。丁度、魔理沙に連れ回せれている内に見つけたんだ、モデルに打って付の人材を…それが誰かは、仕上がってからのお楽しみだな。そうしないと、万が一不出来な代物が出来上がった場合には、俺も、それにモデルに成ってくれた奴も、面目が無いからさ。…そうそう、顔が命の胸像だけに…。勿論、女性にお願いする積りに決まっている、モデルは…。俺が、男の胸像なんて作る訳も無いだろ。そうなんだ…良い女が見つかったから…悪くは無いかって思っていたんだ…胸像を作るのも…。」

と、アリスの発する一言に、十言とでも、二十言とでも、話せる限りの言葉を尽くして返答しようとする内に…何故か、アナタの右手は少しずつ首筋から離れていった。

 魔理沙はそんなアナタの仕草を見つめながら、ポツリッと…、

「嘘吐けよ…。」

 そう言うと、腹立たしげに、かつ荒っぽく、お玉をシチューの鍋へと突っ込んだ。

 むしゃくしゃする気持ちを煮詰める様に、魔理沙はぐるぐると鍋の中身をかき混ぜて行く。それでも、彼女の胸中には未だ…シチューを粗雑に扱いすぎる事に対するブレーキが…。

 丸い頭の部分が、ジャガイモを、ニンジンを、玉ねぎを、牛肉を掻き分ける度に…思ってしまうのだ。

 (骨折って、汗水たらして…誰の為にとは言わないけれど…精魂込め作ったクリームシチュー。野菜も、肉も、下ごしらえの時から、丁寧に、丁寧に取り扱ってきた。それを乱暴に掻き混ぜて、ぐちゃぐちゃにするなんて、無理…。)

と、具材の、一つ、一つに触れる細々としたタイミング。そんな、ブレーキが掛るのであった。…そこがまた、魔理沙には何とも言えず苛立たしく…だがそれでいて、あれもこれもと、目の前の美味しそうなものを残らず頬張った様な充足感に…文句を言うのさえ惜しくて…恐ろしくて…何も言えない…。

 手を止めて鍋の中を覗き込めば、浮かぶのは誰かさんの…すぐ傍に居るはずの誰かさんの顔。…あっ、一応、誤解の無い様に…魔理沙も、著者も、その『誰かさん』の顔がジャガイモの様だなどとは思っても居ないので…。

 おっと、話が横道に逸れている間に、お玉を軽く持ち上げた魔理沙が、鍋の真ん中に居座るジャガイモに狙いを付けて、怒りをぶちまけ様としているではないか。まさか…著者はともかく…魔理沙にはアナタの…もとい、『誰かさん』の顔がジャガイモに…ここは一先ず、キャラクターを代弁して謝らせて頂く。『誰かさん』悪しからず…。

 そして魔理沙は、面影の映り込んだジャガイモを破壊し、(ほぐ)して、シチューの中へと(とろ)けさせてしまうのだろうか。いいや、彼女には出来なかった様だ。

 折角、アナタの為に作ったシチューを、アナタの為に整えたシチュエーションを…ぶち壊しにしてしまう事など…。

 再びシチューを掻き回し始める、魔理沙。その手の動きが象る輪の様に、優しく、柔らかな…アナタが楽しみだと言ってくれた『野菜の甘みたっぷり』のシチューの匂いが、家中に広がっていく。

 シチューと、魔理沙の気持ちが熟するまでにはもう暫し。

 それまでのほんの少しの時間、ゆっくりとこの香を味わいながら…さて、アナタがどうやってこの雰囲気を作ったのかを、振り返ってみることとしよう…。

[9]

 帰宅したアナタはその瞬間から、複数の『風変わり』な光景に出くわす事になる。

 差し当たり、自宅の入り口から扉が無く成っていた事を、一つ目に挙げて置くとしよう…。

 小脇に薪木を抱えて、開けっ広げの状態の我が家を見つめる、アナタ。それなりには驚いた様な、それでいて何やら感心した様な声を漏らして、

(まっ、犯人の見当は付く。それに、門戸は開かれている訳だし…金属の扉に入れ替えられて、締め出しをくらう事を思えば…まだ、マシだな。)

と、胸中で呟くと、警戒する素振りも見せずに入口へ進む。…このポジティブシンキング…魔理沙に『幻想郷』を連れ回され、さぞや大変な目に合って居られるのでしょうなぁ…。

 そうして、月明かりを背負って入り口に立つアナタに、二つ目の『風変わり』が指を差してきた。そう…アリスが居たのだ…。

 これにはアナタも驚いていたな。しかし、驚きのあまりに彼女の名を呼びそうに成る舌を、口の中で捩じ伏せて…結局、アナタが訪ねたのは…、

「俺の家のドアは…。」

と、そんな、見え見えな逃げ口上であった。

 まぁ、扉を取っ払うという行為から、アリスの人となりがあまりにもかけ離れている。その違和感も手伝ってのアナタの反応ではあったろうが…絵画や、家具を製作する前に…非常口を作っておくべきだったな。

 さてと、これで主だった『風変わり』は説明し終えた訳だが…まっ、とりあえずの事に、『その他の風変わり』に関しても挙げて置くとしよう。

 一つは…これは取り立てて指摘するまでも無く、お気付きの事と思うが…アナタの足元を、アナタの作った操り人形たちが歩きまわっている事。そして、自主的に、加えて黙々と、各々の作業に従事している事が挙げられる。

 しかしながら、この場にアリスが居る以上は、彼女の『能力』についても良く知っているアナタが、驚く様な事でも無い。

 それでも強いて、変だと、面白可笑しいとアナタが感じた部分を挙げるとするならば…『白雪姫』や、『シンデレラ』など、おとぎ話の世界では王子様に助けられるのが仕事のお姫様方が、箒の柄から引き摺り下ろしたバスケットを協力して担ぎ上げ、一方はテーブルの方へ、一方は薪ストーブの方へと運んでいる。『ラプンツェル』などは、長い三つ編みを襟巻(えりまき)の様に首に巻き付けて、瞼の落ちたままの『眠り姫』、それに、頬も薔薇色の『赤ずきん』と力を合わせ、バスケットを持ち上げているのだ。

 …にも関わらず、『三つ編みの君』のパートナーである王子様は、トンガリ帽子を膝に乗せたまま、一人だけ本棚の上に腰かけていたり…。まぁ、王子様には、王子様が果たすべき仕事があるという事だろうが…アナタにとってはそれぞれに、それぞれの物語を演じる事のみを願い、各々の魂を吹き込んだ人形たちなのだ。

 そんな彼らと彼女らが、製作者である自分の意図さえも超越し…その上、自分たちの『生命線』そのものである操り糸すらも、己で背負って行動している様は…奇異の情よりも、むしろ、アナタには感動的ですらあった。

 そう、驚く様な、『風変わり』を意識させられる程、安っぽい光景では無い。ただ、アリスの力の素晴らしさを再認識したと、それだけの事なのだ。

 …そんな具合にアナタが、思いがけず我が家を訪れた幸運の女神にのぼせ上がって居ると…もう一つの『その他の風変わり』の方から、スゴスゴと、こちらの方へ歩いて来る人形の姿が…『フック船長』だな。

 そして最後の『風変わり』とは、言うまでも無く、項垂れた魔理沙であり…普段はあんなにも商魂たくましく、『元気印』という言葉がぴったりと似合う彼女が…こうも沈み込んで、更には人形たちに腕をマッサージされている姿を見れば…アナタとしても多少は奇妙で、それに…心配ではあるか…。

 魔理沙は椅子に腰掛け、『オオカミ』と、『ピーターパン』に片方ずつ腕を揉まれている。それから、彼女のすぐ傍のテーブルには、薄茶色の紙紐(かみひも)と、赤茶けたクラフト紙で包装された『荷物』らしき物体が置かれていた。

 その推定『荷物』が、自分の注文した彫刻用の蝋の塊だと気付ければ…アナタは、現在の有様がこう成っている理由に、ピンッと来た様だ。

 (あぁ、そう言う事ね…。つまり、魔理沙のマッサージ係りから、船長殿は(あぶ)れてしまったと…片手は凶器だからな。まっ、船長には、『気合いの入れ過ぎでした』と、雑務に向かない身体に仕上げた事を後で謝るとして…。あいつの方は…魔理沙についてはどう(ぐう)するべきかな。一応、『荷物』の受け取りを代わりにやってくれた事に、礼を言っておくべきだろうか。…って、扉を壊されて、礼を述べる筋合いってどんなだよ。…あっ、でも、扉が内側に倒れている、この状況を見れば…。)

と、どうやらアナタは、ご自分のお住まいと、魔理沙が半壊状態になった、かくの如き『筋合い』に…要するには、意地に成って荷物を抱え続けた魔理沙が、当たり前にその重みに耐えかね、扉を破壊したという筋合いに気付いたらしかった。

 じっと、人形たちの手厚いケアを施されている魔理沙を、それに、見るからに所在無さげに置き去りにされた、テーブルの上の『荷物』を見つめながら、

(扉がこの有り様でいて、荷物の方は無傷って事は…魔理沙の奴、人の家のドアを蹴破りやがったな。多分、手荷物をぶつけてこじ開けるか、足で踏み倒すかのギリギリの判断だったんだろうけど…他に幾らでも、やり様は有っただろうが…例えば、魔法とか…。)

 アナタは瞳を半目にしつつ、そう胸中で零した。

 だがどうも…その『魔法』という解決案の漠然さ、かつ突飛(とっぴ)さに…自分で垂れた文句に可笑しさがこみ上げた様だ。

 アナタは、彼女の強盗も青褪(あおざ)める程の所業を、許すとか、許さないとかの次元を超越した…少なくとも、背中に吹きつける夜風の冷たさを忘れる位には…不敵な微笑を浮かべる。

 (まぁ、俺の家に盗まれて困る様な物は無いし、扉くらい簡単に直せるからな。荷物の中身が壊れるよりは良いか。その点だけは、魔理沙の『対応』は適切だった。及第点はやらないが…。それにしも、あいつの『アレ』は何だ…。)

と、アナタは暗がりで一層に目を細めて、俯く魔理沙の方を覗き込む。何やら、興味深い物でも見つけたのだろうか。

 そうそう、興味深いと言えば…アナタの論理的思考を垣間見ているとどうやら、アナタ自身は、アナタの手に成る作品たちに対して、それ程の価値を見出しては居ない様に感じられた。

 この部屋に放置同然の体で飾られた作品の処遇を見れば、それは、別に不思議な事でも無いのかも知れない。それらへの関心が薄いからこそ、この状況に対する困惑はあっても、魔理沙に対しての憤りの感情も薄いのだろう考えられる。…アナタが魔理沙の人物像を十二分に了解している為に、怒る気に成らないだけとも考えられるがな…。

 アナタの瞳の奥の、どこか無頓着な、そして、どこか屈託の無い力強さ。

 そんな人間味のある、度量の広い眼差しを読み取った様に横合いから声が掛る。

 「おおらかなところは、相変わらずか…それに優しいのも…。ちゃんと、魔理沙の『思い』を見付けて上げてくれて、ありがとうね。…だけど…。」

 それは、隣に歩み寄って来ていたアリスの声。

 アナタもさっきから、アリスが傍に居た事には気付いていた。…だから、彼女の柔らかで、それでいて無機質な声にも驚きはしなかった…のだが、しばらくの間、面と向かって話すことが無かったからか…あるいは、彼女へと贈った最後の言葉が、『愛の告白』だったからか…それとも、その両方でか…何となく、彼女の青い瞳を真っ直ぐに見詰める事が出来ない。

 そう言う訳でアナタは、首は震わす程度にだけ動かして、ややきつい感じの目線を突き付ける。勿論、アリスの瞳の上…の、また上の、更に上辺りに…。

 アリスは、自分の決断がアナタに及ぼした結果を見据える。そして、少しだけ寂しそうに眉を伏せてから、そのままの儚げな表情で言葉を継ぐ。

 「だけど…その娘が…魔理沙が欲しがっているのは、そんな優しいばっかりの瞳じゃないのよ…。」

 言い終えてアリスが笑顔を作った。…これまで、アナタには決して向けられる事の無かった…胸を締め付けられる様な、好意の瞳…。

 それは恰も、『こんな気持ちを、私に代わって彼女に渡して欲しい』と哀願するかの様な、自分の顔付きを見せられている様な笑顔であった。

 アナタは発作的に、寂しげなアリスに対して(なぐ)さめの言葉を掛けようと…だが、寸でのところで彼女の真意を汲み取り損ねたアナタは…彼女の物憂げな瞳と、喉元まで出掛かった台詞を、一笑に伏して、

