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六十分の防壁、置き忘れた苗字

 夕暮れのヤードは、鉄骨が冷えて鳴り、風が油の匂いを薄めていた。

 救助任務の提出を終えて戻ると、ベイの奥で――光が、まだ張られていた。


 薄い膜ではない。呼吸のようにゆっくり脈打ち、夜気の中でなお揺らがない厚いヴェイル。

 胸ではなく、腹部の大きなスリットに抱えた石が、心臓みたいに光を吐く。機体も人影も大柄で、曲線が多い。


「……まだ張ってる」

 思わず漏れた声に、影の中から人が振り向いた。


「うん。これで、五十九分半くらい」

 柔らかい声。私より頭ひとつ高い少女だった。頬はふっくら、作業服には粉の白。腹部の石スリットは、私の拳二つ分はある。

「防衛にだけ回せば、六十分は持つよ。動き回るのは苦手だけど」


「三分刻みの私からすれば、別世界です」

「三分? それじゃお粥も炊けないじゃない」

「……比喩が雑です」


 やりとりの間にも、彼女の石は淡く――けれど確実に――減光していく。

 長い。厚い。けれど、削れている。


「自己紹介、まだだね。シーラ・ルクス。南の海沿いの工房上がり。港町の防衛で壁を張ってた」

「ノクト・アッシュ。――こちらは灰色の犬」

「知ってる。三分で帰ってくる子。うちの親方が、あんたのログを見せてくれた」

 シーラは人懐こく笑って、腹部の石を軽く叩いた。金属の枠が低く鳴る。

「私は時間で守る。あんたは設計で守る。――一緒にやれたら、きっと欠けが埋まる」


 胸の奥が、わずかに熱を持った。

 彼女の名札には名字が刻まれている。ルクス。

 私は、苗字を置き忘れている。組合の端末に刻んだ“名”だけで歩いている。


(名は刻んだ。けれど、出自の列は空欄のままだ)



 親方がベイのシャッターを落とした。厚い扉が外界の音を切る。

「密閉。短い再現試験だ。人命優先の枠は変えない。数字で見せろ」


 私とシーラは、それぞれ機体に乗り込む。

 彼女の機体――防壁特化のアストラは、背面に冷却翼が左右二対、腹部の石と合わせて冷却容量が過剰に見える。


《密閉環境:OK/外乱遮断:OK》

《試験:並列 A-ノクト/B-静圧維持シーラ

《安全条件:人側ガード(脈拍+15%)/位相相関±0.5°超で即停止》


「ノクト、合図ちょうだい」

「A-短、開始」


// test::A_short (Noct)

prime(veil, base=35%);

pulse(booster, 0.6s);

rebalance(veil, rear_bias=-0.18);

coolant.trim(5ms);


// test::B_hold (Shela)

prime(veil, base=62%);

lock(veil, perimeter=full);

coolant.loop(dual);

pressure.hold(Δ≤2%/min);


