Dの札、帰還の「カン、カン」と甘い失敗
朝の霧が工業区の鉄骨に絡みつき、白い息を長く伸ばす。
掲示板の札は夜のうちに入れ替わり、E帯の隣にわずかに背の高い列――D帯が立っていた。
(今日の目標はD昇格任務一本。護衛 or 斥候。三分でも刻めるやつ)
私は札を絞りこむ。脳内の表計算に、札の数字が流し込まれていく。
candidates:
- "回送隊 抑え護衛" : 報酬900 / 片道30km / 遭遇確率 中
- "採掘坑 斥候" : 報酬850 / 片道40km / 視界不良
- "街道ノイジー掃討": 報酬700 / 近距離 / 競合多
score(D用) = 報酬 / (魔力消費 + 競合 + 移動時間)
⇒ 回送隊 抑え護衛(採択)
札を取ると、肩越しに声が落ちる。
「へぇ、石食いの新顔。D帯に手ぇかけるか」
油で黒くなった指先の男はニヤリとする。
「三分で足引っ張るなよ」
「三分で終わらせます」
短く返す。モニタの隅で“舌打ち”と“興味”が混ざった表情の重心を観測――人間はむずかしい。
◆
回送隊の車列は、鉄板を積んだ無骨な台車が三台、前後に二脚のアストラ。
前衛は古参の操機士で、背面に大きく「犬かき」の落書き。後衛が、私とグレイハウンドだ。
「ノクト・アッシュ。三分犬って噂の」
前衛の男は軽口を叩くが、目だけは動きの端を見逃さない。
「こちらラッキョ隊(回送屋の俗称)。遅れても怒らないが、倒れたら置いていく」
「生きて帰る設計で来ました」
男が笑い、通信に砂がまじる。
「なら道中の雑談も設計に入れときな。人間、口が動いてっと緊張が散る」
(雑談……?)
私は“human_budget”に項目を追加する。
human_budget.extend({
small_talk: ["天気", "油の値段", "街道の石畳の割れ目情報"]
})
「――本日の霧は、湿度72%、視程はおよそ……」
「いや天気予報そのまま言うな!」
車列の前から笑いが転がってきて、後ろの荷台でも誰かが吹いた。
私は一拍置き、用意していた別案を出す。
「油、上がりましたね。1リットルあたり、先週比で四%」
「なんでパーセントで殴ってくんのよ!」
運転台の女が肩を震わせて笑った。
――失敗。でも、空気は少し緩んだ。雑談、恐れず再挑戦可。
◆
道中の遭遇は二度。いずれも街道脇のノイジーの小群。
私たちは合図ひとつで呼吸を合わせた。
前衛が遠射で群れの鼻先を散らし、私が短いブーストで一体ずつ分断、膝関節へ三点バースト。
カウントは容赦なく沈む――
《168/141》
(HB 1.2s×1 → 近接一回、追撃禁止)
欲は出さない。深追いは負け筋。
荷台の鈴の音が揺れ、回送屋が「上手いね、三分犬」と軽口をもう一度。
「――灰色の犬で」
「おっと、訂正。灰色の犬」
無線の向こうの笑いは、今度は刺さらない。
復路、車列が工業区の影に入る頃、カウントはまだ二桁残っていた。
(帰ったら昇格申請。そして……組合食堂の“ご褒美”を試す)
◆
ヤードに滑り込み、ハッチが上がる。
夜気が肺に落ちる。梯子を降りる足は、まだ軽く震えていた。
私は装甲の縁に指をそっと乗せる。
カン、カン。
薄い金属音がヤードに溶けた。
親方が振り向く。「……通ったな」
レンチの柄で、一拍遅れてカン、カンと返す。
計器のランプが二度瞬き、HUDに注釈が流れる。
[POSTRUN] ritual_tap=2 // acknowledged
[COOLDOWN] veil_phase_drift: -0.1° (within tol)
[OPSTATE] operator_calm: restored=true
[UPDATE] actuator.right_arm → salvage_type-B (回収品換装)
[NOTE] 出力 +10%/反動吸収 -3%/射撃精度↓
「祈るなら外でだ。ここじゃ叩け。冷やす前に測れ」
親方はぶっきらぼうに言いながら、胸に温度ラベル。
私はうなずき、叩かない――二度で終わり。帰還の合図は過不足なし。
「取り決め、もう一個増やすぞ」
親方は指を三本立てる。
「三回叩いたらSOSだ。お前も全部止めて、喋れ。俺はどこにいようが走ってくる」
「了解。三回はSOS」
分かりやすい、この世界の共通項と同じだ。
