路地の設計図、三分の逃走
報酬の紙片は薄い。だが、薄い紙でも街の匂いを変える。
夕刻の工業区は人の熱でやわらかく、オイルの蒸気にパンの匂いが混じる時間帯だった。
私は掲示板の「完了」スタンプを横目に、受付で受領印をもらうと、ポケットの内側に封筒を縫い付け直して外へ出た。
(帰路はB経路。人通りが多く、退避扉が三枚。――“人混みは最高の装甲”)
木の葉を隠すなら森の中、をこの世界風に言い換えた言葉だ。
昨日の夜に描いた退路マップが頭の中で展開する。Aは最短だが薄暗い。Cは広いが見通しが良すぎる。今日はB。
私は歩幅を一定に、視線はやや下。誰にも“捕まえやすい目”を渡さない。
角を一つ曲がったところで、嫌な静けさに気づいた。
昼間なら配達人の手押し車がぎっしり詰まるはずの路地が、妙に空いている。
路肩の魔素灯が二つ、同時に明滅している。偶然とは思えないタイミング。
(――マナライン、抜かれてる)
遅かった。路地の出口側、三人の影。正面の男は、作業着の上から灰色の布帯を巻いていた。工業区で“灰帯”と言えば、設備の窃盗や横流しで食っている連中の合図だ。
「お嬢ちゃん、石食いだってな。新顔は挨拶が先だ」
「登録税、知らねえわけじゃねぇよな」
声は柔らかい。けれど、足の位置が柔らかくない。逃げ道を塞ぐ動きだ。
私は足を止めない。歩きながら距離と壁の材質、扉の蝶番の方向、魔素灯の位置を取る。
(time_budget:会話 30s/退避扉解錠 10s/群集へ合流 40s。――超過時は“煙”)
返答は短く、情報だけを返す。
「組合に納める分は、もう納めました。そちらへ納める予定はありません」
左右の二人が笑い、中央の灰帯が一歩だけ踏み出す。
笑いに混じる焦りのリズムは、耳で拾えた。こいつら、時間を急いでいる。夜の見回りが来る前に終わらせたい。
「組合は“名目”。ここは俺たちの縄張りだ。通行料と、噂だ。お前の石、変な噂が出てる。――“死に石が走る”ってな」
喉が鳴る。背筋を汗が伝う。
親方が言っていた。“噂は外に出すな”。出てる。どこから?
「……噂話に払う金は持っていません。道を開けてください」
「金の話は後でいい。端末を見せろ。お前のやり口を記録しておけば、あとが楽だ」
(目的は金じゃない。データだ。――危険度上昇)
私は足をさらに緩める。時間を使わせる。
必死に冷静さを求める頭の中で、スクリプトを一本だけ準備した。
// street::smoke_pop
if (lamp.mana < SAFE) { fill(my.sachet, flare_dust); }
break_glass(lamp.housing);
dump(sachet, lamp.conduit);
overload(lamp.core, Δ=small);
(魔素灯を小さく噴かせる。火災ではない。煙と音だけ。――群集を呼ぶ)
灰帯が顔を近づける。近い。皮膚の毛穴で呼気の湿り気がわかる距離。
私は目を合わさない。視線は彼の喉元、手の動きだけを見る。腰の位置。右手の指。ナイフはまだ見えない。けれど、取り出せる位置にいる。
「なぁ、お嬢ちゃん。俺らは“守って”やってんだ。通りたいなら、通行料を――」
割り込む。
「――“祀る前に、冷やせ”。覚えてますか」
灰帯の眉がひくりと動く。「は?」
「工業区のことわざです。神様みたいに扱う前に、まず冷やせ。――先に数字、先に安全、先に冷却」
私は一歩引き、壁際の魔素灯に左手を伸ばした。
ガラスを指先で割る。同時に袋を押し込む。白い粉。乾いた閃音が路地に弾け、灰色の煙がもくもくと上がった。
驚きの一拍。
私は躊躇しない。灰帯の膝の外側を踏む。体重は軽いけれど、角度が正しければ関節は逃げる。
男の体がわずかに沈む。その肩を押し、私は退避扉へ滑り込む。扉の蝶番は内側――押す、ではなく引く。
(解錠 10s → 7s。――OK)
内側からかんぬきを外し、身体をすべり込ませる。後ろで誰かが怒鳴った。「捕まえろ!」
扉を閉めず、開けたまま走る。追うなら扉を押し開けに来る。蝶番の向きが逆で、一拍遅れる。
向こう側は、クリーニング屋の裏通路。吊り下げられた洗濯物が風で揺れる。
