新しい石、古い石
朝の工業区は、霧が薄く鉄骨を縫っていた。
今日はシーラとの合同任務。回送隊の護衛、D帯の小規模戦闘を想定した札だ。
「退路は五本に増やした。合図も長短の組み合わせで拡張してある」
私は端末を示しながらシーラに説明する。
「前回の"逃げ方v2"、今日試してみます」
「了解。私は導線防壁で帯を張るね。あんたの退路だけ厚く守る」
シーラは腹部の石を軽く叩く。
カン、カン。
「六十分で、三分の道を引く」
◆
任務は順調だった。
回送隊の荷車が前を行き、私たちは左右に展開して視界を分担する。
ノイジーの小群が二度現れたが、いずれもシーラの防壁で受け、私が分断して膝を落とす。
《ノクト:HB ×1/位相+0.2°(許容)/石温 +2.1℃》
《シーラ:静圧偏差 +1.0%(安定)/石温 +0.7℃》
数字は正常。設計は通っている。
HUDの隅で、戦闘モードの残り時間が淡々と減っていく。
《132》
その時だった。
岩陰から、白い影が飛び出した。
動きが速い。獣の残像が三つ、同時に跳ねる。
私の視界が一拍遅れた。疲労か、判断ミスか。
(間に合わない――)
HB0.8を踏む指が、0.1秒遅れる。
被弾が確定する。ヴェイルの薄い箇所、右肩上部。
数字が脳内で赤く点滅する。
その瞬間――
私の恐怖より、一瞬早く光が走った。
石が、勝手に跳ねた。
私の指示より先に、出力が上がる。
ヴェイルが右肩を厚く覆い、白い影の爪が膜の表面で滑る。
火花が散り、衝撃が肩を撫でるが、貫通しない。
《出力:35%→58%(0.08s)/位相:+0.31°(過補正)》
《警告:意図不明の過出力/操機士入力:検出されず》
私は息を呑む。
「……今、私は指示を出していない」
シーラの声が通信に入る。
「ノクト!? 今の反応……速すぎない?」
「速い。私より0.2秒早い」
白い影が地に落ち、砂に消える。
◆
私は操縦桿を握ったまま、動けなかった。
指が震えている。
呼吸が浅い。
心拍が、まだ速い。
(石が、私より先に動いた)
(私が死ぬ前に――)
(私を、救った)
HUDのログを確認する。
出力が跳ねた瞬間、操機士側の入力記録は空白だ。
《操機士入力:検出されず》
《石出力先行:0.18s》
0.18秒。
私の恐怖が、指に伝わるより早く。
石が、動いた。
それは技術か。
それとも――
「ノクト、大丈夫?」
シーラの声が、遠い。
「……はい」
声が掠れている。
「大丈夫、です」
でも、大丈夫じゃない。
胸の奥が、冷たい。
(石が、私を庇った)
(でも――)
(それは、私が望んだことなのか)
私は深呼吸を手順に落とす。
一拍吸って、二拍吐く。
《任務継続:OK》
私は操縦桿を握り直す。
シーラが言う。
「……今の、記録しといた方がいいよ」
「はい」
任務を続ける。
でも、胸の奥の冷たさは、消えない。
◆
任務を終え、ヤードに戻る。
装甲の縁に指を置き、二度叩く。
カン、カン。
親方がレンチで応える。
カン、カン。
「帰還、成立。……顔が変だな」
「ログを、見てください」
私は端末を手渡す。親方は波形を眺め、眉をひそめる。
時間軸を拡大し、出力の跳ねた瞬間を何度も往復する。
「……お前じゃないな」
「はい」
「石が先に動いた」
親方の声は低い。叱責ではない。職人の、現象を見定める声だ。
「消耗品が……学習する?」
私は石を見つめる。胸スリットの中で、石がわずかに明滅している。
いつもと変わらない。規則正しい。心拍に近い。
親方はレンチで梁を軽く叩き、短く息を吐く。
「学習じゃねぇ。"癖"だ」
「癖……」
「長く使い込むと、石に操機士の癖が焼き付くことがある。珍しいが、ある」
親方は続ける。
「お前の恐怖だろうな。石が覚えてやがる。言うなれば、"残り火"だ」
その言葉が、胸骨に沈む。
「残り火……」
「おう。お前の」
親方の目が、私を見る。
何かを察した目。けれど、深追いしない目。
(燃やした夜の、残り火)
少し前の記憶が甦る。
前の世界で、夜を燃やしてコードを書き続けた日々。
その残り火で温まっているだけ、と自分に言い聞かせた朝。
この石は、その夜を覚えている?
