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引き受けられない依頼をされた、という話

 何か私がやらかしたんだろうか。コウアンは自分の行動を顧みた。


 思い当たるふしはある。一年中やらかしてる。

 よく今まで彼に三下り半を突きつけられずにいたものだとコウアンはあらためて思う。

 

 香港人の離職率は高い。だから仕事を教える時も用心しないといけない。しかし彼は英国人で、その心配はない。はずだった。


 自分の部屋のベッドの上で頭を抱えるコウアンの手に、一通の書状がある。

 それは、スペンサー・リードからの辞職願だった。



















 時間は少し遡る。


 いまから数日前のこと、コウアンは香港の繁華街にある尖沙咀にやって来ていた。そこのとあるバーの地下の倉庫に彼はいた。倉庫には木箱が山のように積まれている。


 コウアンはこの日、黒のサングラスに黒のスーツ姿だった。スタイルがいいからまるでモデルのようでもある。ただ、人によってはちょっと危ない人種に見えなくもないかも知れない。裸電球の薄暗い倉庫の中だと余計にそう見える。


 そんなコウアンの目の前に、それこそ「その筋」の人にしか見えない男がいた。大勢のいかつい男たちを背後に従えて、サングラスに縦じまのスーツを決め込み、葉巻をくゆらせている。太ってはいるが背が低く、そんなに大きく見えないのに、なぜか全身から威圧感のようなものがにじみ出ていた。

 

 室内を蒸すような湿気が漂う。上から店の喧騒の音が聞こえてくる。

 

 今からマフィアの抗争でも始まるのかと言いたくなるような物騒な雰囲気。誰しもが相手の出方を伺っている。そんな中、縦じまスーツが動いた。

 はっ、とみな身構える。背後の手下だけでなく、コウアンも。

 

 グローブみたいに大きな手が、サングラスを取った。現れた眼光は狼のように鋭かった。彼はしばらくコウアンを睨みつけていたが、ややあってこう言った。

 

「どうしてもあきまへんか? コウアンはん」

   

 どすの聞いた日本語なまりの英語。対し、コウアンはきっぱりと日本語で言った。あきまへんと。


 コウアンの返事に、相手は目を閉じ、葉巻を大きく吸い込んだ――。次の瞬間。


 そいつの明太子みたいな太い指が吸っていた葉巻をへし折った。


「なんでや?!」ぐわしっ、とそいつは日本語で喚いてコウアンの胸ぐらをつかんだ。「なんでや?話が違うやないか!」

「何も違いませんよ」掴まれたコウアンは冷静に英語で返した。「今までどおりです」

「今まで通りてそんな、いつもまけてくれてたやろ?! 今回に限って無しとか、そんな殺生な事いわんどいてくれ!」

「どうでもいいですがミスタ。その手を離してください」

 相手を見下ろしながら言うコウアン。こういう場合、背の低い方がなんとなく気持ち的に分が悪い。

 クールに言い放つコウアンに対して、相手の足は爪先立っていた。それがプルプル震えている。


「……どうしてもアカンか」

 やがて相手が諦めたように言った。

「駄目です」

 とコウアンがとりつく島もないような口調で返す。


 縦じまスーツはコウアンの胸ぐらから手を離したものの、ギロッとにらんできた。が、その目つきは長いこと続かず、渋柿でも食ったような顔になったかと思うと大きな肩を落とした。しょぼーんとした様子をまるでコウアンに見せつけるかのように。コウアンが何も言わずに黙っていると、今度は部屋の隅っこでしゃがみ込み、イジイジと地面に指で何か書き始めた。


「ミスタ・ゴンザエモン、お気持ちは分かりますが、こちらも商売です。値引きは出来ません」

 そんな彼の背中に向かってコウアンはきっぱりと宣言するように言った。


 縦じまスーツが振り返らないので、コウアンが再度名前を呼ぶと、


「んなこと言わんとちょっとまけてくれ」地面になんかよくワカンナイ模様をかきつつ、縦じまスーツならぬミスタゴンザエモンは振り返った。目に涙がにじんでいる。「長い付き合いやないか。なあ。ほらお前らも頼まんかい」


