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再現試験、逃げ方を重ねろ

 朝の霧が工業区を薄く覆い、ヤードの鉄骨を白い息で縫っていた。

 私は端末を脇に抱え、密閉ベイへ向かう。昨夜作った「暫定フォルダ」には赤黒の残像が数値になって眠っている。


 親方がシャッターを下ろしながら言った。

「桁落ちを実験で確かめろ。できるもんならやってみろ」

「……再現、試してみます」

「無理だと思うがな。だが、やってみる価値はある」


 ベイの奥で、シーラが腹部の石を点検していた。彼女の機体――防壁特化のアストラは、今朝は冷却翼を一対だけ展開している。朝の光を受けて、六十分の余裕が静かに脈打っている。


「私も壁役で協力するよ。昨日の"縫い目"、どんなふうに刺さったか聞かせて」

「三本。音もなく。内圧を逆手に取られました」

「へぇ」シーラは頷く。「じゃあ、私が攻め役もやってみる。再現できるかわからないけど」


《密閉環境:OK/外乱遮断:OK》

《試験:桁落ち再現 A-シミュレート(ノクト)/B-攻撃再現シーラ



 私はHUDに昨日のログを流し込む。

 位相反転の瞬間、石の自己放電、コア電流の過渡ピーク。数値は正確に再現される。

 けれど――


《戦闘モード:180→180(変化なし)》

《位相相関:+0.28°(正常)》

《石温:+1.2℃(通常負荷)》


 数値に嘘はない。でも、何かが違う。

 胸の石の脈動が、心拍より0.3秒遅れている。昨日は同期していたのに。

 HUDの描画が、普段より1フレーム重い気がする。測定誤差の範囲内だが、指先が知っている。


「……再現されない」

 私は端末を見詰める。波形は穏やかで、異常値はひとつもない。

 でも、デバッガーの直感が警報を鳴らしている。見つからないバグほど危険なものはない。


「ノクト、私が"針"を試してみる」

 シーラの膜が薄く展開される。私の周囲を包むような形で、ゆっくりと圧力を上げ始める。


《静圧:+2%→+5%→+8%》


 彼女の操作は流暢だ。六十分の余裕で、圧力を細かく調整している。

 私の三分では真似できない、時間の暴力。


 でも、これは単なる圧迫だ。赤黒の"縫い目"とは違う。

 昨日感じた、設計図を読まれるような、針で石の腹を突かれるような感覚は再現されない。


「駄目です。これじゃない」

「うん。私にも、あの"針"の正体がわからない」

 シーラの膜が緩み、通常の防壁に戻る。彼女の石温は+0.8℃。まだ余裕がある。


 羨望が喉に上がる。六十分という時間の装甲。私が欲しくても手に入らない、絶対的な余裕。



 模擬戦に切り替える。

 シーラが攻め役になり、私は防御と逃走の練習。


「本気でいくよ。手加減しない」

「お願いします」


 彼女の膜が攻撃的な形に変わる。六十分の安定感を武器に、私を包囲するように展開。

 私のヴェイルに静圧がかかり、HUDの数値がじわじわ上がる。


《ノクト:ヴェイル基底 38%→42%/位相+0.3°/石温+2.8℃》

《シーラ:静圧偏差 +3.2%/石温 +0.9℃》


 数値の差が、格差を物語る。

 私は汗ばむ。彼女は涼しい顔。これが現実だ。


 私は冷静に退路を選択し、HB0.8で二度、安全0.2を保って距離を作る。

 シーラの攻撃は重いが読めるし、私の設計図は正常に機能している。


《模擬戦終了:35秒で離脱成功》


「上手く逃げたね」

「でも、これじゃない。昨日の"赤黒"は、もっと……」


 言葉が詰まる。

 あの瞬間、自分の設計そのものが裏返され、石の中身を直接揺さぶられた感覚。

 プログラマーとしてのプライドを、技術で踏み躙られた屈辱。

 

 制御下にないコードが暴走する悪夢。デバッグ不可能なクラッシュ。

 前世で何度も味わった、技術者として最も恐れる状況の記憶が甦る。


「見えない敵を、どう設計すればいいんですか」

 私は親方を見上げる。声が震えていた。



 親方がレンチで梁を軽く叩いた。カン、カン。

「再現できねえなら、"逃げ方"を重ねろ」


「逃げ方……?」

「分からねぇもんを真似ても意味はねぇ。叩いて直るとこ、叩いても直らねぇとこ、その境を引くのがお前の計算だ」

 親方は続ける。

「あの赤黒は、お前の"叩いても直らねぇ部分"を見つけて突いてきた。なら、逃げ方を積み重ねろ。枠を厚くするほうが効く」


 私は拳を握る。指先が白くなる。

「具体的には?」

「退路を三本じゃなくて五本。合図を短三だけじゃなくて、長短の組み合わせ。石の異常値にも複数の閾値」


 シーラが頷く。「そう。私の防壁も、一枚じゃなくて層にする。あなたの逃走を"面"で支える」

 彼女は腹部の石を軽く叩く。「三分には三分の、六十分には六十分の戦い方がある。時間で勝負しないで、連携で勝負しよう」


 胸の奥が、少しだけ軽くなった。


(なるほど。再現できない脅威には、再現できる準備を重ねる)

(デバッグ不可能なバグには、例外処理の層を厚くする)


 私は端末を開き、新しいフォルダを作った。


/escape_routine_v2/

├─ routes_5paths.md // 退路を5本に拡張

├─ signal_patterns.md // 合図の組み合わせ拡張(長短混在)

├─ threshold_multi.md // 複数閾値による段階的警告

├─ shela_cooperation.md // シーラとの連携強化案

└─ margin_expansion.md // 余白の厚み強化



「次は逃げ切る」

 HUDの入力欄に短く打ち込む。

 保存音が鳴る。画面の端で、カーソルが規則正しく点滅した。


 石が、初めて心拍と完全に同期した。

 0.3秒の遅れが消える。直感的に、「認めてくれた」とわかった。


 私は操縦席の装甲を二度叩く。

 カン、カン。

 親方がレンチで応える。

 カン、カン。


「冷えたな。次の線を引け」


 シーラが笑いながら腹部の石を軽く叩く。

 カン、カン。

「三人で引く線は、きっと太いよ」


 密閉ベイに、三つの帰還音が響いた。

 灰色の犬は、見えない脅威に向けて、逃げ方の層を重ね始める。

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