 「相変わらずなのは、お互い様だろ。相変わらずアリスの話は高尚で、がさつな俺には難し過ぎる。…そこら辺が、相手にもされずに振られた理由なんだろうけどな…。」

と、その欠落を埋める様に、何故か、言うまい、言うまいと心に押し込めていた言葉が溢れだす。…それだけ、アリスへのアナタの思いが、純粋で、深刻なものだったと言う事か…。

 そんな非難の意図が込められた言葉に、アリスは少し驚いた様に(まぶた)を大きく開く。それでも何かを言い返すでもなく眉根を曇らせると、また、辛そうな笑顔をアナタに向ける。

 (どうして…そんな顔をするくらいなら、どうして来たんだよ…。)

 そう胸中で彼女を(ののし)るアナタを、一体、誰が責めることが出来るのだろうか。そして…俯いたまま、二人の会話に口を挟めずに居る魔理沙の気持ちもまた…他人がおいそれと、(おとし)めて良ものでは無い。

 これで良い。これで良いのだと、他でもないアリスが満足そうに、そして、毅然とアナタの前に立っているのだから…。

 アナタはそんなアリスの『壊れ物の様な透き通る顔貌』を見つめ続けるのが苦痛で、苦痛で…こちらに向けられたアリスの顔から目を逸らした。

 …確かに、耐えられるはずがないよな…ずっとアナタが求め続けていたものが…アリスに求められる瞬間がようやく訪れたと言うのに…それが、こんな…あえて彼女自身の心の空白を見せつけられる様な…そして、その空白には…、

(俺の居場所は無いって言いたいのかよ…。今更、そんな表情を俺に見せつけて…アリス、お前は…。)

と、アナタは、この場に居るもう一人の女性に対する嫉妬の様な、敗北感の様な心情に(さいな)まれて…思わず、魔理沙の方へと視線を送る。

 魔理沙は…日頃は男勝りなところばかりが見受けられがちの彼女は…何食わぬ顔をしたピーターパンと、ギザギザの牙を剥き出しにしたオオカミに腕をマッサージされながら…俯むいたままで、ギュッと、瞳を閉ざして堪えていた…。

 魔理沙のその容貌を見た刹那(せつな)、ガツンッと、頭を殴られた様な衝撃がアナタを襲う。

 それは別に魔理沙のいじらしい態度に、己の浅はかさに気付かされたとか…そう言う訳では無い…。

 アナタはあの日の…あの夕暮れ迫る草原で見た魔理沙の笑顔を…『熔ける微笑』を思い出したのだ。

 (そうだった…普通の女の顔って言うのは、あんな…今の魔理沙の顔みたいに柔らかそうな、ちゃんと血の通っている、人肌の温かみのあるもので…ドロドロに熔け落ちる様なものじゃない。ましてや…『壊れ物』…『透き通る』なんて事があるはずも無い…。俺はアリスに一体、何を見ていたんだ。)

 アナタは、黙ったままの魔理沙から、自分の鼻先の方へ焦点を戻した。

 急に寄り目に成ったというだけでは説明の付かない、額に感じる圧迫感。まるでずれ落ちた眼鏡の位置を直す様に…アナタは震える手で、グイグイッと脈打つこめかみを押さえる。

 その規則的なリズムに混じって聞こえてきたのは…パキリッと、薄氷を踏み付ける様な物音…。

 アナタは、足元から真冬の湖水へと滑落した様な、悪寒、そして、恐怖を覚えながら、瞳へ目の前の女性の像を映した。

 (また…また俺は、幻覚を見ている…。それともこれは、現実の光景なんだろうか…。)

 口から長い息を吐き出しながら…狼狽しつつも、吸い込まれる様に見入る。そんなアナタの目に映るのは、いつものアリスとはまったくの別人。

 それは『ガラスで出来た仮面を被った女』…いいや、ガラスで出来た端正な顔が、アリス・マーガトロイドという女の髪を、身体を…存在を纏っているかの様であった。

 それならばと…アナタの当惑は深まっていく。

 (…なら、それなら…俺がこれまでアリスだと思っていたものは…何だったんだ。)

 何度となく繰り返される自問自答を反映した様に、自然、アナタの瞳は遠洋を泳ぎ、溺れまいと水面を叩く疑問が瞬きに変わる。

 だが、方角を見失うまいと、冷たい夜空に浮かぶ北極星を見つめる様に、視線はアリスから外れる事は無い。

 そんなアナタの不安、戸惑いを見透かした様に…透明な唇の奥に吸い込んだかの様に…目の前の『ガラスの仮面の女』が笑った。再び、パキリッと、鈍く、無機質な音を立てて笑ったのだ…。

 アナタはその音を、幻覚の中の彼女が漏らした音だと…声だと、薄々は気付いていた。

 しかし、彼女が笑った途端にその『声』が漏れ出した事に、強い衝撃を受けたのも確かなのだ。…まさか…アリスは笑う度に…笑う為に、ガラスで出来た自分の表情を変形させ、堅い口の端を砕いて…、

(アリス…お前はそこまでして笑っていたのか。…そんな『思い』をしてまで、何でここに来たんだ。それ程に、魔理沙の事を…。)

 アナタは、一言も無いはずのアリスの言葉を、気持ちを、彼女の半透明な仮面の奥から見出した。

 解かったからには、居ても立っても居られるはずがない。…何せアナタは、眼前に佇む、顔がガラスの女の事を…。

 いや、言う必要も有るまい。確認の労を取らずとも感じられる事だ。アナタが堪え切れずに伸ばした右腕を見れば…アリスの口元を塞いだ、その感触を想像すれば…その心情の深い事など、手に取る様に解かる…。

 アリスの浮かべる微笑のあまりの痛ましさ、哀切の鮮烈さに、アナタは彼女の口を塞いで懇願する。

 「もういい。もう笑うな。自分を傷つけてまで、笑ったりしないでくれ…。」

 そう必死で訴えるアナタの声に、冷たく乾いたアリスの目元が、微かに潤んだ様に見えた。

 それなのに…アナタの右手の中からは未だ、パキリッと、切ない笑い声が漏れ聞こえている…。

 アナタは無意識に手に込める力を強めると、もう一度アリスに、笑うなと頼むべく口を開く。

 だが…、

「あんた、何やってんだよ。」

と、魔理沙の怒りに満ちた声が、逸早く言葉を遮った。

 突然の大声に、ガラスの…アリスの顔の奥の世界に入り込んでいたアナタは、ギョッとして、魔理沙の方へと目を向ける。まず初めに確認しておこう…どうやら、彼女の顔は熔け出しては居ないようだな…。

 兎にも角にも、魔理沙の顔まで変質していない事に、小さく一安心。そんな緊張感の緩んだ目付きで、やや馴れ馴れしく、アナタは彼女の様子を窺う。

 床に『オオカミ』と、『ピーターパン』が仰向けに成りすっ転んでいる様を見る限り…魔理沙は、マッサージ中の二人を振り払う程の勢いで、椅子から立ち上がったのだと推察できる。

 感情を押し殺した冷静な面持ち。魔理沙が本心から怒っている事、更には、場合によっては実力行使に訴える事も辞さないと、彼女が腹を据えている事も窺い知れる。

 しかしながら…魔理沙が何をそんなに怒っているのだかが、アナタには()せない。

 それどころか、アリスの緊急事態に際し、自分を睨むばかりで二の足を踏んでいるとでも勘違いしたのだろう。

 アナタは物言いにわずかな険を忍ばせ、魔理沙の問いに応える。

 「何って…決まっているだろ。これ以上、アリスが笑ったら…また、口の端が裂けてしまうんだ。だから、こうして口を塞いでおかないとならないだろ。だいたい…お前の方こそ、アリスが大変な時にそんな所で突っ立って…友達甲斐の無い奴だなぁ。」

 それは、仮にアナタが、幻覚に頭脳の働きをぼかされて居たとしても、アリスの身を案じるあまりの失言だったとしても…酷い言い方だったのでなかろうか。

 魔理沙だってそんな言動を取られれば、カチンッと来るのも仕方があるまい。眉を吊り上げ、拳を握りしめると、

「そうかよ。だったら私が、友達甲斐ってやつで、アリスに乱暴を働いている暴漢を()ちのめしたとしても…文句は無いってことだよな。」

 確認三割、脅し七割で訪ねる魔理沙。一層拳を強く握り締めた瞬間…おそらくは、魔法の類だろう…彼女の小さな拳が放電現象を起こし始める。それで一体、何をする積りなのだろうか…まぁ、アナタがどうにかなるのは確定的なのだが…。

 「一応、アナタに対しての『友達甲斐』でこれだけは忠告しておくぜ。本当にアリスが笑っているのか…ちゃんと目を開いて見てみやがれ。」

と、魔理沙にそう言われても…アナタにはあまりの恐ろしさに、彼女から目を話す事など出来そうも無い…。

 魔理沙の武者震いする握り拳から、絶え間なく発せられる青い稲光。電流は行き場を求めて、木製の床を焦がしている。

 人形たちも竦み上がり、テーブルの脚の後ろへ身を隠している様だ。木製の彼らにしても、さぞ怖かろう。

 アナタとてあんなもので一撃加えられれば、失神することは間違いないだろうに…それだと言うのに、どうしてアナタは彼女の顔ばかりを見ているのだろうか…。

 魔理沙も頬の辺りで強くアナタの視線を感じとりながら、たじろぐ様に、躊躇(ためら)う様に、顔を伏せると、

「私はアリスとは違う…アナタにどう思われ様と、笑ったりするもんか…。」

 そう、どこかやり切れなさそうに、どこか辛そうに呟いて、魔理沙がアナタへと歩を進める。…足元に焦げ後と…熔け落ちる蝋涙(ろうるい)の痕を残して…。

 まさに一触即発の事態。それでも尚、アナタはアリスに触れ、あろうことか…今度は魔理沙の顔から熔け落ちたものを拾おうと、床に手を伸ばした。

 しかし、そうして屈んでしまっては最早、背丈がアナタの肩ほどまでしか無い魔理沙に向かって、『顔面を殴れ』と誘いを掛けている様なものではないか…これは流石に、死ぬな…。

 創造主の最後の場面を見取ろうと、(すく)み上がりながらもテーブルの影から身を乗り出している人形たち。そんな彼らの勇敢さもさることながら…いいや、やはりと言うか…魔理沙の振り上げた一握りの落雷を、無造作に手で制したのは…アナタに口を塞がれていたアリスであった。

 『そこで止まりなさい。』

と告げる様に、やおら、魔理沙の顔の真正面に白い手を挙げる。それから、左足を踏み込み、今にもアナタに殴りかからんとする魔理沙が…紙一重で…動きを停止したのを確認すると、

『少し下がりなさい。』

 そう頼む様に…違うな…忠告する様に、手の指を付け根の辺りで、ヒラヒラと振って見せた。

 魔理沙はそんなアリスと、赤ん坊の如く…それも、チンパンジーの赤ん坊の如く、床から『有りもしない物』を掴み取ろうとしているアナタを見比べる。…一先ず安心したよ…彼女に、本気でアナタを害そうという気は無かった様で…。

 それが証拠に、あれほど激しく明滅し、火の玉と化してアナタのお宅の床や、壁を焦がしていた魔理沙の握り拳も今は鳴りを潜めている。

 元々、痺れさせるくらいの積りでいた様だな。言うまでも無く、アナタを()ん殴ってと成る訳だが…。

 魔理沙は踏み出した左足を戻し、拳を下ろすと、溜息を吐きだした。

 しかし、そんな緊張感を見抜く様なアリスの視線に、少し不服そうに眉根を寄せて、その場を動こうとはしない。だから…アリスは不本意そうに彼女から目線を逸らすと、自分も手を下ろした。

 ジェスチャーを止めた彼女の気持ちを要約するならば、

『忠告はしたからね。』

と、その様なところであろう。そうして、アリスは奥行のある青い瞳を、ぼんやりと潮干狩りでもしている様なアナタへと移してから…ガブリッと、

 「痛ぇ。何すんだよ、アリス。」

 彼女の柔らかい唇を抑えつけていたアナタの中指に、挟まれた様な、刺された様な激痛が襲い掛った。

 痛みに驚いたアナタは仰向けに成って床に寝転ぶ。それから、上手い具合に背後にあった上等な布地の感触と、それに包まれた『ふかふかしたマット』に頭を預けながら、右手の中指の症状を確認する。

 月明かりに照らし見て、まず、血は出て居ないようだが…このズキズキと(うず)く痛みの正体は…アナタもお察しの通り、くっきりと付いたその歯型で間違いない様だな。…アリスのやつ、アナタの中指に噛みついて居たのか…。

