甲
[1]
アナタが路傍での人形劇で糊口をしのぐ事に成ったのは…人形師である『彼女』に心奪われたからだった。
元来、小器用さだけが自慢だったアナタ。始めは無自覚に、しかし、人形の繰り方を覚えた頃には意図して、『彼女』…アリス・マーガトロイドの気を引くべく、こうして…今日もまた、道端にて人形劇を繰り返している。
(これの他に、食う当てがある訳でも無いしなぁ。とりあえずは、こんな事でもやっているしか…。)
十字に組んだ木片から伸びる無数の操り糸。それを片手に一組ずつ携えて、アナタは同時に二つの人形を操って見せる。その巧みな人形遣い振りに反して、内心は木で出来た操り人形の胸の様に堅く、乾いているようだ…。
そんな日々を過ごす中、最近のアナタは…人形を操っているのだか、自分の肉体を漫然と繰り動かしているのだか解からない…事ある毎に、そんな錯覚に陥る様に成っていた。
(まぁ、食う物もまともに食ってないから、こんな面白くも無い考えに囚われるだろうけど…はぁっ、ずっとこんな事を続けている訳にもいかないのは、確かか…。操り人形と違って俺には、胃袋に詰めてやる燃料が必要だからな。儲かるとは始めから思っていなかったけど…人形使いって職業が、四六時中、空っ腹で無いと務まらないとは考えもしなかった…。)
右手の木片から伸びる糸の先には、乗り出す様に明り取りから顔を出す姫君…左手の木片に繋がれた糸の下には、灰色の塔の天辺へ向けて、高らかに愛を歌い上げる王子様…。
そんなドラマチックな場面を、アナタは淡々とした口調で語り聞かせながら、実に慣れた手付きで進行させていく。…とは言え、アナタの芸当はどうやら、なかなかに捨てたものでも無い様だな。その事は…子供ばかりではあるものの…真剣な目付きで、観劇に余念がない観客たちが教えてくれていた。
アナタ自前の移動用の小舞台。椅子も無い地面に座り込んだ子供たちが、所狭しと、その前で扇方に連なって即席の観客席を作りだしている。
瞬きを忘れた様にアナタの劇に見入りながらも…時折、少年少女たちは思い出した様に、手にした黄金色に輝く駄菓子をペロリッと舐める。…目下のところ、こうして彼らに売るべっこう飴だけが、アナタの雀の涙ほどの収入源なのだから…そりゃあ、舞台袖の方では愚痴を零したくも成るだろうよ…。
如何にも観音開きの洋ダンスを改造して作られた様な、小舞台の上。色紙製の三日月が浮かぶ夜空に届きそうな塔の窓辺から、姫君が編み上げた、長い、長い髪を、王子様へと垂らして寄越す。
すかさず無表情な木彫りの王子様が…しかし、迫真の演技で、しっかりとその三つ編みの綱を掴んだ。
なるほど…アナタほどの巧みな人形繰りの技術があったならば、むしろ…物語に要らぬ人柄を彩色しかねない、芝居がかった口上よりも…こうして淡々とした口調で進行させつつ、後は人形たちの熱演に任せた方が観客たちにとっても小気味良いのかも知れない…。
だからこそ、モールス信号を打電する様だった無機質なアナタの語り口が、唐突に熱を帯びて上擦った時には…小さな観客たちは途端に眉根を寄せて、さも不快そうな呻きを漏らした。
アナタの名演に水を差したものは…羞恥心と言う生命感を与えたものは…当然、意識しまくっているアナタが一番ご存じの通り、こちらへと歩いて来る二人の女性の存在であった。
女は男の視線に敏い。意識を自分に向けられれば、たちまち、それに気づいてしまうと言うが…二人の女性の内、アナタから向かって左側…一点のくすみも見当たらない美しいブロンドに、白いレースの付いた、赤いカチューシャのアクセントを引いた少女…。
そのフランス人形然とした少女が、アナタと、アナタの周りを取り囲む一団に気付いて、脚を止めた。…やはり、アナタの盗み見る様な視線が、癇に障ったのかも知れないな…。
青いワンピースドレスの肩に羽織ったフリル付きの白いケープを翻し、アナタに背を向ける少女。そのままこの場を立ち去ろうとするその腕を、もう一人の女性が掴み止めた。
「なんで…ちょっとつれないんじゃないか。折角なんだから、偶にはあいつの奮闘っ振りを覗いてやろうぜ。」
と、如何にも魔法使いか、魔女が被っていそうな、黒いトンガリ帽子を被った少女が楽しげに口にした。
アナタから、向かって右側に居るトンガリ帽子の少女は…フランス人形の君と同じくブロンドの髪を揺らしながら、しかし、人形の様に表情の乏しい彼女とは好対照に、快活な、そして少し冷やかす様な笑顔を浮かべている。
フランス人形の君からすると…ややくすんで見える…ウェーブの掛ったハニーゴールドの髪も、黄昏時の仄暖かい西日を浴びて、恰も、豊饒な麦畑を抜ける一陣の風を思わせる様に清々(すがすが)しい。
そんなトンガリ帽子の少女の笑顔に、そして、
「なぁあ~、アリスぅ。少しくらいなら見ていってもいいだろ。」
と、やや甘えた様な、屈託なく誘い言葉を放り投げる、彼女の男っぽい口調に促され…心底から嫌そうに、苦虫を噛み潰した様な顔をしていたフランス人形の君こと、アリス・マーガトロイド嬢が、
「魔理沙…貴女ねぇ…。」
そう何か言葉を次ごうとした口を、悔しげにキュッと引き結んで…俯き加減だったアリスは、思い直した様に、人形の如く整った美貌を上げて、
「どうせ…自分だけ、子供たちの輪に混ざるのが恥ずかしかったんでしょ…。」
と、おそらくは、当初言おうとしていた言葉を飲み込んで発せられた台詞ではあったが…アリスの声には抑えられぬ忌々(いまいま)しさが煙っていた。
魔理沙が腕を引いて、アリスを子供たちのやや後ろ…小舞台の上へと糸を垂らす、アナタの正面へと誘う。
アナタは緊張感からおたおたと、姫君の髪を懸命に上っていた王子様を更に急かして…あれほど巧みだった人形繰りも、まるで猫が毛糸玉で遊ぶかの様に取り乱している…。
仕舞には…王子様も握り締めていた髪を取り違えてか、ストンッと地面へと逆戻りしてしまった。
「あっ。」
上擦った物語に紛れ込んだ、間の抜けた様な、低く雄弁な驚きの声。
その音に周りの時まで止まってしまった様に、人形たちは力無く項垂れ、魔理沙たちは目を皿の様に見開き、子供たちもべっこう飴を舌の上に乗せたまま固着している。…アナタがミスを犯すのは、よほど珍しい事だったと見える…。
皆、ページの捲られる時を待つ様に静止している最中。アナタの人形劇を最前列に陣取って見入っていた少女…透ける様な青い髪をした氷の妖精が…一人だけ噛み砕いていたべっこう飴を、ごくりっと飲み込むと…突然、ケラケラと、大声で笑い始めた。
藪から棒な笑い声にアナタは、ビクリッと、木片から伸びる糸を、そして、その糸に繋がれた姫君と、王子様を震わせた。
その人形たちのおどけた様な仕草に、続々と、笑いは子供たちの間を伝染していく。
少年たちは脚をバタつかせて、少女たちは笑顔を見合わせて笑っている。そうしてその笑いは、廻り廻って遂には…アナタの口元で苦笑を浮かべた。
アナタは柄にも無く、芝居気たっぷりに咳払いをする。それから、キョトンッとして押し黙った子供たちの正面に、人形たちを立たせ、
「この度の失敗を笑いに変えてくれた、功労者たる皆の者には、王子より『大義である。』とのお言葉を賜った。よって、王子の家来の吾輩から、貴殿たちに報奨を贈る事にあいなった。」
アナタの持って回った話し方にも、そこは子供らしい賢しさで、『どうやら、自分たちは何かを貰えるらしいぞ。』という事を鋭敏に察知した観客たち。…皆の者、アナタの次ぎの言葉を待って固唾を飲む…。
頃合いを見計らう様に、人形の王子様に身振り手振りを加えさせつつ…観衆の期待が最高潮に達する…アナタはその瞬間を舞台越しに見越すと、マントを翻して腰の鞘から剣を引き抜いた王子に、高らかに宣言させる。
「諸君らの活躍に対して、次の公演の折には、一人に付き一本のべっこう飴を無料で配ろうでは無いか。勿論、人形劇もタダで見ていってくれて結構だ。」
王子の掲げた、約束と、不格好な剣。
剣に張り付けられた銀紙が夕映えを反射すると、静まり替えていた子供たちが…火の着いた様に、ワッと歓声を上げた。
氷の妖精は一人、ニコニコと微笑みを浮かべながら…べっこう飴の無くなった爪楊枝に、雪花模様の結晶を作り出すと…ペロリッと、その氷細工の飴を舐める。
そんな一連の流れを子供たちの頭上の…まさに、特等席から眺めていたアリスが…、
「まったく、安上がりだこと…。」
と、それほどまでにアナタの事が気に食わないのか…そう、吐き捨てる様に呟いた。
そんな、あまりとは言えばあまりに友好的では無い、アリスの態度。それには流石に、彼女の隣で自分の胸を抱き寄せる様に腕組みしていた魔理沙も、他人事ながら、困った様な顔つきに成ってしまう。
「ガキどもだって、別に、べっこう飴の一本が魅力的だから喜んでいる訳じゃないだろ。それよりも…むしろ、あいつの人形劇を、大して美味くも無いべっこう飴を買わなくても見られるのを喜んでいるんだと…。」
魔理沙は横合いから、ムスっとしたアリスの顔を、チラッと盗み見て…、
「私は、そう思うぜ。」
と、言葉を次いでから、小さな苦笑を漏らした。
ややあって、アナタは人形劇を再開する。物語の世界に見るものを誘う、雨音の様な、淡々とした語調。
姫君との初めての共同作業に、『もう一度』挑戦するべく…人形の王子も前のめりに成るほどグイッと両腕を伸ばして、再び、姫君の長い髪の待ち受ける塔の前と歩み寄る。…その時、不意打ちの様に観客の側を向いた王子様が、許しを得る様にお辞儀をして見せた。それがまた、子供たちの笑いのツボをくすぐる。
取り澄まして人形劇を進めるアナタに気を使ってか、可笑しいのを堪え、クスクスと笑いを零すのみで我慢している、子供たち。
魔理沙はガキ呼ばわりしていた割には、優しげな顔つきでその様子を見渡して…感心した様な、そして、どこか嬉しそうな声で呟く。
「ふーんっ…なかなか大した人形師じゃないか。そりゃあ、まぁ、アリスに比べればまだまだ、荒削りだし、ちぐはぐなところも目立つけれど…人形も指先まで良く作りこまれているし、糸の操り方もかなりのものだよな。素人の私の目から見ても、それぞれの役柄を演じさせ様とするあいつの『意図』が、人形の隅々にまで、それに何より、強く…繋がっているのが解かるみたいだぜ。」
「貴女の方こそ、大した批評家だわね…魔理沙。」
そう、不機嫌そうに口を挟んだアリスに、魔理沙は自信ありげな鼻息を吐き出して、
「まっ、誰かさんの薫陶の賜物だろうぜ。…あれぇっ…それにしても、アリスさぁ…。」
と、今度は前屈みの姿勢から、からかう様な笑顔でアリスの顔を覗きこんで、
「もしかして、私があいつのこと褒めたりしたから…怒ったのか。それに…さっきからずぅっと、面白く無さそうな顔していたけれど、それも…折角、私と水入らず、二人っきりで居たのを、あいつに邪魔された様に思ったからとか…もう、可愛いなぁ。」
そう言って魔理沙は、ヘラヘラしながらアリスの頭を撫でまわし始めた。
アリスは、物見高い子供たちの、それに怖々と自分の方を盗み見ている、アナタの存在をすら忘れてしまったかの様に、顔を耳まで真っ赤にして、
「ばっ、馬っ鹿じゃないの。何をどうしたらそう言う事になるのよ。私は別に、偶然…そう偶然、貴女と進む方角が同じだったから…赤の他人って訳でもないし、振り切って、さっさと一人だけで先を歩いちゃうのもアレだから…だから、私は当たり前の社交性として並んで歩いて上げていただけで、歩調だって歩幅が同じくらいなんだから重なるのは当然の事で…。」
