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No.040 / 本間真という男


時計の針は、クラス萌黄のメンバーに記憶が戻る、その五年ほど前に遡る――。


ここに、ひとりの男が誕生した。

生まれた当初、男には名がなかった。

路地裏のトタン屋根からしたたる水滴が、ぽたり、ぽたりと男の額を打った。

男は泣いた。

すると近くにいた母親が、大きく一度、舌打ちをしたかと思うと、男の口に丸めた布を押し込んだ。

「ったく、うるさいったらありゃしない」

赤ん坊である男には理解しえない言葉ではあったが、その言葉のもつ温度だけは、きちんと耳に伝わった。

男はいつしか泣くことをやめ、その代わりに笑いもしない、めったに言葉を発さない子供へと成長した。

物心がつくころ、母親は見知らぬ男と一緒にどこかへ消えてしまった。


消えた母親が適当につけた男の名は、「まこと」といった。

苗字が「ちいさき」なので、続けて読むと「ちいさき真」となる。

せめて名前の通り、ほんの少しでも己の中に真実があったなら――。

成長するにつれ、男は幾度、そう心の中で念じたか知れない。

だが、明らかになってゆくのは、親に愛されなかった己と、金がないという切迫した現実だった。

その出生を役所へ届けられなかった男は、公の援助を受けることもできず、助けられることもなく、近所のぼけかかった商売女の手により育てられることとなる。

女の手によりわずかばかりのぬくもりが男に与えられればよかった。

しかし現実はそう甘くはなかった。

女は、男を幼いうちから店に立たせ、客引きと給仕でこきつかい、「将来いい女をつかまえるんだよ」などと再三言ってきかせ、毎晩その胸に抱いて眠った。

男は、女の脇の内からただよってくる、すえた匂いが大嫌いであった。


しかし、そんな男にも救いが現れる。

男が通っていた小学校には、大昔の制度の名残である「学童保育」なるものがあった。

笑わない子供として周囲の大人から煙たがられていた男の関心が向かった先は、一冊の絵本であった。

『100万回生きたねこ』という、二十世紀中ごろに描かれた絵本であった。

電子端末が一般化した二十四世紀にあって、紙の本であったそれは男の手によりぼろぼろになるまで読まれた。

着るものも食うものも満足でない日々の中で、男はその絵本を皮切りに、次第に本の世界へと沈んでいった。


一方で、男の生きる環境は、男を本の世界だけに眠らせてはくれなかった。

男の生きる街は、その大半が水商売で成り立っており、喧嘩や流血沙汰は日常茶飯事で、通りを歩けば薬欲しさに狂人がひしめき合い、知らぬ間に女子供のみならず大の男の姿が消えることも珍しくない、そんな街であった。


中学の頃、表の通りで物乞いをしていた時のこと。

ひとりの身なりの良い育ちの良さそうな男の子が、男の前を通った。

男の子は、隣を歩いていた親であろう大人の衣を引き、「あれ、なに?」と男の方を指さしたずねた。

「なんで、空き缶の前で座ってるの?」と男の子は続けた。

男は次の瞬間、立ち上がったかと思うと、男の子の顔面に強烈な一発を入れていた。

その時に湧き上がってきた感情は、「なんだ、簡単じゃないか」という、喜びにも似た納得感だった。

男の子の親はその場で男を取り押さえようとしたが、男は素早く街の中へ消え、行方をくらました。

この成功体験が、男のあらゆる暴力沙汰の原風景となる。


体格よく育った男を、街の大人たちは見逃してはくれなかった。

男は大人たちに誘われるがまま、ある時は用心棒、またある時は万事屋として、夜の街を駆けずり回った。

長じて男は、その名を知らぬ者のない大丈夫となり、やがてその地方一帯を占める金四郎組の一派に目をつけられるようになる。


ある時、男は、喧嘩相手を打ちのめしていた時に、金四郎組の一派に取り囲まれる。

「金四郎組に入るか、このままチンピラとしてのたれ死ぬか、今、選べ」

車内から顔だけ出した黒服の老人にそう命じられ、さして将来の夢もすることも無かった男は、二つ返事で金四郎組へ入ることを決めた。

この時より、男の名は、「ちいさき真」あらため「本間真ほんままこと」となった。


後にこの男が起こす事態が、「二つのほころび」となり、VR世界のクラス萌黄のメンバーを巻き込み、金四郎組は壊滅へと向かってゆくのである――。


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