表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/26

余波と「カン、カン」

 ヤードの扉を押すと、油と鉄の匂いが胸の震えをゆっくりと沈めた。

 脚立を降りる足が一段ごとにかすかに揺れる。指先は冷たい。端末の画面に、さっきまでの“赤黒”が残像みたいに滲んでいる。


 親方はレンチを肩に、何も言わず顎で合図した。

 私は端末を手渡す。ログが走る。桁が落ちた瞬間の波形、自己放電の誘発、強制アイドル四百ミリ秒。

 親方の眉が、ほとんど見えない角度でわずかに動いた。


 ――レンチが、梁を二度叩く。

 カン、カン。


「帰還、成立」

 その言葉が肺の奥で広がる。私は操縦席の装甲を二度、指の関節で叩き返した。

 カン、カン。音は薄いのに、足場は厚くなる。


「悔しさも、冷やせ」

「……はい」


 親方は端末をスクロールしながら言う。

「“当たってないのに減る”か。針で石の腹をつついて、手前でこっちに燃えさせる。表じゃなくて、中を揺さぶってる」

「設計を、読まれました」

「読まれた、で済ますな。『読まれても帰る』のが設計だろ。――今日は帰った。二打でな」


 私は一度喉を鳴らし、頷いた。

 ログの最後に“心理的圧迫 大”と自分で書いた文字が、少しだけ恥ずかしい。けれど隠さない。数字は装甲だ。



 夜、ベイは早めに閉じた。

 鉄骨の隙間風が弱く、機体の胸スリットの灯りは静かだった。私は端末に「暫定フォルダ」を作る。


/threats/crow

├─ redblack_seam.log

├─ drop_digits.wave

├─ voice_id_3-1-2.meta // “測れ”の合図と推定

└─ escape_routine_v0.md



 画面の端で、カーソルが点滅する。

(今日は書き足さない。――冷やす)


 電源を落とし、鉄骨の冷えた鳴き声に耳を置いた。



 翌朝。傭兵組合の扉をくぐると、空気の温度が一段上がった。

 札の列はいつもより騒がしい。視線が散り、すぐ札へ戻る。その往復に、自分の名が混ざり始めているのがわかった。


 掲示板の右肩に、小さな赤字注記が新しく貼られていた。

 《注意》 クロウ隊(赤黒縫合)――危険遭遇報告あり/識別音 3-1-2

 紙の端が、まだ新しい糊で光っている。


「本当に出たのか」

「いや、E上がりの新顔が持ち帰れる相手じゃねぇだろ」

「ログは提出済みだとさ。受付が見たってよ」


 風のように過ぎる声を横目に、私は札の列を素通りした。止まると噂が付く。

 カウンターで受付嬢が目を上げる。目尻にだけ疲れの皺。けれど声は平坦で、必要な温度を保っている。


「提出ログ、確認しています。帰還は二打、SOSは三打――合図の再確認をお願いします」

「はい。二打で帰還、三打で停止。……昨日、二打を受け取りました」


 目の奥が、少しだけ緩んだ気がした。「それが答えです」

 彼女は要件だけを言って、すぐ次の札を処理した。正しい距離。居心地がいい。



 廊下の角で、肩口を軽く叩かれた。

 振り向くとシーラがいた。頬に粉、手には紙コップ。甘い匂い。


「まだ震えてる。飲む?」

「……ありがとうございます」


 砂糖スープのぬるい甘さが喉を滑り、胃の奥がゆっくり熱を持つ。

「設計、通らなかった」

 自分から言っていた。思ったより、悔しい音になった。


「通らなかったんじゃなくて、読まれたんだよ」シーラは言う。「で、読まれても帰った。――二打」

「二打」

「三打は?」

「SOS。全部止めて、喋る」


 彼女は満足げに小さく頷いた。「よし」

「それと」彼女は紙コップをもう一つ差し出す。

「今日は訓練じゃなくて、整備に時間を使いなよ。壁の方も、貼り方を少し変えてみる。あなたの退路に厚みを足せる設計を考えてくる」


「……助かります」

「助け合い。三分と六十分」


 彼女の笑いは湯気みたいに柔らかくて、甘い匂いの正体が一瞬わからなくなる。

 砂糖だ。わかっている。それでも、今はそれを受け取っていい。



 日が傾く頃、ヤードに戻ると親方がベイの外で煙管をいじっていた。

 私の顔を見るなり、顎で梁を指す。私は装甲を二度叩いた。

 カン、カン。


「二打が先だ。話はその後」

 親方は煙を吐いてから、ようやく口を開く。


「お前の強みは“計算”だ。計算は、叩けば直る箇所と、叩いても直らねぇ箇所の境を引く作業でもある。

 今回みてぇに“中で暴れられる”と、境が溶ける。そこで――儀式だ」


「儀式、ですか」

「二打は帰還、三打は止まれ。人間の約束ごとだ。境が溶けた時の杭になる。杭を打ってから、もう一回線を引け」


 私は頷く。頷ける速さで。

「ログを外に出すな、の話は変わらない。出すなら枠だけ。仕組みはここに置け」

「はい。フォルダを分けました。外に見せる版は“枠”と“合図”だけにします」


 親方は短く笑い、レンチで梁を叩く。

 カン、カン。

「冷えたな」

「はい」


 ヤードの空気は夜の温度になり、機体の胸スリットが薄く呼吸した。

 私はハーネスを点検し、配線の束を指で撫で、端末を開く。


notes/ritual_and_rules.md

--------------------------------

・帰還=二打(カン、カン)

・SOS=三打(カン、カン、カン)

・“祀る前に、冷やせ”

・外へ出す:枠(安全条件)と合図のみ

・次話課題:桁落ち対策(再現不可=逃走設計の層を厚く)



 カーソルがまた点滅する。

 私は画面を閉じ、装甲をそっと二度叩いた。

 カン、カン。音は薄いのに、胸の中の温度がやっと均された。


 ――冷えた。次の線を引ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