 お願いします、とゴンザエモンの後ろにいた黒服の男たちが一斉に頭を下げる。

 ゴンザエモンも拝むように言った。この通りや、負けてくれと。 

 しゃがんだ格好でやるものだから、パンダが土下座してるように見える。

 今度はコウアンが渋柿を食ったような顔になったが、それでも彼はきっぱりと言い放った。

「駄目です」

「他に当てもないんや。あんさんしか売ってくれる人おまへんのやコウアンはん、ほんま頼むわ」

「駄目です!」

 腕組みをして横を向くコウアン。すると土下座してる太い腕の隙間から相手を見ていたミスタゴンザエモンの目に何やら怪しい光が……。

「コウアンはん」 

 大きな体に似合わぬ俊敏さで、ミスタゴンザエモンはササササっ、とコウアンに近寄った。

「何か?」

「もしかしてなんぞ、金に困っとるとか?」

 ニヤニヤしながら言うゴンザエモンの喋っていた言葉は英語に戻っていた。

 言われてコウアンは一瞬ひるんだような顔になりかけた。が。

「私が? 金に困ってるですと? 失敬な」

 コウアンは、積まれている荷物につかつかと歩み寄り、ぱぁんと叩いた。

「私はあなたに言われて注文通りの最高の品を手に入れたのですぞ。それを値引きしろと? これを手に入れるために私がどれだけ苦労したか分かって言ってるんですか?」

 値引きは一切受け付けませんとコウアンは改めて相手に宣言した。

 うううむ、とうなるゴンザエモン。

 が。やがて彼は言った。しゃーないですなぁと。

「そこまでおっしゃるのなら、今回は定価で買いまひょ。ほんま、アンタには敵わんわコウアンはん」

「分かっていただけましたか?」

 そう言ったコウアンは、なぜかほっとしたようなため息をついた。





 そして次の日、時刻はお昼過ぎ。

 コウアンのオフィスで一緒にランチをとっていたスペンサーが、喉にエッグタルトを詰まらせる事件が起きた。その理由とは……。

「いま、なんと?」

 酸欠で死にそうになりつつ、コウアンにそう言うスペンサー。そんな彼にコウアンは言った。これから日本に行ってくるネ、と。

「ミスタ・ゴンザエモンから招待を受けてね。日本車をたくさん買ってくれるんだって」

 水、水、ともがくスペンサー。そんな彼に、にこやかにコウアンは話を続けた。

「あ、行きの飛行機ならミスタゴンザエモンが手配してくれたから大丈夫」

 なんだけどさ、とコウアンはテヘへと頭をかきつつまた話を続ける。

「君の席はないから、留守番しててくれないかな? あ、迎えが来たみたいだ。行ってくる」

 グオオオオと喉に詰まったエッグタルトで苦しむボディガードを残し、足取りも軽くコウアンは自分のオフィスを後にするのだった。






 ――まさか、その事で怒ってとか?

 コウアンは、スペンサーから提出された辞職願を、まだ信じられんと言う顔で眺める。

 心当たりがあるとしたらそれくらい……いやいやいやいや。

 ほかにもあるだろう。とコウアンの良心が彼に言う。






 コウアンが日本にホイホイ遊びに行き、香港に帰って来てからすぐ。

 彼は、シーグラムの家がある離島に来ていた。

 正確には、呼び出されたと言った方がいいかも知れない。

 

 冷房が一切効いてない部屋。夏真っ盛りの香港でこれは拷問に近い。

 シーグラムの家の応接間。コウアンとそしてスペンサーが、なぜかうなだれて座っていた。彼らの前に水が置いてある。

 真向かいに座っているシーグラムは家の中なのにサングラス。そんな彼の前に、一ミリも歪みのない書類が置かれていた。びしーっと整っている。


「で、値引きしちゃったわけですか」

 整った書類をめくりつつ、シーグラムが言う。

 うん、と頷くコウアン。

「うん、じゃありません」

 某映画のバックミュージックが流れそうな威圧感。シーグラムはぶうん、と足を組んだ。

「あれほど、値引きはダメですと私が念を押したはずです。そんなことをしたら儲けはほとんどないと」

「分かっている、が」

 相手に押し切られてしまってなとコウアン。横でスペンサーが頷きながらシーグラムを見る。

「なあ、もういいだろ? サーも反省してる様だし」

「反省されても、値引きした損失は戻りません」

 ゆえにとリー家の金庫番は言った。


「今後一年間、役員報酬は半分に減額します」

 

「は」コウアンの口がひくひくとひきつる「半額?」

「当然でしょう。いくら損失が出たと思っていらっしゃるんです」

「そ、そんな、いまだって節約しているのに」

「おい、シーグラム、いくら何でも半額はないだろう」

 スペンサーが身を乗り出す。いつも頑張って働いておられるのにそれはないと。

「スペンサー」

 有難う、と目をウルウルさせるコウアン。すると彼のボディガードは悲壮な顔でシーグラムにこう申し出た。私の給料を減らしてくれと。そしてコウアンに回してくれと。

「頼む。そうしてくれ」

 両手を合わせるスペンサー。それを見ていたコウアンはそっとハンカチで目元を抑えた。ところが。

「安心しろ。お前の給与はもうすでに半額だ」

 シーグラムの言葉にスペンサーはウンウンウンと三回ばかり頷き、そして、

 なんだってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?!と叫んだ。

「ちょ、ちょっとまて、どうして俺のまで、何で」

「スペンサー、落ちつけ……」

 なだめようとしたコウアンを突き飛ばさんばかりの勢いで、スペンサーはターミ○ーターに食って掛かった。

「なんで俺のまで半額なんだ? 贅沢したのはサー一人だろ?!俺は関係ないだろ?!」

「お、おい、スペンサー」

「サーの給料を私に回してくださいよ! 車買っちゃったのにローン払えないじゃないですか!」

 それを聞いて今度はコウアンがいきり立った。

「お前さっきまでイイこと言ってたじゃないか!」

 せっかく感動してたのにと言うコウアンをスペンサーは鼻でせせら笑った。

「あんなの建前に決まってるでしょーがっ!」

「スぺ……」

「世の中金ですよ金! 大体貴方だって日本車買ってやるとか言われてホイホイついて行ったくせにーっっ!」

 ひくひくひく、とコウアンの口の端っこが引きつった。


 それから、しばらく仁義なき争いがシーグラム家の応接間で繰り広げられた。

 貴様と言うヤツはとスペンサーにヘッドロックをかけるコウアン。私に体術でケンカ売るとか百年早いわとやり返すスペンサー。

 そんな二人の前でシーグラムは、まるで何も起きてないかのような顔(グラサン越しですが)で水を飲むのであった。

 それを見たジェイは思うのだった。この会社。大丈夫かなと。

「退職金……貰えるよね?」

 貰えたらいいなと言うジェイだった。




 ――まさか、あの時ヘッドロックかけたこと、怒ってる?

