灰色への移行
朝の霧が工業区を薄く覆い、ヤードの鉄骨を白い息で縫っていた。
私は古い作業服に袖を通す。組合の識別章は、机の引き出しに仕舞った。今日からは、つけない。
灰色外套として歩くなら、制度の印は邪魔になる。
端末を開く。昨夜、親方から送られてきた集合場所の座標。組合の地図には載っていない、工業区の外れ。
私は深呼吸する。一拍吸って、二拍吐く。
(今日から、制度の外だ)
◆
集合場所は、古い採掘路の入口だった。
霧が深い。正規部隊の白い機体が、遠くに整列している。彼らの識別信号が、HUDに規則正しく並ぶ。
私の信号は、そこにない。
仲介人が現れた。四十代くらいの男。顔に傷、目だけが異様に鋭い。
「灰色外套か。初回だな」
「はい」
「名前は訊かねぇ。札も見せなくていい。生きて帰れば、報酬を払う」
彼は粗い地図を広げる。
「指令は簡単だ。ノイジーを引きつけろ。撃つな。逃げろ。生きて帰れ」
撃つな。火器使用制限。囮は、攻撃してはならない。正規部隊の功績を奪わないために。
「了解」
仲介人は地図を畳む。
「報酬は正規札の三分の一。危険手当はなし。死んでも補償はなし」
彼は私を見る。
「それでも、やるか」
「やります」
仲介人は短く笑った。
「いい目をしてる。死にたくない目だ。――行け」
◆
私は採掘路へ入る。薄暗い坑道。鉄骨が複雑に絡み合い、退路が読みにくい。
《戦闘モード起動――稼働限界:180》
すぐに、ノイジーの気配を感じた。白い影が、四、五体。私のヴェイルの薄さに気づき、貪欲に追従してくる。
私は逃げる。HB0.8で短く噴き、退路を選ぶ。
でも――計算が合わない。正規部隊の動きが、私の予測より遅い。彼らは慎重に進んでいる。私が敵を引きつけるのを待っている。
私は、もっと長く逃げ続けなければならない。
《142》
ノイジーの追従が激しくなる。私のヴェイルに、白い爪が掠める。
《ヴェイル:-8%/石温:+3.2℃》
(撃ちたい)
(でも、撃てない)
火器使用制限。囮の条件だ。私は必死に逃げる。梁の影、岩の陰、細い通路。
《118》
正規部隊がようやく動き始める。彼らは、私が作った空白地帯を静かに前進していく。
私の功績は、記録されない。私の名は、残らない。でも――
《敵追従角:+12.3°/位相歪み:-0.4°/連携パターン:3-2-1》
計測は、残る。私だけの、真実の記録。
◆
その時、前方の退路が塞がれているのに気づいた。崩落した鉄骨。地図にはなかった障害物。
(後退――)
振り返る。背後にノイジーの群れ。前も後ろも、塞がれている。
《96》
心拍が跳ね上がる。石が、私の恐怖に追従しかける。過出力の兆候。
(駄目だ、暴走するな)
私は逆相を入れる。石を静める。でも、それでは退路が開かない。
《82》
ノイジーの爪が、ヴェイルに深く食い込む。
《ヴェイル:-18%/石温:+5.8℃》
(死ぬ――)
その瞬間、石が勝手に動いた。私の入力より先に、HBが噴く。機体が横に跳ねる。
崩落した鉄骨の、わずかな隙間。石が、そこを見つけた。
《警告:石出力先行 0.39s/操機士入力:検出されず》
(またか――!)
私は反射的に操縦桿を倒す。でも、今回は――石の判断が、正しかった。
機体が滑り込む。狭い。装甲が軋む。でも、通れた。
《62》
ノイジーの群れが、狭い隙間で詰まる。私は全速で逃げる。
正規部隊の白い機体が、ようやく動き始める。彼らは、私が作った空白地帯を静かに前進していく。
私は、ぎりぎりで生き延びた。
◆
任務後、私は震える手で端末を握りしめていた。
《戦闘モード:残り48秒》
あと48秒で、魔力が尽きていた。
仲介人が報酬を渡す。薄い紙幣の束。
「よくやった。灰色外套としては、上出来だ」
上出来。でも、私は死にかけた。そして――石に、救われた。
「次の任務は?」
「三日後だ。また連絡する」
私は報酬の紙幣を握る。正規札の三分の一。この金額で、私は命を賭けた。
/personal/grey_cloak_log.md
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mission_01: 囮任務
- 火器使用制限
- 石先行挙動 0.39s → 隙間発見 → 生還
- 報酬:正規札の1/3
- 記録:なし(灰色は記録されない)
observation:
石が、私より先に退路を見つけた。
0.41秒が0.39秒になった?
それとも、状況によって変動する?
