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二度目の赤黒

 朝の工業区は、鉄が冷たく鳴っていた。

 今日はシーラ・ルクスとの合同任務。回送隊の護衛、D帯の軽戦闘を想定した札だ。

 私は受付で札を受け取る。受付嬢は無表情で端末を操作し、任務詳細を確認する。


「ノクト・アッシュ、シーラ・ルクス。護衛任務、廃工場地帯経由」

「了解」


 私は札を受け取る。ポケットの中で、古い石の感触がする。冷たい。

 昨夜、石は私の心拍より0.37秒早く明滅した。

 前回の0.34秒より、さらに早くなっている。


(加速している)


 私は端末を開き、過去のログを確認する。


obs_石の先行時間:

任務17: 0.18s(被弾回避)

任務23: 0.22s(退路選択)

任務28: 0.31s(ノイジー分断)

任務32: 0.34s(HB噴射)

任務35: 0.37s(前回任務)

今回予測: 0.40s以上


 グラフが右肩上がり。

 一週間で0.03秒。

 加速が止まらない。


(このままでは――)


 私は不安を飲み込む。

 石の学習を、信じるしかない。

 でも、信じることと、祀ることの境界が――


 見えなくなり始めていた。



 廃工場地帯へ入る。

 錆びた鉄骨が天を突き、崩れた壁が影を落とす。回送隊の荷車が前を行き、私とシーラは左右に展開する。


「退路設計は前回より二本追加。導線防壁は四層で張って」

「了解。六十分の導線防壁、あんたの退路は特別に厚く守るよ」


 シーラの機体、防壁特化のアストラは、静かに鉄骨の影へ陣を敷く。彼女の石は新品だ。迷いがない。

 私もグレイハウンドを低い姿勢に固定し、HUDに退路の座標を重ねた。


退路B-2:主要ルート/遮蔽率88%

退路C-3:側溝経路/機動性低下15%

屋根経路:緊急/タグ使用(笛・短三)


「セットアップ、完了。ノクト」

「了解。静圧、均一」


 その時、HUDに微細な異常値が浮かぶ。


《静圧偏差:+0.3%(局所)》

《石温:+0.2℃(緩上昇)》


 数値は誤差レベル。無視できる。

 だが、その直後にノイジーの幻影が現れた。廃工場の影が白い霊素を纏い、四、五体の影となって蠢く。


(見せ球だ。幻影で私の設計を乱そうとしている)


 私は冷静に幻影を無視する。設計図はノイジーの数を織り込み済みだ。この程度のフェイントに、三分の魔力は割かない。

 しかし、その幻影とは全く位相の異なる、異様な静寂が工場内部を満たした。

 幻影がノイズなら、これは無音の調律。

 空に赤黒の「縫い目」が滲んだ。前回と比べて、より細く、より濃密な糸。錆びた工場全体を、針仕事で縫い合わせるように。


(これはノイジーの調律ではない。赤黒の、観測だ)


 位相反転の準備。空間を自分の数式に「整序」する音のない音。前回よりも、その調律は不気味で、静かに私の設計図の座標を読み取っているように感じられた。

 そして、針が落ちる。音もなく。

 細い影が落ちる。着弾点から空気が逆相で震え、シーラの導線防壁の膜が内側から裂けようとねじれた。


「くっ……!」


 シーラの声がかすれる。彼女の膜は厚い。

 だが、内圧を逆手に取られると、防御力は意味をなさない。

 膜の縁が、わずかに内側へ巻き込まれるように歪み始めた。


《被弾ログ:接触なし/静圧逆相干渉検知》

《防壁:内圧ねじれ率 45%/膜の消耗率 ↑↑(強制流量補正)》


 シーラの機体がわずかに傾く。彼女はすぐに、出力を上げた。

 六十分の膜を維持するために、秒単位の魔力を強制的に投入している。

 それは彼女の設計にない、焦りのサインだった。


(六十分の膜を、無理やり繋いでいる)


「シーラ! 膜は維持して! 私は退路B-2を――」


 その時、私の胸の石が跳ねた。

 私の入力より、先に。



《警告:石出力先行 0.41s/操機士入力:検出されず》

《位相同期:外部干渉検知》


(0.41秒――!?)