 私の膜が薄く走り、シーラの膜は厚く重なる。

 数列が並ぶ。私の波形は細かく上下し、シーラの波形は一枚岩のように平坦で、代わりに石温の傾きがじわじわ上がる。


《ノクト:位相誤差 0.29°→0.26°/冷却応答 -5.0ms》

《シーラ:静圧偏差 +1.2%/min→+0.9%/min(安定化)/石温 +7.8℃/10min 推定》


「きれいに持つね」私は言う。

「うん。持つ。でも減る」

 シーラの声は穏やかだが、言葉の芯は冷静だった。

「港じゃ、一晩中張りっぱなしのときもあった。朝になると、石のリムに髪の毛みたいな亀裂が一本、増えるの」

 彼女は続ける。

「壁は、守れる。でも“寿命”は、守れないときがある」


 親方が短くうなる。「祀る前に、冷やせ。――それでも、減るもんは減る」

「だから、枠がいる。数字の枠」私は答える。

「うん。あんたに枠を借りたい。私は時間を出す」


《停止合図:A-短→終了/B-静圧→緩降》

 膜が落ちる。沈黙。

 胸の石が、私の呼吸に追従しかけて――私は逆相を入れて静める。



 ギルドの掲示板に、合同のD札が出た。

 近郊の変電塔――魔素の中継塔――の警戒。

 脅威は大きくない。だが、試すには向いている。


 受付嬢は端末を見て、短く頷く。

「ノクト・アッシュ、シーラ・ルクス。合同任務。比重は防衛7:斥候3。

 提出は二様式――“厚く守るログ”と“短く切るログ”。」


「了解。三分の切り方を詰めます」

「六十分の持ち方は任せて」

 彼女の笑いは、湯気みたいに柔らかい。



 塔の基部は、風で鳴っていた。

 私たちは相対する形で陣を敷く。シーラが塔の影を丸ごと包むように膜を張り、私は風下へ小さく回り込む。


time_budget {

セットアップ: 40s(防壁展張/退路確認)

斥候: 20s(風下回り込み)

迎撃: 30s(分断→一点)

再編: 30s(膜の継ぎ足し)

撤退: 60s(安全余白含む)

}


mana_budget {

ノクト: ヴェイル35/推進20/兵装25/冷却20

シーラ: ヴェイル72(固定)/推進10/冷却18

}


《監視:野良ノイジー 4~6/人間の徴発団 0》

(まずは入口を絞る。こちらから誘わない)


 白い影が風の縁でほつれ、塔の足元へ寄る。

 私は薄刃で膝を落とし、HB0.8を一度だけ噴く。安全0.2。

 シーラの膜がそこで受ける。膜の縁で擦過が泡立ち、静かに消える。


《ノクト:HB ×1/位相+0.2°(許容)》

《シーラ:静圧偏差 +1.1%→+0.8%(復元)/石温 +0.6℃》


「受け止め、完了。――ノクト、右下」

「了解。三点」

 関節ピンを三度舐め、形が崩れる瞬間を刃で拾う。

 “短く切る”と“厚く受ける”の往復。

 時間と設計が、初めて同じ線で働いた。


 十分も経たないうちに、塔の足元は静かになった。風が戻り、膜が光を薄める。

 私のHUDに、小さな誤差が残る。

 シーラのログに、細い上向きの線――石温の傾き。


(長く守れる。――けれど、長く削れる)


「帰ろう」私は言う。

「うん。ご飯にしよ」

「……仕事の後に食べる話をするの、強いですね」

「強くないよ。生き物だから。食べたら、また張れる」



 ヤードに戻ると、親方は端末越しにログを受け取り、顎で合図した。

 私は“提出”を押し、公開版の生成を待つ。受付嬢が紙コップを差し出す。

「二人のログ、重ねて見ると死角が消える。良い組み合わせですね」

「寿命の傾きも、見える」私は小さく答える。

 シーラが、腹部の石を両手で抱いた。

「大丈夫。まだ張れる。でも、枠は守る」


 親方がレンチで梁を二度叩いた。

 カン、カン。

 帰還成立。

「置いてきたものは、後でいい。今は冷やせ」

 彼の言い草はいつも変わらない。変わらない言葉は、心拍のように落ち着く。


 私は装甲の縁に指を置く。叩かない。今日は、二人で帰ってきた。

 端末を開き、ポストモーテムに追記する。


postmortem {

編成: ノクト=斥候・切断/シーラ=防壁・静圧

合図: "カン×2" 帰還成立ヤード

枠: 人側ガード(+15%)/位相±0.5°/安全0.2s

観測: シーラ石温 傾き +0.6℃/10min(軽負荷)

結論: "短く切る"×"長く受ける"で死角縮小

課題: 長時間運用時の寿命可視化(閾値と警告音)

}


 保存音が短く鳴る。

 画面の自分の名は、ノクト・アッシュ。苗字の列は空欄のまま。

 シーラの名には、ルクスが揺れている。出自の光。

 胸の奥がざわついた。――羨望か、嫉妬か。言葉の形をまだ持たない何か。


(名は、自分で選んだ。苗字は、まだだ)

(石の寿命も、まだ枠の外だ)


 私は窓を少し開け、深呼吸を手順に落とす。

 風が鉄の匂いを撫で、遠くで梁が二度鳴った。

 灰色の犬は、三分を設計に分割しながら、六十分の防壁と歩調を合わせる練習を始める。


 ――いつか、置き忘れた列を自分の手で埋めるために。

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