 コウアンは頭を抱えた。

 当然、ボディガードに迷惑かけたのはこれだけじゃない。ちょっと記憶をほじくり返すだけで他にも山のように出てくる。ハバロフスクでの一件もそうだ。

 ただ、コウアン自身、この仕事について間もないと言う事情はあった。

 しかしそれは、スペンサーには関係ないことなのだ。つまり、コウアン自身の未熟さは、である。




「せめて、理由を教えてくれ」

 拝むように言うコウアンに、スペンサーは応えた。

「辞めさせてください」

「だから、理由を」

「辞めさせて下さい」

 辞表のことでコウアンの執務室に呼び出されたスペンサーだったが、テープレコーダーのようにそれしか言わない。とりつく島も無い。ただ、後任が決まるまで居てくれるとのことだった。コウアンはそこに一筋の希望を見出した。

 決まらなかったらいてくれる!

 そんな彼に、冷静なボディガードの声が響き渡った。


「後任の人物は責任を持って私が連れてきます」


 引き継ぎ終わったらやめますとスペンサーは言い、また何か御用があればお呼び下さいとさっさと退出してしまった。そんなスペンサーの態度に泡食ってSSを急きょ呼び出し、相談したコウアンだったが、


「法的に何の問題もありませんから」との一言で終わってしまった。


 問題ないって、問題はそこじゃない。

 せめて理由を聞かせてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇと、マホガニーのデスクに突っ伏して嘆くコウアンであった。





 とまあ、ここまでが、リー家の内輪のごたごたの一幕。

 ただ、コウアンにとっては災難だったが、リー商会としての商売は順調だった。つまり、ロシアて経験したような厄介なことは起きなかった。まったく危険がないわけにはいかないが、それでも比較的安定した日々が続いたのである。

「ミスタリードの送別会、いつにしましょうか?」

 にこやかに言い放つミスサード。涙にくれるコウアン。リー家の日常はいたって平穏だった。


 ――今の所は、である。
















 

 道が狭くて昼間も薄暗く、シャッターが閉まっているところが目立つ。そんな通りに一件の宿があった。

 宿の受付にいるのはカウンターに足を投げ出してテレビを見てる男がひとり。宿の主の陳と言う。

 テレビでニュースが流れている。イギリスの地下鉄で爆破テロがあり、多数の犠牲者が出たらしい。犯人は中近東の過激派の一人で、テロの理由は英国政府が某国へ武器輸出しているからとのことだった。名前はムハンマド・アシャリ。大学の教授をしていた人物と紹介されていた。

「大学の教授までなったのに、もったいねえこった」

 と言って胸元をぼりぼりかきながら、陳は自分がいるカウンターの中を見回した。

 骨董品に見える黒電話に、伝票やら書類やらが山積みで地面が見えない机。壁に作りつけの書類棚はいつ届いたか分からない封筒がぐしゃぐしゃにねじ込んである。

 とそこに彼の細君がモップを持ってやってきた。

「そんなことどうでもいいから掃除くらいやっとくれ。こんなんじゃ客が逃げちまうじゃないか」

 買い出しに行くから戻るまでにやっとけと女房に言われ、陳は受付のカウンターから出ると、モップを手に取った。

 モップをかけながら陳は思った。客が逃げると言うが、こんなところに来るのは重慶大厦(チョンキンマンション。香港でも格安で泊まれる宿泊施設)にすら泊まれないほど金がない人間だ。多少の汚れなんか気にするだろうか。確かに廊下には時々黒い奴がちょろちょろしてはいるが、ようは気にしなきゃいいのである。そう。自分のように。

 それにしてもと陳は思う。香港電台(向こうの公共放送)もよほど話題に困ってんだな。よその国の事件を毎日流すとは。ちなみに他の放送局もみなこの調子で、彼は飽き飽きしていた。有料放送を契約したいと女房にお願いしているが、料金を理由にずっと却下されていた。