◆
シーラがベイの脇から顔を出す。
「ノクト、大丈夫?」
「……はい」
「石が庇ったんだって?」
「庇った、というより……先に動いた」
シーラは腹部の石を見下ろし、小さく首を傾げる。
「私の石は、そんなことしないよ」
「……普通は、しない?」
「うん。石は道具だから。命令を待つだけ」
彼女は少し考えてから、笑う。
「でも、悪いことじゃないよね。助かったんだから」
「……そう、ですね」
私は頷く。頷けるはずなのに、喉の奥が詰まる。
シーラは肩を軽く叩いて去っていく。
親方もレンチを肩に担ぎ、ベイの奥へ消える。
私は一人、石を見つめる。
表面に走る傷、補修の痕、指先が触れた場所。
(お前は、私を覚えている?)
問いかけに、答えはない。
石は明滅するだけ。規則正しく。心拍に近く。
でも――
私は拳を握る。
爪が手のひらに食い込む。
(お前は、私より先に動いた)
(私が恐怖を感じる前に)
(私を、救った)
それは感謝すべきことなのか。
それとも、恐れるべきことなのか。
(私は、石に祀られている)
(石が、私を守ろうとしている)
親方の言葉が、頭をよぎる。
「祀る前に、冷やせ」
でも今は逆だ。
私が石を祀っているのではない。
石が、私を祀っている。
「……祀られてる、のか」
声に出すと、言葉が空気を重くする。
私は装甲の縁を、もう一度撫でる。
冷たい。でも、私の体温を知っている気がする。
◆
夜、貸し間の机で、端末を開く。
任務ログの異常値を見つめる。
[LOG] anomaly: mana_core self-initiated output
timestamp: 14:23:08.142
output_delta: +23% (0.08s)
operator_input: none detected
advance_time: 0.18s(操機士入力より先行)
result: 被弾回避成功
status: unexplained
note: "残り火"
evaluation:
- 石が操機士の恐怖を予測
- 0.18秒の先読みで被弾を回避
- 結果:生還
question:
- これは技術か、祀りか
- 石は私を「守って」いるのか
- それとも、私を「祀って」いるのか
conclusion:
答えは出ない。
でも、今日は――
救われた。
保存音が短く鳴る。
私は窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
遠くで梁が二度鳴った。
カン、カン。
胸スリットの石が、心拍に合わせて一度だけ明滅した。
私は触れない。祀る前に、冷やせ。
でも――
(お前は、私の夜を覚えている)
(私が燃やした夜の、残り火)
そして――
(お前は、私より先に動いた)
(私を、救った)
端末の画面に、カーソルが規則正しく点滅する。
石をただの「消耗品」と割り切れない違和感が、確信へと変わり始めている。
数字では測れない何かが、そこにある。
私は端末を閉じ、石に視線を落とす。
明滅が、一度だけ心拍とずれた。
0.18秒、先に光った。
恐怖より、先に。
灰色の犬は、消耗品ではない何かを胸に、明日へ歩き続ける準備をする。
燃やした夜の残り火を、抱いて。
その残り火が、今日は私を救った。
でも――
救われることに、慣れてはいけない。
「祀る前に、冷やせ」
私は呟く。
石は答えない。
ただ、わずかに明滅するだけ。
私の心拍より0.18秒早く。
次は0.2秒か。
0.3秒か。
それとも――
私は首を振る。
考えるのは、明日だ。
今日は、生きて帰れた。
それで、十分だ。