 前回の0.37秒より、さらに早い。

 予測通り、加速している。

 石が、勝手に動いた。

 私の恐怖を感じ取り、私が「逃げよう」と判断する前に、ヴェイルを厚く展開した。

 でも、その方向が――間違っている。


 退路B-2の入口。

 私が逃げるはずだった場所を、石が勝手に張った厚いヴェイルで塞いでいる。


《石温:+6.8℃/出力補正+22%(操機士入力なし)》

《退路B-2 遮蔽率89%:経路消失(自己ヴェイル)》


「馬鹿な!」


 焦りが肺を焼く。設計図の第一項が、自分の機体の暴走で潰された。


(なぜだ! なぜそこを塞ぐ!)


 私は即座に理解した。

 石が再現しているのは、今日の状況ではない。

 過去のパターンだ。


 路地で灰帯に絡まれた記憶。

 あの時、退路B-2は――罠だった。

 煙を使い、別の扉から逃げた。


 石は、その記憶を再現している。

 「退路B-2は危険」という過去のパターンを。


 でも、今は違う。

 今日の退路B-2は、安全なはずだった。


(過去を再現するな!)

(今を見ろ!)


 私は即座に機体を反転させ、第二の退路C-3へ向かう。


「C-3!」


 しかし、C-3への路地。その狭い入口に、赤黒の針が突き立った。


《不明信号:上位層へデータ送信中》

《退路C-3 遮蔽率95%:経路消失(空間干渉)》


 針が突き立った路地は、私の設計図ごと"塞がれた"。座標C-3のルートがHUDから消える。

 針は武器ではなく、計測器のアンテナに見えた。

 着弾点から淡い赤黒の脈動が空へ昇り、縫い目へと吸い込まれていく。

 破壊よりも"観測"を目的にした、奇妙に静かな落下だった。


 私は咄嗟に、最後の望みである側溝経路に機体を向ける。

 HB0.5で側溝へ滑り込もうとした、その瞬間――

 石が再び暴走した。今度は機動性までも低下させるほどの、不安定な出力を吐き出す。


《警告:過去ログ再現率72%》

《操機士挙動=恐怖反応と一致》

《参照:任務04(路地脱出)/退路選択パターン》


(過去ログ……?)


 私は一瞬で理解した。

 石が再現しているのは、以前の任務で経験した私自身の恐怖だ。

 路地で灰帯に絡まれ、退路が潰されかけた記憶。

 あの時、煙を使って逃げた。魔素灯を噴かせ、膝を踏んで、扉B-2を抜けた。


 いや――


 扉B-2を「使わなかった」。

 あの時、B-2は封鎖されていた。

 私は別の経路、緊急の裏扉から逃げた。


 石は、それを「学習」していた。

 「退路B-2は使えない」というパターンを。

 「複数の退路が潰される」というパターンを。

 「緊急時は裏扉を使う」というパターンを。


 そして今、同じ状況を感知し、同じ対応を――

 間違った対応を、再現している。


(違う! あの時とは状況が違う!)