 受付のブザーが鳴った。陳は掃除の手を止めるとカウンターに向かった。

「いらっしゃいまし」

 カウンターにいた客は男で、一人だった。このクソ暑い中、帽子をかぶり、ひげを蓄えていた。荷物は小さな鞄一つ。

 客は宿帳に名前を書くと、終始うつむき加減でしばらく滞在する旨を早口で告げた。独特の訛りのある英語だった。

 どうぞごゆっくりと陳は言って客に鍵を渡した。部屋は二階だった。その客は背中をまるめ、顏を手で隠すようにして階段を上がって行った。

 そんな客の様子に陳は肩をすくめた。そしてこう思った。ここにはいろんな人間が来る。料金が安いのもあるが、金さえ払ってくれれば誰でも泊めるからだ。

 陳は掃除に戻った。モップを片手で操りながら、彼はさっきの客の顔を思い浮かべていた。どこかで見たことがあると。さて、何処だったろうか。

 陳はそれ以上考えることはしなかった。余計なことに首を突っ込まない。それが長生きの秘訣だからだ。


 部屋につくと、客の男――ムハンマド・アシャリ――はかぶっていた帽子をとり、鼻の横をかきむしった。まるでテープをはがすように。やがてぺりぺりと音がして、彼の顔から何かがはがれた。それは付け髭であった。

 付けていたところが真っ赤になっている。かぶれたのだろう。ムハンマドはそこに薬を塗りこんだ。

 部屋に蒸すような湿気がこもっていた。クーラーがついて無い。しかしムハンマドは窓を開けることはしなかった。それはこれまでの経験から学んだことだった。

 ムハンマドは汗をぬぐいながら、荷物入れから何かを取り出した。それは一通の手紙だった。英国にいたムハンマドの元にそれが届けられた時、彼はあまりの内容に怒り、そして恐怖した。彼に手紙を届けた人はこう言った。必ずこの親書を、香港にいる偉大なドラゴンに届けてくれと。それが出来るのは君しかいないと。

 手紙を託されたムハンマドは慌ただしく出立の準備をし、車に荷物を詰め込み、ヒースローに向かった。途中でずっと同じ車につけ回されながら。香港にたどり着き、ホテルで一息ついた彼はテレビを付けた。そこに、テロリスト扱いされている自分の顔が流れていた。

 付け髭を手に入れたのはそう言う理由からだった。

 ――一刻も早く、香港のドラゴンの元に行かねば。

 とはいえ、どうやって探すか。

 警察に行くのが一番いいのは分かっていたが、事情が許さない。

 ムハンマドが途方に暮れていると、外で物音が聞えた。車のドアが閉まる音だ。窓を開けて確認したいのをこらえ、彼は部屋から出ると階段下をそっと覗いた。

 受付に、白人の男が数人群がっていた。宿の主人が困惑気味に対応しつつ、二階を指さしていた。






 香港にしては珍しい、湿気の少ない良く晴れた日。買い出しに行く車の助手席で、リー商会の社長はずっと不機嫌だった。理由は今朝、彼のスマホに届いたメールにあった。


「子供が遠足に行くわけじゃあるまいし、何なんだこの予算は!」

 それはコウアンが朝食を済ませ、仕事にこれから励むぞー、という時を狙いすましたかのように送られて来た。メールの送り主はリー家の金庫番である。

 内容は、スペンサーの送別会に使うお金について。

 いい大人の送別会で、しかも屈指の財閥のブレーンのなのに、スズメの涙ほどの予算。コウアンは思わずその場にいたSSに、半ば怒鳴るようにそう言ってしまった。 

「私に言われても困ります」

 明らかに八つ当たりされた眠そうな目のリー家のブレーンは、何の感情も含まれてない声でそう言った。コウアンは恨めしそうな目でSSを見た。

「文句ならシーグラムに言えってか?」

「さようです」

「君が代わりに言ってくれ」

「お断りします」

 誰でも我が身が可愛いものである。

「いつまで続くんだこの緊縮財政……!」

 呻くように言うコウアン。仕方ないですねとSS。

「ミスタロヴィチ氏から回収しそこなった売掛金に、救出と逃走に使った費用。そして現地での損害補てんと色々かかったそうですから」

「必要経費だよ」

 ブンブンとスマホ振り回しながら言うコウアンにSSは言った。

「ですから不服があるならミスタシーグラムに直接どうぞ」


 それが出来るなら苦労はしない。


 仕事が一段落ついたのでスペンサーと二人で買い出しに出かけたコウアンだったが、なんともしょぼい理由で予定変更を余儀なくされたのだった。本当ならマークスアンドスペンサーで買い物をすることになっていたのだ。

「これじゃ何にも買えん」

 しかもカード使用禁止ときた。小切手帳は念のために持って来てはいるコウアンである。

 念のための意味が、我々庶民とはかなり違うような気がするのは取りあえず横に置いておくことにして、

「市場に行きましょう。サー」

 スペンサーがハンドルを操りながら何処か弾むような声で言った。コウアンがちょっと意外そうな顔で彼を見る。

「せっかくいい天気ですし、それに」

 スーパーの中よりは私も気が楽ですと言うスペンサー。ある意味閉じ込められた空間だからだ。何かあって囲まれた時は逃げ場がない。

 そもそも買い出しなんぞ使用人に任せればいい話でもある。そうしないのはコウアンがスペンサーと一緒にでかけたがっているからで、その気持ちを察したのかも知れなかった。

 いい場所を知ってますと言うスペンサーに連れてこられたのは、香港トラムが走る道を挟んで店が並ぶ通りだった。店の上は英国領だった時に建てられたマンションである。トラムの邪魔にならないように車が列をなして停まっている。彼らもそこに停めた。

