第18章(3)
前向きな目標ができてからの絵の作業は、驚くほど早く進んだ。
陰鬱な色味がどんどんと鮮やかに変わっていく。その様子は、傍目に見ても印象が良かったのだろう。
まずロミやスタッフたちが感嘆の声を上げ、レムを呼んでくる。彼女はまた大袈裟に涙を流して、安堵の表情を浮かべていた。
美術館の来客者たちも足を止め、絵を見上げる。
誰もが目を細め、気分を良くして帰っていったようだ。
それを見るたびに俺は、陰鬱な絵にしなくて良かったと、心から思った。
後は仕上げだけというところで、休息を取っていた俺の視界にナビが飛び込んでくる。
「ハーベストさま、呼び出しです!」
「えっ、誰から……」
彼女の目が赤く点滅している。
ナビ・ベータからの信号? 呼び出しと言われて、最初にニースの顔が浮かんだ俺は、頭を振って邪念を追い払った。
「キトライドです! キトライドが呼んでいます!」
すぐに来いと怒鳴っています! そう告げられ、弾かれたように俺は立ち上がった。
「ハーベストさま、お着替えを忘れています!」
フライトに直行しようとして、止められた。
今の俺は絵の具だらけの作業着を着て、手も顔もぐちゃぐちゃに汚れている。
イスメリア潜入時を彷彿とさせる。
キトに会うならこれでもいいじゃないかと思ったが、ナビは頑なに駄目だと言った。
「威厳が保てません! 一線を越えてはいけません」
「わかったよ……」
急いで事務所に行き、レムに用意を手伝ってもらう。
「また遠出になりますか?」
「いや、たぶん大丈夫と思うが……」
何の用事で呼ばれたのかわからないので、はっきり答えることができなかった。
フライトで移動中に、キトの固定ウォッチと視界を繋ぐ。
キトはどこかの薄暗くて狭い部屋にいて、長椅子に座ってじっとしている。
なんだろう。初めて見る風景だ。
たまに立ち上がり、うろうろと歩き回る。
そしてまた座る。
なにをしているんだ?
断続的に覗いてみたが、大して状況は変わらない。
音声を繋いでみても、彼はほとんどなにも言葉を発しない。
「キトはどうしたんだろう」
「さあ。ナビ・ベータの信号では、すぐに来いと騒いでいたということしか共有されませんでしたから」
ナビにもわからないということだったので、俺は調べるのを諦めた。ウォッチとの接続を切り、目的地に向かうことに専念する。
トライフルの青空に飛び出たフライトは、そのままの速度でウィディアへと向かう。
かなりのスピードで降下をするフライトの両翼の先が、真っ直ぐな二本の雲の線を描く。
印象的な光景だな。すこしだけそれに気を取られながら、俺は聖堂の真上を旋回し、いつもの広場にフライトを着地させた。
すかさず集まってくる教会の人間たち。
その中のひとりが、グレンだった。
「ハーベストさま! 先ほど、ちょうど産まれたところです!」
「え? 産まれた?」
何の話だろう、と一瞬考えたが、そんなのは決まっている。
キトの子供のことだ。
俺は慌ててフライトから飛び降りた。
グレンに連れられて、聖堂の裏の屋敷へ向かう。ここはキトとエレンが普段暮らしている場所だ。二階に連れられ、とある一室の前まで進む。
無言で扉を示された。
俺は静かに、ドアノブを握る。
恐る恐る開くと、そこはウォッチで覗いた薄暗い部屋で、長椅子にキトが座って俯いていた。
「キト」
俺が声をかけると、キトはのろのろと顔を上げる。
ひどい顔だった。
俺がウォッチとの接続を切ったあともずっとここにいて、まともに眠らなかったのかもしれない。
虚ろな瞳の下には隈があり、目は充血していて、顔色が青黒かった。
俺の姿を見るなり、みるみる眉間が緩んできて、額に添えていた手が震えだす。
「あ、ああ、来てくれたんだ、ハーベスト……」
怒られると思っていたから、拍子抜けした。
「遅くなってすまない。何か用事があっただろうか」
「ああ、ごめん。俺、テンパっちゃって……」
彼は腰を上げようとして、力なく長椅子にへたり込む。
「座ったままでいい。落ち着いてくれ」
「ああ、ごめん……」
