第2話 鳴ったことのない懐中時計
「一度も鳴ったことのない懐中時計」の話
その懐中時計は、音を立てていなかった。
それは、振っても、耳に近づけても、
針は確かに動いているのに、チクタクという音だけが存在しない。
「壊れている、というわけではないのです」
依頼人は、年配の獣人だった。
種族はわからない。声がひどく静かで、
声の形を決めきれない。
アキは、懐中時計を手に取らない。
代わりに、少しだけ顔を傾ける。
アキの耳が、動かない。
「……この時計は、鳴ることを選んでいない」
即答だった。
アキの言葉に、
記録をとっていた東峰の手が止まる。
「えっ……あの、確認、しなくていいんですか?」
「いりません」
アキは、断言する。
つい、と彼のオッドアイの片方が細くなる。
「この時計は、初めから、沈黙を選んでいる」
所長が、机の向こうでゆっくりと羽をたたむ。
「……そんなことって」
思わず呟いた東峰に、
自分と、アキを見ていた所長が、穏やかに微笑む。
「ひさしぶりに、随分と珍しいものが来たね」
所長の声に、アキは静かに尾を振る。
「ええ。だから、価値がある」
その言葉のあと、
アキは初めて時計を手に取った。
金属は冷たいが、"誰かを"拒む感じはない。
裏蓋には、名前が刻まれている。
だが、途中で削られたように、最後の文字だけが消えていた。
在るのは、金属に走る小さな無数の線と、
ほんの少し、傷ついている最後から二番目の文字。
「誰かに、渡すつもりだった」
アキの声が、少し低くなる。
「でも、その人は――音を必要としなかった」
すり、と裏蓋の縁を撫で、アキは告げる。
音を立てずに、縁を撫でる指が、
円を描いた。
じっ、と黙ったまま、
アキの指を見ていた依頼人の唇が
わずかに震えた。
「……鳴ると、目が覚めてしまうんです」
ぽつりと零れた言葉。
「戦地から戻ってから、音が……」
その先は、言わなかった。
アキは、何も聞かない。
始めと同じように、
音を立てないまま、懐中時計を閉じる。
「この時計は、鳴らないままがいい」
断定だった。
「鳴らなかったから、あなたは眠れた。
鳴らなかったから、時間を測れた」
東峰は気づく。
これは、壊れている話ではない。
選ばれなかった音の話だ。
「鑑定結果」
アキは、そっと時計を机に置いた。
「市場価値は、ほとんどありません。
けれど――」
一拍。
「持ち主にとっては、替えがきかない」
アキの言葉に、依頼人は息を呑む。
耳の奥で、キーン、と音が鳴る。
完全な、沈黙だった。
依頼人は、深く、深く頭を下げた。
礼の言葉も、説明もない。
それで十分だった。
依頼人が帰ったあと、
東峰は、アキに問いかける。
「副所長。
……音がしないものって、怖くないんですか?」
東峰の、真っ直ぐな問いかけに、
アキは、少しだけ考えてから答える。
「怖いのは、聞こえなくなることです」
アキの言葉に、
鑑定所の空気が、
ひたり、と止まる。
東峰には、気づかないほど、
ほんの一瞬の、出来事。
「でも、最初から鳴らないのであれば――」
窓の外の夜を見て、アキは言った。
「取りこぼしようがない」
アキの尻尾が、低い位置で揺れる。
「いい鑑定だったね、アキ」
穏やかに響く、所長の声に、
アキは返事をしない。
ただ、いつもの言葉を置いた。
「――さあ、鑑定の時間です」
さわさわさわ、と窓越しの、木の葉を揺らす音が響く。
アキが、終わりと始まりの言葉を告げる。
鑑定士の夜は、まだ終わらない。
お読みいただきありがとうございます。
感想、評価をいただけると嬉しいです。




