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Dの札、帰還の「カン、カン」と甘い失敗

 朝の霧が工業区の鉄骨に絡みつき、白い息を長く伸ばす。

 掲示板の札は夜のうちに入れ替わり、E帯の隣にわずかに背の高い列――D帯が立っていた。


(今日の目標はD昇格任務一本。護衛 or 斥候。三分でも刻めるやつ)


 私は札を絞りこむ。脳内の表計算に、札の数字が流し込まれていく。


candidates:

- "回送隊 抑え護衛" : 報酬900 / 片道30km / 遭遇確率 中

- "採掘坑 斥候" : 報酬850 / 片道40km / 視界不良

- "街道ノイジー掃討": 報酬700 / 近距離 / 競合多

score(D用) = 報酬 / (魔力消費 + 競合 + 移動時間)

⇒ 回送隊 抑え護衛(採択)



 札を取ると、肩越しに声が落ちる。

「へぇ、石食いの新顔。D帯に手ぇかけるか」

 油で黒くなった指先の男はニヤリとする。

「三分で足引っ張るなよ」

「三分で終わらせます」

 短く返す。モニタの隅で“舌打ち”と“興味”が混ざった表情の重心を観測――人間はむずかしい。



 回送隊の車列は、鉄板を積んだ無骨な台車が三台、前後に二脚のアストラ。

 前衛は古参の操機士で、背面に大きく「犬かき」の落書き。後衛が、私とグレイハウンドだ。


「ノクト・アッシュ。三分犬さんぷんけんって噂の」

 前衛の男は軽口を叩くが、目だけは動きの端を見逃さない。

「こちらラッキョ隊(回送屋の俗称)。遅れても怒らないが、倒れたら置いていく」

「生きて帰る設計で来ました」


 男が笑い、通信に砂がまじる。

「なら道中の雑談も設計に入れときな。人間、口が動いてっと緊張が散る」


(雑談……?)


 私は“human_budget”に項目を追加する。


human_budget.extend({

small_talk: ["天気", "油の値段", "街道の石畳の割れ目情報"]

})



「――本日の霧は、湿度72%、視程はおよそ……」

「いや天気予報そのまま言うな!」

 車列の前から笑いが転がってきて、後ろの荷台でも誰かが吹いた。

 私は一拍置き、用意していた別案を出す。

「油、上がりましたね。1リットルあたり、先週比で四%」

「なんでパーセントで殴ってくんのよ!」

 運転台の女が肩を震わせて笑った。

 ――失敗。でも、空気は少し緩んだ。雑談、恐れず再挑戦可。



 道中の遭遇は二度。いずれも街道脇のノイジーの小群。

 私たちは合図ひとつで呼吸を合わせた。

 前衛が遠射で群れの鼻先を散らし、私が短いブーストで一体ずつ分断、膝関節へ三点バースト。

 カウントは容赦なく沈む――


《168/141》

(HB 1.2s×1 → 近接一回、追撃禁止)


 欲は出さない。深追いは負け筋。

 荷台の鈴の音が揺れ、回送屋が「上手いね、三分犬」と軽口をもう一度。

「――灰色の犬で」

「おっと、訂正。灰色の犬」

 無線の向こうの笑いは、今度は刺さらない。


 復路、車列が工業区の影に入る頃、カウントはまだ二桁残っていた。

(帰ったら昇格申請。そして……組合食堂の“ご褒美”を試す)



 ヤードに滑り込み、ハッチが上がる。

 夜気が肺に落ちる。梯子を降りる足は、まだ軽く震えていた。

 私は装甲の縁に指をそっと乗せる。

 カン、カン。

 薄い金属音がヤードに溶けた。


 親方が振り向く。「……通ったな」

 レンチの柄で、一拍遅れてカン、カンと返す。

 計器のランプが二度瞬き、HUDに注釈が流れる。


[POSTRUN] ritual_tap=2 // acknowledged

[COOLDOWN] veil_phase_drift: -0.1° (within tol)

[OPSTATE] operator_calm: restored=true


[UPDATE] actuator.right_arm → salvage_type-B (回収品換装)