ヤードの隅で、受付嬢が紙コップを掲げ、小さく真似する。
カン、カン。
笑いをこらえ、受け取る。一口。苦い。
「ログ保存。親方、D帯一本、完遂です」
「ならさっさと上に申請して、飯食ってこい。顔が砂噛んでる」
◆
組合の食堂は、鉄とスパイスの匂いで満ちていた。
メニュー板には、読み慣れない名が並ぶ。
黒煮込み(油多/辛)
灰パン(硬)
祝皿・勝ち汁(甘辛)
砂糖スープ(組合割)
(勝ち汁……? 勝利後限定、糖質と塩分、たぶん回復食。コスパ良)
「勝ち汁ひとつ。あと灰パン」
配膳口の大鍋から、茶色い液体がよそわれる。甘い匂い、奥に辛い刺。
一口――
「……あま……から……甘辛すぎ」
舌が混乱している。糖と油がフルスロットルで殴ってくる。
横で配膳の姐さんが笑う。
「初勝ち汁かい。あんた細いから、半分でいいよ。残りは砂糖スープ足しときな」
「スープに砂糖……?」
「砂糖スープだって言ってんだろ」
周囲で笑いが起こる。私は真面目に頷く。
(補給は計画的に。……でもこれは計画外の味)
灰パンをちぎって浸す。歯が折れそう――いや折れない、ただ硬い。
受付嬢がトレイを持って隣に座る。
「D帯、おめでとう。歩き続けられる人でありますように」
声は相変わらず冷たいのに、言葉がやさしい。
「ありがとうございます。ところで、その……砂糖スープの最適温度は」
「聞かない」
あっさり切られたが、口元だけが笑っていた。
◆
食後、申請端末に戦闘ログを流し込み、審査の砂時計を見守る。
数分後、端末が短い音を鳴らす。
《昇格判定:D- 操機士:ノクト・アッシュ》
拍手はない。けれど私は、胸の内でカン、カンと叩いた。
(報酬が増える――ご褒美……いや、“栄養設計”の幅が広がる)
席を立とうとしたとき、回送屋の運転台の女が隣の椅子に腰を落とした。
「さっきの雑談、悪くなかったよ」
「本当ですか」
「うそ。天気の湿度を言う女は初めて見た」
くっと肩を震わせて笑うと、指で空を差す。
「でもさ、湿ってる日は、ブーツ紐を短めにする話でもいいの。みんなで“へぇ”って言えるやつ」
「“へぇ”の収集……なるほど」
「そう。人は『へぇ』で繋がる」
私はメモを取りたい衝動を抑えた。頭の中の“human_budget”に一行追加する。
small_talk.hook = "へぇ"
◆
夜、ヤードに戻る。
親方はベイでグレイハウンドの足回りを外しながら、顎だけこちらへ。
「昇格、おめでとさん。顔が砂糖でベタベタしてる」
「勝ち汁が、甘辛過ぎました」
「勝ったら何でもうまい、は嘘だからな」
親方はレンチで装甲を指す。
「出撃前、一回。帰ってきたら二回。三回は呼べ。で、食堂は砂糖スープは薄めろ」
「そこも取り決めなんですか」
「いいや俺の流儀」
ぶっきらぼうな笑いが、鉄の梁に引っかかる。
私は装甲の縁をもう一度撫でる。
――叩かない。二度で終わった儀式は、今日のぶんをきちんと閉じた。
◆
貸し間の机で、端末を開く。
“mission_postmortem.md”に追記。
# D帯 初回
- convoy: success / encounters: 2 / no deep-chase
- ritual: "カン、カン" (OK) ; rule added: 3 taps = SOS
- human_smalltalk: 失敗→改善 ("へぇ"フック有効)
- nutrition: 勝ち汁=糖脂過負荷 ; 砂糖スープ希釈推奨
窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
机の隅の魔力石が、心拍に合わせるみたいに一度だけ明滅した。
私は触れない。祀る前に、冷やせ。数字に戻せ。
短いスクリプトを呼び出し、今夜の微細充填を開始する。
// mana::recharge(night_run, gentle=true)
while (env.motes() > MIN) {
harvest(env.take(δ), stone.buffer);
normalize(stone.buffer);
repair_fragments(stone.matrix);
commit(stone.core);
}
「……歩き続ける。明日も」
声に出すと、石が淡くカン、カンとでも言うみたいに、二度だけ光った気がした。




