第75話:おいおいおいおい(宮本玲奈)
五菱商事の洋上風力発電事業撤退――。
そのニュースは、思った以上に長く尾を引いた。
最初の数日は批判一色だった。
特に設置予定エリアを抱える自治体の首長たちは、
「寝耳に水だ」「地域振興の裏切りだ」と、次々に怒りのコメントを出した。
けれど、一変したのは住田会長自身が現地に赴いた時だった。
中継映像で、白髪の老会長がスーツの上着を脱ぎ、
泥のついた地面に膝をついて頭を下げていた。
その姿を、カメラが捉えて全国に流した。
「……すごいわね」
麻里がモニターを見ながら呟いた。
住田会長は、どの町でも、どの市でも、“誠意”という言葉をまっすぐに体現していた。
作られた演出ではない。
あの人は本当に、自分の責任を取りに行ったのだ。
世論は、そこからガラリと変わった。
批判が同情に、そして賞賛へ。
さらに、経産省や環境省の一部幹部からは、「そもそも入札段階から無理があった」「五菱商事はむしろ被害者」といった声まで出始めた。
極めつけは、海外の有力アクティビストファンドのコメントだった。
“早期の損切りを果断に決断した勇気あるリーダー”
“経営判断として模範的”――そんな英文が、英字紙や金融メディアを賑わせた。
結果として、6月の株主総会での早期退任は見送り。
“再生の象徴” としての当面の続投――そんな報道まで出始めた。
……本当に、すごい。
あの短期間で、ここまで風向きを変えてしまうなんて。
「つまり、住田会長は “勝った” ってことね」
亜紀さんがぽつりと呟く。
「いや、正確には―― “逃げ切った” かな」
私が返すと、麻里が肩をすくめて笑った。
「どっちにしても、すごい政治力よね。
あんなの、もうドラマの世界でしか見ないと思ってたわ」
GAIALINQフロアでは、そんな会話がしばらく続いていた。
――そして、4月下旬のある日。
昼下がり。
突然、総合受付から代表電話が入った。
『一ノ瀬COOを訪ねて、住田様と仰る方がお見えになっています。
五菱商事会長室の方ですが、お通ししてもよろしいでしょうか?』
「え? まさか会長じゃないよね……?」
亜紀さんが驚いた顔をして私を見る。
「いやいや、まさかご本人が直で来るなんて……」
麻里も慌ててスケジュールを確認している。
私たちは、半信半疑のままエレベーターホールへ向かった。
――そして、ドアが開いた。
そこから現れたのは、まるで雑誌から抜け出したような見目麗しい令嬢だった。
スーツもバッグも一流ブランド、立ち姿が美しい。
「はじめまして。住田梨花と申します。
五菱商事の会長は私の祖父なのですが、祖父からこれをお持ちするように言われました」
手にしていたのは、銀座の老舗和菓子店の包みと、厚手の封筒。
――どう見ても、ただの “伝達係” ではない。
「あの……一ノ瀬COOは今……?」
その瞬間、エレベーターの別の扉が開いた。
「梨花さん、お待たせしました」
直也くんが姿を現した。
その隣には、当然のように瑠衣が控えている。
「あっ、瑠衣さん! お久しぶりです」
梨花さんがぱっと笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ。どうぞどうぞ、こちらへ」
瑠衣はにこやかに応接スペースへ案内していく。
――完全に “顔見知り” じゃない。
この自然さ、絶対に一度や二度のやり取りじゃないわ。
私と亜紀さんと麻里は、思わず視線を交わした。
応接スペースのガラス越し、
直也くんと梨花さんが落ち着いた調子で話しているのが見える。
お茶を出した瑠衣が戻ってきて、にやりと笑った。
「ね。だから言ったでしょ〜?
あの会長さん、なかなか手強いですよ〜?」
「どういう意味よ、それ」
亜紀さんが食い気味に聞く。
「だってあの娘――絶対、センパイ目当ての“人身御供”ですから〜♡」
「はぁ!?」
「マジっ!?」
「え、でも……確かにあり得なくはないよね……」
GAIALINQフロアが一瞬で騒然となる。
「いや、ありえないって……!
そんなの政略結婚じゃん――」
そう言いながら、私はガラスの向こうを見た。
直也が、穏やかに微笑みながら、梨花さんの差し出した封筒を丁寧に受け取る。
そして、軽く頭を下げた。
――いや、これはもうハーレムドラマじゃない。
現実なんだ。
麻里がため息混じりに言った。
「……直也、また面倒なフラグ立てたわね」
「ま、これでまたGAIALINQが一段進むってことで♡」
瑠衣は、嬉しそうに笑っていた。




