第19章(3)
俺はすこし焦っていたのかもしれない。
長期休暇を受理されたと認識しているが、ニースのことだ。また急に呼び出しを食らい、無茶苦茶な仕事をやらされる。
その間に、作品を作りたい。
今の比較的幸せな時間を、できるだけたくさん絵に残したい。
胡桃爆弾の絵を仕上げる傍らで、新作の地塗りをロミに頼んだ。
「これは、素晴らしい絵ですね」
彼もまた、エリスと同じく少ない語彙で、嘆息を交えながら感想を伝えてくれた。
「レムに見せても良いですか」
「ああ、もちろんだ」
ロミは珍しく落ち着きをなくしながら、その画帖を持ち帰っていった。
どうせすぐに大きな絵になるのに、と不思議に思う。
しかしその理由らしきものは、すぐに判明することになる。
その日の晩のこと。
訪問客が減り、スタッフも家に帰り、ほぼ俺だけの貸し切りになる真夜中の時間帯に、ひとりの人間が訪問してきた。
この時間に入ることができる関係者は限られている。
レムだ。
以前もこのくらいの時間帯に、ひとりで訪問してきた気がする。
……そのときは、何の話をしたんだっけ。
「こんばんは、ハーベストさま」
「ああ、遅い時間に珍しいな」
「ええ。ロミから預かった絵を返しにきました」
どうぞ、と渡される。
そんなの、ロミに持ってきてもらえば良いのに。そう思ったが、彼女の顔を見ていたら口に出せなかった。
「素晴らしい絵でした。この絵のモデルの方々は、ハーベストさまの大切な方でしょうか?」
レムは目を輝かせていた。喜びに満ちた表情。
それなのに、なぜかひどく潤んだ瞳をしている。
「これは俺の友人を描いた。もうひとりの友人の子を、彼女が祝福しているところだ」
「そうなんですね。とても優しそうな方です。ハーベストさまのご友人に相応しい、美しい方ですね」
赤ちゃんもかわいらしい、神秘的で心が洗われる――レムは他の人とは比べ物にならないくらいにたくさんの言葉を使い、懸命に感想を述べてくれた。
「ありがとう。友人の門出を祝いたくて描いたんだ。よい光景だったから、君達にも見せたかった」
「拝見できて光栄です。ご友人たちの行く先には、きっと素晴らしい未来が開かれておりますよ」
レムはうっとりとしながらそう言った。
俺はなぜだか唐突に、以前、レムとここで話したことを思い出した。
『レムは俺の友達だ。ロミもそうだ。俺にとって、かけがえのない存在だよ』
思えば俺は、いろんな人にそんなことを伝えていたな。
……キトには伝えられていないのに。
その言葉に、彼女はなんと答えたんだっけ。
ライズやエリスとは違う反応だったような気もするが、よく覚えていない。
「用事はこれだけか?」
問いかけると、彼女はびくと肩を揺らす。
「またなにか、悩み事があるのか?」
前回のことをすこし思い出していたから、そう聞いた。
前回彼女はこの時間に、結婚報告をしに来たんだった。そのときに、友達だという話をした。
「なんでも言ってくれ。俺にできることなら、なんでもするから」
「いえ、あの、今回はまず、ご報告をさせていただきたくて……」
彼女はすこしはにかみながら、自分の腹部を優しく撫でる。
「私、以前から妊娠しておりまして……あともう少ししたら、生まれるんです」
「えっ、そうなのか」
俺は驚いた。確かに近頃のレムは妙に緩やかな服を着ていた。
あまり俺の前に姿を見せず、ほとんどの業務をロミがこなしていたような気もする。
「やっぱり気がついていなかったんですね、ハーベストさま」
「す、すまない……」
俺は青ざめた。先日も帰るなり、汚れた正装の洗濯を頼んだ。彼女はいつものように笑いながら引き受けてくれた。全く気付かなかった。
「何の配慮もせず、申し訳ない。以後気を付ける……」
「違います! いいんですよ、ハーベストさまのお役に立つのが、私の幸せなんですから」
今日来たのは、そんな話をするためじゃありません――彼女はそう言って、強い視線で俺を見上げた。
「実は、お願いしたいことがあるんです」
息が上がっている。緊張しているようだ。
重要案件なんだなと思った。
レムは美術館の仕事については、はっきり依頼を口にするタイプだった。近頃俺が不調を来していたから遠慮が入るようになったが、彼女は本来は遠慮がない方だ。
「なんだろうか」
緊張をほぐすために、そう口にした。
この状況で依頼されることは何だろうかと一瞬で考えを巡らせる。
絵を描いてほしい、インタビューを受けてほしい……くらいしか浮かばない。
だから、レムから放たれた言葉は俺の度肝を抜いた。
「生まれる子の、名前を考えてほしいんです」
「……!」
「是非とも、ハーベストさまに名付けの親になっていただきたいんです」
俺は絶句した。
どうしてキトみたいなことを言うんだ。
子供の名前をつけるなんて、重要なことを俺に任せないでほしい。
困惑する俺に、レムは懸命に言葉を続ける。
「性別は、おそらく女の子だろうと言われています。ロミとも話し合ったんですが、名前はハーベストさまにつけていただきたくて」
「…………」
「ハーベストさまにつけていただけないなら、ハーベストさまにちなんだ名前にしようと思っているんです。ハーヴィアとか、ハリエットとか」
「………………」
「いかがでしょうか、ハーベストさま」
俺は考えた。
俺にちなんだ名前というのはやりすぎのような気がする。
俺は彼女ら夫婦の友人ではあるが、生まれてくる子の何者でもない。
俺にちなんだ名前を付けられた子供は、俺のことをどう思うだろうか……。
「よいと思った名前がひとつある。なんでもいいと言うなら、それでもいいだろうか」
