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新しい石との不協和

 朝のヤードは、鉄が冷たく鳴っていた。

 親方が作業台の上に、小さな木箱を置く。蓋を開けると、中に拳大の石。新品。傷ひとつない表面が、朝日を滑らかに反射している。


「訓練用に貸す。数字は倍以上だ。文句はねぇだろ」

「……試験ですか」

「試験じゃねぇ。比較だ。お前が古い石に執着してんのか、それとも理由があるのか、数字で確かめろ」


 親方の声は低い。叱責ではない。職人の、現象を見定める声だ。

 私は木箱を受け取る。石は冷たく、重さは古い石と変わらない。

 でも、表面に傷がない。補修の痕がない。私の指先が触れた場所が、ない。


「装着は自分でやれ。今日の午後、密閉ベイで短い訓練だ」

「了解」



 昼過ぎ、密閉ベイのシャッターが下りる。

 私はグレイハウンドの胸スリットを開け、古い石を外す。

 冷たい。けれど、私の体温を知っている気がする石。

 新しい石を、スロットに滑り込ませる。

 接続音。HUDが立ち上がる。


《魔力石:二級新品(効率 85%)》

《診断:応答遅延 7.8ms/位相誤差 ±0.07°/冷却効率 baseline +12%》

《戦闘モード起動――稼働限界:180》


 数字は完璧だ。

 応答が速い。位相誤差が小さい。冷却が効く。

 稼働時間は変わらないが、全体的なパフォーマンスが明らかに上がっている。

 シーラがベイの脇から覗き込む。


「うわ、数字きれい。これなら一線級だよ」

「……はい」


 私は操縦桿を握る。ハーネスを締め、呼吸を整える。


「行きます」



 ヴェイルが起動する。

 薄い膜が機体の縁を縫い、青白い光が滑らかに広がる。

 HB0.8を一度。

 機体が浮く。

 その瞬間――

 違和感。

 応答は正確だが、体感では遅れる。

 数字では0.2秒早いはずなのに、私の身体には一拍遅れて届いた。

 私の指示が石に届き、石が出力を返すまでの時間が、わずかに長い。

 数値上は7.8ms。古い石の18msより圧倒的に速いはずなのに。


(……遅い?)


 私は操縦桿を倒す。左へ半身。

 機体が動く。滑らかに。数字通りに。

 でも、私の予測より0.2秒遅れて。

 退路の予測が合わない。

 ヴェイルの厚みを調整しようとすると、出力が私の意図より少しだけ後から来る。

 HUDの数字は正常。異常値はひとつもない。

 でも、合わない。


「ノクト、どう?」シーラの声が通信に入る。

「……数字は、完璧です」

「でも?」

「合わない」


 私は操縦桿を握り直す。指先が震えている。


(なぜ? 数字は正しい。応答は速い。位相誤差も小さい)

(なのに――)


 もう一度HB0.8を踏む。

 機体が跳ねる。滑らかに。正確に。

 でも、私の体感より0.2秒遅れて。

 恐怖が、間に合わない。

 私が「怖い」と感じた瞬間、石はまだ応答していない。

 数値上は速いのに、感覚上は遅い。


《停止》


 私はスイッチを切る。ヴェイルが落ち、沈黙が戻る。

 呼吸が荒い。手が震えている。


「……駄目です。これじゃ、帰れない」



 親方がベイの扉を開け、中へ入ってくる。

 私はハッチを上げ、梯子を降りる。


「数字は?」

「完璧です。応答7.8ms。位相誤差±0.07°。異常値なし」

「だが?」

「……合わない。予測が外れる。0.2秒、遅れる」


 親方は端末を受け取り、ログを眺める。

 波形は滑らかで、ノイズがない。数値は安定している。


「お前の感覚が狂ってんのか、石が合わねぇのか」

「……わかりません」


 親方はレンチで梁を軽く叩く。

 カン、カン。


「古い石に戻せ。比較しろ」



 私は新しい石を外し、古い石を再びスロットに滑り込ませる。

 接続音。HUDが立ち上がる。


《魔力石:二級中古(効率 37%)》

《診断:応答遅延 18ms/位相誤差 ±0.28°/冷却効率 baseline》

《戦闘モード起動――稼働限界:180》


 数字は劣る。

 応答が遅い。位相誤差が大きい。冷却が追いつかない。

 でも――

 ヴェイルが起動する。

 HB0.8を一度。

 機体が浮く。

 その瞬間――

 合う。

 応答が、私の恐怖に先行する。

 0.37秒早く、石が動く。

 私が「怖い」と感じる前に、ヴェイルが厚くなる。


(……これだ)


