羅生門の手紙
大正十二年、五月の雨が浅草の石畳に薄く光っていた。
私は、作家の芥川龍之介に頼まれ、彼の手紙の整理を手伝っていた。
机の引き出しには、差出人不明の封筒がひとつだけ混じっていた。
封蝋には、獣の爪のような跡。
裏には、読めない文字。
ただ一行だけ、かろうじて判読できた。
——“羅生門にて、今宵、主を返す。”
芥川は苦笑しながら言った。
「随分と趣味のいい悪戯だね。だが、羅生門なんてとっくに無いじゃないか。」
そう言いながらも、指先がかすかに震えているのを私は見逃さなかった。
夜、手紙の封を切ると、中から細い髪の毛の束が落ちた。
黒く、濡れたように艶やかで、しかし触れると冷えきっている。
「これは……まさか。」
その瞬間、玄関の戸がトン、と叩かれた。
夜更けの浅草に訪問客などあり得ない。
私は恐る恐る戸を開けた。
誰もいなかった。
ただひとつ、濡れた足跡が廊下に並んでいた。
村雨のように細く、軽い足取りで。
芥川は足跡を見て、息を呑んだ。
「この足跡……知っている。」
彼は手紙の封蝋を指で撫でた。
「これは、かつて書いた物語の亡霊だよ。」
確かに——
足跡は途中でふっと途切れている。
人が消えたのではなく、“物語が終わった場所”で足跡が止まっていた。
芥川は静かに言った。
「物語の人物が、作者に会いに来たんだ。
だが、彼らには“自分の最期”しか覚えていない。」
足跡の終点には、小さな紙片が置かれていた。
墨のにじんだ一言だけ。
——あなたの書いた死に方では、まだ死ねません。
芥川はしばらく黙り、それから微笑んだ。
「続きを書けということか。」
私は震えながら紙を拾い上げた。
その裏側に、もう一行だけ書かれていた。
——次は、あなたの番です。