 「あぁーあっ、酷い事するなぁ。折角、その美貌が損なわれない様に、『手を貸して』やったて言うのに…『何とか様に手を噛まれる』とはこの事だな。」

 …よっぽど強く噛みつかれたらしい。

 ワイングラスを揺らす様に、薄明に中指の歯型を透かし見つつ文句を垂れるアナタの顔は…(あたか)も、不機嫌な『お犬様』の如き仏頂面…。

 中指の横っ腹にスタンプされたミシン目同様に、アナタが一切の罪悪感をも抱いていないのは、はっきりと解かったな。

 これで、魔理沙が抱いているであろう『お怒り』を、アナタが頂戴(ちょうだい)するのは揺ぎ無さそうだ。それも、アナタを見下ろすアリスの怒りを受取ってからと言う事になろうが…。

 寝っ転がったこの体勢からでは、暗闇に紛れてアリスの表情を…その透き通るガラスの仮面を、目の当たりにする事は出来ない。

 (けが)れない金髪を垂らした、真っ黒に塗りつぶされた顔…アナタはその面影に、一転して不安を覚えた…。

 その闇は彼女の憎悪か、憤怒か…ゴクリッと、生唾を飲んで審判の時を待つアナタに、黒闇のアリスの顔が、ニィッと、薄笑いを浮かべる。

 「そう、アナタとしては私の…『美貌』かどうかは知らないけれど…この顔が酷い有り様に成るのから、守ってくれていたのね。その手で…。」

と、険の無い声でアリスが、アナタへと語り掛けた。

 アナタは…何のかんのと言いながら、その実、彼女に無礼な真似を働いたのではと…多少の危惧(きぐ)は『手』に(たずさ)えて居たらしい。

 「えっ…あ、あぁ、そうなんだよ。この手でな…。」

 そうアリスの言葉に同意をして…それでいて何故だか、アナタは額の辺りに(かか)げていた右手を背中に回し、アリスの瞳から隠すのであった。

 だが、アナタの思惑通り事が運ぶ様子は無いな。

 闘牛士の(ひるがえ)す赤い布の如く、散々、思わせ振りな動きをさせてから右手を背後に回したと言うのに…アリスからの圧迫感は、牛の様に容易く後方へと駆け抜けてはくれない。

 (まったく…それは、幻覚の言われるままに成って居た俺が悪いんだろうけど…アリス、お前だってな…。急に現れたかと思えば、笑うは…顔を変えるは…何もかもが突然過ぎて、そんなの、一番訳が解からないのはこの俺だよ…。)

と、混乱している事は間違い無さそうな愚痴を胸中で零す、アナタ。…その逃げ口上…もとい、独り言を聞き及ぶ限りでは…確かにアナタ自身、幻覚を幻覚と知りつつも、どこまでがその幻覚と、現実の境目なのかを了解はしていないらしい。

 言い換えるならば、解からないからこそ…ガラスの砕ける痛みが本当にアリスを傷つけないとも解からないからこそ…無礼を承知で、アナタは彼女の口を塞いだ。見過ごすことなど、出来なかったのだ。

 魔理沙の顔は熔け落ちるに任せ…残骸を拾おうとはしたものの…アリスの口元を決して放そうとはしなかった割にはな。

 そして、そんなアナタの寄越して見せる態度の『差』を鋭敏に感じとって、(あたか)(うろこ)を逆撫でられた竜神の如く、魔理沙は怒りと雷光を纏った。…っと、勘ぐるのは…やはり、穿ち過ぎた考えかも知れないがな…。

 アナタと魔理沙の見せた、二つの『戸惑い』と、二つの『手立て』。

 アリスはそんなアナタたちを、『真っ直ぐ』に見詰めながら口を開く。

 「私の『能力』からは畑違いの事象だから、アナタにこの顔がどんな風に見えていたかまでは解からないけれど…一応、お礼だけは言っておこうかしら…きっと、アナタが手を出さなかったら、私はもっと(みじ)めな…ううん、とにかく、何となくだけど助けられた事は解かっているの。ありがとう。…まだ少し、下顎が痛いのだけれどね。」

 そう言うと、暗がりの仮面を被ったアリスが、膝を抱く様にして屈みこんだ。

 見上げる彼女の姿が視界の下方へと移ると同時に、遮るものの無くなった月光がアナタの瞼を(こす)る。

 アナタは自然と繰り返される(まばた)きの間にも、眉間(みけん)に力を入れ、月明かりを反射する金髪の逆光を見つめる。

 「アリス…顔が元に…。」

 小さく息を吐き出し、ホッと胸を撫で下ろすアナタの態度に…アリスは少し不思議そうに、少し(とぼ)けて見せる様に首を傾げて、

「んっ、そうなの…きっと、アナタのお陰なんでしょうね。」

 そう優しく応えると、血の気の通う目もあやな笑顔で、沈み込む様に淡い月の光を(かす)ませていった。

 アナタは、出し抜けに(ふところ)に飛び込んできた様な、アリスへのわだかまりすら忘れ後ろ髪を撫でる。

 「恩着せがましい事を言ったのは、冗談の積りだったんだが…まさか、君から礼を言われるとはな…。また、いつかの時みたいに、その革靴で尻を蹴り挙げられるかと思ったよ。」

 そういうアナタの口振りからは、さきほどの洒落っ気とは異なり、非難の色も、悪意の後ろ暗さも感じとれない。きっと魔理沙が居たならば…今はどうしてか、視界の内側に見当たらないのだが…彼女だって、心根を伝える事に秀でたアナタの態度と、『能力』を好意的に受取ってくれたであろう。

 それでも魔理沙には悪いが、今の視野を目の端に追いやってまでアナタが彼女を探すとは思えない。…人形劇の舞台を広く、広く、開いて見つめ続けた…再び(まみ)える事を夢にまで見た女の姿が、こうして目の前にある…。

 アナタは…好きで、好きで、しょうがなかった…アリスの浮かべるぎこちない笑顔に笑い返す。それだけの事で、アナタの全身に弛緩(しかん)と、脱力が広がり、背中はマットへと沈み込んでいった。

 そんな、蒸した布の様にふやけた青年へ…こちらは悪意があったかも知れない…アリスがらしくない甘ったるい声で、不意打ち掛ける。

 「私が、アナタのお尻を蹴り上げる…。あぁ、そんなことも有ったわねぇ。」

と、アナタの冗談を復唱した上に、しみじみとお応え遊ばされた。…『痘痕(あばた)笑窪(えくぼ)』などとは言うが…そろそろ、彼女の微笑が『底意地の悪そうな笑顔』に変わったのに気付いても良かろうと思うのだが…。

 馬鹿面で…もとい、穏やかに頷くアナタに、アリスが甘美な囁きを次ぐ。

 「心配しなくても、私が蹴り上げるのは不肖(ふしょう)の弟子のお尻だけ…。立派に独り立ちしているアナタには、そんな必要もないでしょうし…。」

 アナタは…そんなところにばかり気が回って…これ見よがしなアリスの口振りの最中、若干の含むところを感じとると、すぐさまに、

「だったらなおの事、俺は頭を抱えて平伏さないといけないな。不肖の弟子だった頃と違って今は、無礼者として顔面を蹴飛ばされる心配をしなくちゃならいない。…って、いつまで立っても君の足元に怯えている俺は、とても独り立ちしているとは言えなよな。」

 そうアナタは、目一杯の格好を付け、目一杯の虚勢を張って頭を垂れる。

 「だからせめて、こうしてでも…お前に鼻っ面を蹴り上げられるのを覚悟してでも、頭を下げて許しを請う位の度胸は見せないとな…。考えてみれば…さっきは必死で、何が何やら頭が回らなかったけど、ご婦人の顎を掴むなんて乱暴だった。どうか非礼をお許し下さい、元お師匠様。」

 芝居(しばい)掛った言い回し、アリスに劣らぬふてぶてしさ。

 だが、(かが)んだアリスを、スカートの生地をこちらへ押しやる膝の丸みを見つめる、アナタの瞳は…その瞳だけは、真摯に責めを追おうとするアナタの気持ちを、隠しきれていない。

 それでも…もしもこのアナタの姿を、背後から見るものが居たとしたら…項垂れた頼りない背中に、自らを戒める事すら相手任せにしていると取られかねないやも…。まぁ、兎にも角にも、まずは当面の、アリスに謝罪するのが先だろう。

 魔理沙のお陰で繋がった(えにし)の糸がこんがらがったままでは…あんまりだからな…。

 アナタの瞳に宿る決心を見据えた、アリス。まるで、アナタの決意に『応える』かの様に…膝に手を付いて立ち上がった…。

 このポジションからならば、一歩を踏み出すまでも無く、アナタの顔面を蹴り上げる事が可能だ。

 アナタはそんな…準備行動ともとれるアリスの所作を窺って…、

(あれっ、確か前までは…暴力的な指導は何度となくされたけど、話を大袈裟(おおげさ)にしてしまえば大抵、呆れて見逃してくれたのにな。…まさか、本気で俺の頭を蹴り飛ばそうと…。)

と、額の冷や汗が瞳に流れ落ちて、曇り無いはずの(まなこ)を瞬かせた。…なんだよ、アナタにはそんな、経験則から得た魂胆があったのか。まぁ、当てが外れてしまった以上は、飛んでくる物を受け止めるしかないわなぁ。そう言う意味では、顔を強張らせている事に関して、間違いではないでしょうな…。

 背中を押し付けたマットの上で身動(じろ)ぎ。アリスの表情を確認し様と、アナタはやや顔を上げて無駄な抵抗を…が、彼女の真顔の迫力に圧倒されて、息を飲み、ギュッと瞼を閉じた。

 カツンッと、床に響き渡る靴音。おそらくは、アナタの顔の位置が変わった事に合わせての、ポジションチェンジが行われているのであろう。そう思われたのだが…。

 よくよく耳を澄ましてみれば、彼女の靴音は近づいて来ている訳ではない。脇へと遠のいている様だ。

 アナタは目を開いて、アリスの姿を探す。彼女はやはり、アナタの正面から、左手側に移動していたらしい。まっ、サッカーのフリーキックでも、『ボール』の正面から左右に離れてから助走を付けるものだし…まだ、助かったとは限らないが…。

 溜息を零して気の早い解放感に浸る、アナタ。アリスは、今度こそアナタの思惑通り、呆れた様に鼻息を漏らして、

「半年ほどとは言えアナタとは、毎日の様に、朝から晩まで一緒に過ごしたのだったわね。何を勘違いしているのだかは、だいたい見当が付くけれど…言ったでしょ。心配しなくても、蹴り上げる積りは無いって…。私がどんな積りでいるか…それ位の気心、アナタにも察せられて欲しかったのだけど…アナタたちの今後の為にも…。」

 「えっ。」

「なんでもないわ…今のは忘れてちょうだい…。」

 そう話を一時中断したアリスが、アナタの左隣に屈み直してから、

「とにかく、私はアナタに怒ってなんか居ないの。むしろ、アナタに謝らないといけなとすら思っている。」

と、アナタの耳元に囁きかけた。

 そんな事を彼女から打ち明けられたアナタは…ちゃんと男らしいところもある…引き攣った顔に、凛とした締まりを与えて、

「謝らないといけない…それって、まさか…俺たちの別れ際の…君に限って、それは違うよな。」

 しかしながら、折角の凛々しさも、引き締まった表情も…アリスの青い瞳に曇りが広がれば…温かい雨を海原に降らせる、愛嬌のある笑顔に変わる。…惚れた弱みと言うやつか…。

 アリスもまた…無造作に自分の気心に触れたアナタの微笑みに…能面の様な胸中を波の様にざわつかせ、得体の知れないこそばゆさに瞳を上へと逸らす。

 「知っていたのに黙っていた事が…アナタに合わせる顔が無くて、今日の日まで伝えられずにいた事があるのよ。だけど、さっきからのアナタの有り様を見て…やっぱり、伝えて置く必要があると思う。」

 何か奥歯に物の挟まった様な…謝りたいと言いながらも、素直には自分の非を言葉に出来ていない様な…そんなアリスの懺悔(ざんげ)