結論:
石に救われた。
でも、これは制御なのか、依存なのか。
まだ、わからない。
◆
ヤードに戻ると、親方が待っていた。
「生きて帰ったな」
私は頷く。
「……はい」
「顔色が悪い。何があった」
私は端末を見せる。残り48秒のログ。そして、石の先行挙動のログ。
《石先行挙動:0.39s/結果:生還》
親方は短く息を吐く。
「また、石が先に動いたか」
「はい。今回は……正しかった」
私は言葉を探す。
「石が隙間を見つけました。私より先に」
「それで、生きて帰れた」
「はい」
親方はレンチで梁を軽く叩く。
カン、カン。
「前は暴走した。今回は救われた」
彼は私を見る。
「石の学習は、制御不能じゃねぇ。不安定なだけだ」
「……はい」
親方は続ける。
「0.41秒が0.39秒になった」
「いえ」
私は端末を確認する。
「0.39秒は、今回だけです。でも――」
別のログを開く。昨夜、貸し間で記録した石の明滅。
《石の脈動:心拍より0.42秒先行(推定)》
「加速は、止まってません」
親方はレンチで梁を叩く。
カン、カン。
「だが、帰ってきた。それが全てだ」
私は頷く。帰ってきた。でも、この先も、こんな任務が続く。札がなければ、生きられない。灰色任務でしか、稼げない。
(これが、制度の外で生きるということ)
◆
食堂へ向かう途中、シーラとすれ違った。
彼女は私を見て、一瞬だけ立ち止まる。
「……ノクト」
「シーラさん」
気まずい沈黙。
シーラが口を開く。
「灰色任務、やったんだって」
「……はい」
「生きて帰れた」
「はい」
シーラは小さく息を吐く。
「よかった」
その言葉が、わずかに温かい。
「でも――」
彼女は続ける。
「これからも、そんな任務が続くんだよ。火器使用制限、囮、残骸処理」
「わかってます」
「ノクト、まだ石を交換すれば――」
「交換しません」
私は即答する。
「今日、石に救われました。0.39秒の先読みで、隙間を見つけてくれました」
シーラの表情が、わずかに歪む。
「それは……」
「依存、ですか」
私は先に言う。
「はい。そうかもしれません。でも、生きて帰れました」
シーラは何も言えない。
私は続ける。
「シーラさんは正しいです。石の加速は止まらない。いつか、制御が追いつかなくなる」
私は彼女を見る。
「でも、今日は間に合いました。だから、明日も、この石で歩きます」
シーラは小さく頷く。
「……そう」
彼女は去ろうとして、立ち止まる。
「気をつけて。灰色任務の生存率、知ってる?」
「知りません」
「五回任務で、三人に一人が死傷する」
その言葉が、胸に刺さる。
「……ありがとうございます」
シーラは去っていく。私は、彼女の背中を見送る。
/personal/reflection.log
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シーラとの会話:
- 「よかった」という言葉
- でも、完全に戻ることはない
- 彼女は、まだ心配してくれている
生存率:
五回任務で、三人に一人が死傷。
私は一回目を生き延びた。
あと四回。
石の先読み:
0.41秒 → 0.39秒(任務中)
0.42秒(推定・貸し間)
不安定。
でも、今日は救われた。
明日も、救われる保証はない。
◆
その夜、貸し間の机で端末を開く。
stone_behavior_analysis:
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任務17-35: 先行挙動、主に成功(0.18s-0.37s)
任務38: 先行挙動、成功(0.41s / 赤黒戦)
任務39: 先行挙動、成功(0.39s / 灰色任務)
推定: 0.42s(貸し間での観測)
observation:
加速傾向は継続
でも、任務38→39で減速(0.41s→0.39s)
状況依存? それとも誤差?
0.42秒の推定は信頼性低
conclusion:
石の学習は不安定。
状況によって、救いにも呪いにもなる。
制御が必要。
でも、完全な制御は不可能。
question:
石を信じるべきか。
それとも、制御すべきか。
監査官の警告は正しい。
でも、この石がなければ、今日は死んでいた。
answer:
わからない。
ただ、この石で歩き続ける。
それが、私の選択だ。
保存音が短く鳴る。
窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
遠くで梁が二度鳴った。
カン、カン。
誰かの帰還音。私にも、まだ聞こえる。
胸スリットの石が、一度だけ明滅した。
私の心拍より――
《推定:0.43秒先行》
昨夜より、0.01秒早い。加速は、止まらない。
監査官の言葉が、頭をよぎる。
「いつまで?」
答えは、出ない。
でも、今日は生きて帰れた。
それで、十分だ。
灰色の犬は、制度の外で、走り始めた。石の暴走と救済の狭間で。
誰も認めなくても、記録されなくても、私のログは残る。
石の「欠陥」が、真実の証人になる。
明日も、この石で歩く。
生存率を、覆すために。