アリスは自分でも制御しきれていない言葉たちを、『どこかで喰い止めなくては』と、焦る様に口元を手で押さえる。だが、言葉は次から次へと溢れだしては、彼女の白魚の様な指の、わずかな隙間から零れ出していく。
徐々に拍車が掛っていく言葉の熱っぽさに、アリスは半ばパニックを起こした様で…自分の口を塞いでもどうにも成らなかった為か…真っ赤な顔でモゴモゴと何やら口走りながら今度は、何故か、魔理沙の口にその手を宛がおうとしに掛る。これは…思春期を控えたお子様たちの前で演じるには、少々、刺激的すぎる演目では無かろうか…。
魔理沙も流石に、アリスが恥ずかしそうな顔をしながらも、裏腹な強引さで唇に押し付けてくる細い指に、目をパチクリさせて驚いた。…しかし、すぐに白い歯見せて、ニッと、笑みを浮かべる。
「えっ、何、『見据える方角同じだから、私と同じ歩幅で歩いた』ってことだよなぁ。そんなにはっきりと言われると、私でも照れるなぁ。やっぱり、アリスの為にも、私は男に生まれるべきだったぜ。」
と、魔理沙は、ニッシッシッと悪戯っぽく笑いを漏らした。
アリスもそんな、魔理沙の取り繕わない、度胸の良い見事な女っ振りに、少しは血圧が下がったのか…。あるいは、改めて惚れ直したと言う事もあろうか…。火照った頬に、今しがたまで魔理沙の唇に触れていた手を…いや、これ以上は茶化さないでおこう。
アリスは頬に手を宛てると、やれやれと言いたげな、味の濃い、それも渋めの笑みを浮かべる。
「そうね。貴女みたいな男勝りは、いっその事、男の子に生まれてくるべきたかも知れない。そうしたら…その時は私だって、霧雨くんには靡いたかも…。」
「あらまぁ、ずいぶんと素直にデレたことで…。でも、女の私にベタ惚れのアリスが、もし私が男に生まれていた日には…ツンデレどころか、デレデレになるだろうからなぁ…うーんっ、そうなると…きっと、クールなナイスガイの私でも、流石にちょっと、鬱陶しく思うんじゃないかな。」
「本当、ずいぶんなおっしゃり様ですわね。…て言うか、私、ツンデレじゃないし…。」
「アリスこそ今更、何をおっしゃるんでござぁますか。お前はもろにツンデレ娘だろ。あの人形師の兄ちゃんにはツンツン、その代わり、私にはデレデレ。ほら、誰もがうらやむ立派なツンデレヒロインだぜ。」
「それ…何か、ツンデレの定義を履き違えている様な…だいたい私は、魔理沙に媚を売る為に、あいつのことを邪険にしている訳じゃないわよ。」
…アナタの思いを寄せる女性…アリスは、どうやら…意識してアナタの事を避けていたらしい。もしかしたら、子供が嫌いであるとか、あるいは、人形劇が嫌いという場合も…っと、思っていたのだが、淡い期待は脆くも打ち砕かれてしまった…。
幸いだったのはそれが、人形劇に集中しているアナタの耳には届かなかった事だが…二人はこの、いつ何時、アナタを失意のどん底に叩き落とすかも解からない会話を続ける積りの様だ。
魔理沙がどこか慰めるかの様な表情をアリスに向けて、
「私はアリスの『女友達』として…どうしてアリスが、そこまであいつを嫌うのかを…聞いて上げた方が良いのかな。…話してみな。」
そう促されて、アリスは不機嫌そうな面差しを、ふと寂しそうに陰らせて…、
「魔理沙はさっき、彼の人形が良く出来ているって褒めていたわよね…それはそうでしょうとも、なんたって、私が人形の作り方を教えたんだもの。」
アリスはそう、しっとりした口調で語って聞かせた。
それに、魔理沙はウィンクする様に、大きな猫目を見開いて驚きを示して見せる。
「へぇ…なるほどねぇ、人の手になるものにしては、稀なる逸品だとは思ったけど…どうりで…。」
「まっ、私が教えたからと…そればかりでは無いのだけれどね…。」
そんな、アリスの含みを持たせる様な言い回しに、魔理沙はやれやれと言いたげな苦笑を漏らして、
「じゃあ、人形の操り方もアリスが教えてやったのか。」
と、それはそれなりに、女同士の友達甲斐として…アリスの気持ちを汲み取る様に、甲斐甲斐しく言葉の先を促してやる。
アリス自身、そう尋ねてくれる魔理沙の細やかな心遣いに甘えるのを申し訳なく思い…それにも増して、尋ねられるままに愚痴を零す自分の…目の前の子供たちと大差ない幼さに、腹立たしさがこみ上げる。
…しかし、こう…口まで出かかった言葉が、喉の奥で詰まる様な違和感が膨らんでいくとなると…仕方が無かろうというものだ…。
「人形繰りを教えたのは私では無いの。…と言うより…多分、彼は人形の操り方を誰にも教わってはいないのじゃないかしら…。」
と、やや擦れ気味の声で答えた、アリス。
軽く握った手の甲をバラ色の唇に近付けて、コホンッと、空咳を一つ。それでアリスの喉のつかえも、多少は和らいだ事であろう。
アリスのそんな単純ならざる心中を、小首を傾げて眺めながら…魔理沙は琥珀色の瞳をパチクリッとさせる。
「えっ、何それ、もしかし謎かけのつもりなのか。」
「違うわよ。勿論、そのままの意味でってこと。」
と、アリスは不思議がっている魔理沙の顔付きに、ふんわりと、リンゴの様に堅く成っていた頬を緩めて、
「それが、彼の能力なのよ…それだけじゃなくて、きっと独学で練習もしたんでしょうけど…元々、彼には、あの程度の人形繰りの腕を許すだけの能力が備わっているの。」
「ほ、ほぉうっ。」
そう感嘆の声を発して、魔理沙は傾げていた首を真っ直ぐに戻した。
魔理沙はなおも興味深そうに、感慨深そうに、小作りな顎へと親指と、人差し指を宛がう。
「それじゃあ、あいつは、アリスと同じ類の能力を持っているって事に成るのか。私が見る限り…あいつ、そんなに強力な『能力』を秘めている様には思えないんだけどなぁ…。」
アナタをしげしげと眺める魔理沙の目付きは…懐疑的言うよりは、からかい半分、後の半分は物珍しさと言ったところだろうか…。
そう言った様に、魔理沙の茶目っ気が大半なのだから…彼女の視線に気付いたアナタが、不意に送った目線に…優しく微笑み返されたとしても…何も、そんなにはドギマギしないでも結構ですよ。
そんな閑話休題なアナタたちのやり取りに、アリスは呆れた様に小さく息を吐き出す。そして、仕方なさそうに…あるいは、魔理沙の気を引く為にということもあるのか…話を続ける。
「あいつの能力を私は、『心象を表象にする程度の能力』と名付けたわ。」
「それって…つまりはどういう類…どんな事が出来る力なんだ。それが、人形を使うことに、どう役立っての。」
そう矢継ぎ早に質問を放り付けてくる魔理沙に、アリスは青い瞳を向け、『ちょっとは落ち着きなさいよ』っと、軽く言葉に間を入れる。
それから…如何にも慌てた風に、口を両手で塞いで見せた魔理沙の半笑いの目付きに…、
「ありがとう。」
と、アリスは笑顔で、皮肉のたっぷりと籠った謝辞を述べた。
「具体的に彼の能力に何が出来るかと言えば、私が今言った能力の名前そのままに、『心に思い描いた事象を、表現する程度の事が出来る』と…そう言う事に成るでしょうね。例えば、絵画を描いたなら、頭の中でイメージした通りの絵が描ける様に、容易く入り用の絵具が何色なのか解かるし、実際に描く段に成っても、絵筆をどうキャンバスに走らせれば良いかは、自然と、感覚が教えてくれる。」
アリスの説明を片耳で聞きながら、魔理沙は…今やクライマックス差し掛かった人形劇の、姫君と王子の愛の言葉が、高い塔の窓辺から天空へと木霊する場面を…無表情で、しかし、玉の様な汗を浮かべて、熱心に操り、語る、アナタの姿を見つめ…、
「例えば…人形を操ったなら、名だたる大監督、大脚本家顔負けの舞台を、自分の感性が広がる範囲ならどこまででも広大なスケールで、人形に表現させる事が出来る訳か…。」
と、魔理沙は…自分が、うっとりとしてアナタの熱演を誉めそやした…その意外な事実に、内心で衝突した様だ。少しバツが悪そうに微笑むと、
「まっ、それもこれも、アリスが人形に魂を吹き込む技術を教えてやった。そのお陰なんだろうけどな。客層のほとんどが子供とは言え…そうでも無ければ、妖怪や、妖精まで混じったこの面子を…べっこう飴一個じゃあ、ここまで喰いつかせるのは叶わなかったろうぜ。」
と、トンガリ帽子のツバを人差し指で引き込んで、目深に被った帽子の影に琥珀色の瞳を隠した。
そんな魔理沙の、どこかぎこちない様子に…アリスはやや探りを入れる様に、ややもすると不安そうに、口を開く。
「私の『人形を扱う程度の能力』や、魔理沙の『魔法を使う程度の能力』に比べれば、確かに微々たる能力でしょうね。それでも、汎用性は悪くないみたいなのよ。私が幻想郷に迷い込んだ彼を助けた時、彼は自分に襲いかかろうとした人食い小娘相手に、草笛の音を聞かせて、その害意を巧みに逸らしていた。…ううん、それだけじゃないでしょうね。私の様な人の道を外れた魔女が、仮初にでも彼を助けようなんて思ったのも…きっと、彼の奏でる笛の音に心を打たれていたからなんでしょうね。そして、乞われるままに人形作りの知識と、技術を授けたのも…。」
「なるほど、『芸は身を助く』を地で行っているんだな、アイツは…って、おやっ、あそこに居るのは…。」
と、カウボーイ…もとい、カウガールの様に、目元を覆い隠していたトンガリ帽子のツバを、立てた人差し指で下から押し上げて、魔理沙が顔を突き出しアナタの方を眺めた。
いいや、どうも、意中の人は残念ながらアナタでは無く、アナタの人形劇の観客である子供たちの中にいるらしい。
魔理沙が見つめるそれは、小舞台の真ん前で自分の作った氷飴を舐めていたが…終いには堪え切れずに、ガジガジと歯噛みしている氷の妖精…その、隣。
こちらも、とっくにべっこう飴を喰らい尽くして…それでもどういう積りか、ただの爪楊枝となった元飴の一部を後生大事に掌に乗せたままで…ぽかんと口を開けて、アナタの妙技に見入っている少女。
頭の要所のネジが抜け落ちてしまったかの様に、ぼーっと、口を半開きにしている事を除けば…まぁ、アリスに劣らぬ美麗な金髪と言い…左耳の辺りに結わえ付けたリボンと、彼女の幼さない容姿を見事に一纏めにしている、黒を基調にした服装と言い…列を成した子供たちの中でも、図抜けて可愛らしい娘である事は間違い無かろうが…この少女に、魔理沙はどんな物珍しさを見て取ったのであろうか。
「あれに見えるは、件の人食い小娘、ルーミアさんじゃ御座いませんか。自分を食い物にしようとした妖怪まで、べっこう飴の一本と、人形劇だけで、逆に常連客として食い物にし返すとはなかなかやるもんだぜ。…これは、思った以上に使えるかも知れないな…。」
と、面白そうに、可笑しそうに笑う、魔理沙。
アリスは若干の憂いにしお垂れたまつ毛を伏せて、
「その顔は…また、悪だくみかしら…。」
そのアリスの物言いに、魔理沙はさも楽しそうに笑い返した。
そして、ご機嫌な心境を隠すこともなく、トンガリ帽子のツバをレコードの円盤の様に回転させる。
「悪巧みだなんて滅相も無い。ただね、あいつの…『心象を表象にする程度の能力』だっけ、それが妖精にも、妖怪にも、魔女にも…。」
と、ここですかさず、アリスへと茶化す様な目線を送って、
「効果がある事は実証済みだし…ここまで使い勝手の良い能力なら、後は私がちょっと協力してやるだけで、私がハッピーになれる…勿論、あいつもハッピーになる様な儲け口は、幾らでもあるだろうぜ。」
アリスは、とことん呆れましたと言いたげな、大きな溜息を吐く。
「ほどほどにして置きなさいよ。相手を操ろうとして、反対に、操り糸に絡め取られる何て…ありきたりな、お話にも成らない事態にだけは成らない様にね。」
そのアリスの忠告を、魔理沙は…結局は、悪く取ることが出来なかったのかも知れない…。彼女ひたすらに、未だ世に出ぬ幻の宝を見つけた、トレジャーハンターの覚える様な高揚感の内に居る。