 彼女が欲しているのは時間か、それとも、許しか…。もしもアナタが神父なら、アリスの要求の二つ共に満たして上げる事が出来たのであろう。

 だが、アナタもまた世俗の縁を捨てきれ無い、一匹の迷える子羊に過ぎないのだ。救いの晴れ間が覗いたならば、喜び勇んで斜面を登る…。

 アリスと言う叡智(えいち)の光を見付けたアナタは、寝転んだままの姿勢から喜色をほとばしらせて、

「まさかアリスには…俺の見ているものの…度々現れる『幻覚』の正体が解かったのか。そうなんだな。やっぱり、お前に相談して正解だったよ。」

と、さも嬉しそうに彼女に笑い掛けてから、また一転、アリスに真剣な顔付を向けて、

「それで結局のところ、これって何なんだ。アリスに相談を持ちかけた時にも話したが、『幻覚』が見え始めた時期を考えれば…丁度、俺が幻想郷に踏み入って、喰い殺されかけて、アリスのいう俺の『能力』が発現したタイミングと符合する。これって詰まり、俺の『能力』とやらが原因って事で良いのか。それとも、死にかけたトラウマが見せる、埒も無い幻なのか。どうなんだ…。」

 慌てたり、怖がたり、喜んでみたり、果ては真顔となったアナタの百面相。アリスは少し驚き、気が抜けた様であった。

 しかし、『やれやれ』と呟く様な味わい深い笑みを浮かべ、(てのひら)(あて)がった首を左右に傾げる様は…余計な肩の凝りも、気負いも、羽が付いてどこぞへと飛んで行ってしまった…そんな、清々した心地に溢れている様だった。…ただ待つばかりよりも、時には男の我武者羅さが功を奏する事もある…。

 アリスは再び、両腕で膝を抱いた。そして誠意を持ってアナタの熱心さに応えるべく、表情と、言葉付を正す。

 「それに答える前に、まず謝らせてちょうだい。私は前々から、アナタの『見るもの』に察しが付いていたの。それを…アナタと顔を合わせづらいと言う理由で、ほとんど故意に伝える事を怠ったわ。…きっと、アナタには嫌な女だと…。」

 そうアリスが、切々、述懐する真摯な気持ちを…垣間見せた淡い女心を…アナタは、

「んっ、そんな事は気にしないよ。あぁ、勿論、アリスが『嫌な女』かどうかって事じゃなくて…顔を合わせづらかったって言うのも、俺が突然に告白なんかしたからなんだろ。それを言うなら、俺も顔を合わせづらかったのは同じだから、こっちが一方的に避けられていたなんて思ってないんだ。だから、その件については、おあいこってことにして置いて…。そんな事はどうでも良いから、俺を悩ませている『幻覚』の正体を教えてくれよ。」

と、余程、切羽詰まっていたのであろうが…彼女の謝罪の言葉を遮ってしまった。…ただ待ってさえ居れば良いものを…時に男の鷹揚(おうよう)さが、女が骨を折って引っ込めようとしてくれている『地雷』を、踏みつけにするのであった…それも多くの場合、女の手の上から…。

 一緒に痛みを分かち合うところまでは受容してくれる。そんな優しい女性であったとしても、共犯扱いされれば…そりゃあ、良い顔はしないであろうな。

 今度の場合もご多分にもれずに…アリスは一先ず、ニッコリと笑顔を浮かべる。それも、特別ビターで、後を引くやつを…。

 そのほろ苦さを溶かした様な声で、微笑んだままのアリスが呟く。

 「そんな事…どうでも良い…。」

 アナタにとっては正体の知れない、アリスの笑顔の迫力。だが、圧倒的な何かがそこに込められているのは気付けたらしく、アナタは後頭部をマットに押し付けて、

「な、なんだよ…。本当は怒っていたんじゃないのか、アリス…。悪いけど、遠まわしに謝れと言われていたんだとしても、俺にはそう言うの察知するなんて出来ないからな。鈍いし…。はっきり何が嫌なのか言ってくれないと、解からないって…。」

と、最後の一言だけは、何とはなしにアリスへの『対抗意識』が垣間見えた様であった。…振られた腹いせ…いや、どっちかと言えば、彼女に軽んじられたくないという未練か…。

 アナタがそんな清算しきれぬ思いを、正面のアリスと、背後のマットへと押し当てているその時…どうやら、アリスもまた…帳消しにすることの出来ない思いに、胸をざわつかせている。

 こんなとき、人形師や、魔法使いでは無く…普通の少女ならどうしたであろうか。

 少年から手渡されるのは、泥だらけの宝石の様な、ぶっきら棒な好意の印。

 それを受取り微笑み返す。それとも、クスリッともせずに、少年に付き返すか…経緯(いきさつ)は各々で異なったとしても、大多数はこの二つの選択肢に当てはまるのであろう。

 …えっ、『それじゃあ、少数派はどんな態度を示すのか』って…。

 そうですなぁ…。そういう少し(ひね)くれた…もとい、自分の心に素直で無い少女たちならば、きっと、こうしたでしょう。

 …押し付けられる様にして手渡された事に驚き、宝石を地面に投げ捨てる。そして、悲しそうに宝石を拾い上げる少年を尻目に、手に着いた泥を払い落とす…少年がもう一度、自分へ宝石を手渡しに来るのを待ちながら…。

 まぁ、アリスにしろ、それに、どこに居るのか解からない魔理沙にしろ、二人とも妙齢に成長した女性なのだ。今更、照れ隠しに粗暴に成って、牙を剥くと言う事はあるまい。

 あるまいとは思うのだが…アリスのこの、どこか凶悪そうな笑顔は…そして、魔理沙がどういった訳で、息を殺して成り行きに加わろうとしないのかを思えば…アナタにはどうしようもなく、不気味に感じられるのだ。

 さっきからずっと、首筋に吹きつけてくる生温かい風。その感触に肩を強張らせえるアナタに、少しの怒りと、微かな悪意を微笑みに変えた、アリスが喋り掛ける。

 「だから…私には謝ってくれる必要はないの…私にはね。だけど、蹴り飛ばされるのが本当に嫌なら、例え無駄だとしても…謝ってみるべきでしょうね。」

「はぁっ、それは、どう言う意味で…。」

 「それは、後ろのクッションに尋ねてみることね。そろそろ、文句の一つも零したくなる頃合いじゃないかしら…。」

と、膝を抱えたアリスが、人差し指でアナタの頭の上を示した。

 アナタは促されるままに、仰向けの体勢から、グイッと首を後ろに倒す。

 天井と床が上下逆様の視界。その真ん中で淡い月明かりに照らし出される『クッション』のむくれた顔を見たアナタは、全てに納得が入った様な声で…ポツリッと、

「あぁ、どうりで…。」

 アリスが、チラチラと、目線を上に向けていた事。魔理沙の姿が見当たらなかった事。それに、自分の家には、『クッション』など無いという厳然たる事実。

 それら全てを噛み合った小気味良さが、青年のやたらと軽い呟きに成ったと言う訳だ。

 …で、そんな気の抜けた言葉を聞いた『クッション』のご感想は…、

「『どうりで』…何なんだよ。」

 頭を前に出した『クッション』…誰あろう魔理沙嬢の影が、アナタを覗き込んだ。

 琥珀色の瞳から下りる視線を、刺し通す様にアナタの目の中へと送りこんで…しかし彼女の声には、大の男に寄り掛かられている重苦しさと、恥じらいが、(よど)みと成って居る。

 そんなやや震え声の魔理沙と、一本の目線で結ばれていた、アナタ。観念したのか、実に素直に言葉の続きを白状する。

 「何なんだって…だから、どうりで、好い匂いがするなぁと…。」

 その後に続く何らかの言葉が、アナタには有ったのかも知れない。例えば、さらに彼女の羞恥心をくすぐる様な文句。あるいは、()びの為の文言が…。

 しかしながら…否、言わずもがな魔理沙には、アナタの口にする取って付けた様な二言目を待つ積りなど無いのだ。

 アナタの後ろ首を、アナタが『ふかふかのマット』だと思ってたものが…魔理沙の膝が蹴り飛ばした。…アリスのやつがアナタの正面から横に回ったのは、これを見越してのことだった訳か…。

 古今、一部の例外を除いたほぼ全て格闘技、スポーツにおいて、禁じ手とされている膝蹴り、及び後頭部への攻撃。

 反則技を二つ(まと)めて打ち込まれたアナタは、衝撃に飛び起きると、勢いそのままに部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。

 首を痛々しそうに右手で撫でながら、アナタはアヒル座りしている魔理沙を見つめる。

 彼女が両腕を背中側に伸ばし、床に手を付いて二人分の加重を支えていたであろう事。それから、自分が枕代わりにしていたものの正体が…やはり…魔理沙の太腿(ふともも)だった事を見て取って、

「なるほどね…なるほど…。」

 そう、色々と明らかに成った事情を、アナタは首の皮を揉みくちゃにしながら反芻(はんすう)していた。…本来なら、過激な足技を受けたアナタの身を案じるべきであろうが…何となく機嫌の良さそうな…満更でも無さそうな顔をしている事だし…放って置いてもよかろう。

 魔理沙も一段落付いた様に、鼻息を漏らした。こちらも色々と、『軽く』なったと見える。

 だがそうかと思えば…魔理沙は次の瞬間にも、真剣な、それどころか少し硬くも見える表情をアリスに向けた。

 「それで、あの不埒者の見る『幻覚』の正体って言うのは、どういう事なんだ。ひょっとするとそれは、あいつが『能力』を制御しきれていないという話なのか。だとすれば…。」

と、魔理沙の並べ立てる疑問を耳にしながら、アリスは抱えていた長い脚を伸ばし、立ち上がった。

 サッサッと、スカートに出来た(しわ)を撫で付けるアリスの仕草に、魔理沙の問い(ただ)す声が止む。彼女の素っ気なさの中に、みだりに立ち入れないものを感じたのであろうか…。

 しかし、それでも『浮ついた気持ちではない』と語り掛ける様な、自分を見つめる魔理沙の気迫に…アリスはどこか困った様な、だが悪くは無いと口元を(ほころ)ばせた。

 「貴女を()け者にしようなんて気は無いわよ。だけどその前に、魔理沙にはやらなくちゃいけない事があったのじゃなかったかしら…。」

 そんな事をアリスに尋ね返されて、尻持ちを付いた格好をしたままの魔理沙は…本当に解からないのか…不思議そうに瞬きをしていた。

 アリスはさも可笑しそうに、優しい含み笑いを一つ。それから一先ず、床に座り込んだ魔理沙を残し、スタスタと、アナタの方へと歩み寄る。

 「アナタには、自分が何をすべきなのか、解かっているわよね。」

と、腕組みをしながら…(あたか)も生徒に出題をする教師の如く…問い掛けた。

 アナタは横目で魔理沙の様子を盗み見てから、

「まぁ、そうだな。」

 そう言うと、着物の懐から取り出した者を魔理沙の…彼女の(かたわ)らをウロウロしている連中に投げ渡した。

 アナタの放り投げた物を追って、魔理沙が右奥のテーブルの方を振り向くと…そこに居たのは、『三匹の子ブタ』の人形では無いか。

 おそらく、自分の身の丈ほどもあるカンテラを背負っている赤い上着が、一番上のお兄さんブタ。その後ろからカンテラの底を持ち上げている青い上着が、真ん中の二男ブタ。そして、その横でカンテラの側面に手を宛ててみたり、離したりと、オロオロしている緑の上着が、末の弟ブタといったところだろう。

 アナタの投げて寄越した物に気付いた弟ブタは…なかなか微妙なタイミングであったが…ナイスキャッチ、その四角い物を受取る。どうやらそれは、マッチ箱の様だな。

 弟ブタの頑張りに顔を見交わし合い、喜びを分かち合う微笑ましい三兄弟。自分の作った人形の成長を眺め、満足気に、それでいてどこか皮肉っぽく笑みを浮かべる、アナタ。悠々と、瞳をアリスの方へと戻すと…一目で解かった…彼女はアナタを挑発している。

 アリスの顔が、その端然とした美貌が今は…容姿の見事さと同時に、アナタに対して明確の意思を発信しているのだ。曰く、『お前のやり口が気に入らないぞ』と…。

 ここで懸命な読者諸兄姉には、(いぶか)しく感じられる向きもあると思う。それは要するに、

『アリスが表情で告発している内容は、不満や、叱責の類であり、間違っても挑発という、ややもすれば軽率と成りかねない振る舞いでは無い。』

と、その様な見識によるものあろう。

 そこに気付かれた読者諸兄姉の深い洞察には、著者も感服する。しかしながら…時には常識と言う深層での心の動きよりも、もっと低俗な…感情の上面(うわっつら)に注目するべき場合もあるのだ。

 考えても見て欲しい。アナタはアリスに『振られた野郎』なのである。

 詳しい事情までは計りかねるにしろ、()ねた目で彼女の表情を見つめるのには、充分な理由なのである。

 そう言う訳でアナタには、アリスから送信される否定的なシグナルの全てが…何やら、『挑発』されてでも居る様に見えてしまうのだ。

 『お前がそれを言うのか』とでも言いたげに、何故か、自分の目配せに対して白けた顔をしている、アナタ。アリスはそんな…どうも不機嫌そうな…『三匹の子ブタ』を眺めるアナタの目の前に割って入った。

