No.035 / めもりの場合
2月11日未明、メバエの姿は幽世中央図書館にあった。
巨大なくじらを模した図書館のだだっ広い1階フロアの片隅で、今、メバエは一心に巻物型の本を開いていた。
そのあまりの集中ぶりに、ツクモのルナは声をかけられないでいる。
ルナは考える。
VRポリスが出てきていないということは、メバエのこの状態は「バイタル異常」には当たらないということか。
そうであれば、ひとまず健康上の心配はない。
では一体、人が変わったように本のページをめくる目の前のメバエは、どうしてしまったというのだろう。
ルナが見つめる先で、メバエは一冊、また一冊と、机の上に本を積み上げていくのであった。
現実世界、コールドスリープ管理事業所「ハートウォーミング」の中央制御室に、ひとりの女の姿があった。
今、女は、幽世ランドに侵入している一人の人物から、一本の知らせを受け取っていた。
「よし、クラス萌黄およびクラス群青、全員覚醒したな。ほとんどのメンバーのバイタルはぶっ飛んでるな。仕方なし、と」
女の名前は、三方冴子。
年は四十五、癖のあるブロンドヘアを短くボブにしており、原色で大柄のスーツに大ぶりのアクセサリーをつけている。
「室長、クラス萌黄のジガ・メバエと、クラス群青のキオク・めもり。この二人だけバイタル異常が見られませんが、どういうことでしょうか」
三方は部下にそう言われて、手元にあるメバエとめもりのデータを確認する。
「ああ。ジガ・メバエというのは天才児だ。脳の処理能力が人並外れている。だから大量のデータを流し込んでもバイタル異常には至らず、普通に処理して終わったのだろう。もう一方のキオク・めもりというのは、こいつは特殊だな。スリープ前、脳に難病指定の病気を抱えていたが、スリープ中に手術を受け完治。脳の一部機械化により電気信号が一気に流入した際にはショートしないように防衛機能が働くらしい。なるほどな」
三方はそう口にすると、中央制御室正面にあるガラスの向こうにある巨大なホログラムに目をやった。
ホログラムには、今、幽世ランドを訪れている現実世界の人間のデータが高速で切り替わりながら映し出されている。
「さて、大平さんのミッション『卒哭忌』、どうなることやら、しかと行く末を拝見いたしましょうか」
三方は再び手元のデータに目をやると、その目をすうっと細めて閉じた。
めもりの場合。
2月10日の夜に行われたのは、メバエたち第十一期生の同窓会だけではなかった。
この日は幽世ランドの至るところで、これまでの幽世学園の元学生による同窓会が開かれていた。
2月11日0時00分。
クラス群青のキオク・めもりは、同窓会を後にして、ほろ酔い気分でとある住宅街の小道を歩いていた。
足元に残る雪を、ブーツの先で時折、小さく蹴りながら、千鳥足で進む。
すると突然、シノギやメバエと同じく、ある種のデータが大量に脳内に流れ込んできた。
「なに、これ……」
急にめもりの頭がぼんやりと、あらゆるスピードを落としたように鈍くなった。
しかし一方で大量のデータが高速で切り替わるのだけは理解できる。
鈍さと高速回転が同時に起こるようなぐるぐると変な気分に陥り、メモリはよろめき路肩にうずくまり、その場で食べたものをすべて吐き出してしまった。
しかし不思議と呼吸はあがらず、心は平穏に保たれている。
まるで座禅を組んでいる時のような、非常に穏やかな状態である。
めもりの鈍くなった頭が、ゆっくりと流し込まれたデータを処理してゆく。
その過程で、めもりはある言葉が、繰り返し自分に向けられるのに気づく。
「来緒句」、「空」、そして「明記」――。
それらの言葉たちの、なんと尊いことか。
めもりはゆっくりと、しかし確実に理解してゆく。
流れ込んできたデータは、かつての自分の記憶であると。
そして、浮かび上がってきた名前の数々は、かつての私の人生そのものであった、と。
めもりはスマホを手にした。
相変わらず頭の動きは鈍かったが、スマホの操作くらいはできる。
めもりはメバエの番号を見つけると、朧げな意識のまま通話のボタンを押した。
「はい。あ、めもり先輩ですか。どうしたんですかこんな時間に」
相変わらずの声が聞こえてほっとする。
「メバエ、よく聞いてちょうだい。今、突然――」
と、大事なところで、通話はぷつりと切れた。
スマホの画面を見ると、「通信障害」の文字が躍っている。
「なんでよ!」
めもりはスマホを握りつぶさん限りに握りしめた。
「うっ」
ほろほろと涙が流れてくる。
それは、記憶という名の大海原にたった一人取り残されてしまった寂しさからであったか――。
うずくまるめもりのそばを、現実世界からの訪問者であろう若いカップルが通り過ぎてゆく。
「え、あの人大丈夫?」
と、女の方が言っているのが聞こえて来た。
「へーきへーき、バイタルに異常があればすぐにVRポリスがかけつけてくれるから。ガイダンスで言ってたでしょ。ほら、あの小さなねーちゃんが――」
と男の方が笑いながら言っている。
そのカップルに続いて、今度は家族連れが近づいてきた。
「あーあの人、地面に座ってるー。お行儀わるーい」
と、親に手を引かれながら子供がめもりを指さす。
「これっ。見るんじゃありません!」
母親と思しき女が子供を叱り、父親も「そうだぞ」などと言って笑っている。
それを目にした途端、めもりの頭の中に、強烈な言葉が浮かんできた。
うらめしや――。
次の瞬間、めもりはその家族に向けて走り寄っていた。
「な、なんですかあなた!」
家族連れの3人が、いきなり立ちはだかっためもりに目をむいて叫ぶ。
「チュウチュウ」
めもりは静かにつぶやいた。
すると、めもりの背後に黒い空間が渦を巻いて現れた。
そこから、一匹、また一匹、とねずみが飛び出てきたかと思うと、そのねずみはすぐに濁流を成す数となり、家族連れ3人を一瞬のうちに呑み込んでしまった。
「老いの無いこの世界が、心底、うらめしいわ」
めもりはそう言うと、今度は先ほどのカップルに後ろから近づき、やはり先ほどのねずみの大群で瞬く間に呑み込んでしまった。
「あなたたち、知らないでしょう。人は老いると縮むのよ。あらゆる場所にしわが寄って、干からびてゆくの。年々痛みはましていくし、とても苦しいのよ」
めもりの目から涙がこぼれる。
「ああ――、うらめしい――」
そうつぶやくと、めもりは静かにひとり、冬の街に消えていった。




