孤立の始まり
翌朝、私はヤードの扉を押した。
いつもの油と鉄の匂い。でも、空気が違う。
整備士たちが、私を見る目が変わっていた。同情ではない。距離だ。
一人が工具箱を抱えて通り過ぎる。目が合う。彼は小さく会釈して、すぐに視線を逸らした。
別の整備士が、仲間と小声で話している。
「あれが、審査中の三分犬か」
「石が暴走するらしいぞ。操縦より先に動くって」
「巻き込まれたくねぇな」
笑い声はない。ただ、距離だけがある。
『審査中』の操機士は、組合にとって「トラブルの種」だ。関わらない方がいい。それが彼らの判断だ。
私は親方のベイへ向かう。途中、受付嬢とすれ違う。
「おはようございます」
私が挨拶すると、彼女は一瞬だけ立ち止まる。そして、小さく頭を下げて、去っていった。
言葉はなかった。
◆
親方は、グレイハウンドの脚部を点検していた。
「来たか」
私は頷く。
「石は、交換しません」
親方は手を止めない。
「おう。お前が決めたことだ」
彼はレンチで梁を二度叩く。
カン、カン。
「だが、札がなけりゃ飯は食えねぇ」
私は黙って頷く。
「……わかってます」
親方は作業を終え、レンチを肩に担ぐ。
「灰色任務、やるか」
「灰色任務……?」
「制度の外で生きる者の、仕事だ」
親方は作業台の引き出しから、粗い紙片を取り出す。手書きの地図、集合場所、簡単な指令。組合の正式な様式ではない。
「札を持たない者、審査中の者、身元を隠したい者。制度の外で生きる者の、な」
私は紙片を受け取る。
「……報酬は?」
「安い。危険も高い。でも、生きて帰れば金は払う」
親方は私を見る。
「初回は囮だ」
囮。正規部隊の盾になる役割。撃つことは許されず、ただ敵を引きつけて逃げる。
私は紙片を握りしめる。
「……考えます」
「おう。急がなくていい」
親方は続ける。
「だが、覚えとけ。石を交換すれば、札が戻る。交換しなければ、灰色だ」
私は沈黙する。答えは、もう決まっている。
(石を交換しない)
(理由はわからない)
(でも、この石で歩き続ける)
◆
昼、私は組合の食堂へ向かった。最後かもしれない。黄色い警告マークの私が、いつまで組合に出入りできるかわからない。
カウンターで灰パンを受け取ろうとすると、配膳の姐さんが私を見て、わずかに顔をしかめた。
「……審査中、か」
「はい」
「石を交換すりゃ、すぐ終わるのに」
「……はい」
姐さんは灰パンを一つ多く、トレイに載せた。
「余りだ。持ってけ」
私は頭を下げる。
「ありがとうございます」
姐さんは何も言わず、次の客に向かった。
◆
隅の席で、灰パンを齧る。硬い。でも、味はする。
周囲のテーブルから、小さな声が聞こえる。
「あれが、審査中の三分犬か」
「石が暴走するんだろ? 一緒に任務、受けたくねぇよな」
嘲りではない。でも、恐怖だ。
私は灰パンを飲み込む。喉が詰まる。
その時、誰かが私の向かいに座った。
シーラだった。
◆
彼女はトレイを置き、黙って勝ち汁を啜る。
私は何も言えない。
しばらくして、シーラが口を開く。
「……昨日は、きつく言いすぎた」
「いえ」
私は灰パンを置く。
「シーラさんは、正しいです」
シーラは勝ち汁から目を上げない。
「でも、石は交換しないんでしょ」
「……はい」
「なんで」
私は言葉を探す。指先が震えている。
「わからないんです」
シーラが顔を上げる。
「わからない?」
「技術的には、交換すべきです。監査官の言う通り、加速は止まらない。いつか制御が追いつかなくなる」
私は続ける。
「でも――この石がなければ、何度も死んでました」
シーラは勝ち汁を一口啜る。
「それは、石に依存してるってことだよ」
「……はい。そうかもしれません」
私は認める。
「でも、依存でも、信頼でも、この石で帰れてる。それだけは、事実です」
シーラは小さく息を吐く。
「ノクト、聞いて」
彼女の声が、少しだけ柔らかくなる。
「昨日、正規部隊の集合があった。隊長が訊いたの。『ノクト・アッシュと組める者』って」
私は息を呑む。
「……誰も、手を上げなかった」
その言葉が、胸に刺さる。
「理由は同じ。『石が暴走するかもしれない』『巻き込まれたくない』」
彼女は私を見る。
「私も、手を上げなかった」
沈黙。
「……そう、ですか」
「ごめん」
シーラの声が、湯気のような柔らかさを取り戻そうとしている。でも、完全には戻らない。
「でも、怖いんだよ。あんたの石が、いつ暴走するか」
「制御できてます」
「今は、ね」
シーラは立ち上がる。
「ノクト、石を交換して。そしたら、また組める」
彼女はトレイを持って去っていく。
私は、彼女の背中を見送る。
/personal/isolation_log.md
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Day 1 of isolation:
- 誰も組んでくれない
- シーラも手を上げなかった
- 理由:「石が暴走する」「巻き込まれたくない」
事実:
- 審査中の操機士は、組合にとって「トラブルの種」
- 正規の任務には、参加できない
- 灰色任務でしか、稼げない
選択:
石を交換すれば、全て元に戻る。
でも――できない。
理由:
わからない。
ただ、この石を手放せない。
◆
夕方、ヤードに戻ると親方が待っていた。
「決めたか」
私は頷く。
「灰色任務、受けます」
親方は短く息を吐く。
「そうか。……じゃあ、明日の朝、集合だ」
彼は紙片をもう一度差し出す。
「初回は囮。火器使用制限。撃つな。逃げろ。生きて帰れ」
私は紙片を受け取る。
「了解」
親方はレンチで梁を叩く。
カン、カン。
「だが、忘れるな。お前はまだ、帰還の音を聞ける」
彼は私を見る。
「札がなくても、生きて帰れば、俺は二度叩く」
その言葉が、胸の奥を温める。
「……ありがとうございます」
◆
その夜、貸し間の机で端末を開く。
/personal/decision_log.md
審査中、1日目。
決断:
石を交換しない
灰色任務を受ける
制度の外で、生きる
代償:
誰も組んでくれない
シーラとの距離
正規の任務から排除
でも:
親方は、まだ二度叩いてくれる
この石で、まだ歩ける
理由:
わからない。
でも、この選択が正しいかどうかも、わからない。
ただ――
この石を、手放せない。
保存音が短く鳴る。
窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
遠くで梁が二度鳴った。
カン、カン。
誰かの帰還音。私には、まだ聞こえる。でも――
明日から、私は灰色外套として歩く。
制度の外で。札を持たない者として。
胸スリットの石が、一度だけ明滅した。
私の心拍より0.41秒早く。
いや――
もう一度点滅する。
0.42秒?
0.43秒?
(加速している。今も)
私は息を呑む。
監査官の言葉が、胸の奥で反響する。
「いつまで?」
答えは、出ない。
でも、選択はした。
灰色の犬は、加速する石を胸に、制度の外で生きる準備を始める。
監査官の警告を、胸に刻んで。
シーラの恐怖を、理解した上で。
でも――石を、手放さない。
それが、私の答えだ。
正しいかどうかは、わからない。
ただ、この石でしか、私は歩けない。
灰色の犬は、孤立を受け入れ、明日へ向かう。