 懸命な読者諸兄姉なら…いや、別段にこれは補足の必要のある話でも無いか。

 単に、無言で睨み合った男女の間で、弱みの大きい方がどんな反応をするのかと…それだけの話だからな。

 反目し合ったのは、たった数秒の間であった。それでも、アリスの不興を買い続ける事に堪え切れ無かった『振られた野郎』が、拗ねた口を開く…。

 「なんだよ…。『俺のすべき事』だろ、解かっているって…だから、取り敢えずは灯りを確保したら良いだろうと、マッチをだなぁ…。だって、ほら、小さい(なり)にあんな大荷物を持って、多少は手伝ってやりたくなるのが人情って…。」

「はい、そこまで。そこから先は、あそこに座り込んでいる娘の為に、一時、取って置いて上げてちょうだい。」

と、アリスはアナタの目線を促して、キョトンッとして床にへたり込む、魔理沙を見つめた。…まつ毛を揺らし、寄り添う様な二人から目を逸らす魔理沙を…。

 アリスが、倒れ伏す前のドアにした様に、アナタの胸板をノックする。

 「アナタが賢い人なのは知っている。それに、アナタがそんな態度を取っているのを、私への当て付けだなんて思っても居ないわ。私だって、そこまで身のほど知らずでは無いもの。アナタは、魔理沙に自分と同じ様な気持を味わわせたく無くて、必要以上に思わせ振りな態度を取らないのだとしたら…だとしたらアナタは、彼女の強さを見誤っている。そしてそれが、誰を悪者にするのかという事も…。」

と、アリスがもう一度、更に強く、アナタの胸板を叩いて、

「魔理沙はね…私たち三人の中で一番は、人間的に成熟しているもの…まぁ、『女』としては、まだどう成長するかも未確定な、おこちゃまだけど…それでも私たちの…アナタの気持ちを知った上で、私がこの場に来ることも認めてくれた。だから、私みたいな冷血な女と比較して、あの娘を子供扱いしないで上げて欲しいの。」

 そう言うとアリスは、三度目のノックを終えた握り拳を…止めて…アナタの胸に指を這わせる様に、ずるりっと、力無く着物の懐を擦った。

 アナタは気忙しそうに魔理沙の方を窺いながら、少し突き放す様な口調でアリスへ語り掛ける。

「確かに…当事者の前でこんな話をするなんていうのは、良い大人のする事ではないよな。」

 「そうね。今、アナタに言われて気付けたわ…。私、魔理沙の事になると、自分のこと以上に必死に成ってしまうみたい…。だけど、それがあの娘に恥をかかせる事になるのだとしたら…本当、馬鹿だわ。」

 そう辛そうな言葉を零すアリスに、アナタは尋ね続ける。

 「最初は、俺に『幻覚』の正体を伝えに来てくれたのかと喜ばされ…次に、やっぱり、魔理沙の話なのかと期待はずれ半分、『相変わらず的外れな世話焼きしているなぁ』とか思っていたんだが…アリス、お前…本心では、自分が何をしたいのか見極めに来ていたんだな。」

と、アナタの言葉に、アリスはまたも気付かされた様に項垂れて、

「私…アナタが時々口にする芝居掛った冗談と、そういう勘の鋭いところ…ずっと、苦手だったわ。」

 アナタの背後へと回り込んでから、アリスはそう呟いた。

 それは怒っているのか、喜んでいるのか…アリスはとにかく苦笑を漏らしながら、アナタの背中に小さく囁く。

 「だけど、安心した。それだけ私の事が解かるのなら、きっと…私の『不肖の弟子』は…私があの娘に殺されるとしても、一緒に成って喜んであげてくれるわよね。」

 潜め、抑制された、意外に過ぎるアリスの言葉。アナタは虚を突かれて、背後の彼女を振り返ろうと首を動かすのだが…その動作よりも一瞬早く、アリスの革靴がアナタの尻を蹴り飛ばした。物憂げに瞳を逸らす魔理沙の方へと…。

 アナタは蹴られた勢いで、ドタドタッと、大きな足音を床に響かせる。

 それでも何とかアリスの表情を…生身の彼女の顔を顧みようと、アナタは千鳥足でバランスを取りつつ、後ろを気にしていた。…しかし、アナタも、魔理沙も、これだけ接近してしまえば手遅れ…一度(ひとたび)合致してしまった目と目を、外すことなど出来ない…。

 アナタはアリスの思わせ振りな一言に…寂しい一言に…後ろ髪を引かれる様な気持ちを残しながらも、更に前へ、自分の意思で踏み出す。

 「ほら、いつまでのそんな冷たい床に座り込んで…女って、腰を冷やすのは良くないんだろ。」

と、少し気不味そうに手を差し伸べるアナタに、魔理沙もまたばつの悪そうにそっぽ向いていたのだが…遂には…、

「当人の…私の居る前で、アナタに私を押し付ける様な事を言い出すアリスも大概だけど…それを知っていて、そういうふざけた事を聞くアナタだって…大概、良い根性しているぜ。」

と、アナタの手を掴もうと腕を差し出す。…しかし、アナタの(てのひら)に指先が触れる刹那(せつな)、魔理沙が手を止めた。…まだ、何やら言い足りない事が合ったらしい…。

 魔理沙の手を掴まえ様としたアナタの右手も、ビクリッと、緊張の気に震える彼女の人差し指に、察して次の言葉を待つ。

 魔理沙は自分の顔の陰りに、ぎこちなさに日を当てる様な、優しい照れ笑いでアナタを見上げた。

 「なぁ、アナタの『幻覚』って、相手の顔がどうにか成って見えるものなのか。さっきは、アリスの顔を…その手で掴んでいたし…。」

と、魔理沙が、アナタの差し出した右手を、人差し指で小突く様に指差した。

 ビクリッと、アナタの右腕が揺れ動いたのを見て、なお満足そうに、笑顔を深めた魔理沙が言葉を次ぐ。

 「それに私の、やっぱり顔の下辺りの…何かを拾おうとしてくれいていたよな。つまり、それもアナタには、『幻覚』として見えたんだろ。」

 アナタは不意に、『ガラスと化したアリスの顔』と、『熔け落ちる魔理沙の顔』を思い出して、

「まぁね…その正体が何かは…聞きそびれている状態だけどな。」

 そう眉をひそめて言うと、掌を(つつ)く魔理沙の右手首を今度こそ掴まえて、座り込む彼女を引っ張り起こした。

 彼我(ひが)の境界をあっさりと飛び越え、かつ強引に腕を掴まれた、魔理沙。

 彼女は…男勝りな女性だ。その見た目や、口調とは裏腹な甲斐甲斐しさは、立派に女性と言う役を成しているとは言え…静かに二人の様子を見届けているアリスに比べれば…やはり、男勝りな女性なのだ。

 それは魔理沙の勝気な性格故にだろうか。いいや、勿論、それだけでは無い。何せ、勝気な『お姫様』はたくさん居るではないか…。

 そう、魔理沙に『男勝りな女性』のレッテルを張り付けていたもの…それは…これまでの彼女自身に、物語の『お姫』に成ってやろうという夢見心地が欠けていた事に他ならない。

 女は、聖女にも、魔女にも成れる。しかし、彼女たちの内、『恋い焦がれる夢』に焼かれた者だけが、何かを…誰かを守る為、純粋に、そして心から…己の手を汚す決意を固める事が出来るのだ。

 それだから今こそ、著者は魔理沙に張られた『男勝り』のレッテルを神に返上したいと思う。

 …彼女の踊る姿を見て欲しい…。

 お城の大広間とはいかないが、平織りの月明かりを絨毯にした小洒落たダンスホール。ぞろぞろと二人を囲む物語のお姫様、王子様たちを引き立て役に、魔理沙は誘われるままアナタへと身を寄せる。

 …アナタの手首を掴み返し、結ばれた右手。スカートが(はだ)けるのを嫌って、裾を摘まみ上げる左手は、(あたか)会釈(えしゃく)を返すかの様に見えた。

 エプロンドレスの彼女は今、人形たちの誰よりも洒脱に、『お姫さま』役をこなしている。いや、そうではない…魔理沙は始めから演技をしていた訳でも、型にはまったステップを踏んでいたわけでもない。ただ自然に…あまりにも自然に、『胸躍らせる』彼女の仕草が、舞踏会の一幕の様に映ったに過ぎないのだ。…魔理沙は誰に(はばか)る事も、12時の鐘などに縛られる必要も無く…恋い焦がれ、夢に焼かれるに相応しい女性…男勝りなお姫様だ…。

 アナタに引っ張り起こされた魔理沙は、立ち上がりアナタの胸へとよろけて進む。しかし、瞳に反射する月光を羨望(せんぼう)の光に変えた、人形たちの目線に…そして一際青く澄み渡る目線に疲れた様に、魔理沙は数歩だけ歩み出ると、アナタの目の前で脚を止めた。

 アナタの腕に引かれ、革靴でステップを踏み終わるまでの(わず)かな一時(ひととき)。それでも、その短い間が、その一握りの時間が、どれほど夢見心地な体験で合ったかは…眠り足りなそうなその表情を見れば、容易に窺い知れる。

 だが魔理沙は、魔法使いとの約束を…自分との取り決めを誠実に守るかの様に、惜しくて仕方ない一握りの時間を…アナタの腕を…今は、そっと解放するのであった。…ダンスパートナーの狭間を(めぐり)り踊って、いつかは戻っておいでと囁く様に…。

 「えっ、何だって、今、俺に何か言わなかったか…。」

「何も言ってないぜ。ただ、思っただけ…自分の化粧気なさを恨めしく…。」

と、魔理沙は、甘い夢を掻き混ぜる様に首を二、三度振ってから、急に真剣な顔で、

「それと…アナタの見る『幻覚』の正体。私にも見当が付いた。」

 そう言うと、息を呑み驚くアナタを尻目に、魔理沙は勝手知ったるアナタの家を横切って移動し始めた。

 アナタの期待の目線に追われながら、魔理沙はアリスへと近づき…通り過ぎて、渋柿色の大瓶(おおがめ)へと歩み寄る。

 小石やタイルをセメントで固めただけの、浅い浴槽の様な…おそらくは、炊事、洗濯等、水仕事の全般を行う為の洗い場らしきスペース。その隣に置かれている事からも解かる通り、大瓶の中身は近くにある谷川の湧水であろう。

 丸い木製の落とし(ふた)と、その上に置かれていた柄杓(ひしゃく)を取り上げて、魔理沙は大瓶の中の真水を()み出し、洗い場で手の汚れを(すす)ぎ始めた。…どうやら、アリスの忠告を守って、料理を始める気に成ってくれた様だな…。

 柄杓を使い両手を交互に清め終えた魔理沙が、ポツリッと、何気なく、今思い出したかの様に呟く。

 「…だけど私は、アナタは知らない方が良いと思うぜ。アナタの身の為にも…。」

 アナタにとっての重大事をそう切り捨てた、魔理沙。やや憂鬱(ゆううつ)そうに暗がりに沈む洗い場を覗き込んで…、

「へぇ、浮世絵もあったんだな。」

と、苦笑を漏らす彼女の真下。洗い場の底には、小さなタイルを張り合わせて描いたモザイクアートの『富嶽三十六景』。…芸の細かい事で…アナタには本当に頭が下がる。

 一頻(ひとしき)り、水も滴る…もとい、白波のうねる『名画』を鑑賞し終えた魔理沙へ、アナタがようやく尋ね掛ける。

 「どういう意味だ…解かる様に説明をしてくれ…。」

 それは考えに考え抜いた末の、アナタから魔理沙への質問であった。

 排水溝に流れ落ちずに、洗い場の窪みに取り残された水滴。…自分は、自分の事を何も解かっちゃいない…そんな悔しい感情が、アナタの声にもしがみ付いている…。

 魔理沙は右手の柄杓で真水を汲み直しながら、難しい顔で、しかし、おさんどんをする様な平然とした声で応える。

 「説明か…それをすべきなのかも、私には判断が付かない。とにかく、あまり意識しない方が良いとは思うぜ。そうして居れば、それ以上『幻覚』が悪化することはないだろうからな。それに…あれっ、アリスはどこに行こうとしているんだ。」

と、唐突に話が逸れたのだが…魔理沙の振り返った方を見れば、開け放たれた入口に、この家を後にしようとするアリスの姿があった。

 そんな彼女に気付いたアナタも、アリスの背中を呼びとめ様と口を開いて…だが、周りの…一斉に仕事の手を止め、アリスを見つめる人形たちの反応に紛れて…思わず、言葉を飲み込んでしまう。…確かに、人形たちが一糸乱れぬ動きで彼女に首を向けた様は…なかなかシュールなものがある。流石は、アナタの作った人形だ…いや、皮肉では無く…。