「大丈夫、大丈夫。別に、騙して扱き使おうとか、賺して奪い取ろうとか、そんな非人道的な提案を持ちかけ様って積りは毛頭無いんだぜ。私は公明盛大な気持ちで、かつ単純に、二人でがっぽりと稼ぎましょうという、ビジネスのお話を…。」
「本当にそうなら、良いんだけど…。」
そう、いつの間にかアナタの演技に見居ていたアリスが、当て所も無い呟きを零した。
そんな気の無いアリスの態度にも、頭の中一杯に積み上がった銭の勘定で忙しい魔理沙は、
「なんだよ、アリス、お前妬いているのか。まったく、可愛い奴だぜ。」
と、満足げに、トンガリ帽子をお気に入りの定位置に正した。
アリスはまた、呆れ果てた様な溜息を漏らすと…くいっと、魔理沙の帽子の端を摘まむ。
「んな訳無いでしょ、馬鹿…。」
そんな訳で、折角、ばっちりと決まっていた魔理沙とトンガリ帽子のバランスは、アリスの指先で前方へと大きく傾く事と成った。…まっ、これは自業自得といったところだろう…。
魔理沙は慌てることも無く、悠々と視界を遮る帽子を立て直して、
「あれっ、あいつの人形劇、最後まで見ていかないの。」
と、すでに歩き始めているアリスの、立ち去る背中に声を掛けた。
アリスは魔理沙の方を振り返りもせずに、アナタの方を塩でも撒く様な手付きで指差して、
「何言ってんのよ。終わっているじゃないの、もう…。」
「えっ、あれま、本当だぜ。」
…確かに、子供たちが散り散りにどこかへと走り去っていくし…アナタは、アナタで、アリスの方へ気遣わしそうな視線を送りつつも、小舞台を片付け始めていた…。
魔理沙はキョロキョロと、歩き去るアリス、舞台を片付けるアナタと見比べて…一先ず、アナタを後回しにすることに決めた様だ。小走りにアリスの傍へと近づいて、
「ちょっ、ちょっと待てよ。私一人置き去りにして行こうってのは、少しつれないんじゃないのか。」
その魔理沙の言い分に、アリスはそっぽを向いたまま、
「だって、魔理沙はこれから、彼とビジネスのお話があるのでしょう。」
「いや、だからさぁ、せめて、私のことをあいつに紹介するなりしてくれても…。」
「悪いのだけど…私は御免だわ。それに…彼だって、私が傍に居ると何かと話し辛いところもあるでしょうし…私、お二人のお邪魔をする様なこと、したくはありませんから…。」
「おっ、おい。」
その制止の声を振り切る様に、アリスは一際歩調を速めた。
魔理沙にしても、アリスに付いて歩いた為にずいぶんとアナタの居る場所から離れてしまった様だし…仕方なく傍で足を止めると、大声で…しかし、心持ちアリスの心境を慮って、潜める様に加減した声を掛ける。
「だいたい私、アリスとあいつの馴れ初めは聞いたけど…肝心の、どうして別れちゃったのかって事をまだ聞いてないんだけど…。」
と、やや責める様な語気を孕んだ問い掛けに、アリスは首を傾げ、肩越しに振り返ると…、
「彼が、私に告白したからよ。」
アリスはそれだけ言い残すと、今度こそ、わき目も振らずに歩いて行った。
金髪の少女が、土の剥き出しに成った、ろくに舗装もされて居ない…長い、長い、曲がりくねった道を通り過ぎていく。
もう小高い丘の辺りにまで差し掛かった彼女は、きっと、その先の…黄昏時の今時分にはもう真っ暗な、曰くありげな森の中へと入り込んでいくに違いない…。
そんな、小説の挿絵の様な光景を眺めながら、魔理沙は首筋から夕陽の温もりを追い払う様に…アリスのそれよりは、やや夜にくすんだ髪をかき上げる。
「やっぱり、妬いているじゃないのさ…まっ、私と、あいつ、どっちに対してなのかは解からないけれど…。」
そう、彼女らしからぬ…女性を感じさせる艶めいた口振りで呟いて…魔理沙は少しだけ不貞腐れた様に、砂利道を、蹴飛ばし、蹴飛ばし、アナタの居る方へと帰っていった。
[2]
観音開きの扉を閉めて、小舞台を片付け終えたアナタの背後から…ぬっと手を伸ばす二つの影が…。
アナタは何気なくその影達に振り返ると、『解かっていますよ』とそれぞれに頷いて見せる。
それからアナタは、小舞台の隣に置かれていた小箱からべっこう飴を二本取り出すと、一本を、
「はいっ、今日は本当に助かったよ。ありがとうな、チルノ。もしお前が笑いだしてくれなかったらと思うと…いいや、恐ろしいから思わない事にしておこう。何はともあれ、本当に、助かった。」
と、最前列に陣取ってアナタの公演を観劇してくれていた、氷の妖精に手渡した。
職人風の武骨な手からべっこう飴を受け取った氷の妖精…チルノは、嬉しそうにニンマリッと笑ったその顔のままで、早速、べっこう飴を頬張る。もう一方の手には、ただの爪楊枝を大事そうに握って…。
少女の姿をした氷の妖精の髪は、酸素をたっぷりと含んだ氷晶を思わせる、爽やかなラムネ色をしている。
西日を受けてほのかに暖まったその手を伸ばして…いつもの様に、アナタはチルノのひんやりとした頭を、わしゃわしゃと撫でてやる。
「うーっ…。」
チルノの左隣からも、こちらもまたいつも通りな呻き声が…。それは、いつぞやアナタを食べてしまおうとしたルーミアであった。
アナタは、今思い出したかの様に、慌てて左手のべっこう飴を差し出す。
「おぉ、待たせて悪かったな、ルーミア。ほら、ちゃんと約束守って、俺の客には手を出さないでくれているしな。だから、お前にもご褒美だ。」
ルーミアは、ブラッドベリーの様な深紅の瞳をキラキラと輝かせて、『解かったから、さっさと寄越せ』と言わんばかりに、二、三度、激しく頭を振って見せた。
そして、ほんの数秒前まで後生大事に掌に乗せていた爪楊枝を…そこらの草っ原に放り出して、引っ手繰る様にべっこう飴をアナタの手から奪い…いや、受け取った。
そんな愛想の欠片も無いルーミアの振る舞い。しかし、それにも慣れっこに成っていたアナタは、かえって、普段通りの彼女へと安心した様な微笑みを送る。すると…んっ、どうも、いつもと違う素振りを、アナタは見つけた様だ…。
普通なら、べっこう飴しか見えていないかの様に、ひたすらに飴を貪る作業に熱を上げるはずの、ルーミア。それが、気の無い顔付きで、まるで猫が前足を舐める程度に、べっこう飴を舌先で舐め上げるだけ…。そして鮮やかな深紅の瞳は、未だ、物欲しそうに見つめているのだ…アナタの右腕を…。
おいおい、まさか、べっこう飴だけでは腹持ちが悪いから、そっちの腕一本も寄越せと言うのじゃあるまいなぁ。…っと、アナタも、大切な商売道具の危機に、首筋に寒いものを覚えたが…ふと、どうやらルーミアが要求しているのは、そう言う類の事では無いのに気付かれた様ですな。
アナタはチルノ頭に伸ばした右手はそのままに、手隙になった左手でルーミアの頭も、わしゃわしゃと、少し大袈裟なくらいに撫でまわしてやった。
「これからも、俺の客には手を出さない様に頼むぞ。そうしてくれている限りは、公演の時には必ずべっこう飴を食わせてやるし、べっこう飴を受け取る限りは、お前たちだって、俺にとっては立派なお客様だ。それなら俺も、気持ちよく、お前たちの為にも人形繰りをやれることになる。…本当に頼むからな。俺だって一番の常連を失いたくはない…例えそれが、タダ見客でもな…。」
そのアナタの言葉に頷く様に、チルノも、ルーミアも、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、力強く撫で回されるに任せて、頭をガクガクと揺らしていた。
俯き気味になって二人を撫でていたアナタは、ポンッと、最後に二人の頭を軽く叩いてから両腕を引っ込める。味の濃い、どこか切なげで、どこか男性的な笑い…。
夕陽に向ける様に顔を上げ…そんな黄昏時の温もりに浸り切っていたアナタの目の前に居たのは…無論、魔理沙であった。
「あっ、その…私…。」
…見てはいけないものを見てしまった様な気まずげな顔と、見られてはいけないものを見られてしまった様な気まずげな顔が…何の因果か見つめ合っている…。
それは、取り成す為にか、それとも、言い訳する為だったかは解からない。だが、兎にも角にも、さきに口を開いたのは魔理沙の方であった。…にしても意外だな…著者が思っていた魔理沙の反応とは違う…。
先程までの、アリスからふざけ半分でアナタの事を聞きだしていた魔理沙なら…てっきり、アナタの現状を垣間見た瞬間に、催す悪戯心を抑えきれなくなって…、
『両手に若い蕾とは、お前もなかなか隅に置けないなぁ。』
とか、
『お楽しみのところ申し訳ないんだけど、良ければ耳を貸してくれないか。なに、心配しなくても、手を貸せなんて欲張った事は言わないからさ。』
と、それ位の冗談は飛ばしてくれるかと、内心楽しみに…もとい、冷や冷やしていたのだが…それが杞憂に終わるとは…。
妙齢の女性には失礼なもの言いやも知れないが、魔理沙という娘は、思ったより、奥ゆかしいところがあるのかもな。
耳まで真っ赤にしながら、そんなお互いの顔を見交わすアナタと、魔理沙。囃し立てるカラスの泣き声を遠くに聞きながら…ずるずると落ちていく様に…そろって二人の顔は、下へ、下へと向いていく。
そのアナタの視線の下では、我関せずと、必死の形相でべっこう飴に齧り付く、ルーミア。それに、西日にほんのりと融かされた目尻を、どこか拗ねた様に他所に向ける、小さな氷の妖精。
そんな…チルノの粉雪の様に淡い心の機微を…今は受け取る余裕などあるはずもないアナタは、とりあえず今の状況を打破するべく、恥ずかしさを堪えて魔理沙を見る。
アナタの意図しない熱視線に、魔理沙はたじろいぎつつ、引き攣った愛想笑いを返した。
更にアナタは…生唾を飲み込むと、追い打ちを掛けるべく口を開く。
「えっと、確か…ビジネスの話だよね…。」
「あ、あれっ、聞こえてたの。」
と、口の端を震わせながら問い返す魔理沙に、アナタはゆっくりと首を縦に振って見せた。
[3]
アナタに促されるのに従い、魔理沙は小舞台の置かれた場所を見下ろす斜面に腰掛けた。 日は地平線に食い入る所にまで差し掛かり、浅く夜を運ぶ日陰が、彼女の足元スレスレまで小波を漂わせる。
魔理沙が膝に手を宛て、大人しく座っていると…不意に、日陰から潮騒の様な音が…いいや、それは草原の青草を揺らす、一陣の風が通り抜ける音だった。
「きゃっ。」
と、勢いを付けて斜面を駆け上がる風に可笑しそうな声を漏らし、魔理沙は反射的に、右手でトンガリ帽子を引っ手繰られぬ様に、左手でエプロンドレスのスカートを捲られぬように抑える。
風が斜面から、枯れ落ちた草葉を茜色の空へと舞い上げた。
魔理沙は通り過ぎた風を追いかける様に、小さく息を吐いて…耳に掛った髪を左手でかき上げる。すると、貝殻を耳に宛てた時に聞く様な、小さな呼び声にうっとりとして…、
「おーいっ、霧雨さん。聞こえていますか。」
「は、はいっ。き、聞いていますとも…。」
そんな、訳も解からず応え返したのが見え見えの態度を、魔理沙は横合いからの夕陽を遮る人影に示した。
人影の方は…そんなでも、一応の意思疎通は図れたと判断したのか…そのまま魔理沙の左隣に腰を下ろす。
遮るものの無くなると同時に差し込む、横殴りの夕陽。魔理沙が琥珀色瞳を瞬かせながら目線を送るのは…彼女の隣で小箱の蓋を押し上げる、黒いシルエットの仮面を外した、アナタだ…。
「残りものだけど、どうぞ。」
と、小箱から取り出したべっこう飴を差し出すアナタの顔を見ながら…日差しは未だ、彼女を執拗に付け狙っているのだろうか…魔理沙はまた、眩しそうにまつ毛を伏せた。
