神威を操り天降らせる者
この声は黒峰先輩のものだ。
振り向くことすらできなくて、私はぐっと喉をひきつらせた。
容赦なく力を込めてくる手から逃れようともがき、自分の手や爪で抵抗しようとしたが、それらは何の効果ももたらさなかった。
やがて呼吸するすべを無くし、体から力が抜けていく。すると突然黒峰が力を弛めた。そして拘束していた私の左手のひらに爪をたてグッとひいた。
「っ、」
すぐに手のひらから血が滲み、それを見た黒峰は嬉々とし声をあげた。
「ああ、思った通りだ。この血、君はやはり人間ではなかったんだな!」
「……!」
「なんという香りだ。まるで華のような――」
滲む血に引き寄せられ、黒峰がそこへ顔を寄せた。だが――
一迅の風が空を舞った。風は鋭い刃となり黒峰の手首に当たり、切断されぼたりと床に落ちた。その瞬間、濃い鉄の臭いがし、私の手の拘束は解けた。
黒峰の血の臭いで華の香りが消失した。
私の首からも手が放された。黒峰は左手首から流れ出る血をおさえ、膝をついた。
解放された私は狐太郎の腕に抱き寄せられていた。
「……ごめ、こ、ほっ」
「話さなくていい」
私を横抱きにかかえた彼は、そこから離れた所へ移動し私をおろした。
「ここで待ってて。それとこれ、巻いてて」
血の滲む手のひらに狐太郎は懐から出した呪符と手巾をあて、器用に巻いて結んだ。
「俺の力を染み込ませてる。護符の効果があるんだ」
「……こた、」
「絶対にここから動かないで」
手巾を巻いた手を確かめた後、どこか安堵したように息を吐き、瞳を伏せそこに唇を寄せた。脱力し動けない私はそれをぼうっと見ていた。
「大丈夫。すぐ終わらせる」
そう言って狐太郎はすぐに姿を消した。
彼がいなくなって、やがて思考が戻っていく。
(先輩は私の事を知ってた。だから殺さなかった)
どうして自分だけ残ったのかといつも思っていた。
動悸がした。
昔、長様の御屋敷で見たあの黒い影は――黒峰先輩だった。
あの時、何らかの形で長様と私の会話を聞かれていた。人間と姿形はまったく同じ、なのに何処か異質な私の正体を――
胸が苦しい。
もっと私が強ければ、早く異変に気づければ、人の子達を助けられたかもしれない。
後悔、罪悪感、無力さ。色々な負の思考が泉のようにわいてくる。
手巾が巻かれた手をぼうっと眺め、やがて私の意識は段々と遠退いていった。
左手首を失ったかにみえた黒峰だが、その手は元の状態に戻っていた。床には散乱した血だけが残っている。
「霊力で再生したのか」
声の主は狐太郎だ。彼は特に驚いてはいなかった。
「そうだ。でも耳と尾だけは何をやっても再生できなかった。他の事は霊力さえ補充すればどうにでもなるのに。まるで呪いにでもかかっているようだ」
「俺にはそれに執着する意味がわからない。そんなものなくたって変わらない」
「それはお前が失ったことがないから言えることだ」
黒峰が薄く笑った。
「だが執着ならお前にもあるだろう?あの娘だ。あの血、甘く芳しい香りがした。僕はあの正体を知っている『天人』。長の屋敷で聞いた通りだった」
「……だからなんだ。お前には関係ない」
瞳を鋭くした狐太郎が刃を放った。『天人』とは人でもあやかしでもない、まさしく言葉の通り天から降り立つ存在だ。
かすみは天人の子で幼い頃、あやかしの里長である時匡の元に預けられた。
己に放たれた刃を躱し、黒峰も狐太郎に向け霊気を放つ。
「関係ならある。彼女を我が物にし妻とする。天人ならこれまで犯した罪も転じさせ吉祥となろう」
「随分勝手な解釈だな!」
黒峰が伸ばす手に闇色の球体が生まれた。狐太郎の放つ刃は次々とその球に吸収される。まるでブラックホールのようだ。
「くっそ、キリがない!」
刃を放つたび、霊力を消耗する。狐太郎が悔しげに唇を噛んだ。闇色の球体は霊力を吸収する役割をもつようだ。
次第に刃の威力が弱まっていく狐太郎の様子に、黒峰は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「これはね、黒狼の心臓なんだ。あらゆる力を吸収する、なにを以てしてもこの内部が満たされる事はない。永遠にね」
黒狼の心臓――球体の力がさらに強くなる。この程度の霊力では足りない、もっと欲しいと貪欲になっているのだ。
「ああ、これは野狐の霊力が気に入ったらしい。では体ごと飲み込んでやろう」
「……!」
球体は黒峰と繋がっている。おそらく球体を破壊すれば黒峰にも反動がくるはすだ。
(一瞬でいい。あの球の力を止められたら、それ以上の力をぶつけて砕いてみせるのに!)