 アリスも一同の注目を浴びて面喰った様に、少しだけ、無表情を愛想(あいそ)の笑みで和らげる。

 「お邪魔だろうと思って…お先に失礼する事にしたのよ。私が伝えたい事は伝え終えたし、彼の知りたい事も、私が話すまでも無さそうだから…。折角、私がこうして気を遣って上げようと言うのだし…ここは見逃して貰えないかしらねぇ。」

 そんな冗談とも、弱音ともとれる答えを返すアリスに…魔理沙は、ニッコリッと、満面の笑みを返して…、

「駄目だ。だいたい、この色々と込み入っている状況で、あいつらとか…。」

と、魔理沙は左手の人差し指で、固まったまま行動不能状態に陥っている人形たちを指差し、

「あれとか…。」

と、次に、誰に何を問うべきなのか、混乱の極みに居るアナタを指差し、

「それに何より、これを放って帰ろうっていうのは、あんまりじゃないか。」

 そして最後に、途方に暮れた様な微笑みを浮かべる、自分の顔を指差した。

 アリスは首を傾げて、魔理沙と、水を滴らせる柄杓を眺めながら、

「心遣いは有り難いのだけども…。」

 そう潤んだ息を(こぼ)して、どうしても引き下がるという意を曲げられるぬと、アリスは入り口の木枠に手を掛けた。

 天球上を高く、高く、昇る月。アリスは辛うじて、入り口の縁に掛る指先と、わずかばかりの未練に掴まり、この場に留まっている。

 しかしながら…不意にアナタの瞳の奥に(よぎ)る映像…。魔理沙がどんなに懇願しようとも、このままでは…木枠をただなぞる頼りないアリスの白い指、それを自分が引き寄せなくては…青い月光によって彼女は、西の空へと連れ去られてしまうのではないか…。

 その不安に、その焦燥感に、アナタはまた我知らず内によろよろと歩んで、

 「どこへ行く気なんだ…行っちゃ駄目だ…。」

 そう言うと木枠に触れるアリスの手を、強引に掴み取った。

 アリスはそんな風に豹変したアナタの態度にも、手を繋いでいるという状況にも大して動じることはない。…いや、動じる(いとま)が無かったのかも知れないな。

 そんな事を思わされるほど速やかにアリスは、洗い場に向かい自分たちの方へ背を向ける魔理沙に声を掛ける。

 「魔理沙…解かっているとは思うけど、今の彼は自制が効いて居ないわ。勘違いしては駄目よ。それに…私へのこの反応にしても…。」

「解かっている…。」

と、魔理沙が、アリスの言葉を遮った。…柄杓の水は零れ落ちなくとも…冷たく濡れた手からは、彼女の情感の一滴が…(しずく)が垂れ落ちて行く…。

 「アリスに比べれば、まだまだ、私とそいつとの付き合いは短い。でも、そいつの気持ち位は解かっているぜ。そうやってそいつが、アリスの顔が曇る度に我を忘れて、正気では居られなくなる事もちゃんと解かっている…初めて会ったあの日から、解かっていた。そうしている間はアリスの心中が、穏やかじゃないのも。だから…それだからアリスは、そいつの為にも、決してそいつに(なび)こうとはしないだろうって事も…私にはとても真似できないな。」

 魔理沙が柄杓の中の水を洗い場にぶちまけた。

 その、ピシャリッと、頬を(はた)く様な音に、アナタの意識は『幻覚』の縁から覚醒する。

 「えっ…俺は…何で…。」

「良いの。アナタの『能力(ちから)』を煽る様な事を言って置いて、その癖注意を怠った、私の脇が甘かっただけだから…アナタは何も気にしないでちょうだい。気にすればするだけ、その『幻覚』は悪化するわよ。」

と、自分の胸元から聞こえたアリスの声に気付いて、アナタは慌てて彼女の手を放すと、よろよろと部屋の真ん中へと後ずさった。

 「俺はまた…『幻覚』を…またなのか…。」

 夢とも(うつつ)とも知れない、乾いた床板の感触。 その上を夢遊病者の様に彷徨いながら、アナタが口籠る。そんなアナタの呟きに、柄杓で真水を汲み直している魔理沙が…、

「だから私が、『意識しない方が良い』って忠告しただろ。」

と、冷たく言い放った。

 魔理沙の冷や水を浴びせかける様な声が、余ほど(こた)えたのか…アナタは片手をテーブルの上に突き、もう一方の手で目頭を擦りながら生返事をする。

 「あぁ、そうだった…そう言っていたよな。しかし…な…意識するなって、何をだ。『幻覚』の事をか…それとも、アリスの事を言っているのか。どちらにしろ…そんなの俺には無理だ…。」

 そう言うとアナタは、魔理沙の背中に、潤いの感じられない笑い声を送った。

 もしも…アナタと、魔理沙が恋人であれば…それは、互いの心を軽く引っ掻き合う程度の痴話喧嘩…実際、傍目には、二人のやり取りはそんな具合に映らなくもない。

 だがしかし…それだからこそ、二人の胸中が深刻な状態にある…そうとは言えないだろうか。

 なぜなら、アナタと魔理沙は恋人同士では無い。それに互いが、相手を傷つけようなどと言う意図を持ち合わせては…居なくもないか。魔理沙は多少なりと、そういう気配が感じられていた…。

 そうなると、切羽詰まって、ひたすらに不健全な状態にあるのはアナタで、魔理沙はその毒気に当てられていると言う事だろうが…だとしても充分、深刻な状態ではあろう。互いが、相手の悪意さえ孕んだ鋭い爪に対して、まったくの無防備。それどころか、望んで痛みを、苦しみを受け入れているのだから…。

 それが…誰かの憤り、やっかみの爪痕の(うず)きだけが…今のアナタには、自分が正気だと確かめる唯一の手段。そして魔理沙も…自分の思いから逃れられるぬのであれば…アナタに(なら)うより他に無い。

 魔理沙はまつ毛を揺らし、溜息を吐きだしてから、

「心配するなよ。アリスも、私も、不安だけを残して、アナタの疑問から逃げたりしないぜ。そうだろ、アリス。」

と、念押しする様に尋ねつつ…おいで、おいでと…招き猫が前足でそうする様に、左手の手振りでアリスを手招きした。

 その魔理沙の素振りにアリスは…アナタに触れられた指先を軽く撫で上げて…洗い場の、魔理沙の隣へと並ぶ。

 「私がここに居ても、話が更にややこしく成るだけだと思うのだけど…。魔理沙はそれで…私が一緒に居ても良いの…。」

と、魔理沙に柄杓で促されるまま、洗い場へ両手を差し出したアリスが尋ねた。

 魔理沙は柄杓の水をその手に、二杯、三杯と掛けながら、

「当たり前だろ。だいたい、アリスが帰ってしまったら。誰が人形たちを動かして、私が蹴り壊したドアを修理してくれるっていうんだ。私はほら…さっきアリスの言った通り、これからやることがあるだろ。」

 魔理沙は更にもう一杯の真水を、柄杓で汲み出す。そしてまた、アリスの両手に浴びせ掛け様と…だが、柄杓をやや傾けた…柄杓から水が零れ落ちる寸前で、その動きは止まった。

 …アリスの寂しそうな、それでいて、納得尽くの苦笑。魔理沙はその微笑みに胸を痛めながらも、強引に甘える様に…『これでいいんだろ』と開き直る様に、言葉を続ける。

 「第一、今夜は最初から三人で食事をする積りだったんだぜ。だから…アリスにも居て貰わないと困る…。」

 そう言うと魔理沙は、アリスの手に真水を掛けること無く、柄杓を引いた。

 アリスは何故か表情を曇らせると、ハンカチで手を拭いながら、テーブルの方へと移動する。

 「そう言ってもらえると、素直に嬉しいわ。だけどね、魔理沙…私、本心では…貴女に我がままを言って欲しいの。貴女に遠慮なんてしないで欲しい。私みたいな人形なんて、斧でバラバラにして、ストーブを燃やす薪木にしてしまいたいと、私…私はどうなったって構わないから、そんな貴女の心に触れてみたい。こんな友達失格の事を考えている私は、きっと、ここに居たって貴女の為に成らない。それどころか、貴女の事をからかう様な真似をするに決まっている…。魔理沙はそれでも良いの。」

 そんなアリスの、どこか許しを請う様な、反面、『追い出してしまえ』とけし掛ける様な言い回しに…魔理沙は柄杓の水を自分の左手に浴びせて…ニヤリッと、ほくそ笑んで見せた。

 「急に饒舌に成ったかと思えば…なんだ、ようやく調子が出てきたじゃないか、アリス。」

と、人の悪そうな笑みを浮かべる魔理沙の反応が、アリスには意外なものだったらしい。椅子の背もたれを引いた手をそのままに、魔理沙を見つめ佇んでいた。

 その手探りの目線に頷く様に大きく笑って、魔理沙は琥珀色の挑戦的な瞳をアリスに向ける。

 「やっぱりアリスは、素直で…お人形みたいに可愛い顔している癖に、人形みたいに無愛想で…理屈っぽいくせして、隠し事が下手なツンデレ女子でないとしっくりこないよな。…良いぜ。私をからかう様な真似をするっていうのも、とどのつまり、それって『やっかみ』だろ。」

「えっ…『やっかみ』…私はただ貴女を…。」

と、アリスは、魔理沙の断定の口振りに反論しようと…しかしすぐに、深々と感じ入った様にゆっくりと(まばた)きをしてから、

「貴女を…まぁ、魔理沙の可愛らしいところをあれだけ暴露しておいて、その私が恥をかきたくないからといって、あまりみっともない逃げ口上も打てないわよねぇ…。」

 そう言いながらもアリスは、羞恥の炎に胸を焦がしながら、アナタが本気で驚くほどに満面を朱に染めていた。…人形と見紛(みまご)う程に情の薄い女…そんな風に思えていたのだが…それがもし、人に本心を見られる事を(いさぎよ)しとしない、人並みにドライなアリスの処世術だとするならば…魔理沙の言うとおりに、アリスは『隠し事が下手なツンデレ女子』なのかも知れない…。

 アリスはカッカと燃える胸の内側に…魔理沙の掛けた真水の感触を思い出しながら…ゴクリッと、唾を飲み込む。

 「確かに…それが『やっかみ』かどうかは解からないけれど…私には魔理沙を放っておけないという気持ちがあるのは事実でしょうね。別に…誰の為に、こんな他人行儀な言い方をしている訳でもないのだけど…まっ、もしも魔理沙が、そんな男勝りな性格をしていなかったとしたら、多分、私に似て(しと)やかな娘だったと思えば思う程にね。残念半分…ほら、言うでしょ。不出来な子ほど可愛いって…。」

 冷えた両手を赤く成った頬に宛てがいつつ、アリスはそんな憎まれ口を叩いた。

 これで流石のアナタにも、アリスがツンデレ娘である事はご納得いただけた様だな。アリスのどたばた振りから顔を背けて、

(へらず口を幾ら叩いたって、それは魔理沙を喜ばせるだけ…なるほど、それが解かっていてもあえて喋り続けているのが、『アリスはツンデレ』の良い証拠な訳か。)

と、アナタは小さく苦笑を漏らした。

 「アナタも何を、人の顔を見ながら笑っているのよ。」

 そんなアナタの襟首目掛けて、熱く膨れた頬をしたアリスの、不満げな声が飛ぶ。…そうだったな。女と言う奴は『男の視線に(さと)い』のであった…。

 アナタは腕捲りしながら魔理沙の立つ洗い場の方へ逃げ…もとい、歩み寄る。

 「そう言えば俺、野良仕事から帰って来たんだって…その事を思い出してな。魔理沙に引っ張られて幻想郷を歩き回って、やっと普段の薪拾いに戻れたかと思えば…まさか、この家がこんな賑やかな事に成っているとは思わなかったからさ。そうしたら何でか、笑えてきたんだよな。」

 そう言うと何やら得意げな顔で、両手を洗い場に突き出す、アナタ。バシャッと、火に油を注ぐ様に魔理沙が浴びせかける真水は…アリスが平然としていたのが嘘かと思える様な…身を切るほどに冷たかった。