しかしながら、魔理沙も自分が…こう、何やら、アナタに『押し負け気味』である事に気付いたらしい。
「ありがとう…。」
そう、気の早い夜露に潤んだ瞳を伏せ、夕陽にリンゴの如く赤く染められた頬を柔らかくしながら、おずおずとべっこう飴を受け取ろうとしている、今の自分の態度に思い至ると…魔理沙はこれではイカンばかりに、
「遠慮なく頂くぜ。」
と、努めて夕光を掻き消す様な、明るい満面の笑みで応えた。…照り付ける夏の日差しに、思わず顔を背ける様な…アナタのそんなそぶりに、彼女の溜飲も多少は下がったご様子。…んっ、ほら、交渉事では、何より押しが肝要ですからしてね…。
斜面の下では、つかの間のじゃれ合って居たルーミアと、チルノが、長い航海に旅立つ友を見送る様に大きく、大きく、手を振り合い、お互いの家路へと別れていく。
アナタと、魔理沙は一様にべっこう飴を舐めながら、そんな情景を眺めていた。
それから…頃合いを見計らって、口火を切ったのは魔理沙だった…。
「あいつら…チルノと、ルーミアにも…まぁ、あいつらが銭を持っているとは思えないけどさ。タダで飴をくれてやってるんだな。」
と、言い終えた魔理沙が口にべっこう飴を戻すと、今度は、アナタが口からべっこう飴を出して答える。
「あぁ、あれは、あいつらに払う『みかじめ料』みたいなものだからな。べっこう飴二本で恙無く商売が出来るなら、安いものさ。」
そしてまた、アナタがべっこう飴を口に含むと入れ違いに、魔理沙はべっこう飴と、言葉を、舌の根から引き出す。
「ふーんっ、安いものねぇ…。子供たちに人形劇を見せて、べっこう飴を売って…それ、儲かっているのか。」
と、尋ねる彼女の声に、表情に、照れくささや、きまりの悪さは感じられなかった。…丈の長いスカートの中で、脚をやんわりと閉じたのは…ご愛嬌と言うことで…。
アナタも、隣の面立ちの可愛らしい女性が、『案外と男勝りなやつだ』とピンッと着たらしい。
魔理沙がスカートの裾ごと両脚を抱き寄せる。それから、膝の辺りに耳元を押し付けて、傾けた顔をアナタの方へと向けた。…そんな見ようによっては艶めかしく見えなくもない彼女の仕草にも、今度のアナタはこれといって気後れすることも無く、かえって、べっこう飴の甘い匂いを嗅ぐ真似をすると、
「まぁ、率直に言って…売り物ほどには、芳しくもないかな。」
そう答え、笑う、アナタに…魔理沙は膝に耳を擦り寄せたまま、小さく頷き返した。
そうして魔理沙は、胸算用の通りの展開に傾きかけている流れを、斜めに傾いだ視野から覗き見ながら、心地よさそうに口を開く。
「…なら、あんただって、さっさとビジネスの話に映っても、一向に差し支えないよな。それで、私からの提案なんだけど…。」
「いや、その前に、これだけは聞いておいて欲しいんだ。」
と、話を進め掛けた魔理沙の囁き声を、窮状に喘いぎ、助けを求めているはずの…アナタの快活な声が遮った。
「確かに、俺の人形劇は…そりゃあ、金にはならないし、それもこれも、俺に商才が無いからなのかも知れない。だから、本音を言えば、あんた持ってきてくれた、儲け話とやらに興味が無い訳じゃあない。…けどな、俺だって自分の人形繰りに自身を持っている。それに、べっこう飴一本とは言え、人形劇を開く度に、少ない小遣いからやり繰りしてまで、俺の芸を見に来てくれる子供たちには感謝もしているんだよ。だからこそ俺は、子供たちが俺の人形繰りを見たいと思ってくれる気持ちに対して、敷居を高くする様な真似だけはしたくない。そういう事だから…わざわざ稼ぎ口を持って来てくれたあんたには悪いんだけど…多分、俺はあんたの儲け話には乗れないし…あんたも、俺が金にならないと解かったなら、別に最後まで説明してくれる必要も無いんだ。あんたの時間を無駄にしない為にも、すぐに話を切り上げてくれても構わないんだからな。」
そんなアナタの言い分を聞いていた魔理沙は、始めこそ、思い通りに進みそうもない展開に不満げに顔を顰めていたが…アナタの話を聞き終えた頃には、どうしてか、もとの優しい表情に戻っていた。…果たして、それは嵐の前の静けさか…否か…。
魔理沙は小さく苦笑を漏らすと、膝から顔を上げ、べっこう飴を一舐め。
「それじゃあ、あんたは今の、今まで通りの、人形劇を見せて、見返りにべっこう飴を売りさばくって商売を変える積りはないってことか。」
アナタは、正面を向いた彼女の横顔に向かって、
「あぁ。」
と、真剣な眼差しで答えた。
魔理沙は取り澄ました様な無表情で、べっこう飴をもう一舐め。そして、またアナタに尋ねる。
「ふーんっ、じゃあ…これからも、ガキ共に焦げたべっこう飴を売りさばき続けるわけか。大して上手くも無い、薄っぺらくて、焦げている、べっこう飴を…。」
「うっ、それは…俺だって、心苦しいとは…でも、こればっかりはなぁ。駄菓子を用意しようにも、問屋から卸すとなれば仕入れ値が馬鹿にならない。自分で作ろうにも…まっ、あえて言うまでも無いだろうけどな、自分でもようやく形に出来たのがべっこう飴だったから、どうにかそこに落ち着いたって顛末で…もっと、子供たちが喜ぶような食い物を用意してやりたいのは山々なんだが、どうしようもないんだ。こればかりは…。」
と、アナタは心底から参った様な声でそう言うと、歯痒そうに後ろ髪を掻いた。
そんなアナタの様子に、魔理沙はゆっくりと…内なる心情が零れ出さない様に…微笑みを向ける。…だがしかし…、
「ふっ…うふっ…フフッ…。」
駄目だな…どうやら、感情を…笑いを押し殺していた唇は、決壊してしまった様だ。魔理沙が大口を開けて笑い始めた。
アナタも、ポカンッと、彼女に負けぬほどの大口を開けて、その藪から棒な笑いに呆気にとられていたのだが…あんまりにも大いに笑い転げてくれるものだがから、流石に腹立たしくなってくる。
少し表情を堅くして、しかし、それでも出来るだけ紳士的に振る舞うよう心掛けて、
「じゃあ、俺、これで失礼させてもらうから…折角の話を袖にしてしまって、悪かったな。」
と、アナタは、感情を押し潰した様な平板な声で、その場に立ち上がった。
魔理沙は目の端にその動きを捉えると、慌てて、そして、口の中に笑いが残っているのもお構いなしに、
「あっ、ちょっと…フフッ…待ってよ。まだ、こっちの話は終わっていないんだってば…ハハッ。」
そう言って魔理沙は、アナタの羽織っているよれよれの着物の袖を掴んだ。そうして、クイッ、クイッと、『座れ』と促す様に、その袖を引っ張る。
しかし…それでもまだ、アナタが嫌そうなしかめっ面をしているのに気付くと、次は…左手に離すまいと袖を握ったままで、『こっちを見ろ』と自分の口元を指差す。
そして、アナタが『しゃあねぇな』と言いたげな表情で向けた顔に、魔理沙は再び口元を差して『もっとこっちに寄れ』と催促する。
…アナタも男だ…そうそう、旨い話が転がっているとは思っていない。だからこそ、話も聞こうとせずに、魔理沙の申し出を蹴ったのだ。…だが、アナタも男なのだ…微笑を浮かべる美女に、こっちに、口元に寄れと頼みこまれては…抗い様も無いのである。
アナタはやや警戒気味に、しかし、罠だと解かっていても…男には赴かなければならない時もあるのだよ。お嬢さん。…結局アナタは、怖々と躊躇いの色をした瞳を瞑って、その耳を魔理沙の口元に寄せた。
それに、まだ少しだけ笑いの気を残していた魔理沙は…大きく息を吸い込むと…勢い良く…深呼吸をした。
「はいっ、これでもう大丈夫。もう笑ったりしない。だから、ねっ。私の話、最後まで聞いてくれよ。頼むぜ。…って、何だよ、その顔。私、何も驚かす様な事してないだろ。」
「あぁ、確かに…と言うか、驚かす様な事をされなかったのが、驚きだったと言うか…。」
と、アナタは、グニャグニャに成って絡まった緊張感の解きながら、ぼんやりと答えた。…てっきり、からかわれるとばかり…最低でも大声を耳の中にねじ込まれる位は覚悟していた、アナタ。これではまったく、緊張の糸の張り合いが無いったらない…。
魔理沙も、そんなアナタの肝試しの後の放心状態に気付いたらしい。『もう笑わぬ』と宣言して早々に、クスクスッと、笑い声を零して、
「私に驚かされると思ったのなら、あんたも素直に従わなければ良かったのに…それで、驚かさなかった事に驚いただなんて、それは完全な言いがかりってものだぜ。」
魔理沙は言い終えても、言い足りぬ…もとい、笑い足りぬ気持ちを塞ぐ様に口に手を宛てる。…それでも、収まらぬ可笑しさに、彼女は手と、口の間にべっこう飴を押し込んだ。
アナタはそんな上機嫌な魔理沙の微笑みに…、
「それは…そうだよな。…あんたには負けたよ。」
と、兜を脱ぎ捨てるが如く、ドッカリッと、その場に座りなおした。…さも、痛快そうな微笑みを湛えて…。
「それで、俺がうやむやにした、霧雨さんの…んっ、あぁ、じゃあ、魔理沙な。魔理沙の持って来た儲け話ってなんだったんだ。どんな内容でも、聞くだけは聞いてやるよ。」
魔理沙はアナタからの性根を据えた言葉を聞いて、首を縦に振った。
それから、濡れたべっこう飴に昔日を映しながら、口に残るザラメの甘さそのままに、ふわりと微笑む。
「私も、これだけは先に言っておくとするぜ。私の儲け話はあんたにとって悪いものじゃ無い。勿論、私にとっても…。私があんたに提案したいって言う儲け話…それは…。」
さわさわと指の背をくすぐる風。魔理沙の微笑みと、言葉の間。
アナタは生唾を呑み込む音を聞かせまいと、すっかり乾いたべっこう飴を口含んだ。
そして…それを合図とする様に、魔理沙が言葉を次ぐ。
「ずばり、あんたの代わりに私が、人形劇を見に来たガキ共に売り付ける菓子を作ってやろうってことなんだ。材料費一切は私が持つし、あんたの公演の際には私もちゃんとそこに居て、菓子の売り子も引き受けてやる積りだぜ。私、あんたの商売を見てて思ったんだけどな。やっぱ、演者と、売り子を一緒にこなすのは効率的じゃないなぁ。もし役割を分担していれば、例え、売り物がべっこう飴の一品だけでも、もう少し…ほら、あんたが劇を見せている間に、追加でべっこう飴を舐めようって食い意地が張ったガキに…じゃなくて、お客様に売ってやることも出来たんじゃないか…って、またかよ。どうしたんだ、変な顔して…。」
「へっ、いいや、別に…。」
そうは何とか答えたものの、答えた拍子に、アナタは指に摘まんでいたべっこう飴を草っ原に落としてしまった。
「あーあっ、勿体無い。」
と、魔理沙の非難する声と、問い質す様な視線が痛い。
結果、容易く追い詰められたアナタは、お決まりの後ろ髪を掻くポーズをとって、やや申し訳し難そうに口を開く。
「いやぁ、その…今までに、人伝に聞いていた魔理沙の印象からすると…俺はまたてっきり、儲け話に託けて扱き使われるか、悪事の肩棒を担がされるのじゃないかとばかり思っていたから…まさか、そんな健全な儲け話を持って来るとは思わなかったんでな。」
そう恥ずかしさを追い払う様に、アナタはガリガリと後ろ髪を掻き回し続ける。その様子を、魔理沙はじとっとした目付きで見やりながら…、
「人伝えにねぇ…アリスのやつ、好き勝手なこと吹聴して回りやがって…。」
と、先ほど見せたはにかんだ様な表情とは真逆の、夕闇も斜面を転げて逃げ出しそうな、凄みのある顔で舌打ちを一つ。さてさて、いよいよ雲行きが怪しくなって参りました。
アナタは、魔理沙の鼻息と共に沸き立つ不穏な暗雲を打ち払うべく、おっとり刀で口を開く。
「本当に、すまなかった。ずっと、魔理沙の事を変な色眼鏡を通して見ていたんだな。俺が悪かったよ、許してくれ。」
