勝ち汁と砂糖スープ、噂の残り火
端末の画面が、もう三時間も同じログを映していた。
赤黒の縫い目。位相反転。桁落ちの波形。数字は正確で、嘘をつかない。けれど、数字を見詰めていても答えは出ない。
「20分考えて、何も思いつかなかったら誰かに聞く」
ふと思い出した、前の世界での記憶。
これは、誰から教わった事だったか。
あいにくと、コードに関しては相談する相手が今の私にはいない。
「いいから!」
背後から声がして、肩を掴まれた。シーラだ。
「胃に入れないと頭も回らないでしょ。食堂、行くよ」
「……甘味で誤魔化すのは設計じゃない」
「人間の設計は胃袋から! はい立った立った」
抵抗する間もなく、私は椅子から引き剥がされた。
◆
組合の食堂は、昼の喧噪が残っていた。
鉄とスパイスと油の匂い。配膳口の蒸気。傭兵たちが机を囲み、傷の深さと報酬の釣り合いを値踏みしている。
シーラは迷わずカウンターへ進み、配膳の姐さんに手を上げた。
「勝ち汁二つ! 砂糖スープも二つ!」
「……殺す気か」
私の小声は無視された。
茶色い液体がよそわれ、甘辛い匂いが鼻腔を突く。前回の記憶が胃の奥で警報を鳴らす。
「ほら、座って」
シーラは平然とトレイを運び、机の端に置く。私は観念して腰を下ろした。
「いただきます」
一口。
「…………あま……から……やっぱり甘辛すぎ」
「それが勝ち汁だって!」
シーラは笑いながら自分の分を一気に流し込む。頬が少し赤い。辛いのか甘いのか、本人も判断を諦めている顔だ。
横のテーブルから声が飛ぶ。
「お、三分犬が勝ち汁挑戦か!」
「前は砂糖スープで顔しかめてたぞ」
「成長だな」
笑い声。嘲りではない。仲間に入れる笑い。
私は灰パンをちぎって浸し、歯が折れない程度に噛み砕く。
「シーラさんは、これ平気なんですか」
「平気じゃないよ。でも、食べないと張れない」
彼女は砂糖スープを一口啜り、ふっと息を吐く。
「六十分は壁になる。でも三分は……瞬き、かな」
私は視線を上げる。
「三分でも、層を重ねれば六十分に届く」
シーラが笑う。湯気みたいに柔らかい。
「じゃあ次は、あんたの設計で私を守ってね」
即答していた。
「……設計は帰還まで通さないと意味がない」
「真面目すぎ!」
シーラが肩を揺らして笑う。周囲のテーブルでも誰かが吹き出した。
私は頬が熱くなるのを感じながら、勝ち汁に視線を落とす。
(設計は通す。次は必ず)
◆
食事を半分ほど済ませた頃、背後のテーブルで会話が耳に入った。
「なあ聞いたか? 死に石を走らせる方法」
「馬鹿言え、石は一度燃えたら終わりだろ」
「だが、燃えかすを持ち帰るやつらが増えてるって話だ。工業区の裏で、灰帯が買い取ってるとか」
「そんな技術があったら、採掘業者は全力で潰すだろ」
私の手が止まる。
灰パンの欠片が、指先で固まったまま動かない。
シーラが小さく肩をすくめる。
「……だよね。でも、噂ってのは火がつくと消せない」
彼女の声は軽い。けれど、目だけが私を見ている。
(……噂は、出ている)
胸の奥が冷える。
私の石は中古で、寿命間際だ。それを補修し、充填を繰り返し、三分を維持している。
親方が言っていた。噂は外に出すな。
出ている。どこまで?
「ノクト」
シーラの声が静かに割り込む。
「恐怖を笑い飛ばせるのも、大事な戦い方だよ」
私は一拍置いて、頷いた。
「……了解」
勝ち汁を一口。甘辛い。砂糖スープで流す。甘い。
味覚が混乱しているが、胃の奥は少しだけ温まった。
◆
食後、シーラは私の肩を軽く叩いた。
「明日、合同訓練しよう。壁の貼り方、ちょっと変えてみる」
「どう変える?」
「あんたの退路を、面じゃなくて帯で守る。薄く長く張って、逃げる道だけ厚くする」
私は端末を開き、メモを取る。
「導線防壁……ですね」
「そう。三分が逃げ切れる道を、六十分で引く」
彼女の笑いはいつも柔らかい。けれど、言葉の芯は冷静だ。
私は頷く。
「次は、設計を通す」
「うん。次は守る」
◆
夜、ヤードに戻ると親方がベイの外で煙管を咥えていた。
私の顔を見るなり、顎で梁を指す。
私は装甲の縁を二度叩いた。
カン、カン。
「二打が先だ。話はその後」
親方は煙を吐いてから、短く言う。
「食堂で、噂を拾ったな」
「……はい」
「出所は追うな。出すな。置くならここだ」
私は頷く。
「了解。外に見せるのは枠だけです」
親方はレンチで梁を二度叩く。
カン、カン。
「胃袋の方は温まったか?」
「はい」
「冷えたな。……明日、シーラと合同訓練だ。導線防壁、試してみろ」
「はい」
夜気が肺に刺さる。
機体の胸スリットが、静かに脈を打っていた。
◆
貸し間の机で、端末を開く。
"human_budget"に一行追記。
human_budget.extend({
nutrition: ["勝ち汁→砂糖スープで中和", "甘辛は胃袋の設計外", "でも食べる"],
rumor_control: ["噂は拾う、追わない、出さない"],
cooperation: ["導線防壁=シーラの帯×ノクトの退路"]
})
保存音が短く鳴る。
窓を少し開ける。夜風が紙を揺らす。
遠くで誰かが笑い、食堂の明かりが消える音がした。
胃の奥は、まだ甘辛い。
でも、明日も歩ける。
灰色の犬は、勝ち汁の残り火で、次の設計を温め始める。




