新しい石との不協和
朝のヤードは、鉄が冷たく鳴っていた。
親方が作業台の上に、小さな木箱を置く。蓋を開けると、中に拳大の石。新品。傷ひとつない表面が、朝日を滑らかに反射している。
「訓練用に貸す。数字は倍以上だ。文句はねぇだろ」
「……試験ですか」
「試験じゃねぇ。比較だ。お前が古い石に執着してんのか、それとも理由があるのか、数字で確かめろ」
親方の声は低い。叱責ではない。職人の、現象を見定める声だ。
私は木箱を受け取る。石は冷たく、重さは古い石と変わらない。
でも、表面に傷がない。補修の痕がない。私の指先が触れた場所が、ない。
「装着は自分でやれ。今日の午後、密閉ベイで短い訓練だ」
「了解」
◆
昼過ぎ、密閉ベイのシャッターが下りる。
私はグレイハウンドの胸スリットを開け、古い石を外す。
冷たい。けれど、私の体温を知っている気がする石。
新しい石を、スロットに滑り込ませる。
接続音。HUDが立ち上がる。
《魔力石:二級新品(効率 85%)》
《診断:応答遅延 7.8ms/位相誤差 ±0.07°/冷却効率 baseline +12%》
《戦闘モード起動――稼働限界:180》
数字は完璧だ。
応答が速い。位相誤差が小さい。冷却が効く。
稼働時間は変わらないが、全体的なパフォーマンスが明らかに上がっている。
シーラがベイの脇から覗き込む。
「うわ、数字きれい。これなら一線級だよ」
「……はい」
私は操縦桿を握る。ハーネスを締め、呼吸を整える。
「行きます」
◆
ヴェイルが起動する。
薄い膜が機体の縁を縫い、青白い光が滑らかに広がる。
HB0.8を一度。
機体が浮く。
その瞬間――
違和感。
応答は正確だが、体感では遅れる。
数字では0.2秒早いはずなのに、私の身体には一拍遅れて届いた。
私の指示が石に届き、石が出力を返すまでの時間が、わずかに長い。
数値上は7.8ms。古い石の18msより圧倒的に速いはずなのに。
(……遅い?)
私は操縦桿を倒す。左へ半身。
機体が動く。滑らかに。数字通りに。
でも、私の予測より0.2秒遅れて。
退路の予測が合わない。
ヴェイルの厚みを調整しようとすると、出力が私の意図より少しだけ後から来る。
HUDの数字は正常。異常値はひとつもない。
でも、合わない。
「ノクト、どう?」シーラの声が通信に入る。
「……数字は、完璧です」
「でも?」
「合わない」
私は操縦桿を握り直す。指先が震えている。
(なぜ? 数字は正しい。応答は速い。位相誤差も小さい)
(なのに――)
もう一度HB0.8を踏む。
機体が跳ねる。滑らかに。正確に。
でも、私の体感より0.2秒遅れて。
恐怖が、間に合わない。
私が「怖い」と感じた瞬間、石はまだ応答していない。
数値上は速いのに、感覚上は遅い。
《停止》
私はスイッチを切る。ヴェイルが落ち、沈黙が戻る。
呼吸が荒い。手が震えている。
「……駄目です。これじゃ、帰れない」
◆
親方がベイの扉を開け、中へ入ってくる。
私はハッチを上げ、梯子を降りる。
「数字は?」
「完璧です。応答7.8ms。位相誤差±0.07°。異常値なし」
「だが?」
「……合わない。予測が外れる。0.2秒、遅れる」
親方は端末を受け取り、ログを眺める。
波形は滑らかで、ノイズがない。数値は安定している。
「お前の感覚が狂ってんのか、石が合わねぇのか」
「……わかりません」
親方はレンチで梁を軽く叩く。
カン、カン。
「古い石に戻せ。比較しろ」
◆
私は新しい石を外し、古い石を再びスロットに滑り込ませる。
接続音。HUDが立ち上がる。
《魔力石:二級中古(効率 37%)》
《診断:応答遅延 18ms/位相誤差 ±0.28°/冷却効率 baseline》
《戦闘モード起動――稼働限界:180》
数字は劣る。
応答が遅い。位相誤差が大きい。冷却が追いつかない。
でも――
ヴェイルが起動する。
HB0.8を一度。
機体が浮く。
その瞬間――
合う。
応答が、私の恐怖に先行する。
0.37秒早く、石が動く。
私が「怖い」と感じる前に、ヴェイルが厚くなる。
(……これだ)
操縦桿を倒す。左へ半身。
機体が動く。18msの遅延。でも、私の予測通りに。
退路の予測が合う。ヴェイルの厚みが、私の意図通りに調整される。
数字は劣る。
でも、読める。
「どこで怖がるか、どこで走り出すか」
全部、わかる。
《停止》
私はスイッチを切り、深く息を吐く。
手の震えが、止まっている。
◆
ハッチを上げ、梯子を降りる。
親方が待っている。
「古い方が合う。でも理由は分からない」
声に出すと、言葉が空気を重くする。
親方は短く息を吐き、レンチで梁を叩く。
「武器は効率で選べ。だが癖を捨てるのは、墓に捨てるのと同じだ」
「癖……」
「おう。お前の恐怖も、石の先読みも、全部癖だ。数字じゃ測れねぇが、命を繋ぐ」
シーラがベイの脇から声をかける。