 顔をしかめ、まだ水滴も落とし切っていないというのに、両腕を引っ込めようとするアナタに…魔理沙はすかさず、柄杓でその手の甲を叩くと、

「おいおい、これでも一応、お前の相棒が芸事に使っている手なんだけどな。もう少し丁寧に扱っても、罰は当たらないだろう。」

 「さっきまで『幻覚』に怯えていた奴が良く言うぜ。まだ汚れは落ちてないんだから、大人しくしてろよな。」

と、魔理沙は冷たい真水をもう一杯、アナタの両手へと注いだ。

 アナタも観念した様に、小さく溜息を…呆れた様にも、安心した様にも聞こえる溜息を漏らして、真水で汚れを(ぬぐ)い落とし始めた。

 その間にも、一々、可笑しそうに吐息を噛み切るアナタに、魔理沙も笑いを誘われたのか笑気を吐きだす。

 「さっきから、何を可笑しそうにしているだよ。まさかまた、『幻覚』と仲良しに成っているんじゃないだろうなぁ。」

 アナタはその魔理沙の質問に答える前に、一先ず、洗い場の隣に置かれた背の低い行李(こうり)から真新しいタオルを二枚取り出す。そして一枚は自分に、一枚はアリスに投げ渡して…、

 「いや、なんて言うかさぁ。アリスに人形繰りを教わっていた時は、こんなこと1ミリも考えもしなかったんだけどな…。魔理沙を見ていると…特に、アリスと話している魔理沙を見ているとな…女ってこんなものなのかって思えてくるんだよね。まぁ、見ていて飽きないよな。本当。」

と、まっさらなタオルを揉みくちゃにしながら手を拭いた後、それを近くにある洗濯用と(おぼ)しき木桶の中に放り込んだ。…どうせ、魔理沙たちが居るから止むなく、新品のタオルを下ろしたのであろうが…この体たらくを見るに、普段のアナタが水に濡れた手をどう処遇しているのか…押して知るべしだな。

 そんなアナタの言動に魔理沙は、右手に(たずさ)えた柄杓の()教鞭(きょうべん)でも(ふる)う様に、軽く左の(てのひら)を叩く。

 「なぁ、アリス。こいつ、こんな事を言ってくれちゃっているけど、どう思うよ。」

 そう、ニヤリッと、不敵な笑いを浮かべる魔理沙に…タオルで、サッと手の湿り気を払ったアリスは、

「まったく、上等だわ。私も気持ち良く、二人をからかわせてもらうとしようかしら。」

と、アリスはアナタに習って、使ったタオルを木桶の中へ…ただし、随分と丁寧に置いた。

 それからアリスは、アナタと魔理沙を残して、さっさとテーブルの方に引き返すと、スカートを優雅に整えて椅子に腰掛ける。

 「それじゃあ、私は人形に仕事をさせるのに集中するから、お二人で気の済むまでごゆっくり。」

 こうしてまず、アリスが舞台の定位置に着いた。

 残るは、アナタと、魔理沙。さて、ここからどの様な修羅場が演じられるのやら…。

 アナタは、椅子に落ち着いたアリスが大息を吐き終わるのを見届けてから、頷く様に、礼を返す様に小さく項垂れる…まぁ、表情は、おどけて見せるかの様に笑っては居るが…。

 「懐かしいな。」

「んっ、アリスの事を言っているん…だろうな。思い出し笑いは、助平(すけべ)心の表れと相場が決まっているし…。」

 アナタの笑みに、魔理沙は鼻をツンと反らした澄まし顔で、蓋を閉じた大瓶の上に柄杓を返した。

 水を滴らせ、木蓋を濡らす魔理沙の手。アナタは行李に残ったタオルの、最後の一枚を彼女に差し出して、

「そりゃあ俺も、一応は男の端くれだから…と、軽く口の一つも叩き返したいところなんだが…実際は、『幻想郷の住人』ってだけでアリスの事がおっかなくてな、始めの頃はまともに顔を見る事も出来なかった。だが…思えばそれが、俺の見る『相手の顔が不自然に見える幻覚』の発覚を送らせたのかも知れない…そう言えば俺が幻覚を意識し出したのは、丁度、アリスの事を…まぁ、なんだ。アリスに振られた少し前の事だったからな。」

 トテトテッと足音を立てて、ボトルを引っ繰り返した様な義足の『フック船長』が、相方を求め月明かりの静かな甲板を横切る。

 草原の青草が棚引く寒々しい波音を遠くに聞きながら…魔理沙は何の憂いも無さそうに、そしてどこか控え目に微笑むと、やんわりと首を横に振った。

 「…だって、エプロンは汚す為にあるんだぜ。なっ、そうだろ。」

と、『彼女が何に対して拒絶の意志を示したか、腑に落ちない』そんな顔をしていたアナタに、白いエプロンで慣れた具合に手を拭う魔理沙が…どこか(つや)めいた口振りで答えた。

 皺と成り、汚れと成り、魔理沙の真っ白いエプロンを変えていく何か。それにも増して、何故か嬉しそうに、何故か誇らしげに手を拭う魔理沙の微笑に…アナタは…、

「…そうだな。魔理沙が良いなら。」

 『幻覚』などでは無く、自身の直感によって不穏の影を覚えながらも…しかし、吐き切れない言葉と、思いを引き摺りながら…行李にタオルを戻した。アリスは瞳を閉ざして、一言も無い。だから、きっと大丈夫だと…その根拠の無い逃げ場にすがりながら…。

 「さてと、人形ばかりに働かせている訳にもいかないし、俺も何かを手伝うとするか。」

 アナタは活発さを取り戻した人形たちに触発された様に…装って…有り合うというか、床に倒れっ放しになっていた扉に手を伸ばす。

 その前のめりに腰を曲げたアナタの視界の端。木桶の前に正座して、アナタが放り込んだタオルを畳み直す魔理沙の姿が映る。

 「ねぇ、アナタはどう思っているんだ…。」

「へっ、誰の…な、何の話だ。」

 「アナタの見る『幻覚』の話だよ。」

 クスクスと、『男勝り』などと言うレッテルが蜃気楼だったと思いたくなる様な、潤いある女性らしい笑いを零す、魔理沙。エプロンの汚れを避け膝の上で畳んだタオルを、ポンッと叩いて、質問の言葉を次ぐ。

 「それがアナタにとって、アリスと切っても切れないものだろう事は解かる。けどな…最終的には、それの…『幻覚』がアナタにとって…ううん、アナタにそれを見せる者たちにとっての何なのか…その事を知るかどうかは、アナタ次第だけど…繰り返しに成るが、私は知らなく良い事はあると思うぜ…。」

と、魔理沙は跪いたまま、そっと、タオルを木桶へと返した。…名残惜しい気持ちを…やれる事はやったのだと、励ますかの様に…。

 アナタはそんな魔理沙の哀願にも似た忠告に、ガリガリと、後ろ髪を掻き回しながら、

「やっぱり魔理沙には、謎掛けをする才能は無いな。」

と、何とも言えない小っ恥ずかしさを掻き乱し、笑い飛ばした。

 魔理沙は、不意にアナタが漏らした申し訳なさそうな声に…仕舞ったとばかりに引き()った笑みを浮かべる。

 「えっ、あれっ…もしかしてヒントの与え過ぎだったか。私とした事が…私からは意地でも説明しない積りだったのに…。でも、まぁ、だいたい察しが付いたのなら、もうそれで充分だろ。私や、アリスに見捨てられたくないなら、詰まらない興味を持つのはそれ位にして置くんだな。」

 そう言って立ち上がろうとする魔理沙の前で、アナタは…ドッカリッと、胡坐(あぐら)を掻いて、

「冗談でもそうやって、俺の事を気遣ってくれる魔理沙の気持ちは嬉しいよ。…まっ、アリスには、とうに見限られているだろうが…。それでもな…それでも俺は、俺の見る『幻覚』の正体を知りたい。『幻覚』の正体が俺の『能力』に関係していると言うのなら、尚更だ。出来る事なら、折角手に入れた力。メリットも、リスクも心得た上で、最大限に活用したいからな。俺のこの気持ち…人里から距離を置いてでも、『魔法使い』である事に(こだわ)った魔理沙なら…解かってくれるんじゃないか。」

 アナタの用意周到な、それでいて不用意極まり無い発言。その言い草のあまりの危うさに、アリスは瞳を軽く開いて二人の姿を見据えた。…先程感じた…共犯者扱いされる事の不愉快さが、ふつふつと、ぶり返す…。

 アリスは、そんな自分と同じ不快感を魔理沙が共有しているのでは無いかと…どこか恋愛小説を読む様な期待半分…心配だった。

 その、賢明で、遠巻きな監視の目線の矢面に(さら)された魔理沙は…浮き掛けた腰を再び、自分の両足首の上へと下ろして正座をする。

 手は折り曲げた脚の上に置かれ、指先はむず(がゆ)そうに両方の膝をくすぐっていた。…その仕草を見届けて…アリスは小さな吐息と共に瞳を閉じる。

 アリスにはそれだけ充分に了解出来たようだ。魔理沙は自分とは違うのだと…。

 (まぶた)の裏に描き出されたのは、暖かに揺らめくハニーゴールドの髪。そして、その先に咲く、向日葵の様な魔理沙の微笑み。

 自分へと重なる魔理沙の面影を、まるで娘の様に可愛らしく感じていた。

 しかし今は、自分の瞳には映らなかった世界へと辿り着いた『友人』の面影に…自らの薄い瞼を重ね合わせる様に…アリスは心底から誇らしげな、そして、陽射しの様に穏やかな笑みを浮かべた。…この先、魔理沙がどの様な『女性』に成っても憂いは無い…そんな笑みを浮かべていた…。

 魔理沙は軽く咳払いをすると、ふにゃけた頬の威儀を正して、アナタの問い掛けに応える。

 「まぁ、そう言われてしまうと、私にも返す言葉が見当たらないんだが…でも、やっぱり、言わせてもらうとするぜ。私のプライドの為にも、アナタの為にも…これだけはちゃんと(わきま)えていて欲しい。率直に言って、私には始めから『能力』を使いこなすだけの才能があった。だが…。」

「俺はそうじゃない…だろ。」

 「その通り。…詳しい事を言う積りは無いけれど、アナタに解かっていて欲しいのは…リスクの正体を知る事から生まれるリスクも有るって事だ。今のところはまだ、これからもアナタの事を便利に使う気満々で居る私でも…制御できもしない力に溺れて自滅する様な馬鹿には、付き合い切れないぜ。」

「その時こそ俺は、魔理沙にも見限られる事になるんだろうな。」

 「そうだ…何か、文句でも有るのか。」

「いや、別に…当たり前の事だって…俺もそう思うよ。」

 「…そうかよ。だったら貴女は…何をそんなに可笑しそうにしているんだ。」

と、アナタの返答も、表情も、逐一気に入らないとばかりに、不満顔の魔理沙が追求した。

 アナタはニヤニヤしながら、また、お決まりの後ろ髪の辺りを掻くポーズを取って、

「『可笑しそうにしている』…俺がか…。それは多分、嬉しいんだろうな。魔理沙に心配してもらってと言うのは勿論…それにもましてお前は…冷静に、俺が『能力』を暴走させて使い物に成らなくなるんじゃないかと値踏みしているし…それに、俺の『能力』を最大限に利用してやろうとも思っているだろ。それこそ、俺が思い付きもしない様なあくどいやり口で…。」

 唐突に…少なくとも魔理沙には唐突に過ぎる、アナタの糾弾(きゅうだん)。まさか、そんな事を言われるなんて…夢にも思っては居なかったと魔理沙は、

「私そんな事は、これっぽっちも思ってはないぜ…。」

と、ほんの些細な事ですら、アナタに大袈裟に捉えられるのを怖れるかの様に…鼻先を揺す振る程度に頭を横に振って、魔理沙は誤解だと訴えた。

 アナタはそんな彼女を…鼻で笑う…。

 「隠しても無駄だ。魔理沙の言う通り、『幻覚』との関連性を意識するだけで、俺の『能力』の幅が広がったみたいだな。何となくそう言う気配が解かる様に成った…気がする。まっ、例え俺の勘違いだとしても、魔理沙の性格を思えば有りそうな話ではあるからな。」

「…そんな…。」

 魔理沙の息も絶え絶えな、悲しい呟き。その消え入りそうな声を耳にして…瞳を開いてしまおうかと…アリスの眉が、クイッと、上がった。

 しかしながら、アリスは努めて、そんな自分を制する事に決めたらしい。…いいや、瞼を閉じた時から、堅く決めていたに違いないのだ…ここからは自分が口出しすべきでは無いと…魔理沙の、アナタの思うとおりに任せようと…。