そうアナタに捲し立てる様に謝られて、流石の魔理沙もややたじろいだ顔をしていたが…すぐに、唐突なアナタの平身低頭振りに察しが付いたらしい。
魔理沙、不意に、当て擦る様な薄笑いを浮かべて…、
「あぁ、そう言うこと…かばっちゃうんだな…。」
と、不愉快さの澱を吐き捨てる様に、呟いた。
「えっ、何だ…俺また、何か、魔理沙の気に障る様な事を言ったか。」
おそらく情報源はアリスであろうが、魔法使いとしての魔理沙の『悪名』を…もとい、『勇名』をよくよく知っていたアナタは、彼女の不興を買ったのではないかと、おっかなびっくりしつつ尋ねた。…遂さっき、己の芸の純度を保つべく、魔理沙の申し出を、聞きもしないで突っぱねようとした人と同一人物とはとても思えない。
そんな超越的な力を持つ自分に対する、アナタの有るか無しかの怯えの感情を悟って…魔理沙は一層表情を堅く、それから、寒気を感じてか、ビクリッと、肩を震わした…。
しかし、それもほんの束の間、魔理沙はすぐにでもアナタのもの問いたげな瞬きに応える様に、何より、アナタを覆う自分に対する畏怖の情を追い払う様に、二、三度首を左右に振る。
「ううん、何でも無いの…。」
敵意など無いのだと必死に訴える様な柔和な微笑み。自分こそが相手を恐れる様に、それでいて、相手の全てを受け入れる様に閉じられた双眸。そして、あまりに女性らしい、しっとりと、たおやかな声。
この様な美女から、こうしてあからさまに品を作られたとしたらアナタだって…いいや、アナタで無くとも男ならば、驚きとも、興奮とも付かない心持に、鼓動が高鳴るのを感じずには居られないであろう。
だがしかし…この場で一番に驚き、興奮とも付かない気持ちに、血の気が顔中に広がる様な感覚を覚えていたのは…他ならぬ、魔理沙嬢ご本人であった様だ…。
自分の口から流れ出た、舐め溶かしたべっこう飴を言の葉に織り込んだ様な、甘い旋律。その、まるで女の声の様な…いや、魔理沙自身がそんな風に思ったのだから、表現として避け様が無い。
繰り返し言うが、魔理沙自身…安物のザラメの熔け残った唇の、砂漠の熱い砂の様な感触を指でなぞりながら…ぼんやりと、次の瞬間には、うっとりとしている。
そんな、とてもではないが入り込めそうも無い雰囲気を纏う魔理沙に、アナタと言えば目を逸らす事も出来ずに、ひたすら固まっていた。
魔理沙は、蹲った巨石と化したアナタの傍を離れる事無く、熱砂の縁をなぞり、彷徨い歩く。
(私の口から…あんな猫撫で声みたいな…女っぽい声が出るなんて…。)
と、魔理沙は草っ原に落ちたアナタのべっこう飴に、蟻が集る様子を見下ろして、
(アリスも…アリスも、私と一緒に居る時には、いつもこんな気持ちで…。)
そんな言葉と共に、顔を真っ赤にしながら自分とお喋りをしていた、アリスの顔が頭を過る。…それはそれは、頼りなげで、それでいて、魔理沙にはその表情がとても魅力的に見えた…自分に欠けている物を見せつけられた様で…切なく成る程、魅力的に…。
唇から指を離し、アナタが落としたべっこう飴の隣で、ポツンと、取り残された様に転がる自分のべっこう飴に目線を移す。そうして、魔理沙は更なら物思いに耽る。
(私も…今の私ならあいつみたいに…アリスみたいに女っぽくいられるんだろうか…。)
そんな、熱く、悩ましげな溜息を漏らした途端に、魔理沙ははたと気付いた。…自分はべっこう飴に蟻が群がる姿を見ていた訳じゃない。
(不味い、私…恥ずかしく、顔が上げられない…。本気で、これは不味い。このままだと、私の顔もアリスみたいに真っ赤に…。)
と、魔理沙は、頬が、耳たぶが、朱色に色づくのを堪える様に、口の端を思いっきり引っ張り上げた笑みを浮かべた。
後は、この空気を…話題を先に進めるのが先決ではある。しかしながら、顔を上げず、俯いたままで話を…儲け話を続行するのは、
(いやっ、そっちの方が尚更、恥ずかしいだろ。くっ、かと言って、顔は上げられそうにも無いし…もう、方法は一つしかないか…。)
そう、事ここに至っては、魔理沙に選択肢の余地は無かった。
自分の顔が上げられないのなら、どうすれば良いのか。…そう、相手の目線を自分と同じ高さにまで下げさせればいいのだ。
魔理沙はそう意気込んで、まず頭に描いた段取りの通りに…豪快に、馬鹿笑いをし始める。
「アハハッ、ごめん、ごめん。私とした事が遂、大切な商談中に、ぼーっとしていたよ。…で、私が可愛く惚けている間に、アナタの気持ちは固まったのかねぇ。当然、良い返事を聞かせて貰えるんだよな。」
と、魔理沙はアナタの背中を、平手で一撃…バシンッと叩きつけた。
いやいや、それのみならず…あまつさえ、不意打ちにグラ付いているアナタの肩を抱き寄せ、魔理沙は見事に、力技でアナタの頭を自分の目の高さにまで下げさせる事に成功したのだった。
…それにしても、『恥ずかしくて顔を上げられない』とか、少女の様なはにかみ方をしていた割には…細腕の腕力にもの言わせて、相手の肩を抱くとかは…有りなんですね…やっぱり、この娘、男勝りだわ…。
密談しやすい位置関係で肩を付き合わせて、別段、意図した訳でも有るまいにアナタは声を潜ませて、
「いや、でも…俺の人形劇を見に来た客に、魔理沙の作った菓子を売るって…それ、お前が思っている程には儲けは無いと思うぞ。見ていて解かったろうが、俺の劇の主だった客層は子供…いいや、正直言うと、子供しか客はいないんだ。しかも、三日に一度の俺の人形劇でさえ…あいつら、少ない小遣いをやり繰りして見に来てくれているからなぁ。魔理沙の作り菓子は、少なくとも、俺の作るべっこう飴よりは高い銭で売らなければいけないだろ…それを思うと、あいつらに、何か、申し訳ない気がしてな…。」
言葉の最後に、『だから、この話は無かったことに』っと、アナタが付け加えようとした、まさにその刹那、分別顔で余裕の笑みを浮かべた魔理沙が口を挟む。
「私だって、始めっから、ガキ共の懐具合なんて当てにしちゃいないって…。それよりも…ふーんっ、そういう事なら、次回の公演までは、今晩から数えて七十二時間はアナタの身体が空くってことだよな。」
と、魔理沙が、長い指でアナタの顎を捕まえると、視線を外させまいと顔を無理やり面と向かわせた。
その喉元に纏わりつく意外な冷たさに、アナタは…魔理沙もやっぱり、女なのだなとか…無精髭が残っているけど、どうしようとか…いやいや、そんな事はどうでも良くてだねぇ。
兎にも角にも、アナタは、魔理沙のその様な高圧的な態度に対して…、
「確かに、劇を開く予定は無いけど…だけどな、使った人形の手入れとか、次の演目の準備があるし…それに、俺にも日課と言うか…やりたい事があって…ですねぇ。」
と、ヘラヘラと笑いながら、形ばかりの口応え。…何故だか、魔理沙からの呼び掛け方が、『あんた』から、『アナタ』に変わっていた事で…ちょっと好い気に成っていたのかも知れませんなぁ。幾ら見た目が可愛らしくても、はにかんで見せても…彼女は恐るべき魔法使いなのだ…。
大風呂敷を広げた様なうろこ雲が、夕陽の朱に陰りを加える。
魔理沙は一瞬、寂しそうにまつ毛を揺らして、アナタの顎から指を離す。…だが、すぐに、自分の心に渦巻く煩わしさを追い払う様に…抱き寄せていたアナタの肩を、力任せに突き放した。
「何も、一日二十四時間、フルタイムで私の為に働けって言っている訳じゃないよ。そうだなぁ…。」
と、魔理沙は考え込む様に、今度は、自分の顎を指を宛てる。…アナタとは、明後日の方角を向きながら…。
アナタは、そんな魔理沙の心の機微を知ってか知らずか、彼女の物憂げな美貌を黙って見つめては、指の冷たさが残る顎を撫でた。
「よし、じゃあ、こうしようじゃないか。」
雲間から日差しが、二、三度降り注いだ頃…どうにか気持ちに一区切りを付けられた様子の魔理沙が…いつも通りの、自信に溢れた笑顔をアナタに向けた。
「言った通りに、アナタが人形劇をしている間、私が作ってきた菓子を売りさばく。アナタの公演への報酬は、その売上から支払うとして…その上で、アナタにはこれから毎日、私が指定した場所で人形劇をしてもらう事にする。ただし、夜まで働けとは言わない。昼間だけ私の商売に付き合ってくれたらそれで良い。夜中はお互いの売り物の準備期間であり、自由時間ってことにしようぜ。」
「あの、ちょっと良いかな。」
と、アナタは行儀よく挙手して尋ねた。
皮の分厚い、一目で職人のものと解かるアナタの掌を、チラリッと見つめてから…魔理沙が少し緊張した様な、落ち着きない声で、
「あぁ、はいはい、心得ているさ。この辺りでの、ガキども相手の公演には穴を開けたくは無いって言うんだろ。さっき、無料でべっこう飴を配ると公言してしまった手前もあるからな。…うむ、その点は心配には及ばないぜ。私だって、それ位はちゃんと考慮の上で提案しているんだから…毎週、この日の、この時間は必ず、ここいらでガキ共の為に公演を開ける様にスケジュールを調整する。それに加えて、アナタが無料で配ると大見得切った分に関しては、私がべっこう飴よりももっと上等な菓子を用意してやるぜ。どうだ、私ってなかなかに太っ腹だろ。」
えっへんと言う威張った声が良く似合いそうな、脇腹に拳を宛がう、胸を張った格好で魔理沙が得意げに宣言した。
その随分と有り難い申し出に…アナタは、黒いドレスの上に白いエプロンを巻いた、魔理沙の細いウエストと、高らかに反らした鼻を見比べる。
「まぁ、確かに、男前だとは…い、いや、冗談、冗談だって…えっと、見事な女振りだとは思うよ。それに…そりゃあ、俺の作るべっこう飴よりは、魔理沙が用意してくれる菓子の方が子供たちも喜ぶだろうな。だけど、俺の言いたいのは…。」
と、アナタがなおも、何やら主張しようとしている。その、言い足りなさそうな、気後れ丸出しの顔を見るや…魔理沙はそんなアナタの舌を根元から引き抜いて、パクッと、食べてしまったかの様に…手を宛てた口をもごもごさせて笑いながら、またもや、アナタの言葉を遮る。
「ご案じ召されるな、だぜ。無論、それも私の配慮の届く範囲にある。…幻想郷の小娘二人に払う『みかじめ料』の事だろ。大丈夫、ちゃんと勘定に入っているって…。まっ、普段の、私一人でやる商いなら、弾幕に物を言わせて、強請り集りの類は完全にシャットアウトするところだけど…今回は、あいつらと、私の商売上のパートナーの間に浅からぬ縁がある事を重く入れて…公演の度にあいつらに下げ渡す…じゃなくて、あいつらにプレゼントする菓子は、私が負うべき必要経費としておくぜ。」
今度こそはアナタ自身に先んじて、アナタが言おうとした事を言い切ったぞ…そう自慢するかの様な、魔理沙の得意げに笑い掛ける顔。そして、内に宿した達成感という光で、黄褐色に輝く瞳。
その、『お前の事は見透かしている』と訴える様でいて、尚更に、心のどん詰まりに刻まれた底意まで読み取ろうと大きく見開かれた…魔理沙の瞳の求心力に、アナタは肌が粟立つのを感じながらも、
「そうか、それを約束して貰えたなら、俺も大助かりだよな。…確実に、気掛りの一つは消えたに違いなし…。」
「それは良かった。なら…。」
「いや、待ってくれよ。俺が言いたいのはそう言う…実務的な段階でのことじゃないんだ。もっと、基本的な…そういう段取りに関して意見を尊重しあう前に…いや、俺がやってきた商売の段取りを、形だけと知っていて、それでも尊重してくれる魔理沙の気持ちは有り難いとは思う。しかしなぁ…有るだろ。尊重したり、有り難がったりする前に、話しておかないといけないことが…。」
と、アナタが、我が意を押し出さんと、強い口調で語りかけた。