「……でも、癖は裏切ることもあるよ」
彼女の声は静かだ。冷静だ。
「新しい敵が来たとき、古い癖は通用しないかもしれない」
私は頷く。
「……はい。でも、今は古い石で帰れてます」
「今は、ね」
シーラは小さく笑い、ベイを出ていく。
親方は新品の石を木箱に戻し、蓋を閉める。
「いつでも交換できる。お前が決めろ」
「……了解」
◆
夕方、補給所兼食堂へ向かう。
整備で手が汚れ、腹が空いていた。
カウンターで黒煮込みと灰パンを受け取り、隅の席へ座る。
一口。油が濃い。塩が強い。でも、胃が受け入れる。
隣の席で、小さな声がする。
子供だ。十歳前後。テーブルに紙を広げ、何やら必死に描いている。
周囲の大人が笑う。
「また退路ごっこか。危ない真似はやめろ」
子供は顔を上げず、鉛筆を走らせる。
地図。退路。杭の位置。
私は覗き込む。
線が乱れている。杭の位置が間違っている。
「……そこは塞がれる」
思わず声が出ていた。
子供が顔を上げる。目が大きい。驚きと期待が混じっている。
「杭を打つなら、こっち」
私は子供の紙に指を置き、正しい位置を示す。
(……古い石も、こうして私の恐怖より先に線を引いてくれた)
紙の線と、石の脈動が一瞬、重なった気がした。
子供は目を輝かせる。
「ほんとに操機士のお姉ちゃん?」
「うん」
「すごい! お父ちゃんが工員でね、毎日『カン、カン』って音が聞こえるの。帰ってきた音だって」
子供は笑う。無邪気に。
子供の瞳が、石の光と同じように私を照らす。
(……見上げられている?)
胸の石が一度だけ、心拍より先に明滅した気がした。
私は黙って、子供の紙に正しい杭を書き込む。
退路を三本から五本に増やす。合図の位置を修正する。
「……これ」
紙を返す。子供は両手で受け取り、何度も頷く。
その反応は、私が言葉を出す前に先に返ってきた。
(古い石も、同じだ。私の恐怖より先に動く)
「ありがとう、お姉ちゃん! ぼく、操機士になる!」
周囲の大人が苦笑する。
「無理だろ。石が高いんだ。うちには買えねぇ」
子供の笑顔が、少しだけ曇る。
(新品の石は、子供の夢と同じ値段……数字が跳ね上がるほど遠ざかっていく)
私は黙って、古い石の重さを思い出す。
数字では劣っても、私を帰してくれる石を。
「夢は持つな」とは言えない。
「諦めろ」とも言えない。
ただ、紙を見つめる子供の後ろ姿を、黙って見送る。
(……私も、中古から始めた)
胸の奥が、わずかに熱を持つ。
◆
夜、貸し間の机で端末を開く。
comparison_log:
new_stone:
efficiency: 85%
response: 7.8ms
phase_error: ±0.07°
result: 数値は完璧。だが予測が合わない。恐怖に遅れる。
old_stone:
efficiency: 37%
response: 18ms
phase_error: ±0.28°
result: 数値は劣る。だが予測が合う。恐怖に先行する(0.37s)。
analysis:
新品の石:私を知らない。私の恐怖パターンが未学習。
古い石:私を知っている。私の恐怖パターンを記憶。
差分:0.37s + 0.2s(体感遅延) = 約0.6秒
0.6秒の差が、命を分ける。
でも、その0.6秒は、数字だけでは説明できない。
conclusion: 古い石を選択。
理由:「私を知っている」
保存音が短く鳴る。
私は端末を開き直し、さらに追記する。
conclusion_extended:
新品の石:
- 数値上は最速(7.8ms)
- でも私の恐怖に0.2秒遅れる
- 合計:私の判断から0.2秒後に応答
古い石:
- 数値上は遅い(18ms)
- でも私の恐怖に0.37秒先行
- 合計:私の判断より0.35秒早く応答(0.37s - 0.018s)
実質的な差:0.55秒
この0.55秒を、「癖」と呼ぶ。
数字ではなく、記憶。
効率ではなく、相性。
さっきの子供の笑顔がふと浮かぶ。
(数字ではなく、癖で線を増やす――それを夢と呼ぶのかもしれない)
私は窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
遠くで梁が二度鳴った。
カン、カン。
胸スリットの石が、心拍に合わせて一度だけ明滅した。
私の心拍よりわずかに早く脈打っているように、先に光った。
灰色の犬は、効率ではなく相性を選んだ。
数字ではなく、癖を選んだ。
燃やした夜の残り火を、胸に抱いて。
でも――
(この癖は、いつか裏切るかもしれない)
(シーラの言う通り)
(新しい敵が来たとき、古い癖は通用しないかもしれない)
私は古い石を握りしめる。
(それでも、今は)
(お前を、選ぶ)
石は答えない。
ただ、わずかに明滅するだけ。
私の心拍より0.37秒早く。