 針はまるで私の記憶をなぞるかのように落ちた。前回逃げ場を失った路地へ、正確に。

 石が再現しているのは、過去の成功ではなく、過去の恐怖だ。

 あの時、退路が潰されかけた記憶。

 石はそれを学習し、私を守ろうとして、設計のど真ん中に針を突き刺し、"お前の数式は間違いだった"と突きつけてきたのだ。


 退路が全て潰えた。私は廃工場の中心で立ち往生する。



「ノクト! なぜ止まる!」


 シーラの叫びが無線を切り裂く。


「石が――石が勝手に!」

「石のせいにしないで!」


 シーラの声が、冷たい。


「あんたが祀ってるから、こうなるんだよ!」


 彼女は私の信条を正面から否定した。


「数字じゃなく、石の癖を信じているから、石が勝手な行動をするんだ!」


 その言葉が、胸を突く。

 私は、石を祀っていたのか。

 技術として扱っていたつもりが、いつの間にか、石の判断を信じるようになっていた。

 0.18秒の先読み。0.22秒。0.31秒。0.34秒。0.37秒。0.41秒。

 加速する先読みを、私は「進化」だと思っていた。

 でも、それは「暴走」だったのか。


 いや――


(進化でも暴走でもない)

(これは――学習の失敗だ)


 石は私の恐怖を学習した。

 でも、石には「文脈」が理解できない。

 「なぜその時、退路B-2を使わなかったのか」ではなく、

 「退路B-2は使わない」というパターンだけを記憶した。


 過去と今を、区別できない。

 状況判断ができない。

 ただ、パターンを再現するだけ。


(機械学習の、オーバーフィッティング)


 前の世界で、何度も見た現象。

 訓練データに過剰適合し、汎化性能を失ったモデル。

 石は、私の過去の恐怖に過剰適合していた。


 シーラは自身の機体の全ヴェイルを解放し、屋根経路へ向かう最後の逃げ道を、六十分の膜で抱きかかえるように展開する。


「今すぐ屋根へ! ここは私が時間で守る!」


 シーラの渾身の防壁。その厚さを持ってしても、赤黒の針はそれを許さなかった。

 縫い目から、三本の針が同時に落ちる。

 シーラの防壁は、一瞬で破れるのではなく、層を剥がされるように、音を立てて段階的に切り裂かれた。

 六十分の膜が、三十秒足らずで半分の厚さまで削り取られていく。

 無線に混じった、赤黒の低い声。


『設計を信じるか、石を祀るか』

『数字で走るか、恐怖で走るか』

『答えを出せ、小犬グレイ


 それは問いかけではない。選別だ。

 シーラは血を吐くような声で叫ぶ。


「返事するな! あんたのログにノイズを残すな!」


 私は揺れた。

 数字で走るべきか。それとも、この恐怖を再現する「癖」と化した古い石の感覚を信じるべきか。

 でも――


(違う。これは二択じゃない)


 私は一瞬で決断した。

 石の暴走を、強制的に制御下に置く。

 屋根経路へ向かう。HB0.8。石が暴走しかける。


(数字じゃない。癖でもない。制御だ)


 私は全力で逆相入力を行う。石の出力と、反対の位相の魔力を無理やりぶつける。機体の軋む音が、頭蓋骨に響く。


// force::override(veil, phase=-179.9°)

// 石の学習パターンを強制上書き

// risk: 石温上昇、亀裂進行

// accept: 制御を取り戻す


《逆相入力:適用/過補正:抑制》

《石温:+8.0℃(警告)/位相相関:+0.1°(強制復元)》


 膜が落ち着く。推進が戻る。私は屋根経路へ滑り込む。

 赤黒の針は追わなかった。

 ただ、廃工場の崩れた壁へ、三本の針でしるしを刻む。

 音もなく。美しく。計測を終えたように静かだった。


 その直後、短波のノイズに、声が混じった。


『計れているなら、逃げ切れる。今日は前者だ、小犬グレイ。……だが、次はない』


 侮りが、逆に背中を冷やす。

 赤黒の縫い目が静かにほどける。廃工場地帯から、異様な静寂だけが残された。



 帰還。

 装甲の縁に指を置く。叩かない。今日は、二度の合図を受け取る余裕がなかった。


 親方が出てくる。背はまっすぐ、目だけ冷たい。

 私は端末を差し出す。


 親方はログを眺め、表情を曇らせる。


「……退路を、潰したな」

「はい。石が先に動きました」

「お前の石が。……ログは?」


 私は端末を操作し、石の挙動ログを表示する。


stone_behavior_log:

advance_time: 0.41s(過去最大)

action: 退路B-2へヴェイル展開(操機士指示なし)

reference: 任務04ログ(過去の恐怖パターン)

result: 設計図破壊


analysis:

