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灰色への移行

 朝の霧が工業区を薄く覆い、ヤードの鉄骨を白い息で縫っていた。

 私は古い作業服に袖を通す。組合の識別章は、机の引き出しに仕舞った。今日からは、つけない。

 灰色外套として歩くなら、制度の印は邪魔になる。


 端末を開く。昨夜、親方から送られてきた集合場所の座標。組合の地図には載っていない、工業区の外れ。

 私は深呼吸する。一拍吸って、二拍吐く。


(今日から、制度の外だ)



 集合場所は、古い採掘路の入口だった。

 霧が深い。正規部隊の白い機体が、遠くに整列している。彼らの識別信号が、HUDに規則正しく並ぶ。

 私の信号は、そこにない。


 仲介人が現れた。四十代くらいの男。顔に傷、目だけが異様に鋭い。


「灰色外套か。初回だな」

「はい」

「名前は訊かねぇ。札も見せなくていい。生きて帰れば、報酬を払う」


 彼は粗い地図を広げる。


「指令は簡単だ。ノイジーを引きつけろ。撃つな。逃げろ。生きて帰れ」


 撃つな。火器使用制限。囮は、攻撃してはならない。正規部隊の功績を奪わないために。


「了解」


 仲介人は地図を畳む。


「報酬は正規札の三分の一。危険手当はなし。死んでも補償はなし」


 彼は私を見る。


「それでも、やるか」

「やります」


 仲介人は短く笑った。


「いい目をしてる。死にたくない目だ。――行け」



 私は採掘路へ入る。薄暗い坑道。鉄骨が複雑に絡み合い、退路が読みにくい。


《戦闘モード起動――稼働限界:180》


 すぐに、ノイジーの気配を感じた。白い影が、四、五体。私のヴェイルの薄さに気づき、貪欲に追従してくる。

 私は逃げる。HB0.8で短く噴き、退路を選ぶ。


 でも――計算が合わない。正規部隊の動きが、私の予測より遅い。彼らは慎重に進んでいる。私が敵を引きつけるのを待っている。

 私は、もっと長く逃げ続けなければならない。


《142》


 ノイジーの追従が激しくなる。私のヴェイルに、白い爪が掠める。


《ヴェイル:-8%/石温:+3.2℃》


(撃ちたい)

(でも、撃てない)


 火器使用制限。囮の条件だ。私は必死に逃げる。梁の影、岩の陰、細い通路。


《118》


 正規部隊がようやく動き始める。彼らは、私が作った空白地帯を静かに前進していく。

 私の功績は、記録されない。私の名は、残らない。でも――


《敵追従角:+12.3°/位相歪み:-0.4°/連携パターン:3-2-1》


 計測は、残る。私だけの、真実の記録。



 その時、前方の退路が塞がれているのに気づいた。崩落した鉄骨。地図にはなかった障害物。


(後退――)


 振り返る。背後にノイジーの群れ。前も後ろも、塞がれている。


《96》


 心拍が跳ね上がる。石が、私の恐怖に追従しかける。過出力の兆候。


(駄目だ、暴走するな)


 私は逆相を入れる。石を静める。でも、それでは退路が開かない。


《82》


 ノイジーの爪が、ヴェイルに深く食い込む。


《ヴェイル:-18%/石温:+5.8℃》


(死ぬ――)


 その瞬間、石が勝手に動いた。私の入力より先に、HBが噴く。機体が横に跳ねる。

 崩落した鉄骨の、わずかな隙間。石が、そこを見つけた。


《警告:石出力先行 0.39s/操機士入力:検出されず》


(またか――!)


 私は反射的に操縦桿を倒す。でも、今回は――石の判断が、正しかった。

 機体が滑り込む。狭い。装甲が軋む。でも、通れた。


《62》


 ノイジーの群れが、狭い隙間で詰まる。私は全速で逃げる。

 正規部隊の白い機体が、ようやく動き始める。彼らは、私が作った空白地帯を静かに前進していく。

 私は、ぎりぎりで生き延びた。



 任務後、私は震える手で端末を握りしめていた。


《戦闘モード:残り48秒》


 あと48秒で、魔力が尽きていた。

 仲介人が報酬を渡す。薄い紙幣の束。


「よくやった。灰色外套としては、上出来だ」


 上出来。でも、私は死にかけた。そして――石に、救われた。


「次の任務は?」

「三日後だ。また連絡する」


 私は報酬の紙幣を握る。正規札の三分の一。この金額で、私は命を賭けた。


/personal/grey_cloak_log.md

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


mission_01: 囮任務

- 火器使用制限

- 石先行挙動 0.39s → 隙間発見 → 生還

- 報酬:正規札の1/3

- 記録:なし(灰色は記録されない)


observation:

石が、私より先に退路を見つけた。

0.41秒が0.39秒になった?

それとも、状況によって変動する?