 アナタは魔理沙の困惑を見つめながら、心の内に巣食う小さな高揚感を潰す様に、膝を握り締めた。

 「おいおい、今さっき『俺が使い物に成らなくなったら見限る』と認めた奴が、どうしたんだ。急にそのしおらしい反応は…なんてな。うし、これで少しは、魔理沙に仕返しが出来ただろ。」

「仕返し…どういう意味だ、それ…。」

と、魔理沙嬢はやはり男勝りであった。

 そんな、『仕返し』という言葉がアナタの口から出た途端に…『やり返さなければ』という意識が眼光に出た、魔理沙。

 アナタはそんな彼女を見て、握った膝を楽しそうに叩いて、

「言ったろ、『嬉しいんだ』って…。だからさ、そんな臨戦態勢を取らなくても、『嬉しい』なんて白状した時点で、始めから俺の負けで、魔理沙の勝ちなんだよ。最終的にお前の勝ちなら、文句ないだろ。」

 「まぁ…そうだな。私の勝ちなら、私に『も』文句はないぜ。」

 そうして、何やら言葉を混ぜっ返そうとする魔理沙であった。…そう言えば、彼女の方からもアナタに、『文句は無いはずだ』と尋ねていたっけ…。

 もしかしたら、さっきの魔理沙の鋭い目付きは、彼女の男勝りな一面の表れでは無く…単に、アナタに軽んじられたくは無かったから…と、それだけの事に過ぎなかったのかも知れないな。

 「…で、仕返しってなんの事だよ。」

 魔理沙の勝利の判定を譲られても…もとい、勝ち取っても、アナタの楽しそうな顔を、茶化す様な口元を黙殺は出来なかったらしい。『勝ちだとしても、不愉快は不愉快だ』と言いたげに、拗ねた様に唇を尖らせた。

 アナタは…魔理沙に改めて尋ねられると、かつ、そうも可愛らしく尋ねられると…子供染みた悪戯心も鳴りを潜め、どこか気恥かしそうに、

「まぁ、なんだ…実に手前勝手な理屈で、魔理沙が聞いても面白くも無いだろうけど…『幻覚』の事もそうだが、公演終わりを狙って組んで仕事をしようと誘ってきたり、朝っぱらから耳の中に声を押し込まれて…あれ、魔法だよな。お前の大声を聞いたときには、心臓が喉までせり上がるかと思ったよ。…と、まぁ、そんな事もあったり、それに今晩は、我が家に帰れば、扉が主人の俺よりさきに眠りについて居たりと…まったく、魔理沙には驚かされてばかりだからな。…って、だからなんだって顔をしているな…。」

 「『だからなんだ』って言うよりも、私としては…そりゃ驚かしはしたと思う。それでも、驚かす度に、それなりの見返りはアナタに渡してきた積りだぜ。実際、私と組んでやった人形劇は、単に儲けが増えただけじゃなく、客足だって多く成っただろ。それと、朝早くに呼び出した日には、たらふく朝飯を食わしてやったし、今夜も…。」

と、ほんの一瞬、魔理沙は笑顔を固着させる。…しかしすぐ様、冷やかす様に頬を柔らかくして、

「今夜はアナタ待望の、アリス・マーガトロイド嬢を伴って来てやったんだ。それでも見返りが足りないとか言う気なら、アリスの親友としてこの私が、承知しないぜ。」

 魔理沙は瞳をしっとりと落とし、心地良さそうに夜風を楽しむ。

 気風の良い言い回しも、微かな頬の余韻も嫌では無い…嫌では無いなのだが…どうしても、自分の膝に爪を立てる事を止める事が出来ない…。

 そんな彼女の指先に燻る、わずかな歯痒さに気付かないアナタは…それでも、魔理沙を(なだ)める様な、波風の無い声で応える。

 「俺は何も見返りに文句を付けた積りはないよ。人形繰りの報酬にしたって、俺一人じゃ届き様も無いだけの上がりを受け取っている訳だからな。充分、満足しているさ。それに…未だにアリスを意識し続けている事を、隠す気もない…と言うか、知らぬ存ぜぬを貫くには、手遅れも良いところだろうけど…俺の『仕返し』は魔理沙に対するもので、アリスは関係無いんだ。…にしても、俺は何をわざわざ、懇切丁寧に説明してやっているんだか…魔理沙は時々、何の前触れも無くそう言う…しおらしい感じになるだろ。その度に俺は、何か途轍(とてつ)もなく悪い事をした様なきに成るんだよな。我ながらガキっぽいにも程があるが…何か、それが不公平だって気持ちにさせられるんだ…。」

 そんなアナタの言い分を聞いている魔理沙の表情は、重苦しく、暗雲が立ちこめていた。

 だが、そんな風の無い淀んだ空気の中で…アナタが何気なく後ろ髪を掻き始めたところを見るや、曇りがちだった魔理沙の微笑に…晴れ間が…パッと、暖かな明るさが広がる。魔理沙はアナタの事を…アナタがどんな時に後ろ髪を掻き回すのかを、よく熟知していているのだな。

 自らが雲を流すそよ風と成ったかの様に、魔理沙は軽い吐息を吐きだして、

「そっか…そう言うこと…損している積りも無いのに、自分だけが私に翻弄されているみたいで不公平だって言いたい訳か…。そこは普通、私みたいな、魅力も、魔力も充実している女と駆け引きが楽しめて幸せだって思うところだろうぜ。大の男ならな。そんな好機を今は独占状態しているアナタが、自分で自分を判定負けの状態にしているなんて…ま、まぁ…確かに、おこちゃまかもな。」

と、魔女の如く流暢に応えてから、皮肉っぽい笑みを浮かべた。…言い終えてから、相手の顔が見られなくなるほど、頭の中が自分の心臓の鼓動で一杯に成る位なら…大人の女なら言葉を自制すれば良かったものを…結びの一言が(ども)ったのも、その辺りが理由かな…。

 アナタは魔理沙らしい言い回しに、それと裏腹に強い彼女の緊張の気に、喜怒哀楽の感情が追いついて来ず、未だ呆気にとられた様な顔をしている。しかしながら、魔理沙の下瞼(したまぶた)の辺りが潤み始めたのを見るや、反射的に小さく喉を鳴らして…、

(また魔理沙の顔が熔けるのか…その前に俺が手を…。)

 アナタの胸中には『手を』の先に続く言葉も、プランも無い。だがアナタは、衝動に抗い切れずに、魔理沙の顔へとその『手を』伸ばした。

 ずいっと、無頓着に差し伸べられた、アナタの右手。そのあまりの純粋さ、あまりの他意の無さが、魔理沙の内側…その最奥に眠る無垢な少女の部分に触れたのかも知れない。

 魔理沙はアナタの右手に対して、咄嗟に、怯えた様な身体を竦ませた。

 だが…自分の鼻先に差し出された手が…あの夕陽の丘で見たのとそっくりに…小刻みに震えているのを…彼が『幻覚』を見ている訳ではないという事実を見付けると…熔けそうな思いに目を細めながら、小さく喉を鳴らすのだった。

 アナタにも魔理沙が唾を飲み込む音が聞こえて…いたなら、もう少しはロマンチックな演出もあっただろうな…。だが、彼女の微かな反応を聞き逃したアナタには…残念ながら…彼女が玉ねぎでも丸齧りした様な表情に見えた様だ。

 アナタは結局、あの夕陽の丘と同じ距離で…いや、一歩だけ前に踏み出して…魔理沙の鼻を摘まんだ。…まったく、色気の無いこと甚だしい。

 そこに輪を掛けて、ふがっと、声を漏らした魔理沙へアナタは語り掛ける。

 「俺がおこちゃまなのも、魔理沙の勝ちも、これくらいじゃ動かないから安心しろよ。」

と、アナタは可笑しそうに言ってから、魔理沙の鼻っ柱を放した。

 それから、むず痒そうに鼻先を手の甲で擦る魔理沙を見ながら、続ける。

 「んっ、人におこちゃまだの、幸せに思えだの言ったお方が、まさか、それっぽっちで怒ったのか。」

 アナタはまず、拗ねた様にそっぽを向いた魔理沙にそう言ってから…チラリッと、瞳を閉じたままのアリスを見つめる。…『彼女』はこちらを見ていない。

 だからアナタは、安心した様に、やり切れなさそうに言葉を続ける。

 「まっ、そのままでも良いよ。…けど、魔理沙の誤解は訂正しなくちゃな成らない。ビジネスパートナーだしな。」

 魔理沙はアナタの声に、言葉に、陽炎(かぎろい)を…満たされない何かを感じながらも、前髪をわずかに揺らしただけで、彼の方へ振り向く事をしなかった。…女は男の視線に(さと)い…。

 アナタはどこかばつの悪そうに溜息を吐きだして、

「不公平とは確かに言ったけどさぁ。…たく、お前もお前だよな。自分を大人の女だって言うなら、それくらい意味、知ろうともしないであしらってくれれば良かったんだ。そうすれば俺だって、こんな恥ずかしい事を言わなくて済んだろうに…だから、そんな…俺に知らない俺にまで共感しようとしてくれるところが、不公平だって言うんだよ…。」

 「えっ。」

と、魔理沙はエプロンドレスの胸元を掴むと、自然に背筋を伸ばした。…不自然に、そっぽを向いたままに…。

 アナタはそんな『彼女』とは反対方向に首を向けて、

「二度とは言わない。…と言うか俺にも、自分が何を言いたかったのが、もう思い出せないんだよな…多分、『幻覚』の所為だな。」

 そう言って笑うアナタに、魔理沙は小さな、小さな、人形たちの足音に消え入る様な声で囁く。

 「幻でも良い…不公平を埋めようとしてくれただけで…アナタの中の私が魔理沙で居られるならそれだけで…私には充分だから…。」

 魔理沙は赤らめた頬を、肩を、温かさで押し抱く様に…この人を好きに成って良かったと…胸元を掴んだ手の力を強めるのだった。

 …と、すったもんだの末に、ようやく、この扉の外れた家に三人の居場所が出来上がった様なのだが…あれっ、そう言えば確か、この後の魔理沙は随分と不機嫌そうにしていたのではなかったか…。

 何か、そこはかとなく嫌な予感を覚えるのだが…皆さんには最後にもう一場面だけ、月と、星たちに共に、三人の成り行きを観劇してもらおう。

 アナタが顔を魔理沙の方へ戻すと、まだそっぽを向いている彼女が、上擦った声で尋ねてくる。

 「と、ところでさぁ…アナタの『幻覚』の…『能力』の質から考えれば、相手がどんな表情をしているかで、相手の気持ちが読み取れるって事になるだろ。だったら…もしかして、私が今晩、何をしにアナタの家を訪れたのか解かるんじゃないのか。」

「『幻覚』の事を意識するなと言ったのは、お前じゃ…。まぁ、俺としたって、この後に詳しく説明を受ける積りだから良いけどな…。で、えーっと、お前が何しに家に来たのかって…俺宛ての荷物を届けに…じゃないとすると…ちょっと、想像も付かないな。それに…。」

 アナタは、ふわりとして甘やかな、魔理沙のハニーゴールドに輝く髪を見つめる。

 「はっきり言って、『幻覚』で可笑しくなった相手の顔から、相手の考えている事なんて解かりゃしないんだ。『幻覚』の顔は『表情』なんて規格の内側に収まる様なものじゃないし、そもそも得体が知れないんで、とりあえず『幻覚』なんて呼び方をして訳だかしな。だから、俺に自分の気持ちを盗み見られたんじゃないかと不安に思っているんなら、その心配は無いよ。魔理沙がどんな顔をして見えたかも、他言する積りもないからさ。」

「そうか、恩に着るぜ…。」

と、魔理沙はアナタを真似する様に、サッと、襟足の毛を撫で上げた。

 そんな二人のやり取りのもどかしさに、流石のアリスも瞳を閉じても居られなく成ってきたのか…さっきからまつ毛が、ピクピクと痙攣している。あわや、アナタへの説教タイムか…そう思われた矢先に、アナタが…、

「あぁ、だけど…魔理沙の顔を見ていて、ずっと気に成っていた事はあるな。多分、『幻覚』とかじゃないだが…。」

 「な、なんだ、それ。教えてくれ。」

 そわそわして尋ねる、魔理沙の夢中な声。それを聞いて、アリスの目元は再び安らかに…後はアナタ次第か…。

 屋根越しの天空から…瞼越しの仄かな暖かみから…そして、逸らしては居ても、真っ直ぐにアナタの思いを見つめる瞳から…期待の籠った視線を送られたアナタは、あっけらかんとして口を開く。

 「お前の頬っぺた、赤く成っているけど…どうしたんだ、それ。」

「へっ…。」

 冷たい風の音に混じって、魔理沙の調子っぱずれの声と、頭を抱えたアリスの溜息が木霊する…。

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