それは多分、幾ら本質に魔性を秘めた女性とは言え…こんな見た目迫力皆無なお譲さんに、会話の主導権を握られっぱなしでなるものか。そう言った、アナタの『男の意地』も多分に含まれていた事だろう。
魔理沙も、そんなアナタのちょっとした対抗心をお見通しだったようで…だが、どうしてだろう。茶化すでも、主導権を投げ渡すでもなく、あえて、アナタの態度に受けて立つ様な…澄ました声で、魔理沙が尋ねる。
「何かね、言ってごらんよ。」
そう、上から目線で促され、アナタは威儀を取り繕うが如く…『いいだろう、教えてやる。』とは、口にはしないものの、大袈裟に、かつ重々しく頷いて見せた。…お子様だな、二人して…。
「魔理沙がここまで煮詰めてくれた話を、冷ます事になるんだが…。」
「いいぜ。スープが冷めたら、また、私が温めればいいだけのことさ。そうしたら、アナタだって美味しく話を呑んでくれるんだろ。」
「俺が言いたいことって言うのは、ズバリ、その事なんだよな。」
「えっ、何それ、どういうこと…。」
と、見開いた猫目をパチクリッさせて、驚きを露わにする魔理沙。
彼女の…まったく、掛け値無しに、金輪際…これっぽちも、アナタの口振りに見当が付いていない様子には流石に、アナタも呆れて、聞えよがしな溜息を吐き出す。
そして、彼女の鼻先に右手の人差し指を突き付けたアナタは、開口一番…とりあえずは、美女の顔が目の前にチラついていた緊張感でこんがらがっていた、頭の中の『言ってやりたいこと』を要約してから、
「そもそもだよ、俺がいつ、魔理沙の儲け話に乗るって答えたんだ。確か、勧誘されている真っ最中だったはずだろ。俺はまだ、提案を受け入れるのか、拒むかも決めていないんだからな。そこのところ、取り違えないでくれ。それと…これは、まぁ、大した事じゃないんだけどな。仮に、俺が魔理沙の儲け話を受けるとしてだなぁ…何か、魔理沙の構想を聞いていると、お前が主体で、俺が手足みたいな印象が有るんだけどな…。こちとら大道芸人だし、芸術家振るつもりはこれぱかしもないけどさぁ。あくまで、俺の人形繰りがメインの出し物で、魔理沙はそれを…俺の芸を目当てに来た客相手に菓子を売りさばいて、儲けを得る気で居るんだろ。だったら…我ながらみみっちい事を言っているとは思うけど…一緒に商売をやるとしたら、俺が主体で、お前が手足が正しい関係性ってことになるんじゃないか。」
…確かに基本的だ。アナタは未来のビジネスパートナー(未定)に対して、基本中の基本の持論を展開した。…しかし、ひたすらに人形繰りの『効率』を追求し、商いで得られる『効果』は完全に相棒任せ…とはしない姿勢を見ると…アナタ自身の言う通り、アナタは芸術家ではない。どうやら、もう少しはましな、世間様の常識を持った御仁のご様子だな…よかったですね。
さてさて、自分の話を煮詰めていた魔理沙であったが、かくの如く、キッチンに怒鳴り込んで来た旦那さん…もとい、アナタの熱心な口振りにも、慌てず、騒がず、慣れた手付きで話を混ぜっ返していく。
まずは、アナタが鼻先に伸ばしてきた人差し指を、目を寄らせて見定めると…ハシッと、茜色の空を舞うトンボを捕まえる様に、右手で包み込んだ。
アナタはギョッとしてその指を引き抜こうと…が、焦りを気取られるのを嫌ってか…どうやら、いきなり主導権を、人差し指を握られたこの状況下で話を進める覚悟を決めたらしい。
魔理沙は注意深く、アナタの指を、平静を装った堅い表情を見比べて、
「とりあえず、アナタの主張の内、前者は置いておかせて貰って、先に後者の方について私の意見を述べて置きたいと思うのだけど、良いですかしら。」
と、アリスを真似た様な言い回しで、魔理沙が問い掛けた。…女性のこういうところ…男の側からすれば、魅力的でもあり、厄介でもあり…。
しかしながら、指と、主導権を握られている以上は、それらと、話を『切り上げ』て退散すると言う訳にもいかない。アナタは、指を包む魔理沙の手の柔らかさを窮屈に感じながら、小さく息を漏らす。
「あぁ…もう、魔理沙の良い様にしてくれ。」
と、若干、下火となったアナタの言葉の熱気を察した様だな。
魔理沙は素っ気ないアナタの態度に、二コリッと微笑むと、人差し指をきつく締め上げる。それから、急な圧力の増加に、思わず逸らし掛けた目線を自分へと戻したアナタに…アナタの瞳を見据えて…、
「私がお菓子を売りさばいて、その上がりからアナタの取り分を出すんだから、私が雇い主で、アナタが従業員って構図は間違ってないだろ。」
「まぁ、そう言われるとそうだよな。なるほど…。」
と、彼女のあまりにも理路整然とした回答に、アナタは感心した様に二、三度首を縦に振った。…理屈さえ通れば、男ほど物解かりの良い生き物はいないな…徹頭徹尾、理屈が通って居ればの話だが…。
「…で、俺の主張の、前者に関しても意見は伺えるだろうな。今みたいに、見事に要約されていると有り難い。」
「そっちに関しては、別に、私の意見を押す必要も無いだろ。それでも強いて私の口から答えるなら、私の儲け話に乗れば、アナタはずいぶんと得する。具体的には…私が一つ、一つ、教えて上げる事もないよな。」
アナタは魔理沙の言葉にもう一度、首を縦に振って見せた。それでも彼女に、それこそ、一つ、一つ、確認を取るかの様に、
「例えば、今の、べっこう飴を売っているだけよりは確実に儲けが多いだろうし…人形繰りだけに集中できるのも魅力的とは思う。楽して、その上、儲かる、か…。」
「それに、余禄もあるしな。」
「んっ、なんだ、その『余禄』ってのは…。」
アナタのスッ惚けた態度に、魔理沙は訳知り顔で口の端を引き上げる。
「私は、アリスとは相当に親しいからなぁ。私と一緒に行動して居れば、自然と、アリスとの接点も増えるってもんだろうなぁ。」
と、そんな事を語り掛ける魔理沙の笑顔に…アナタは瞳を逸らして、言葉だけで応える。
「ふーんっ、そうなのか。でも、俺は彼女に避けられているからな。やっぱり…折角、魔理沙が持って来てくれた儲け話だが、俺は断って置いた方が無難そうだ。」
「…たくっ、しらじらしいぜ。どうせ、私の申し出を頭から突っぱねなかったのも、詰めの段階まで話を聞いたのも…ずっと、アリスの事が頭にチラついていたからの癖してさぁ…。」
一端は緩みかけていた、アナタの人差し指を握る、魔理沙の右手。それが再び…きつく…アナタを…包み込む。
女の細腕のどこにこれ程の力が秘められていたのか。人差し指を締め上げる力が増すのに比例して…アナタに向けて語り掛ける…魔理沙の声の重苦しさをも膨れ上がっていく。
指を捉えて離さない魔理沙の右手の感触よりも、むしろ、アナタはそんな彼女の声音にこそ虚を突かれた様子だった。
そして…おはじき遊びの様に、空気の上を滑らせ、焦げ茶色の瞳孔を振り向けたアナタは…見る事となる。
…優しい夕陽を浴びて首を傾げていた魔理沙の笑顔が…熔けていくのを…。
柔らかな笑顔が少しずつ熔け落ちて、その下から怒りとも、失意ともつかない…あるいは、それら全ての感情を内包した様な、能面の様な無表情が目の前に露わになる。
アナタは言い様も無い怖気に苛まれながら…しかし、魔理沙を見つめる眼は、徐々に見開いていった。
そして、瞼の端が切れそうな程に、アナタが目を丸くした…まさに、その瞬間。雲間から差し込んだ光が、遮ると言う事を忘れてしまったアナタの瞳に、遠慮なしに触れる。
出し抜けにお天道様からの眼潰しを喰らったアナタは、ギュッと、両目を堅く閉じ…っと、どうも、それだけでは満足できなかった様子だ。
アナタは瞼の裏の違和感を拭い取ろうと、自分の右手を…それも魔理沙の右手を人差し指に巻き付けたまま引っ張りこむ。
アナタが指の腹で閉じた瞳に触れる度、冷たい感触をまつ毛の辺りに覚える。…それを、両方の瞳で行った後で…アナタはようやく、その『冷たさ』の正体に気付いた…。
「あっ、悪い…。」
と、目をこじ開ける前に謝罪の言葉を口にしたアナタは、一目散に視線を魔理沙の顔色へと向けようと…だが、そこで、はたと気付いた。
…そうだ、魔理沙の微笑みは熔けていたのだ…。
アナタは目を開いていながらも、繋がれた右手の先を…魔理沙の熔ける微笑みを、どうしても見る事が出来ない。
それは、嫌悪感でも、拒否反応でも無い。衝動的なものと言うよりは、何かもっと倫理的な…超越的なものを…神聖なものを見るべきではないと信じる、理性がそうさせた様な…。
アナタはそんな恐れ多い気持ちで、目を動かせずに…小刻みに首を震わせていた。
そこまでで、アナタが謝罪の弁を述べてから、およそ一秒。…それは、何と濃密な一秒だろうか。
そうしてアナタが、焼け石に触れた様に、痺れて動かない舌をもたつかせている内に…ドロドロと熔け落ちる笑みの下方から…ニィッと、柔らかくなった、魔理沙の形の良い唇が開く。
「アハハッ。」
照れた様な、豪傑笑い。…いや、女傑笑い。
その甘やかな笑い声に誘われたアナタは、暮れなずむ夕陽を一身に集めた様な魔理沙から零れ落ちる…ただし、零れ出し落ちていくのは、熔けて原型を失った笑顔の塊などでは無く…暖かい涙。
アナタは呆然として、泣き笑いしている魔理沙を見つめた。
「流石の私も、ここまでまじまじと男に顔を見つめられたのは初めてだぜ。後、手を目元まで引っ張られたのもな。」
と、可笑しそうに、泣く程に笑う魔理沙が、そんなことを笑い声と一緒くたにして吐き出した。…グイグイッと、息を吐き、吸い込むリズムに合わせて、アナタの右腕を自分の方へと引き戻しながら…。
アナタは脱力しきった腕を引かれながら、優しく、端正な顔付きの魔理沙に、
「魔理沙…お前、今さっきまで…笑っていたよな…。」
「あぁ、笑っているぜ。ただし、『今さっき』じゃなくて、『今も』だけどな。そんなの見れば解かる事だろ。」
そう言って魔理沙は、蕩けてしまう様な…だが、熔け出し、崩れ落ちてなどいない…魅惑的な微笑みで、アナタの当惑を穏やかに出迎えた。
彼女の胸元に引き寄せられた人差し指から感じる、ひんやりとして、それでいて温かい、人肌の温もり。アナタはじっと、ほんのり血の気の浮いた、照れ笑いに変わった魔理沙の顔に見入る。
…錯覚だったのだ。まさか、蝋細工でも有るまいに、人の表情が熔け出す事など有る訳が無い。そうだ、アナタの見間違いだったのだ。だいたい、こんなことは…既視感や、幻覚の類は、アナタが幻想郷に迷い込み、『彼女』と出会ってからは日常茶飯事…だから、魔理沙の顔が熔けて見えたなどと言うのも、気の迷いに過ぎないのではないか。こうして人差し指を捻り上げられる痛みに比べれば…。
「痛ってぇ。何すんだよ、お前は。」
「ようやく、起きたか。アナタ、また、アリスの事を考えていただろ。まったく、白昼夢を見るほど、あいつのことが恋しいらしいな。執念深いことだぜ。告って、振られた癖に…。」
と、二重に痛いところを突かれたアナタは、ぐぅの音もでない。…まっ、『お前の顔が崩れる様を幻視していた』とも、答え難いからな…。
鞴で送られた様な突風が、繋がれた二人の手を冷ましていく。
アナタの指から体温を奪っていく感覚でも解かる通り、やや低体温気味の魔理沙。夕闇から吹き込む気の早い夜風に撫でられ、寒気に身体を震わせて、
「うぅ、寒い、寒い。こう冷えてくると、温かいスープが恋しくなってくる。」
と、魔理沙は長いまつ毛を揺らして、アナタに流し眼を送りつつ、
「だからさぁ、私としてもさっさと話を煮詰め直してだなぁ、帰って飯に在り付きたいんだよ。あいつらみたいに…。」
そう言って魔理沙の見下ろす先に、アナタも目線を向ける。するとそこには、アナタ達が落っことしたべっこう飴を懸命に運ぶ蟻の群れの姿があった。