 操縦桿を倒す。左へ半身。

 機体が動く。18msの遅延。でも、私の予測通りに。

 退路の予測が合う。ヴェイルの厚みが、私の意図通りに調整される。

 数字は劣る。

 でも、読める。


「どこで怖がるか、どこで走り出すか」


 全部、わかる。


《停止》


 私はスイッチを切り、深く息を吐く。

 手の震えが、止まっている。



 ハッチを上げ、梯子を降りる。

 親方が待っている。


「古い方が合う。でも理由は分からない」


 声に出すと、言葉が空気を重くする。

 親方は短く息を吐き、レンチで梁を叩く。


「武器は効率で選べ。だが癖を捨てるのは、墓に捨てるのと同じだ」

「癖……」

「おう。お前の恐怖も、石の先読みも、全部癖だ。数字じゃ測れねぇが、命を繋ぐ」


 シーラがベイの脇から声をかける。


「……でも、癖は裏切ることもあるよ」


 彼女の声は静かだ。冷静だ。


「新しい敵が来たとき、古い癖は通用しないかもしれない」


 私は頷く。


「……はい。でも、今は古い石で帰れてます」

「今は、ね」


 シーラは小さく笑い、ベイを出ていく。

 親方は新品の石を木箱に戻し、蓋を閉める。


「いつでも交換できる。お前が決めろ」

「……了解」



 夕方、補給所兼食堂へ向かう。

 整備で手が汚れ、腹が空いていた。

 カウンターで黒煮込みと灰パンを受け取り、隅の席へ座る。

 一口。油が濃い。塩が強い。でも、胃が受け入れる。

 隣の席で、小さな声がする。

 子供だ。十歳前後。テーブルに紙を広げ、何やら必死に描いている。

 周囲の大人が笑う。


「また退路ごっこか。危ない真似はやめろ」


 子供は顔を上げず、鉛筆を走らせる。

 地図。退路。杭の位置。

 私は覗き込む。

 線が乱れている。杭の位置が間違っている。


「……そこは塞がれる」


 思わず声が出ていた。

 子供が顔を上げる。目が大きい。驚きと期待が混じっている。


「杭を打つなら、こっち」


 私は子供の紙に指を置き、正しい位置を示す。


(……古い石も、こうして私の恐怖より先に線を引いてくれた)


 紙の線と、石の脈動が一瞬、重なった気がした。

 子供は目を輝かせる。


「ほんとに操機士のお姉ちゃん?」

「うん」

「すごい! お父ちゃんが工員でね、毎日『カン、カン』って音が聞こえるの。帰ってきた音だって」


 子供は笑う。無邪気に。

 子供の瞳が、石の光と同じように私を照らす。


(……見上げられている?)


 胸の石が一度だけ、心拍より先に明滅した気がした。

 私は黙って、子供の紙に正しい杭を書き込む。

 退路を三本から五本に増やす。合図の位置を修正する。


「……これ」


 紙を返す。子供は両手で受け取り、何度も頷く。

 その反応は、私が言葉を出す前に先に返ってきた。


(古い石も、同じだ。私の恐怖より先に動く)


「ありがとう、お姉ちゃん! ぼく、操機士になる!」


 周囲の大人が苦笑する。


「無理だろ。石が高いんだ。うちには買えねぇ」


 子供の笑顔が、少しだけ曇る。


(新品の石は、子供の夢と同じ値段……数字が跳ね上がるほど遠ざかっていく)


 私は黙って、古い石の重さを思い出す。

 数字では劣っても、私を帰してくれる石を。

 「夢は持つな」とは言えない。

 「諦めろ」とも言えない。

 ただ、紙を見つめる子供の後ろ姿を、黙って見送る。


(……私も、中古から始めた)


 胸の奥が、わずかに熱を持つ。



 夜、貸し間の机で端末を開く。


comparison_log:

new_stone:

efficiency: 85%

response: 7.8ms

phase_error: ±0.07°

result: 数値は完璧。だが予測が合わない。恐怖に遅れる。


old_stone:

efficiency: 37%

response: 18ms

phase_error: ±0.28°

result: 数値は劣る。だが予測が合う。恐怖に先行する(0.37s)。


analysis:

新品の石:私を知らない。私の恐怖パターンが未学習。

古い石:私を知っている。私の恐怖パターンを記憶。


差分:0.37s + 0.2s(体感遅延) = 約0.6秒


0.6秒の差が、命を分ける。

でも、その0.6秒は、数字だけでは説明できない。


conclusion: 古い石を選択。

理由:「私を知っている」


 保存音が短く鳴る。

 私は端末を開き直し、さらに追記する。


conclusion_extended:

新品の石:

- 数値上は最速(7.8ms)

- でも私の恐怖に0.2秒遅れる

- 合計:私の判断から0.2秒後に応答


古い石:

- 数値上は遅い(18ms)

- でも私の恐怖に0.37秒先行

- 合計:私の判断より0.35秒早く応答(0.37s - 0.018s)


実質的な差:0.55秒


この0.55秒を、「癖」と呼ぶ。

数字ではなく、記憶。

効率ではなく、相性。


 さっきの子供の笑顔がふと浮かぶ。


(数字ではなく、癖で線を増やす――それを夢と呼ぶのかもしれない)


 私は窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。

 遠くで梁が二度鳴った。


 カン、カン。


 胸スリットの石が、心拍に合わせて一度だけ明滅した。

 私の心拍よりわずかに早く脈打っているように、先に光った。


 灰色の犬は、効率ではなく相性を選んだ。

 数字ではなく、癖を選んだ。

 燃やした夜の残り火を、胸に抱いて。


 でも――


(この癖は、いつか裏切るかもしれない)

(シーラの言う通り)

(新しい敵が来たとき、古い癖は通用しないかもしれない)


 私は古い石を握りしめる。


(それでも、今は)

(お前を、選ぶ)


 石は答えない。

 ただ、わずかに明滅するだけ。

 私の心拍より0.37秒早く。

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