余波と「カン、カン」
ヤードの扉を押すと、油と鉄の匂いが胸の震えをゆっくりと沈めた。
脚立を降りる足が一段ごとにかすかに揺れる。指先は冷たい。端末の画面に、さっきまでの“赤黒”が残像みたいに滲んでいる。
親方はレンチを肩に、何も言わず顎で合図した。
私は端末を手渡す。ログが走る。桁が落ちた瞬間の波形、自己放電の誘発、強制アイドル四百ミリ秒。
親方の眉が、ほとんど見えない角度でわずかに動いた。
――レンチが、梁を二度叩く。
カン、カン。
「帰還、成立」
その言葉が肺の奥で広がる。私は操縦席の装甲を二度、指の関節で叩き返した。
カン、カン。音は薄いのに、足場は厚くなる。
「悔しさも、冷やせ」
「……はい」
親方は端末をスクロールしながら言う。
「“当たってないのに減る”か。針で石の腹をつついて、手前でこっちに燃えさせる。表じゃなくて、中を揺さぶってる」
「設計を、読まれました」
「読まれた、で済ますな。『読まれても帰る』のが設計だろ。――今日は帰った。二打でな」
私は一度喉を鳴らし、頷いた。
ログの最後に“心理的圧迫 大”と自分で書いた文字が、少しだけ恥ずかしい。けれど隠さない。数字は装甲だ。
◆
夜、ベイは早めに閉じた。
鉄骨の隙間風が弱く、機体の胸スリットの灯りは静かだった。私は端末に「暫定フォルダ」を作る。
/threats/crow
├─ redblack_seam.log
├─ drop_digits.wave
├─ voice_id_3-1-2.meta // “測れ”の合図と推定
└─ escape_routine_v0.md
画面の端で、カーソルが点滅する。
(今日は書き足さない。――冷やす)
電源を落とし、鉄骨の冷えた鳴き声に耳を置いた。
◆
翌朝。傭兵組合の扉をくぐると、空気の温度が一段上がった。
札の列はいつもより騒がしい。視線が散り、すぐ札へ戻る。その往復に、自分の名が混ざり始めているのがわかった。
掲示板の右肩に、小さな赤字注記が新しく貼られていた。
《注意》 クロウ隊(赤黒縫合)――危険遭遇報告あり/識別音 3-1-2
紙の端が、まだ新しい糊で光っている。
「本当に出たのか」
「いや、E上がりの新顔が持ち帰れる相手じゃねぇだろ」
「ログは提出済みだとさ。受付が見たってよ」
風のように過ぎる声を横目に、私は札の列を素通りした。止まると噂が付く。
カウンターで受付嬢が目を上げる。目尻にだけ疲れの皺。けれど声は平坦で、必要な温度を保っている。
「提出ログ、確認しています。帰還は二打、SOSは三打――合図の再確認をお願いします」
「はい。二打で帰還、三打で停止。……昨日、二打を受け取りました」
目の奥が、少しだけ緩んだ気がした。「それが答えです」
彼女は要件だけを言って、すぐ次の札を処理した。正しい距離。居心地がいい。
◆
廊下の角で、肩口を軽く叩かれた。
振り向くとシーラがいた。頬に粉、手には紙コップ。甘い匂い。
「まだ震えてる。飲む?」
「……ありがとうございます」
砂糖スープのぬるい甘さが喉を滑り、胃の奥がゆっくり熱を持つ。
「設計、通らなかった」
自分から言っていた。思ったより、悔しい音になった。
「通らなかったんじゃなくて、読まれたんだよ」シーラは言う。「で、読まれても帰った。――二打」
「二打」
「三打は?」
「SOS。全部止めて、喋る」
彼女は満足げに小さく頷いた。「よし」
「それと」彼女は紙コップをもう一つ差し出す。
「今日は訓練じゃなくて、整備に時間を使いなよ。壁の方も、貼り方を少し変えてみる。あなたの退路に厚みを足せる設計を考えてくる」
「……助かります」
「助け合い。三分と六十分」
彼女の笑いは湯気みたいに柔らかくて、甘い匂いの正体が一瞬わからなくなる。
砂糖だ。わかっている。それでも、今はそれを受け取っていい。
◆
日が傾く頃、ヤードに戻ると親方がベイの外で煙管をいじっていた。
私の顔を見るなり、顎で梁を指す。私は装甲を二度叩いた。
カン、カン。
「二打が先だ。話はその後」
親方は煙を吐いてから、ようやく口を開く。
「お前の強みは“計算”だ。計算は、叩けば直る箇所と、叩いても直らねぇ箇所の境を引く作業でもある。
今回みてぇに“中で暴れられる”と、境が溶ける。そこで――儀式だ」
「儀式、ですか」
「二打は帰還、三打は止まれ。人間の約束ごとだ。境が溶けた時の杭になる。杭を打ってから、もう一回線を引け」
私は頷く。頷ける速さで。
「ログを外に出すな、の話は変わらない。出すなら枠だけ。仕組みはここに置け」
「はい。フォルダを分けました。外に見せる版は“枠”と“合図”だけにします」
親方は短く笑い、レンチで梁を叩く。
カン、カン。
「冷えたな」
「はい」
ヤードの空気は夜の温度になり、機体の胸スリットが薄く呼吸した。
私はハーネスを点検し、配線の束を指で撫で、端末を開く。
notes/ritual_and_rules.md
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・帰還=二打(カン、カン)
・SOS=三打(カン、カン、カン)
・“祀る前に、冷やせ”
・外へ出す:枠(安全条件)と合図のみ
・次話課題:桁落ち対策(再現不可=逃走設計の層を厚く)
カーソルがまた点滅する。
私は画面を閉じ、装甲をそっと二度叩いた。
カン、カン。音は薄いのに、胸の中の温度がやっと均された。
――冷えた。次の線を引ける。