「目立ちますね」

 苦笑して言うスペンサー。流線形の車はアストンマーチンで、ミス・サードの最新作だった。

「露店市場に行くと言ったら、これに乗ってけとうるさくてな」

 辟易したように言うコウアンに、スペンサーは言った。彼女の車なら、戦車とやり合えますよと。

 それを聞いたコウアンは仏頂面で言った。

「不公平じゃないか?」

「は?」

 コウアンの言葉の意味が分からず、それしか言えないボディガードに、彼の雇い主は苛立ったように言った。

「ミス・サードにはジャンジャン予算使わせておいて、不公平だと言ったんだ」

 コウアンの顔は大まじめだった。スペンサーは一瞬、黙り込んだが、やがて盛大にふきだした。

「何がおかしいんだ」

「いえ、何も。そんなことより私からはぐれないようにしてください。人とすれ違う時も気を付けて」

 そうして二人でしばらく歩いてコウアンはふと気づいた。自分が全く人とぶつからないことに。コウアンは今更のように驚いた顔でスペンサーを見て、言った。

「いつもすまんな」

「何かおっしゃいましたか?」

 とその時、彼らの傍らをトラムが通り過ぎ、騒音で互いの声が聞えなくなった。本当に狭い道に突っ込んでくるから、慣れない人にとってはかなりの迫力である。コウアンがトラムに驚いていると、スペンサーが不思議そうに尋ねてきた。

「サーはこの場所をご存じなかったんですか?」

「私はほとんど香港に居なかったからな」

 まだ子供の時に香港を出て、外国で暮らしていたコウアンが戻って来たのは四年前。スペンサーを英国でスカウトした後にこの地にやって来た。正確には呼び戻されたと言った方がいいかも知れない。九人兄弟の末っ子だった彼の兄たちが「事故」で次々と亡くなり、コウアンにお鉢が回って来たためである。

「だから最初は随分と親戚連中から言われたもんだ」

 自分の兄弟を謀略で殺したんじゃないかと。そんなコウアンの話に、彼のボディガードは驚いたような顔になった。

「君には言ってなかったけどね。言う必要も無かったし」

 とコウアンは軽く笑ってさらりと言ってのけた。そこをまたトラムが通り過ぎた。道を渡ろうとしていた二人の足が止まる。トラムと建物の隙間から見える空はあまりにも小さかった。  

「だいたい、こんな損な役回りをわざわざ身内を殺してまで手に入れたい人間はいない。少なくとも私の知っている限りはな」

 そう言ってコウアンは、人のよさそうな顔を自分のために曇らせているボディガードに向かって肩をすくめて見せた。





 香港のローカルな店で飯を食う時、場所にもよるが注意せねばならないことがある。

 買い物の途中で昼食をとるために入った店。コウアンとスペンサーがテーブルについたとたん、まだ注文もしていないのにウエイターが料理を持ってやってきた。がちゃん、と勢いよく皿を置くと、ウエイターはとっととカウンターの奥に戻っていった。

 コウアンもスペンサーも互いに苦笑して箸を取った。彼らの周囲の客もみな同じ料理を食っている。つまり最初から注文を取る気がないのである。座ったら最後、それしか出てこないのだ。

 彼らはしばらく無言で食事をかきこんだ。やがて食べ終わると、コウアンはカラになったスープボウルを指さしながら笑って言った。

「初めて食べた時凄い顔していたな」

「誰がですか?」

「君だよ」

 香港で喫茶店と言えばチャーチャンテイだが、そこの定番料理がマカロニスープである

 薄い塩味のスープに、のびたマカロニが浮いてるだけのこの料理の不味さに驚く外国人は少なくない。英国料理の本場から来たスペンサーですら絶句したものてある。

「まあ、慣れましたけどね」

 今では朝食の定番になっていると話すボディガードに、コウアンは寂しげな表情を浮かべた。

「スペンサー」

「はい?」

 改まった雇い主の声に、背筋を伸ばすスペンサー。コウアンはコーヒーを一口飲むと、楽にするようにと言い、まるで天気の話でもするかのように話を切り出し始めた。

「ここで話すことじゃないかも知れないが、こんな場所の方が君も聞きやすいだろうと思ってな。退職金のことだが」

 シーグラムに仕事ぶりをきちんと評価するように厳命し、出してもらった額だとコウアンが提示した金額は、香港で屋敷を一つ買えるくらいあった。こんなに貰えませんと仰天するスペンサーに、正当な報酬だとコウアンは言った。

「私から言わせてもらえば、これでも少ないくらいだ」

 元ヤードの警官だったスペンサー。安定した公務員の職を捨ててまで来てくれた彼のおかげで、コウアンはこれまで何度も命を救われたのである。

「紹介状も五つ用意しておいた。足りなくなったら屋敷にとりに来るといい。いつでも書いてやろう」

「……ありがとうございます」

 そう言って頭を下げるスペンサーの声はかすかに湿っていた。そんな彼にコウアンは苦笑して言った。

「私は模範的な要人じゃなかったから、本当に君には苦労をかけたと思う。このくらいのことはさせてくれ」 

 但し、と言うコウアン。その声の鋭さに、スペンサーは今度は身構えた。何を言われるのかと思ったのだろう。

「……ここの勘定、頼んでもいいか?」

 今月ピンチなんだとヒソヒソと頼む雇い主に若干引きつり笑いを浮かべつつ、スペンサーが二人分の勘定を払うと、彼らは店を後にした。

 コウアンはメモを片手に買い物袋をのぞき込んだ。あとは酒だけである。みんな好みが煩いですからねとスペンサー。するとコウアンが言った。これを見ろと。

「シーグラムの頼んだ酒が一番高いぞ」

 口をひん曲げて言うコウアンにスペンサーは深く頷いた。

 酒屋は昼食を取った場所から通りを渡ったところに見えた。薬屋もかねているようで、店頭に並んでる酒に怪しげなのが浮かんでたりする。それを見たコウアンのひん曲がった口がニヤリに変わった。

