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孤立の始まり

 翌朝、私はヤードの扉を押した。

 いつもの油と鉄の匂い。でも、空気が違う。

 整備士たちが、私を見る目が変わっていた。同情ではない。距離だ。

 一人が工具箱を抱えて通り過ぎる。目が合う。彼は小さく会釈して、すぐに視線を逸らした。

 別の整備士が、仲間と小声で話している。


「あれが、審査中の三分犬か」

「石が暴走するらしいぞ。操縦より先に動くって」

「巻き込まれたくねぇな」


 笑い声はない。ただ、距離だけがある。

 『審査中』の操機士は、組合にとって「トラブルの種」だ。関わらない方がいい。それが彼らの判断だ。

 私は親方のベイへ向かう。途中、受付嬢とすれ違う。


「おはようございます」


 私が挨拶すると、彼女は一瞬だけ立ち止まる。そして、小さく頭を下げて、去っていった。

 言葉はなかった。



 親方は、グレイハウンドの脚部を点検していた。


「来たか」


 私は頷く。


「石は、交換しません」


 親方は手を止めない。


「おう。お前が決めたことだ」


 彼はレンチで梁を二度叩く。

 カン、カン。


「だが、札がなけりゃ飯は食えねぇ」


 私は黙って頷く。


「……わかってます」


 親方は作業を終え、レンチを肩に担ぐ。


「灰色任務、やるか」

「灰色任務……?」

「制度の外で生きる者の、仕事だ」


 親方は作業台の引き出しから、粗い紙片を取り出す。手書きの地図、集合場所、簡単な指令。組合の正式な様式ではない。


「札を持たない者、審査中の者、身元を隠したい者。制度の外で生きる者の、な」


 私は紙片を受け取る。


「……報酬は?」

「安い。危険も高い。でも、生きて帰れば金は払う」


 親方は私を見る。


「初回はデコイだ」


 囮。正規部隊の盾になる役割。撃つことは許されず、ただ敵を引きつけて逃げる。

 私は紙片を握りしめる。


「……考えます」

「おう。急がなくていい」


 親方は続ける。


「だが、覚えとけ。石を交換すれば、札が戻る。交換しなければ、灰色だ」


 私は沈黙する。答えは、もう決まっている。


(石を交換しない)

(理由はわからない)

(でも、この石で歩き続ける)