[NOTE] 出力 +10%/反動吸収 -3%/射撃精度↓


「祈るなら外でだ。ここじゃ叩け。冷やす前に測れ」


 親方はぶっきらぼうに言いながら、胸に温度ラベル。

 私はうなずき、叩かない――二度で終わり。帰還の合図は過不足なし。


「取り決め、もう一個増やすぞ」


 親方は指を三本立てる。


「三回叩いたらSOSだ。お前も全部止めて、喋れ。俺はどこにいようが走ってくる」

「了解。三回はSOS」


 分かりやすい、この世界の共通項と同じだ。

 ヤードの隅で、受付嬢が紙コップを掲げ、小さく真似する。

 カン、カン。

 笑いをこらえ、受け取る。一口。苦い。

「ログ保存。親方、D帯一本、完遂です」

「ならさっさと上に申請して、飯食ってこい。顔が砂噛んでる」



 組合の食堂は、鉄とスパイスの匂いで満ちていた。

 メニュー板には、読み慣れない名が並ぶ。


黒煮込み(油多/辛)


灰パン(硬)


祝皿・勝ち汁(甘辛)


砂糖スープ(組合割)


(勝ち汁……? 勝利後限定、糖質と塩分、たぶん回復食。コスパ良)


「勝ち汁ひとつ。あと灰パン」

 配膳口の大鍋から、茶色い液体がよそわれる。甘い匂い、奥に辛い刺。

 一口――


「……あま……から……甘辛すぎ」

 舌が混乱している。糖と油がフルスロットルで殴ってくる。

 横で配膳の姐さんが笑う。

「初勝ち汁かい。あんた細いから、半分でいいよ。残りは砂糖スープ足しときな」

「スープに砂糖……?」

「砂糖スープだって言ってんだろ」

 周囲で笑いが起こる。私は真面目に頷く。


(補給は計画的に。……でもこれは計画外の味)


 灰パンをちぎって浸す。歯が折れそう――いや折れない、ただ硬い。

 受付嬢がトレイを持って隣に座る。

「D帯、おめでとう。歩き続けられる人でありますように」

 声は相変わらず冷たいのに、言葉がやさしい。

「ありがとうございます。ところで、その……砂糖スープの最適温度は」

「聞かない」

 あっさり切られたが、口元だけが笑っていた。



 食後、申請端末に戦闘ログを流し込み、審査の砂時計を見守る。

 数分後、端末が短い音を鳴らす。

《昇格判定:D- 操機士:ノクト・アッシュ》

 拍手はない。けれど私は、胸の内でカン、カンと叩いた。


(報酬が増える――ご褒美……いや、“栄養設計”の幅が広がる)


 席を立とうとしたとき、回送屋の運転台の女が隣の椅子に腰を落とした。

「さっきの雑談、悪くなかったよ」

「本当ですか」

「うそ。天気の湿度を言う女は初めて見た」

 くっと肩を震わせて笑うと、指で空を差す。

「でもさ、湿ってる日は、ブーツ紐を短めにする話でもいいの。みんなで“へぇ”って言えるやつ」

「“へぇ”の収集……なるほど」

「そう。人は『へぇ』で繋がる」

 私はメモを取りたい衝動を抑えた。頭の中の“human_budget”に一行追加する。


small_talk.hook = "へぇ"




 夜、ヤードに戻る。

 親方はベイでグレイハウンドの足回りを外しながら、顎だけこちらへ。

「昇格、おめでとさん。顔が砂糖でベタベタしてる」

「勝ち汁が、甘辛過ぎました」

「勝ったら何でもうまい、は嘘だからな」

 親方はレンチで装甲を指す。

「出撃前、一回。帰ってきたら二回。三回は呼べ。で、食堂は砂糖スープは薄めろ」

「そこも取り決めなんですか」

「いいや俺の流儀」

 ぶっきらぼうな笑いが、鉄の梁に引っかかる。


 私は装甲の縁をもう一度撫でる。

 ――叩かない。二度で終わった儀式は、今日のぶんをきちんと閉じた。



 貸し間の机で、端末を開く。

 “mission_postmortem.md”に追記。


# D帯 初回

- convoy: success / encounters: 2 / no deep-chase

- ritual: "カン、カン" (OK) ; rule added: 3 taps = SOS

- human_smalltalk: 失敗→改善 ("へぇ"フック有効)

- nutrition: 勝ち汁=糖脂過負荷 ; 砂糖スープ希釈推奨



 窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。

 机の隅の魔力石が、心拍に合わせるみたいに一度だけ明滅した。

 私は触れない。祀る前に、冷やせ。数字に戻せ。

 短いスクリプトを呼び出し、今夜の微細充填を開始する。


// mana::recharge(night_run, gentle=true)

while (env.motes() > MIN) {

harvest(env.take(δ), stone.buffer);

normalize(stone.buffer);

repair_fragments(stone.matrix);

commit(stone.core);

}



「……歩き続ける。明日も」

 声に出すと、石が淡くカン、カンとでも言うみたいに、二度だけ光った気がした。

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