「どうなさいました?」

 と言うスペンサーに、やられっぱなしは性に合わんとコウアンは言って道を渡った。待ってくださいとスペンサーが追いかけようとするとトラムがまた突っ込んできた。

 トラムが通り過ぎるまで、タップダンス踏むようにして待っていたスペンサー。コウアンは渡ったところで待っていた。息せき切って駆け付けたボディガードに、そんなに慌てなくても大丈夫だとコウアンは笑って言ったが、スペンサーにとっては笑い事ではなかった。

「慌てもしますよ」

 コウアンは興味があるものを見るとフイッといきなりそっちに行ってしまう。ある意味子供みたいな人間である。確かにそんな人物の護衛をするのは並大抵のことじゃないのかも知れない。

「お願いですから、動く前に何処に行くかちゃんと言ってください。こんな場所ではぐれられたりしたら大変ですから」

 分かっている、とコウアン。スペンサーは恨めしそうに言った。ほんとに分かってますかと。

 以前リオではぐれたことがある。無事に見つかったからいいようなものの、見つかるまで心労で水も飲めなかったスペンサーだった。こないだのロシアのこともそうだ。海パン姿で飛行機からダイブした彼だが、寒さを感じなかった。それくらい心配したのだ。

「ですからほんとに、頼みますよ、ちゃんと行先を――」

 そう言って顔を上げたスペンサー。そこにコウアンの姿はもうなかった。

「サー?!」

 スペンサーの体が風見鶏のようにぐるぐる回った。何処に行った? と必死でコウアンを探す彼の視界は、コウアンと同じ黒い頭の東洋人で埋め尽くされていた。




 

 その一行がコウアンの傍を通り過ぎたのは、スペンサーが長々と彼に説教している時だった。

 スーツを着込んでいる白人の男が数人。その中に彼らに囲まれるようにして歩いているアラブ系の顔をした男が一人。

 通り過ぎる一瞬、アラブ系の男とコウアンは目が合った。そいつの目はぎょろぎょろと左右に動き、口は必死に何かを喚いていた。

 一行は素早く通り過ぎた。それはまるで警官が犯罪者を連れて歩くのに似ていた。彼らの背中を見ていたコウアンの眉間に不快そうなしわが寄り、やがて彼の足がスキップするように奴らの後を追いかけたはじめた。人ごみでコウアンの視界から彼らの姿が時々消える。ちょっとどいてくれと言いながら彼は足を速めた。

 何度か見失いそうになりながらたどり着いた先は、コウアンも車を停めている場所だった。休日で沢山の車が駐車している。何処に行ったときょろきょろするコウアンの目に、黒のジャガーにアラブ系の男を押し込み、彼を挟むようにして乗り込む白人の男たちの姿が見えた。

 ふらりとコウアンの足がジャガーの方に行きかけた時だ。後ろから肩を掴まれた。スペンサーである。

「行ってはダメです」

 スペンサーはコウアンに姿勢を下げさせ、自身も下げると車の間から黒のジャガーの様子を伺った。場所が少し離れているので見えづらいが、それでも中で白人の男がアラブ系の男に暴行らしきものを加えているのか見て取れた。スペンサーは頷き、スマホを取り出した。

「警察に通報しましょう。これは我々の仕事ではありません」

 スペンサーの言葉にコウアンはやや興奮したように言った。やはりあれはそうかと。

「断言は出来ませんが、職務質問してもらうことで助けることも出来ます。ただ、もう我々は関わらないほうがいい。それだけは確かです」

 やがてスペンサーのスマホが警察とつながった。スペンサーが事情を説明している間、アラブ系の男を乗せた車は動かなかった。一体何をしているのだろうとコウアンはいぶかしみ、目を凝らした。

 白人の男たちの顔が一瞬見えた。彼らは笑顔だった。彼らはなにやらジャケットのようなものを、アラブ系の男に着せていた。抵抗しようとするのを無理やり着せているように見えた。

 やがて白人の男たちは車を降りてどこかに行ってしまった。中にはアラブ顔の男一人が取り残された。まさか、とコウアンは叫んで走り出した。その車に向かって。スペンサーが追いかけてくる。

「サー、いけません、ダメです、戻って!」

 駐車してある沢山の車の間をかいくぐり、コウアンは黒のジャガーにたどり着いた。ドアを開けようとしたがロックがかかっていた。中に乗っていたアラブ顔の男が何かを叫んでいる。彼が着せられたジャケットには爆弾が装備されていた。