隊列を成し、皆一斉に力を合わせ…まっ、中には、爪楊枝の上に乗っかって横着しているのも居るが…蟻の体格からすれば、ピラミッドの建材となった巨石の如きべっこう飴を運んで行く。
それを見てアナタは…腹の虫が盛大に鳴いた。
つまりは、早く帰って飯にあり付きたいという気持ちには同意できる。
アナタは蟻たちの凱旋行進の邪魔をしない様に、慎重に、かつ大胆に溜息を吐き出す。それから目線を上げ…再び、魔理沙の優しい微笑みが熔けていないのを確認して…また、下を向く様に大きく、しっかりと頷いた。
「呑むよ、魔理沙が煮詰めてくれたスープを…だけど、さしあたっては仮契約って事で構わないよな。」
と、アナタの快諾と、問い掛けに、魔理沙も首を大きく振って頷いて、
「うん、本契約は私の仕事振りを見てから…それで良いぜ。」
そうして頷き合って、二人は家路に着くべく立ち上がった。
「じゃあ、話を煮詰め直すのは魔理沙に任せるとして…今日のところは、一端、帰るとしようか。」
「そうするとしょう。」
「いつ、どこで劇をやるのか。後、魔理沙がどんな菓子を用意するのか…一応、俺も知っておきたいから、決まったなら連絡してくれよ。」
「了解したぜ。」
「…。」
「…。」
「あのなぁ…魔理沙…。」
「何だ。分け前の話なら…心配しなくても、アナタが不満に感じない程度には弾んでやる積りでいるぜ。」
「それは嬉しい限りだな…けど、俺は大した気苦労も無い大道芸人。お代は、二、三日、食うに困らないくらい頂ければ充分なんだ。だから、そう言うのは、俺の人形繰りがどれくらいの上がりを生むか、実際に興行してみてからお前が決めてくれれば良いよ。」
「はぁ、それはまた随分と豪気なことだな。特に、人の道を外れた魔法使いの…私の良心を信じようって気構えがね。でも、まっ…『卵のかえる前に、ひよこの数を数えるな』とも言うからな。故事に倣うなら、アナタの言う事が正しいんだろう。私もそれに従っておくとするぜ。それじゃ、帰ろう。」
「あぁ、帰ろう。…で、だ、魔理沙。」
「あん、まだ何か言いたい事があるのか。」
「お前が本当に解からないのか、それとも、俺をからかおうとすっ惚けているのか見当つかないから…単刀直入に言わせてもらう。」
「おう、良いぜ。」
「…俺の指、離してくれないか。引っ張られても、俺の家そっちじゃないからさ…。」
アナタの率直な意見に、魔理沙は平然とした瞳で頷く。…だが、
「そうか…だけど、私の家はこっちなんだ。」
と、魔理沙、グイッと、アナタの指を自分の居る方へと引っ張った。
アナタは青草の生い茂る斜面をよろめきながら、少し困った様に、それでいて楽しげに口を開く。
「お前の家がそっちにあるのは解かった。そらなら尚の事、この辺で袂を分かつとしようや。でないと、俺の指の方が千切れそうだ。なっ、腹も減ったし…。」
「それは何よりだ。」
「へっ、何が…まさか、指のことを…。」
「違うって…腹減ってんだろ。それは丁度良いわね、ってことだぜ。女の一人所帯で碌なものは出せないだろうけど、でも、この私が腕によりを掛けて作ってやるんだから期待はしてくれて構わないぜ。…今頃には、作り置きしといたシチューも、良い具合に寝かせているだろうし…。」
と、魔理沙は、いつまでたっても自分の話に食い付いてこないアナタに、呆れたように溜息を漏らして、
「飲むんでしょ、私の作ったスープ。」
アナタはそこでやっと、話の流れを掴んだ様に『なるほどねぇ』と、二、三度頷いた。
そうして、地平線から真っ直ぐに伸びる夕焼けの光を受け、瞬きしながら…苦笑を漏らす。
「それは魔理沙の儲け話を呑むって話であって、別に、お前にスープを食わせてくれって頼んだ訳じゃないよ。だから、折角だけど…って、馬鹿か、俺は…何、折角の誘いを断ろうとしているんだ。どうせ、帰っても有るのは魚の燻製だけだろうが…。そういう事だから、魔理沙の厚意に甘えて、ご馳走してもうらことにするよ。」
アナタの良い返事に、魔理沙も満足げに笑い返して、
「素直で結構。男はやっぱり、そうでなくっちゃね。」
と、ご機嫌にそう、アナタの腕ごと、自分の右腕を振り上げると…『ゆびきり』遊びの要領で、振り下ろし様に…魔理沙はアナタの人差し指を離した。…こんな風に男は、女との間に、身に覚えのない約束を重ねていくのかも知れない…。
一匹だけ取り残されたカラスの鳴き声が、遠く、深く、空に現れた蜂蜜色の海原へ響き渡る。
「それで、魚の燻製ってどんなのが有るんだ。」
「ほとんどが川魚だよ。ヤマメ、イワナ、ニジマス…それと、今の時期は、遡上してきたサケも燻製にしている。」
「へぇ、思ったより豪勢な食事をしているみたいだな。どうりで、分け前の話に無頓着な訳だ。」
「とんでもない。サケなんて特にそうだけど、どれも川の流れに逆らうのにカロリーを使い過ぎていて、これっぽっちも脂っ気が残ってないんだからな。弱っているから捕るのは造作も無いけど、燻製にでもしないと食えたもんじゃない。だからさ、余計に楽しみなんだ。魔理沙の作った、野菜の甘みのたっぷりのシチュー…。」
「…アリスの言った通り…こいつの『能力』、相当、汎用性が高いかもな…柄にも無く、ときめくかと思ったぜ…。」
「んっ、燻製が欲しいのか。欲しければ、幾らでもやるぞ。何なら、一っ走りして、家から何枚か見繕って来ようか。」
「ううん、それはまたの機会に…私がアナタの家にお邪魔する時の楽しみに、取って置くとする…。えっ、じゃあ、何を言ったのかって…。」
魔理沙は、アナタの指の温もりが残る右手で帽子を目深に被って…、
「アナタが、私の作ったシチューに期待してくれているって解かったら…なんだか…本当、今日は、初めてづくしの一日だったなって…そう思ったんだ。特別、何か言いたい事がある訳じゃ無くて…ただそれだけ…それだけ思っただけ…だぜ。」
並んで坂道を下る二人。歩調に合わせ、上下に揺れる視界。トンガリ帽子のツバの後ろに見え隠れする、魔理沙の赤い頬に見とれて…アナタは悪くは無い気分に浸っていた。
こんな風に過ごすのも…もし、アリスとこんな風に過ごす事が出来たとしたら…悪くは無いと…。
[4]
アナタが魔理沙の儲け話に乗ると決めた、夕陽に染まる草っ原。
嫉妬深い女神たちの目を欺く様に、夕闇に紛れて交わらされた逢瀬の…その翌日から、早速に、アナタは魔理沙に連れ回される事と成る…何とも、色気の無いお話だ…。
そうして、アナタは演じ続けた。
ある時は、石畳の街道…荷馬車で旅を続ける親子に向かって、御者台から身を乗り出しアナタの人形繰りを見つめる、男の子たちが喜びそうな『ピーターパン』を…。
ある時は、雨の人里…貸本屋の軒先を借りて、陰鬱なオルガンの音にも似た、雨垂れを伴奏に『レ・ミゼラブル』を…。
またある時は、草の香の馴染みも深い路傍…チルノや、ルーミア、気心知れた常連客たちへ向け、取り繕わぬ表情で魅せる『影をなくした男』…。
アナタは、忙しくも、充実した公演の数々をこなし、そして、その人形繰りに寄り添う様に…傍には常に、朗らかに菓子を売り渡していく、魔理沙の笑顔があった。
魔理沙の菓子作りの腕は、実際、大したものだった。
小袋に詰めたビスケット。長方形の銀盆の上にこれでもかと並べた、一口大のケーキ。洋菓子だけでは無く、ここいらの子供たちも口慣れた、こしあんの饅頭や、甘辛いたれをずっしりと持ち重りするほど絡めた、みたらし団子。
そうそう、魔理沙が作ってくれる菓子と言えば、忘れてはいけないものが、もう一つ…。
朝っぱらからの公演だと、まだ辺りが暗い内に、人里の外れの、そのまた外れにある彼女の家に呼び出されたあの日…石造りのトンネルの様な入り口、そして、そこにはめ込まれたドーム型の木製ドア…その奥から漂う甘い香りに、アナタはノックをすることも忘れて、ドアノブに手を掛けた。
軽く、静かに押し開けたドアの向こうからは、レンガを積み上げたオーブンを通して家中に充満する、熱気と、バターの好い匂い。
オーブンの隣では、小麦粉を舞い上げながら、お菓子の生地らしきものと格闘している魔理沙の後ろ姿。アナタは邪魔しない様に、黙ってドアを閉めると、近くの丸椅子に腰かけその後ろ姿を見守った。
年季が入ってはいるものの、綺麗に整頓されたキッチン。普段の黒いトンガリ帽子とは打って変わって、淡い水色の三角巾を頭に被った魔理沙の真剣な横顔。
この家に広がる、冷え切った指先をじわりじわりと暖める温もりに…アナタは、小さな椅子に腰かけたまま、うとうとしてしまう。
「おはよう。」
一人暮らしを始めて随分と経つアナタが、そんな事を言われたのは何年振りの事だったろうな…。
薄ぼんやりと開いていく、アナタの両目。その視野の真ん前に、膝を抱き抱える様に屈んだ、魔理沙の微笑み。
アナタは、丸椅子を後ろに弾き飛ばして立ち上がると、慌てて口元の違和感を…涎を着物の袖で拭った。
魔理沙もそれに続いて立ち上がると、白い歯を見せて、
「良い夢見れたか。私の方も堪能させてもらったぜ。なかなか可愛い寝顔しているんだな。」
と、寝起きで脳味噌が乱麻と化しているアナタに笑い掛けると、踵を返して、
「おっと、こんなことしている暇は無かったんだった。…どうせ、アナタも朝食まだなんだろ。そこにあるの、食っても良いぜ。」
そう言って、魔理沙が指差した木製のキッチンテーブルの隅っこ…そこには、コップ一杯のミルクを添えた、籐編みのトレイに山盛りにされたクロワッサンが湯気を立てていた。…この家に入ってからずっと漂っていた、香ばしい匂いの正体はこれだったようだ…。
アナタは手を軽く着物の懐の辺りで払うと、クロワッサンを一つ掴み取り、口を付けた。
…目の覚める様な味とは、まさにこの事だ…。
バターと、チョコレートを練り込んであるクロワッサンはとても甘く、その風味が焼きたての熱さともに広がる。アナタもその味の事は良く覚えているであろう。何せ…、
「美味いな…すごく…。」
と、半分に食いちぎったクロワッサンを見つめながら、思わずそう褒めちぎって居たくらいだからな。
魔理沙もそんなアナタの満ち足りた声を聞いて、パン生地をこねる手を止め、小さく微笑む。
「そうか、美味いか。それは何よりだぜ。」
そう言うと…魔理沙はわき目も振らずに、木の棒でパン生地を伸ばし始めていた。
結局、アナタは、
「余らせる積りでたくさん作っているから、食えるだけ、食ってくれていいよ。」
と言う、彼女の甘い言葉を良い事に、四つも、五つも、魔理沙お手製のクロワッサンを頬張った。
その様子を…ロール状に巻いたパン生地を幾つも乗せた、自分の横幅よりも広いオーブントレーを抱えて、えっちらおっちら、魔理沙がアナタの横を通り抜ける…その度に魔理沙は、真剣な表情をバターの様に溶かして、嬉しそうに覗いていた。
アナタも、そんな彼女の気配の細やかな変化に気付いて…胸が詰まる様な感覚を舌先で味わって居たっけ…まっ、慌てて食べた所為で、喉にも詰まったのでしたけどね。
そうだな…。今思い返せば…咳き込むアナタの傍へすっ転びそうに成りながら駆け寄って、ミルクの注がれたコップを渡してくれた…魔理沙の粉塗れの白い手を見たとき…アナタは、彼女と人形繰りの興行を続けて行く決意を固めたのだったよな…。
それからも、アナタは魔理沙と行動を共に、色々な場所で人形劇を繰り広げていった。
人里から離れ、舞台を『幻想郷』へと移そうと魔理沙に提案された時は…彼の地に足を踏み入れて早々に、幼い容姿をした人食い妖怪に食べられそうになった。…その当の妖怪への個人的な恐怖は払拭できたものの…『幻想郷』という秘境に対する警戒感が染み付いているアナタは、流石に難色を示した。