「もちろんです!」
俺は一瞬、申し訳なさがよぎったが、言葉を止めることはできなかった。
「ファラミアというのはどうだろうか」
「ファラミア……」
聞きなれない響きを、レムは口の中で何度か唱える。
「優雅で素敵です! 由来はなんでしょうか?」
「…………」
俺は言葉に詰まる。正直に言ってもよいものだろうか。
誰かを傷つけることになりはしないか。
しかし、言わないのもおかしいだろう。
意を決して口を開く。
「この絵の赤子の女性名だ。女児であればそう名付けていたと聞いた」
「大切なご友人のお子さまの名前を、私に?」
「ああ。迷惑でなければ……」
「いいえ! ありがたく頂戴いたします」
レムの瞳は輝いていた。
心から喜んでいるように見えた。
それなのに、俺の胸はチクリと痛む。
キトの許可なく、大切な名前を渡してしまったからだろう。
「ありがとうございます、ハーベストさま!」
レムは何度も礼を言い、生まれたら会いに来てほしいと頼んできた。
最初に赤子を抱いてほしいという。
「わかった。善処する……」
俺はそう答えながら、ひとつの理解を得ていた。
子供の名前をつけること、生まれたばかりの子供を抱かせるというのは、人間にとってかなりの親愛表現なのだということ。
キトは意外にも、俺にかなり歩み寄ってくれていた……なんとも今更な気付きだった。
レムが帰ったあと、俺はぼんやりとエリスの絵を見つめる。
エリスの手に抱かれたファラルド。
穏やかに眠る姿は、俺の腕にいたときの記憶のままだ。
『差し出がましいことを申し上げますが、やはり許可は頂いたほうが良いですよ。友人ならば』
エリスが言ったことは正論だ。そうした方がいいことは俺にもわかる。
しかし今更、なんと言えばよいのだろう。
君の絵を描いた。君の絵を飾っている。君の息子の絵も描いた。君の息子の使わなかった名前を他人にあげた。
勝手なことをするなと、怒られるだろう。
依存するな、気持ち悪いと言われるだろう。
しかし……。
俺の考えは、強固な核に吸い寄せられる。
俺のことを嫌いになるのは構わない。でも、俺の管理から外れたら、キトは処分されるかもしれない――。
「言わない方がいいんじゃないか、ナビ」
俺は静かに肩の近くで飛ぶ彼女に、そう問いかけた。ナビは首をかしげて、一言言った。
「なんの話ですか?」
「…………」
そうだ。これは俺とキトの間の話だ。他人には関係ないし、とやかく言われる筋合いはない。
「なんでもない」
俺はそう告げて、絵の仕上げ作業に戻ることにした。
胡桃爆弾の絵が仕上がったときに、久しぶりに新聞の取材を受けた。
この絵を題材として選んだ理由を問われたので、思うところを正直に答えた。
「楽しそうな風景に見えた。これを見た人が、過去の楽しかった時代のベルフォートを思い出してくれたらよいと思った」
記者たちは深く頷き、言葉をメモして帰った。
しばらくして、その記事がベルフォート中にばらまかれた。
それを見たらしいライズが、いつものように完成品を見にきてくれた。
「どうだろうか」
俺の問いかけに答えず、ライズは黙って絵を見上げる。
心なしか、表情が緩んでいるようにも見える。
すこしの間が空いたあと、彼は徐に口を開いた。
「良くなったよ。良くなったけど……」
ライズは自分の気持ちを飲み込むように、口を真一文字に結ぶ。視線を床に移したのちに、ぼそりと呟いた。
「今のきみはさ、自分を削ってまで他人に合わせない方がいいと思うよ」
「…………」
「ぼくが言ったから、直してくれたんでしょ。きみがそういうやつなのは知ってるけど、もっと自分を前に出してもいいと思うんだよ」
喜んでくれると思ったのに。俺はすこし落ち込んだ。
そんな俺を見て、ライズは慌てたように言った。
「ごめん。責めてる訳じゃない」
「いや、責められたとは思っていない。ただ、君に言われたから直したというのはすこし違う」
俺は落ち込んだ理由をきちんと話そうと思った。
勘違いがあるのは、良くないことだと思った。
「陰鬱な色をのせていたときは、この絵と向き合うのがつらかった。しかし君と話してから、明るい色をのせていたら楽しくなった」
「…………」
「これは俺が前向きになりたいと思って描いた絵だ。君のために描いたわけではない」
はっきりと言い切ったのが意外だったのか。ライズは目を見開いてから、いつもの顔に戻る。
「そっか。自意識過剰だったね。きみの気持ちを勝手に決めつけてごめん」
そして改めて、胡桃爆弾の絵を見上げた。
「いい絵だ。楽しそうで、ワクワクする」
含みのない、穏やかな笑顔を浮かべていた。
それは俺が見たかった表情でもあった。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
ライズからの評価を終え、俺は新作の制作に取りかかる。
地塗りは既に終わっている。
今回の絵は特別な仕掛けを施したいと思っていた。
俺はロミに新しい顔料の調達を指示した。
「光を受けて煌めく、緑色の鉱石粉がほしい」
「翠雲母などはいかがでしょうか」
「それを用意しておいてくれ」
おそらく高価な物だと思う。しかし、俺の美術館はたくさんの支援者がいるらしい。すこしくらいの無理は通せるとレムが言っていた。
「これまでにない大作になりますね」
ロミは興奮したように呟いた。
周りのスタッフたちも張り切っていた。
ファラルドとファラミア、ふたりの子供に捧げる絵にしようと思った。
ふたりに明るい未来が訪れるように。願いを込めて描こうと思った。