球体の力が途切れるタイミングがどこかにあるはず。再び霊力で攻撃しようと狐太郎が構えた時、背後から異質な気配が現れ、同時に神々しくも光輝く矢が飛んできた。
「避けろ、野狐」
「!」
酷く落ち着いた声。それはかすみのものに似ていたが、何処か横柄な雰囲気をもっていた。
光の矢はいとも簡単にさくりと闇色の球体に突き刺さった。狐太郎の隣に立つその者はかすみだった。だがその瞳は鋭く顔つきも凛々しかった。
「え、」
「呆けてないで早くその球を切れ、今なら可能なはずだ」
見るともはや吸収する様子はなく、球体は沈黙していた。手にしている黒峰が死んだように動かなくなった球を見て、動揺し始めた。
「な、なぜだ!?どうして動かない。この矢はなんだ?」
「それは天津神――天の矢だ。天人の発するものは凡てにおいて勝る。地の者ごとき我らに敵うはずはない。あやかしの心臓ごとき一瞬で止めてくれよう」
何の感情も現さず、凛として語る彼女はまるで天上界に棲む天女のようだった。
「お前は何者だ」
「……我が名は天人、沙那王。神威を操り天降らせる者である」
黒峰が目を見開いた。
その堂々たる有り様は先程のかすみとはまったく違う。別人物が乗り移ったかにみえた。
「天人、だと?」
たしかに長の屋敷で彼女は人間に非ず天人と耳にはしたが、よもや人格まで変貌するとは。
黒峰がつかの間呆けているうちに、その手にある球体がパンと真っ二つに割れた。人知れず跳躍した狐太郎が頭上から霊力の刃で切断したのだ。
割れた球は床に転がり、黒炎に包まれ消失した。黒峰はその衝撃で床に倒れ伏した。
自らを沙那王と宣告したかすみが黒峰を見下ろした。
「問おう。人にもあやかしにもなれぬ哀れな獣よ。お前の望みはなんだ?」
「!……天人は何もかもお見通し、か」
「さてな。お前の隠したいもの程度なら理解している」
天人の中には千里眼を有する者もいると聞いた事がある。彼らの前で隠し事は通用しないのだ。
「言っておくがお前がこれまで犯した罪は消えない。いかなる理由があるとしてもだ。……だがこれ位は許そう」
沙那王がふわりと右手をあげた。向きは天。そこから白い衣を着た優しげな瞳を宿す女がひらひらと降りてきた。
彼女は黒峰のそばに跪き、慈愛に満ちた表情で彼の黒髪を愛おしそうに撫でた。
『――りく』
「っ、母さん」
それは引き離された際に殺された黒峰の実母だった。唇を震わせた彼の顔が濡れていく。その姿をみて沙那王が少しだけふっと笑った。
「お前にとっての神威はこれきりだ。だが最上の天恵であろう」
黒峰理狗と母親の御霊をおいて、沙那王が歩き出した。行き先は心臓を破壊され消滅しかけている黒狼の元へだ。
「これで満足か?古のあやかしよ」
巨躯の黒狼を前に沙那王は憐憫を込めていう。
『……アア、カンシャスル』
沙那王のあとを追ってきた狐太郎が二人のやり取りをみて驚いた。
「どういうことだ?」
「これまで幾世紀続いた忌まわしい儀式、同族を生け贄とする野蛮な行為は本当は始祖の望むものではなかったという事だ。子孫達の欲で始めた愚行をここで断ち切る。黒狼はずっとそう望んでいた……だろ?」
返事を促すように沙那王が横たわる黒狼を見た。
『ソウダ』
「だがこれでお前の子孫、血脈は途絶える事になる。いいのか、それで」
『カマワン。アヤカシノ、シュカラハズレ、イギョウトカス、クライナラ、タチキルノミ』
「そうか」
黒狼の体はいよいよ首だけとなり、やがて全て塵となり消えていった。あとには静寂だけが残った。
沈黙を破り、狐太郎が口を開いた。
「沙那王」
「なんだ」
「もう終わったんだから、かすみちゃんを元に戻してくれないか」
真顔になった狐太郎が沙那王を見た。あまりに真剣な様子に沙那王は苦笑する。沙那王とかすみは同一ではない。そんなことはこの野狐にはもうとっくに知られている。
天人沙那王はあくまでかすみを守護する者だ。役目を終えれば再び天へ還る。
「匂いでわかる。沙那王とかすみちゃんは違うんだ」
沙那王はほぅと瞳をすがめた。




