第3話 夜になると自分でページを閉じる日記
「普通の日記帳、に見えるのですが」
それは、本当にどこにでも売っていそうな、ただの日記帳に見えた。
赤色の革の表紙、少し汚れた角、くたびれたDIARYの文字。
開いてみたものの、
手に抵抗があるわけでもない。
―― ページも、何もかもが、普通にしか見えない。
「……開いたままで、眠るんです」
何も書かれていないページから、
目を話すことなく、依頼人は呟く。
―― クマが
依頼人の目元を見て、東峰は、踏み出しかけた足を止める。
そんな彼の動きに、椅子に腰を掛けていたアキの尻尾が揺れる。
するり、とアキの指が動く。
まだ、何も書かれていない、未来のページ。
するするする、と日記の横を撫でる。
アキは、ページを"見ない"。
代わりに拾う。
そこにある小さな、微かな音。
「この日記帳は」
ス、とアキの指が、紙の間に挟まる。
「受け付けないことがありますね。あなたの文字を」
依頼人の目が、開かれる。
「どうして、それを」
「書いたものを、消すことができない夜もある」
「わかるんですか……?」
依頼人が目を開いたまま、息を呑んだ。
「わかります」
アキの声は、いつも通り、ひどく穏やかで、少し低い。
ハラリ、とアキの指が、日記帳を開く。
真白なページが、夜の空気に触れる。
「あなたは、書き終えたあと、幾度となく過不足を確認している」
真白なページの、隅。
ピン、と張られたまま、歪んでいない。
する、とアキの指が、過去のページへと動く。
「こんな風に」
ページの隅。
重力に逆らうように、角が持ち上がっている。
「歪んでしまうほどに」
アキの指が、立ち上がる角を弾く。
依頼人の目から、ほんの少し力が抜けた。
「この日記帳は」
アキの目が、依頼人を見る。
「"今日"を、終わらせるための道具です」
キラリと、オッドアイの目は、夜の光を纏う。
「この日記帳は、
あなたを拒んでいるのではありません」
ゆら、とアキの尻尾が小さく揺れる。
「今日を書き終えたことを終わりにするため。
あなたの"今日"を終わらせるために、閉じている」
アキの言葉に、依頼人は瞬きを繰り返す。
ゆっくり、ゆっくりと。
最後の瞬きのあと、目を伏せた。
アキが立ち上がり、いつもの場所へ戻る。
アキの鑑定が終わったという仕草。
すたすたと、歩いていくアキの姿。
―― けれど。
東峰は、見てしまった。
立ち上がった直後、依頼人の目元へ、アキが視線を動かしたところを。
気づいてしまった。
依頼人の睫毛の揺れに。
―― 出過ぎた真似かも、しれない。
―― だけど、
「この、日記帳に」
声が、出てしまった。
―― やってしまった。
口に出した瞬間、
空気が、動かなくなった。
誰も、息をしない。
東峰は、思う。
けれど。
視界のすみで揺れる尾は、ゆる、と動いただけ。
「好かれているんですね」
東峰の言葉に、依頼人が顔をあげる。
視線を、一身に受け取って、東峰の喉が、きゅ、と細くなる。
副所長は、何も言わない。
止めもしない。
ワタリガラス先輩も、自分を見るだけ。
何も奪わない目で。
所長も、書類を見る手は、そのままだ。
だから。
東峰は、口を開く。
「……優しい日記帳、ですね」
ぎこちなく。
それでも、
誰よりも暖かな笑顔を浮かべた東峰に、
依頼人は、静かに頷いた。
依頼人が帰り、鑑定所に、静寂が戻る。
「…………申し訳、ありません」
ぽつり、と言葉が溢れる。
これは、東峰の癖だ。
「いいえ」
アキの声が聞こえる。
「君は、事実を置いた。
それで十分です」
その言葉に、
東峰が、息を吐いた。
その様子に、アキの耳が、動く。
東峰の、音を拾うように。
世界の音を、拾うように。
そうして、アキが立ち上がる。
東峰の鼓動が、まだ早い。
「――さあ、鑑定の時間です」
低い位置で、アキの尾が揺れる。
次の音を、拾うために。
鑑定士の夜は、まだ続く。
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