キトは見たことがないくらいに憔悴していて、素直だった。
力なくうなだれたまま、ぽつぽつと話をした。
「三日前にね、産まれそうだからって、エレンがこの先の部屋に隔離されたんだ」
キトが指した先には扉がある。
俺が入ってきたのと反対側の壁だった。
この部屋は、普段はキト夫妻の着替えなどに使われているようだ。長椅子の他にはクローゼットや全身鏡くらいしかない。
「そんでさ、急に怖くなっちゃったんだ。出産で亡くなる方も多くおられますとか女官が言うから……」
キトが俺を呼んだのは、もしもの時に母子を治療してほしかったからのようだ。
キトは再生の術が使えない。あれは生命と光の色を混ぜるものだから、火と闇しか属性を持たないキトには使えない。
「さっき産まれたって報告を受けた。母子共に無事だって。だから、来てもらって悪いんだけど、やることはないっていうか……」
俺は無言で着火した。金色を二回混ぜてから、膨らんだ光をキトに向ける。
『活力』という術だ。眠気が取れるかはわからないが、消耗した体力くらいは回復するだろう。
「ありがとう。頭がちょっとだけはっきりしてきた……」
「エレンにもかけようか。無事とはいえ、体は傷付いているだろう」
「いや、いい。大丈夫……」
男は入るなと言われているから、と彼が呟いたので、俺は遅ればせながら、礼節を欠いたことを理解した。
「子供はもう見たのか」
「いや、まだ……準備ができたら連れてくるとか言っていたけど」
そう言っている間に、扉の先が騒がしくなる。
ガタガタと物音がした後、扉が勢い良く開く。
「キトライドさま! お待たせいたしました……」
白い布を抱えて出てきた女官は、俺の姿を認めて一瞬固まった。
「申し訳ない。部外者は出ていく……」
「いや、部外者じゃねーし、せっかくだから見ていってよ」
キトは反射的に退いた俺にすかさずそう答え、女官に歩み寄り腕の中を覗き込む。
「元気なご嫡男です」
「…………」
キトは喜びとも不安ともつかぬ微妙な表情で、赤ん坊を見ていた。
しばらくして俺を振り返り、呟いた。
「あんたさぁ、赤ん坊って見たことある?」
記憶を探ってみたが、特にそんな記憶は見つからない。首を横に振る。
「見ろよ、顔がくしゃくしゃで、俺に似てるんだかわかんねぇ」
「そうなのか」
可愛いとか、感動したとか、そういうことを言われると考えていたので、驚いた。
数歩近づいて覗き込んでみたが、確かに言わんとすることはわかった。
「しかし、髪の色は君のものに似ている」
「そう? そうだったっけ?」
キトは自分の髪を掴んで眺めている。
彼の今の髪の色は、聖人化の影響で淡い緑に変化しているが、元々は深い緑色だったはずだ。
「エレンは青い髪をしていただろう」
「そうだな、俺に似たんだ」
キトは自分の髪をいじるのをやめ、赤ん坊に向き直る。
ゆっくり頭に手を伸ばし、あまり多くはない深緑色の髪を、優しく指で撫でてやる。
「俺に似たんだ……」
なぜだか彼は、夢見心地のように見えた。
撫でる手はぎこちなく、わずかに震えている。
「キトライドさま。抱いてあげてください」
痺れを切らしたように、女官が布をキトに押し付けた。
「えっ、いいよ」
「良くないですよ、抱いてあげてください」
「ハーベスト、抱いてやる?」
どうしてそこで俺を向くんだ。
「いや、それは君の役目だろう」
「だって、壊しそうで怖いから」
「怖いからって、君……」
赤ん坊を受け取ってもらえない女官は困り果てていた。キトに抱かせるまで、本来の仕事に戻れないのだろう。
俺は仕方なく布を受け取った。
ひどく軽い。
羽毛が詰められた布団を抱いているようだ。
女官はなぜだか頬を染め、恍惚の表情で俺を見ている。
その視線が気まずかったので、俺は目を逸らしながらキトに問いかけた。
「結局、名前は決まったのか?」
「ああ、うん。あんたが勧めてくれた通り、あいつの名前をつけることにしたよ」
もし女でも、似たような名前にしようと思っていた、と彼はへにゃりと笑う。
「なんという名だ?」