まぁ、最終的には、魔理沙によって、
「私が一緒に居れば大丈夫だぜ。」
と、説得され、『幻想郷』へと踏み入る事となったのだったがな。…それに、あそこは彼女との…アリスとの出会いの地でもあるから…。
アナタは自前の小舞台を背負い、空飛ぶ箒に乗って先導する魔理沙に付いて、幻想郷で公演して回る事と成った。
鬼や、狐狸の類の化身が居座る、神社の境内。燦々(さんさん)と午後の陽射しが降り注ぐ、吸血鬼の庭園。地面に積もった竹の葉を桟敷席となす、かぐや姫の竹林。風雨に削り取られ項垂れた、無縁仏の墓場。綿毛の雲の流れる青空を一斉に見上げた、向日葵畑。
散々ぱら連れ回せれて、行く先々で人形を操って…アナタはそれからも…それからも彼女と…。
[5]
人里の外れの道。以前に、アナタが子供たちに向かって『ラプンツェル』の人形劇を行っていたその道から…更に外れて…アリスが木々の梢の奥へと消えて行った『魔女の森』のほとりに、魔理沙の住まいがある。
熱帯の苔生した大樹に止まるオウムの囀りとも、ツンドラの大河の浅瀬で羽根を休めるサギの鳴き声ともつかない、鳥の喉笛から放たれる音色でこの森は溢れている。…後はひたすら、一様に陰鬱な顔をした、無数の木立が並ぶのみ…。
風が森の木々を揺らす度に、葉擦れの音が森全体をざわめかせる。そのおどろおどろしい気配に取り込まれぬ様に、樹上のわずかな隙間から足元を照らす日の光を踏み外さぬよう歩いた…その先に見えてくるレンガ造りの大きな煙突…。
薄絹の様な夜に覆われた空。宵闇に向かって大口を開けた煙突の根元に、堆く積み上げられた薪木。
それらの薪木を雨露から守るために設えられた、簡単な薪棚があるのが魔理沙の家の裏手。そこから石造りの壁に手を宛ててぐるりと回り込めば、彼女の家のトンネル型の玄関へと辿り着くと言う訳だ。…まぁ、アナタには、あえて説明するまでも無いことだろうがな…。
夜空に小さく輝きだした一番星。そこへ向かい伸びていくかの様だった白煙が、ぷっつりと描き消えた。…家の中では、ようやく、準備が終わったらしい…。
それでは煙突から、ちょっとばかし魔理沙のお家の様子を覗かせて頂くとしよう。
家の中には…キッチンスペースを慌ただしく動き回る、魔理沙。そして、キッチンテーブルに頬杖付きながらその様子を目で追う、アリスの姿が…。
焦げカス塗れの鍋掴みをはめ、魔理沙は両手を伸ばしてオーブンから鉄のトレイを引き出すと、石窯の蓋を閉じつつ、トレイをアリスの前に滑らせる。
お次は、暖炉の鍋置き台に据え付けられた、弱火でコトコト煮込まれている陶器製の鍋を引っ掴んで、鍋ごと保温用の籐編みのバスケットの中へ。勿論、バスケットの上から厚手の布を掛けるのも忘れない。
アリスはそのテキパキとした動きを追いかけ、目をキョロキョロトさせていたが…不意に匂いの元が気に成りだした様だな…目下にある、熱気に芳しい香りを織り交ぜた『それ』に目線を下ろした。
それは…そう、アナタの大好物…魔理沙お手製、バターと、チョコレートをたっぷりっと練り込んだ、クロワッサン…。
アリスは数秒、その目も眩みそうなほどアツアツな湯気を立てるそれらを見つめて…すぐ目の前の、『食べて下さい』と言わんばかりに、こちらに媚態を振りまく可愛いやつへと…手を伸ばす。
…が、その目論見は、ピシャリッと、魔理沙の平手打ちによって叩き落とされた。
アリスは叩かれた右手の甲を摩りながら、
「私はまた、これ見よがしに目の前に置くものだから、てっきり…『好きに食べてちょうだい』って、そう言う事だとばかり思ったわ。」
魔理沙はさも忙しそうな顔で、アリスの魔の手から守った、大事な、大事なクロワッサンを、宝箱の様な大きなバスケットに詰め込み始める。
「始めに言っただろ。これは、アリスの元弟子に食わせる分だってな。」
と、答えながらも、わき目も振らずにクロワッサンを収めていく、魔理沙。
オーブントレーの隅々まで使い焼かれたクロワッサンが、一つ、一つ、目の前から消えていく様を見ながら、アリスが恨み言の様に、潜めた声で呟く。
「これだけあるのだから、一個くらい…私が食べたって良いと思うけどなぁ。彼だって、そんな事じゃ文句は言わないと思うけれど…。」
そう艶っぽく言うと、アリスは細めた流し眼を魔理沙の顔へと向けた。
魔理沙は忙しさに取り紛れて、表情を作るのすらしち面倒臭いとばかりに、
「駄目、駄目。これだって、あいつに支払う給料の一部なんだからな。従業員の了解を得る前に、不当は天引きをすることは出来ません。…つぅ訳だから、どうしても私の手料理をものにしたければ、直接、あいつに許可を得てくれよ。」
と、言い終えると同時に、クロワッサンを満載したバスケットを閉じると…今度はまた、暖炉の方へ。
アリスは詰まらなそうな溜息を漏らすと…今、新たに魔理沙の持ってきた鍋の収まったバスケット…それと、クロワッサン入りの宝箱とが、テーブルの上に二つ並んだ壮観な構図に流し眼を移す。
「…と言う事は、お給金は現物支給なのね。クロワッサン一つにありつければ大満足の私なんかに比べたら、魔理沙の方がよっぽどあくどく搾取しているのじゃないの。」
「おいおい、人聞きの悪いこというなよな。私はちゃんと、あいつに分け前を支払っているんだぜ。勿論、食い物では無い形でな。だから…ほら、これは、あれだ…。」
と、魔理沙は、鍋の入ったバスケットの両側にある、取っ手を掴んだままで、
「あいつ、公演の度に、『売れ残った菓子があるならくれ』ってせがむもんだからさぁ。まっ、それで日々のお仕事を気持ちよくやってくれるなら、安いものかなって…。」
そう、照れ隠しにか、魔理沙はぎこちなく笑顔を作って見せた。
アリスはそんな少女の様な面差しと、立派なバスケットとを突き合わせる様に、不機嫌そうな詮索顔を向ける。
「私にはとても…これが売れ残りってレベルだとは見えないだけど…そもそも、クロワッサンは今焼いたばかりのものだし、それに、隣の鍋は売り物じゃないでしょ。」
「えっ…あぁ、クロワッサンはパン生地が余っていたから焼いてしまったんだ。勿体無いだろ、食べもしないで傷ませたら。それとこの鍋は、前に魚の燻製を貰った、そのお返しだよ。どれもこれも余り物ばっかで、悪い気もするけどな。」
「ふーん…ねぇ、魔理沙さぁ。」
「んっ、なんだ。色っぽい声だして…。」
「魔理沙って…彼のこと、好きなの。」
アリスのその問いに、一瞬、魔理沙の表情が固まった。…しかし、すぐさま可笑しそうに微笑みを浮かべると…、
「そりゃあ、好きだぜ。芸達者だし、飯の食いっぷりも良い。それに何より、私に儲けさせてくれるからな。そうだなぁ、まっ、アリスと同じくらいには、愛しちゃってるかもだな、私。」
と、ニッシッシッと歯を見せて、魔理沙はアリスの質問を一笑に伏した。
アリスはそんな魔理沙の態度に、また、溜息をもらしながら…だが、質問に答える魔理沙の手が、バスケットの取っ手を軋ませた音を聞き逃さなかった…。
「おっと、荷物ばっかり増やして、『脚』を用意するのを忘れていたぜ。」
魔理沙はアリスの視線から逃げる様に、彼女の背後に回った。
「ところでアリスは、何をしに私の家に来たんだ。忙しさにかまけて聞くのを忘れていたけど…こう言う次第だから私、あいつの所に行かなくちゃならないんだ。用事があるなら、今度にしてくれよ。」
背後から張り上げられた魔理沙の声に、バスケットから漂う熱気を頬で感じていたアリスは、振り返りもしないで、
「別に、用事らしい用事がある訳じゃないの。…強いて理由を作るなら、愛らしい魔理沙の顔を見に…後は、甘い香りに釣られてってところかしらね…。まぁ、魔理沙は、私みたいな雑魚には興味が無いみたいだけれども。」
「へっ、雑魚がどうしたって…燻製が欲しいんなら、何枚か持ってってくれても良いぜ。」
と、箒という何とも立派な『脚』を携えた魔理沙が、帰って来た。
魔理沙は…流石は魔法使い…箒を空中に浮かべると、柄の部分にバスケットの取っ手をぶら下げて行く。そして、自分は三角巾からトンガリ帽子に付け替えて…これで、臨戦態勢は整った様だな。
アリスは身体を横に向けて、その様子を見物しながらポツリと呟く。
「私も…彼の家にお邪魔しようかしら…。」
その言葉に、バスケットを揺らさない様に箒に支持を下していた、魔理沙の人差し指が微かに震えた。
それから…アリスの顔を直視せずに…魔理沙は天井の方に目線を向けながら、アリスへ不思議そうな顔を向ける。
「あれっ、アリスは、あいつの事が苦手なんじゃなかったか。私は良いけど、お前ら二人が気まずいんじゃないか。」
と、からかう様な声もわずかに緊張の気を含み、空々しく聞こえてしまう…。
アリスは魔理沙から発する淀んだ気配を観察しながら…好きな子に意地悪するくらいの…そんな軽々しさで言葉を続ける。
「だって、貴女の手料理を食べるのには、彼の許可が必要なんでしょう。それでご相伴に与れるのなら、些事には目を瞑ることにする。」
そう、アリスにきっぱりと答えられて、魔理沙は…ニッコリッと、物柔らかで、それでいて、どこか寂しげに微笑みを返した。
「そっか、アリスがそう言うつもりなら大丈夫だな。それに、あいつにとっても…むしろ、私が食い物もって行くよりも、アリスが顔を見せてやった方が嬉しいんじゃないかな。…あいつ、未だに、お前にぞっこんみたいだし…。あっ、なんだったら、このバスケット土産に持たせるから、アリスだけで訪ねてやっても良いんだぜ。私だって、二人の邪魔する様な野暮はしたくないからな。」
その、魔理沙の思いやり深そうな声を、顔付きを伺いながら…アリスはその底意を汲み取る様に…、
(嫌味で言っている…訳では無さそうね…それだったら、ほんの少しは私に対する敵意があるはず…とすると、やっぱり…。)
と、アリスはここで、本日三度目の、それも特大の溜息を吐きだした。
「何を言ってんのよ。私は目を瞑っている積りなのだから、二人だけで間が持つはずもないでしょう。だから、魔理沙にはちゃんと私たちの間に居座って貰わないと困るわ。それに、それだけの大荷物を、私だけで運べるはず無いわよ。」
アリスはそう言って、箒の柄に下げられたバスケットを指差した。
魔理沙は帽子へ手を宛がうと、前屈みで、腕と脇腹の間から背後の箒の方を見る。その際、尖った帽子の先がアリスに突き付けられっぱなしだったのは、故意か、偶然か…。
それから数秒ほどの後、魔理沙はにこやかに微笑んだ顔を上げて、
「確かに、これだけあると、私が行かなきゃどうしようもないか。それじゃあ、善は急げって事で、料理が冷めちゃう前に出るとしょうぜ。ほら、戸締りするから、アリスも出た、出た。」
と、一時は見せたしおらしい態度もどこへやら、椅子に腰かけたままキョトンッとしているアリスの背を押し急き立てる。
アリスは二、三歩よろけながら椅子から立ち上がると…早くも、箒を引き連れて扉の傍に移動している…ハニーゴールドの長髪が揺らめく、魔理沙の後ろ姿に向けて呟く。
「…とに、面倒臭い事この上ないわねぇ…恋する乙女ってやつは…だから、『絡め取られるな』という忠告したのに…でも、まぁ…それも仕方ないことか…初恋だのもね。」
と、アリスはどこか楽しそうに笑うと…ぽっかりと開いたドアの向こう…その先の、木々の梢を飛び越えた更に向こうの…果てしなく遠い空に浮かぶ、蜂蜜色の月を見つめる。そして…、
「これは私も、うかうかして…魔理沙に殺されない様に気をつけなくちゃ…。」
と、妖艶な含み笑いで言葉を次いでから、アリスは…箒を従えてドアの向こうで待つ、恋に狂った魔法使いへと歩み寄っていった…。