私は洗濯物の列の中へ飛び込み、匂いをまとって姿を消す。布の海。足音が布で吸われ、音響が乱反射する。
(退路B-2に移行。人通りの多い通りへ。――群集に合流)
路地の出口で、私の仕掛けた煙に咳き込む声。
表通りへ出る一歩手前、私は背の高い作業員二人の背中を盾に使い、速度を落とす。走ると目立つ。歩け。
通りの向こうに、夜回りの赤い腕章。こちらへは気づいていない。
私はポケットから小さな笛を出す。音は短く三回。この地区の合図だ。通りの端で腕章がこちらを向く。目が合う。私は軽く首を振り、煙の上がる路地を指さす。
夜回り二人が走る。灰帯たちが引く。人の群れは刃より速い。
(逃走成立)
私は角を二つ曲がり、A経路の後半に合流する。歩幅は一定。心拍はまだ速い。
脳が熱い。身体強化の魔法は使っていないのに、最後の直線で視界の端が暗くなる。恐怖の反射で呼吸が乱れたのだ。
(一拍吸って――二拍吐く)
ヤードの鉄骨が見えたとき、膝が一度だけ笑った。
門をくぐると、親方がこちらを見ていた。レンチを肩に担ぎ、目だけが冷たい。
「遅かったな」
「帰り道で、人間のノイジーに絡まれました」
親方の眉がわずかに動いた。「誰だ」
「灰帯。装備は刃物と、たぶん鈍器。三人。データを求められました」
親方の肩の筋肉が固くなる。レンチのグリップが少しだけ軋む音。
彼は門を閉め、内側から鍵をかけた。
「座れ」
私は工具の箱に腰を掛ける。鉄の冷たさがふくらはぎから背骨へ登る。
親方は作業台の引き出しから布包みを一つ出し、私の前に置いた。開くと、中には小型の警笛と、三つの金属タグ。
「タグはヤードの裏扉用の鍵だ。B経路、C経路、緊急の屋根経路。笛は夜回り呼び寄せ用。音は短く三回。――やったな」
「使いました。三回」
「よし。……“噂”は、もう出てる。どこからかは詮索しねぇ。ただ、外では祀るな。お前の石は神様じゃない。手順だけを見せろ。数字で話せ。中身はここに置け」
私は頷いた。喉が乾いて、声が砂みたいだ。
「親方、もし――もし彼らがここに来たら?」
親方は肩で笑った。音が低い。
「屋根の下に入ったものは、俺の工具で守る。外で捕まったら、お前の設計で戻ってこい。今日みてえにな」
レンチの柄で、装甲を二度、軽く叩く。金属音の余韻が背中を温めた。
「ことわざを教えてやる。――“鍵は前夜に回せ”。
出る前に、退路と鍵と合図を回せ。出てから探すな」
私は息を吐いた。笑えた。
親方はもう一つ、布包みを出した。厚手の上着。内側に細いポケットが縫い付けてある。
「封筒を縫い付ける癖は悪くねぇが、目立つ。これ使え。縫い目が外から見えねぇ」
「ありがとうございます」
「礼はいらねぇ。明日、密閉ベイで再現試験を一本。――それと、組合にも一応、路地の電源抜きの件を流しとけ。夜回りの腕章は味方にしとくに限る」
私は立ち上がり、タグを三つ並べる。B、C、屋根。
親方が指でBを弾く。「今日は当たりだ」
「計算しましたから」
「おう。歩き続けろ」
◆
貸し間に戻って、古い端末を開く。机の端で、今日使った煙の粉を補充する。
手元がわずかに震えている。遅れて来る恐怖は、熱の形をしている。
「怖かった。怖かったよ」
自分の声が震えている。
前世の分の経験があるとは言え、まだこの世界で過ごした時間は短い。
私は、しばらく声を殺して泣きじゃくった。
(……人間は、石より不確実。だから手順に落とす)
気を取り直して、人間用のtime_budgetを新規作成する。
human_budget {
話法: 短文・情報のみ(挑発不可)
視線: 手→腰→出口(目を合わせない)
扉: 蝶番向き確認→開放保持→通過
合図: 笛(短3)→腕章誘導→群集合流
失敗時: 煙→膝外→扉B-2→屋根経路
}
(深追いしない。祀らない。歩き続ける)
窓を少し開ける。夜気が肺に刺さる。
机の上の石が、小さく一度だけ明滅した。
私は石に触れない。祀る前に、冷やせ。数字に戻れ。
端末に短いスクリプトを呼び出し、再現試験の手順を箇条書きにする。明日、親方に見せるために。
外で誰かの笑い声がして、遠くで笛が短く三回鳴った。
灰色の犬の操機士は、機体の外でも、三分の設計図で歩く練習を始めていた。