「ファラルドだ。女なら、ファラミアにしようと思っていた」
「ファラルド」
最初に出会ったあの男の名を、俺はようやく知ることができた。
「いい名だ」
そう褒めると、キトはようやく、幸せそうな顔で微笑んだ。
「ありがとう。あんたのお陰だ」
その数時間後に、キトはエレンのもとに向かう許可を得られた。
当然俺は控え室で静かに待ち、夫婦の時間を邪魔することはしなかった。
三十分も経たないうちに、キトは控え室に戻ってくる。
その顔は、すっかり安心しきったものに変わっていた。
「ごめん、ちょっと寝てくるよ」
「そうしたほうがいい」
おおきなあくびをするキトに、俺は深くうなずいて答える。
「悪いけど、俺が起きるまで待っていてくれる?」
「ああ、エレンの体調が急変しないとも限らないし……」
「そういうことじゃねぇんだけど」
まあいいや、とキトは呟き、手をヒラヒラさせて部屋を出ていった。
残された俺は、長椅子に座ったまま、ぼんやりとする。
扉越しに赤ん坊の泣き声が聞こえる。
確かに元気がよさそうだ。
外では鐘の音が聞こえた。
無事に出生したことを知らせているのかもしれない。
キトは丸一日目を覚ますことはなく、俺はぼんやりしたまま夜を明かす。
たまに聞こえる物音と泣き声だけで、今のこの屋敷が慌ただしいことが伝わってきた。
翌日に起きてきたキトが、これからの行事について話してくれた。
「これから聖堂で命名式と祝福の儀式がある。あんたにも出席してほしいという声もあるが……」
俺はすこし考える。
今までは流されるままにしていたが、これからはそうではいけない。
今後フォレスティアとどのような関係を築いていくかで、対応を変えていく必要がある。
「あまり俺が表に立たない方がいいと思うんだ。俺はまだうまく対応ができない。君やファラルドを差し置いて、俺が目立つわけにはいかない」
「しかし、飛龍がいるからあんたが来てることはみんな気付いているんだよ」
その状況で出ていかないのも、妙な憶測が立つかもしれない。
俺は悩んだ。
姿を見せないわけにはいかないが、大きく関わるのも避けたい。
「じゃあさ、聖堂の二階の窓から、こっちを見ていてくれないかな。理由については、適当に誤魔化しておくから」
「そうだな。そのくらいでお願いしたい」
意見がまとまったので、さっそく準備に入る。
俺は裏口から聖堂の二階に入り、用意された席に座った。
聖堂の長椅子は次々と参列者で埋まっていく。
俺の存在はあらかじめ知らされているらしく、皆こちらに恭しく礼をしてから席に着いた。
礼服を着こんだ教会関係者が入場してくる。
儀式の中心となるのは、エレンの父である年老いた教主だった。
聖堂の奥には、いつの間にか新設されていた女神の像がある。
妙に俺に似ているが、女神なのでどちらかといえばコーデリアに見える。
その足元に教主が立つ。
厳かに入場してきたキトが、その手前で膝をつく。
教主は儀礼的な文言で、父親の名と、新生児の名を宣言させる。
続いて女官が赤ん坊を抱いて入場する。
彼女は赤ん坊の出生日時を述べ、確かにキトとエレンの子であると証言した。
教主が赤ん坊に印を施し、祈りを捧げる。
「この神聖なる子は、ファラルドという名を正式に与えられたことを、神の前で宣言いたします」
最後に教主は俺の方を向いて一礼し、女神の像の前に跪いて祈りを捧げた。
赤ん坊をキトが抱き、女神の前に立つ。
参列者たちは立ち上がり、拍手で彼らを祝福した。
俺もそれに倣い、拍手をした。
拍手をしろとは言われていなかったが、このくらいはしてもいいだろう。
キトは緊張していたようだが、威厳のある姿勢は崩さなかった。
拍手の中、女官に赤ん坊を返し、キトたちは厳かに退場する。
儀式はそれで終わった。意外とあっさりとしたものだった。
しかしこの儀を通し、キトの息子ファラルドは、聖人と聖女の息子としてフォレスティアに正式に迎え入れられた。
生まれながらにして神聖なる子、ファラルドの人生は、ここから始まったのだった。