 追いついたスペンサーがコウアンを押しのけ、身振りで中の男に顔を守るように伝え、銃を取り出すと台尻で車の窓ガラスをたたき壊し始めた。

 スペンサーの行為に通行人がびっくりして悲鳴を上げる。ようやくドアを開けることが出来たが、問題はそこからだった。アラブ系の男は早口の英語で、少しでも動くと爆発すると告げられたと言った。

「私から離れて下さい。お願いです。あなた方まで巻き添えにしたくない」 

 スペンサーの目が、タイムリミットを告げる数字を見る。

 時間はあと五分。周りに野次馬が集まり始めていた。車まで興味津々に覗きに来た彼らは事情を察知するとたちまち離れた。

 どうしたら、と呻くように言うスペンサー。コウアンがスマホを取り出して電話をかけ始めた。相手はミス・サードだ。

「どうなさいました? マイロード」

「忙しいところをすまんが、君は爆弾のことに詳しいか?」

「ええ」

「じゃ、今から画像を送るから、これの解除方法をスペンサーに教えてやってくれ」

「分かりました。時間はどの程度必要ですか?」

「一分だ。それ以上は待てん」

 承知しました、と声がして、すぐに返事が来た。

「ミスタリード。聞こえますか?」

「聞こえてる。早くしてくれ」

 ミス・サードの指示は明確だった。爆弾そのものに繋がっている導線を一つずつ解除し、最後に残った配線を切ること。コウアンが集まった群衆に、誰かはさみを持っていないかと聞くと、職人らしき男が、仕事で汚れた手から狭を渡してくれた。

 彼女の指示にしたがい、スペンサーは導線を切って行った。時間が刻一刻と減っていく。

「サーは外に出ててください」

「断る」

「こんなときに我儘言わないでくれますか?!」 

「スペンサー!」

「出て行かないなら、今すぐ撃ち殺しますよ」

 爆弾の導線を切りつつ言うボディガードの言葉とその口調に、コウアンは息を止められたように黙り込んだ。

「爆破で怪我をして死ぬくらいなら、そっちの方が楽に死ねますから。私にその選択をさせたいのなら、どうぞそこにいてください。私は貴方のボディガードとして最善の仕事をするだけです」

 そこまで言って、スペンサーはふりかえった。

「車で待っててください。必ず戻りますから」

 スペンサーは笑顔だった。コウアンはもう何も言わず、車の外に出た。野次馬の一人が彼の腕を引っ張り、車から離れさせた。






 自分の車に戻ったコウアンは、助手席にどっかりと座り込んだ。そしてスペンサーがいる車に目をやった。

 まだ解除されていないのか、ハサミを片手にミス・サードと話している。そして驚いたことにコウアンが車の中にいることを確認していた。手振りでロックするように指示をしてきている。コウアンは頷き、ロックはしていると手振りで返した。

 コウアンはそこから動かなかった。車で待ってろと言われたからだ。もし外をウロウロして大変なことになったら、また彼の仕事を増やすことになる。

 コウアンは顔を上げた。車の外から見える空は相変わらず青く澄んでいて、買い物客が時々そばを通り過ぎる。スペンサーがいるところに群がっている野次馬に珍しそうな目を向けて行く人間もいれば、野次馬に加わる人もいる。

 それ以外は、今の所何も起きていない。平和そのものだ。

 コウアンは窓を開けた。するとどこかの店からなのか、音楽が聞こえてきた。彼自身も何度か聞いたことがある歌だった。歌詞の内容が好きで、仕事で悩んでいる時や詰まった時に聴いていた。なんだか前向きになれそうだったから。気分が軽くなったから。コウアンが叩きつけるように窓を閉めるとそれは聞こえなくなった。

 彼はあえてスペンサーのいる方を見なかった。彼は浅い息を吐きながら、胃のあたりをさすった。そして思った。本当に、こんな仕事、一体誰が望んでやりたいものか!

 そんな彼の耳に、どよめきが聞こえてきた。

 野次馬たちが互いに抱き合っている。良かった良かったと声が聞えてくる。

 スペンサーが外したジャケットを駆け付けた警察に渡していた。

 コウアンは額の汗をぬぐった。その瞬間、彼の世界がまた、正常に動き出した。何もかも。彼は大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐きだした。

  

 



 


 アラブ顔の男の名前はムハンマド・アシャリだった。マスコミが連日、テロリストと名指しで報道している人物である。

 

 だが現場に来た警察官はムハンマドを逮捕しなかった。しなかったと言うより、出来なかったと言った方がいいかも知れない。

  