 昼、私は組合の食堂へ向かった。最後かもしれない。黄色い警告マークの私が、いつまで組合に出入りできるかわからない。

 カウンターで灰パンを受け取ろうとすると、配膳の姐さんが私を見て、わずかに顔をしかめた。


「……審査中、か」

「はい」

「石を交換すりゃ、すぐ終わるのに」

「……はい」


 姐さんは灰パンを一つ多く、トレイに載せた。


「余りだ。持ってけ」


 私は頭を下げる。


「ありがとうございます」


 姐さんは何も言わず、次の客に向かった。



 隅の席で、灰パンを齧る。硬い。でも、味はする。

 周囲のテーブルから、小さな声が聞こえる。


「あれが、審査中の三分犬か」

「石が暴走するんだろ? 一緒に任務、受けたくねぇよな」


 嘲りではない。でも、恐怖だ。

 私は灰パンを飲み込む。喉が詰まる。

 その時、誰かが私の向かいに座った。

 シーラだった。



 彼女はトレイを置き、黙って勝ち汁を啜る。

 私は何も言えない。

 しばらくして、シーラが口を開く。


「……昨日は、きつく言いすぎた」

「いえ」


 私は灰パンを置く。


「シーラさんは、正しいです」


 シーラは勝ち汁から目を上げない。


「でも、石は交換しないんでしょ」

「……はい」

「なんで」


 私は言葉を探す。指先が震えている。


「わからないんです」


 シーラが顔を上げる。


「わからない?」

「技術的には、交換すべきです。監査官の言う通り、加速は止まらない。いつか制御が追いつかなくなる」


 私は続ける。


「でも――この石がなければ、何度も死んでました」


 シーラは勝ち汁を一口啜る。


「それは、石に依存してるってことだよ」

「……はい。そうかもしれません」


 私は認める。


「でも、依存でも、信頼でも、この石で帰れてる。それだけは、事実です」


 シーラは小さく息を吐く。


「ノクト、聞いて」


 彼女の声が、少しだけ柔らかくなる。


「昨日、正規部隊の集合があった。隊長が訊いたの。『ノクト・アッシュと組める者』って」


 私は息を呑む。


「……誰も、手を上げなかった」


 その言葉が、胸に刺さる。


「理由は同じ。『石が暴走するかもしれない』『巻き込まれたくない』」


 彼女は私を見る。


「私も、手を上げなかった」


 沈黙。


「……そう、ですか」

「ごめん」


 シーラの声が、湯気のような柔らかさを取り戻そうとしている。でも、完全には戻らない。


「でも、怖いんだよ。あんたの石が、いつ暴走するか」

「制御できてます」

「今は、ね」


 シーラは立ち上がる。


「ノクト、石を交換して。そしたら、また組める」


 彼女はトレイを持って去っていく。

 私は、彼女の背中を見送る。


/personal/isolation_log.md

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


Day 1 of isolation:

- 誰も組んでくれない

- シーラも手を上げなかった

- 理由:「石が暴走する」「巻き込まれたくない」


事実:

- 審査中の操機士は、組合にとって「トラブルの種」

- 正規の任務には、参加できない

- 灰色任務でしか、稼げない


選択:

石を交換すれば、全て元に戻る。

でも――できない。


理由:

わからない。

ただ、この石を手放せない。



 夕方、ヤードに戻ると親方が待っていた。


「決めたか」


 私は頷く。


「灰色任務、受けます」


 親方は短く息を吐く。


「そうか。……じゃあ、明日の朝、集合だ」


 彼は紙片をもう一度差し出す。


「初回は囮。火器使用制限。撃つな。逃げろ。生きて帰れ」


 私は紙片を受け取る。


「了解」


 親方はレンチで梁を叩く。

 カン、カン。


「だが、忘れるな。お前はまだ、帰還の音を聞ける」


 彼は私を見る。


「札がなくても、生きて帰れば、俺は二度叩く」


 その言葉が、胸の奥を温める。


「……ありがとうございます」



 その夜、貸し間の机で端末を開く。

/personal/decision_log.md

審査中、1日目。

決断:


石を交換しない

灰色任務を受ける

制度の外で、生きる


代償:


誰も組んでくれない

シーラとの距離

正規の任務から排除


でも:


親方は、まだ二度叩いてくれる

この石で、まだ歩ける


理由:

わからない。

でも、この選択が正しいかどうかも、わからない。

ただ――

この石を、手放せない。


 保存音が短く鳴る。

 窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。

 遠くで梁が二度鳴った。

 カン、カン。

 誰かの帰還音。私には、まだ聞こえる。でも――


 明日から、私は灰色外套として歩く。

 制度の外で。札を持たない者として。


 胸スリットの石が、一度だけ明滅した。

 私の心拍より0.41秒早く。


 いや――


 もう一度点滅する。

 0.42秒?

 0.43秒?


(加速している。今も)


 私は息を呑む。

 監査官の言葉が、胸の奥で反響する。


「いつまで?」


 答えは、出ない。

 でも、選択はした。

 灰色の犬は、加速する石を胸に、制度の外で生きる準備を始める。

 監査官の警告を、胸に刻んで。

 シーラの恐怖を、理解した上で。

 でも――石を、手放さない。


 それが、私の答えだ。

 正しいかどうかは、わからない。

 ただ、この石でしか、私は歩けない。


 灰色の犬は、孤立を受け入れ、明日へ向かう。

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