石は「退路B-2=危険」というパターンを記憶

状況判断なく、パターンを機械的に再現

→ オーバーフィッティング(過学習)


「石が、過去のパターンを再現しました。でも、今日の状況には合わなかった」


 親方は短く息を吐く。


「学習じゃねぇ。模倣だ」

「はい」

「石は『なぜ』を理解しない。『何を』だけを覚える」


 彼はレンチで梁を叩く。


「お前の恐怖のパターンを覚えても、お前の判断は理解しない」


 私は頷く。


「……わかりました」


 シーラが、冷たい声で言う。


「それは嘘だ。操機士の入力遅延として処理しろ。制度に、石の問題を持ち込むな」

「違います。これは、石が――」

「あんたが祀り手だから、石が甘えるんだ。数字で誤魔化すな!」


 私は反論できなかった。


(祀り手……)


 親方は二人のやり取りを黙って聞いていた。そして、レンチを二度叩いた。

 カン、カン。


「帰還、成立。だが」


 親方は言う。


「次はないかもしれねぇぞ」

「……」

「石を祀るにしても、制度を信じるにしても、数字の前提がお前は狂い始めてる。冷やせ」



 夜、自室でログを見返す私。

 端末の画面に、石の先行挙動が記録されている。恐怖を模倣した波形。


// 石の学習パターン

obs_01: 0.18s先行 / 成功(回避)/ 文脈:被弾直前

obs_02: 0.22s先行 / 成功(回避)/ 文脈:退路選択

obs_03: 0.31s先行 / 成功(回避)/ 文脈:ノイジー分断

obs_04: 0.34s先行 / 成功(回避)/ 文脈:HB噴射

obs_05: 0.37s先行 / 成功(回避)/ 文脈:一般戦闘

obs_06: 0.41s先行 / 失敗(誤判断)/ 文脈:複合脅威


conclusion:

- 石は過去の恐怖を学習している

- 加速する先読みは「進化」ではなく「過学習」

- 石は状況を理解せず、パターンを再現しているだけ

- 文脈が変わると、学習が逆効果になる


solution:

逆相入力による強制制御

石の学習を「参考」として扱い、最終判断は操機士が行う

祀るのではなく、道具として使う


 私は確信する。

 石は私の癖を覚えてしまった。

 私はもう、「数字」で走る者じゃない。

 数字ではなく、癖を祀る者として、歩き始めてしまった。


 いや――


(違う)


 私は端末に新しいメモを作る。


conclusion_revised:

石は「進化」していない。

石は「過学習」している。

だから、制御する。

祀るのではなく、制御する。

石の学習を信じるのではなく、利用する。


 胸のスリットの中で、石の明滅が光る。

 心拍より0.41秒早く。

 昨日の0.37秒から、数字がさらに増した。それは、石が「次の恐怖」へ向けて加速し始めたことを示していた。


 私は端末を閉じ、窓を開ける。

 夜風が冷たい。

 遠くで、誰かの機体が帰還する音がした。

 カン、カン。

 帰還成立の音。

 私には、まだ聞こえる。

 でも、次は――


 私は古い石を握りしめる。


(お前は、私を守ろうとした)

(でも、間違えた)

(それは、お前が悪いんじゃない)

(お前には、文脈が理解できない)

(だから――)


 私が、制御する。

 石は答えない。

 ただ、わずかに明滅するだけ。

 私の心拍より0.41秒早く。


 灰色の犬は、石の暴走と向き合い、明日へ歩き続ける準備をする。

 制御を取り戻すために。

 祀るのではなく、使うために。

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