「そりゃ、出来ないでしょうね」

 あっさりと言ってのけたのはSSである。

「それは何故だ」

 SSの雇い主の疑問は至極当然だった。あれだけ騒がれていたのに逮捕できない理由とは何か。

 リー家の策謀担当は淡々と言ってのけた。その内容は驚愕に値するものだった。

「理由は簡単。テロ事件など存在しないからです」

 SSの言葉に、コウアンのみならず、当人であるムハンマドも腰を浮かした。SSはこともなげに話を続けた。

「起きても無い事件で人を逮捕することは不可能です。理由はそれだけです。総統閣下」

「何故そんなことが分かる?」

「逆にお尋ねしますが閣下、ムッシュ・ムハンマドはどうやって殺されかけたのです?」

 あ、とコウアンのみならずスペンサーも唸った。

「しかも事件当日ロンドンにおらず、仕掛けられた場所は地下鉄の線路です。能力的にも時間的にもムッシュムハンマドに犯行は不可能です。それに」

 SSはスマホを起動して動画を見せた。

「ロンドン地下鉄は通常運行しています」

 プラットホームに電車がなだれ込んでくる映像がそこにあった。日付はなんと事件の直後。爆破され、通行できないはずの線路を電車が通って駅まで来ているのである。

「しかし、そんな、だったらみんな気付くはず……」

 そう言ったのはスペンサーだ。SSは眠そうな目を彼に向けた。

「気づきません」

「そんな、嘘だろ?」

「気づきません」

「しかし」

 SSの目が、ナイフのように鋭くなった。

「現に貴方も閣下も、私が現場に行くまで彼をテロリストだと断定されておられた。ちがいますか?」

 その場に居合わせた面々は黙り込んだ。それを見たSSは言った。

 この件で問題なのはそこじゃありませんと。

「問題なのは、そうまでしてまで、彼を社会的に抹殺しようとしたことです」

 SSの目線が、探るようにムハンマドを見た。そして言った。何か心当たりは? と。

 ムハンマドは黙り込んだ。今、彼らがいるのはコウアンの車の中だった。車内のエアコンの音だけが、しばしその場を支配していた。

 ややあってムハンマドは意を決したように言った。

「それは……言えません。ただ、ご存知なら教えてほしい。香港の偉大なドラゴンとは何方のことでしょうか?」

 ムハンマドの言葉に、SSをのぞいたリー家の面々は困ったように顔を見合わせた。ムハンマドは縋るように言った。

「もし、もしご存知であれば教えていただきたい。それさえ分かったら私の役目は終わりです。あとはいつアラーの元に召されても悔いはない」

「……SS様はご存知ではありませんの?」

 と言ったのはSSと一緒に現場に来たミス・サードである。彼女の質問にSSは静かに目を閉じ、ややあってこう言った。

「心当たりがなくもないですが」

「本当ですか?!」

 ムハンマドの顔が喜色に輝いた。リー家の面々はと言うと、そんな奴いたっけ? みたいな感である。もちろんコウアンも。

 SSの視線が、コウアンに向いていた。スペンサーがその視線に気づいた。彼は言った。まさか、と。

「まさか、サーのことじゃないだろうな?」

「まさかじゃなくて、そうです」

 多分貴方以外にいない。SSの言葉に、コウアンは一瞬沈黙したのち、ホールドアップするかのように両手を上げた。

「ちょっとまて。私は別にカンフーの達人とかじゃないぞ」

 ケンカはお世辞にも強くないと言うコウアンに、SSは言った。突っ込むところはそこじゃありませんと。

 




 


 ――香港の偉大なドラゴンへ。突然、このような手紙を差し上げる無礼をお許し下さい。私はサリフ王国の第三王子、アンドレア・イスマールと申します。


 コウアンがムハンマドから受け取った手紙には、とても力強く、そして美しい文字でそう書かれていた。

 ちなみにダミーに用意してあった親書はとり上げられたが、本物の親書はムハンマドのスーツの裏地に縫い付けてあった。

 

「サリフ王国?」

「国連非加盟国です」SSが横から解説した。「最近、国内でクーデターか起きたとの情報が入っています」


 コウアンは頷いて読み進めた。


 手紙にはこう書いてあった。今、我が国は巨体な監獄になりつつあると。


 サリフ王国はずっと反政府ゲリラに悩まされ続けてきた。国民が彼らによって虐殺されているにもかかわらず、若者たちが反政府ゲリラに扇動されて革命を起こしてしまったのだ。

 革命により王家の人間は群衆の手で八つ裂きにされ、外国で留学中だったアンドレアだけが生き延びた。そんな彼も今追われている身である。現サリフ政権によって指名手配されているからだ。

 内乱で国は焼け野原になり、住む場所を失った人々は反政府ゲリラと革命軍によって収容所に入れられた。

 ムハンマドは語った。私の妻と子は首都のヤーシェに住んでいたと。

「それなのに、こんな写真が送られてきていた」

 ムハンマドの震える手が、スマホに送られた画像を見せた。そこには笑っている彼の妻と子の姿。そして緑豊かな首都の光景がうつしだされていた。

「一体、この写真で笑っているのは誰なのか。この場所は何処なのか」

 ムハンマドはたまりかねたように顔を覆って泣き出した。爆弾で殺されかけている時でさえ、泣きごと一つ悲鳴一つ上げなかった男が、体を震わせて泣いていた。

 ミス・サードがそんな彼の肩を抱き寄せる。


 手紙にはこう書いてあった。我々はなんとしても国を奪還し、民を救う。そのためには武器がいると。


 世界中で、我々の様な人間に武器を売ってくれるのはあなたしかいないと。


「どうか我々に、彼らと戦う力を。そして名誉ある死を選ぶ権利をお与え下さい。香港の偉大なドラゴンよ」


 手紙の最後に、そう締めくくられていた。 







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