結論:

石に救われた。

でも、これは制御なのか、依存なのか。

まだ、わからない。



 ヤードに戻ると、親方が待っていた。


「生きて帰ったな」


 私は頷く。


「……はい」


「顔色が悪い。何があった」


 私は端末を見せる。残り48秒のログ。そして、石の先行挙動のログ。


《石先行挙動:0.39s/結果:生還》


 親方は短く息を吐く。


「また、石が先に動いたか」

「はい。今回は……正しかった」


 私は言葉を探す。


「石が隙間を見つけました。私より先に」

「それで、生きて帰れた」

「はい」


 親方はレンチで梁を軽く叩く。

 カン、カン。


「前は暴走した。今回は救われた」


 彼は私を見る。


「石の学習は、制御不能じゃねぇ。不安定なだけだ」

「……はい」


 親方は続ける。


「0.41秒が0.39秒になった」

「いえ」


 私は端末を確認する。


「0.39秒は、今回だけです。でも――」


 別のログを開く。昨夜、貸し間で記録した石の明滅。


《石の脈動:心拍より0.42秒先行(推定)》


「加速は、止まってません」


 親方はレンチで梁を叩く。

 カン、カン。


「だが、帰ってきた。それが全てだ」


 私は頷く。帰ってきた。でも、この先も、こんな任務が続く。札がなければ、生きられない。灰色任務でしか、稼げない。


(これが、制度の外で生きるということ)



 食堂へ向かう途中、シーラとすれ違った。

 彼女は私を見て、一瞬だけ立ち止まる。


「……ノクト」

「シーラさん」


 気まずい沈黙。

 シーラが口を開く。


「灰色任務、やったんだって」

「……はい」

「生きて帰れた」

「はい」


 シーラは小さく息を吐く。


「よかった」


 その言葉が、わずかに温かい。


「でも――」


 彼女は続ける。


「これからも、そんな任務が続くんだよ。火器使用制限、囮、残骸処理」

「わかってます」

「ノクト、まだ石を交換すれば――」

「交換しません」


 私は即答する。


「今日、石に救われました。0.39秒の先読みで、隙間を見つけてくれました」


 シーラの表情が、わずかに歪む。


「それは……」

「依存、ですか」


 私は先に言う。


「はい。そうかもしれません。でも、生きて帰れました」


 シーラは何も言えない。

 私は続ける。


「シーラさんは正しいです。石の加速は止まらない。いつか、制御が追いつかなくなる」


 私は彼女を見る。


「でも、今日は間に合いました。だから、明日も、この石で歩きます」


 シーラは小さく頷く。


「……そう」


 彼女は去ろうとして、立ち止まる。


「気をつけて。灰色任務の生存率、知ってる?」

「知りません」

「五回任務で、三人に一人が死傷する」


 その言葉が、胸に刺さる。


「……ありがとうございます」


 シーラは去っていく。私は、彼女の背中を見送る。


/personal/reflection.log

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


シーラとの会話:

- 「よかった」という言葉

- でも、完全に戻ることはない

- 彼女は、まだ心配してくれている


生存率:

五回任務で、三人に一人が死傷。

私は一回目を生き延びた。

あと四回。


石の先読み:

0.41秒 → 0.39秒(任務中)

0.42秒(推定・貸し間)


不安定。

でも、今日は救われた。

明日も、救われる保証はない。



 その夜、貸し間の机で端末を開く。

stone_behavior_analysis:

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

任務17-35: 先行挙動、主に成功(0.18s-0.37s)

任務38: 先行挙動、成功(0.41s / 赤黒戦)

任務39: 先行挙動、成功(0.39s / 灰色任務)

推定: 0.42s(貸し間での観測)

observation:

加速傾向は継続

でも、任務38→39で減速(0.41s→0.39s)

状況依存? それとも誤差?

0.42秒の推定は信頼性低

conclusion:

石の学習は不安定。

状況によって、救いにも呪いにもなる。

制御が必要。

でも、完全な制御は不可能。

question:

石を信じるべきか。

それとも、制御すべきか。

監査官の警告は正しい。

でも、この石がなければ、今日は死んでいた。

answer:

わからない。

ただ、この石で歩き続ける。

それが、私の選択だ。


 保存音が短く鳴る。

 窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。

 遠くで梁が二度鳴った。

 カン、カン。

 誰かの帰還音。私にも、まだ聞こえる。


 胸スリットの石が、一度だけ明滅した。

 私の心拍より――


《推定:0.43秒先行》


 昨夜より、0.01秒早い。加速は、止まらない。

 監査官の言葉が、頭をよぎる。


「いつまで?」


 答えは、出ない。

 でも、今日は生きて帰れた。

 それで、十分だ。


 灰色の犬は、制度の外で、走り始めた。石の暴走と救済の狭間で。

 誰も認めなくても、記録されなくても、私のログは残る。

 石の「欠陥」が、真実の証人になる。


 明日も、この石で歩く。

 生存率を、覆すために。

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