とりあえず帰ってきたという話
香港。リー家の地下室。と言っても広い。迷宮のように広い。
特に、彼の住んでいる場所にたどり着くにはちょっとした冒険が必要だった。
彼の名前はSSと言う。
なぜそんな変な名前なのかと言われたら、たぶん彼はこう答えるだろう。
「本名を知られる時。それは私が死ぬ時だ」
何の略かも分からない。雇い主のコウアンも知らんのじゃないかと言われていた。
「SS様、いらっしゃいますか?」
彼付きのメイドがやって来たころ、SSは爪をといでいる最中だった。
「いますよ。どーぞ」
研がれた爪の粉が、彼の息に吹かれて床に落ちる。メイドはおずおずと部屋に入った。
どよーんと、しかしだだっ広い部屋。家具は簡素で、というかベッドと、彼が座る椅子の他は何もない。
メイドは自分の主人をしげしげと眺める。そして思う。毎日毎日、仕事でここから出てくる以外、この人は一体何をして過ごしているのだろうと。
爪とぎ以外に。
「何か用ですか?」
主人から言われ、メイドは我に返った。
「あの、旦那様がお帰りになりました。SS様にお話しがあるとのことで」
「私に?」
さあああ、と水音が聞こえる。SSの部屋は滝が流れていた。どこから引いたのか、それとも元々ここに流れているのか。それは御屋敷の住人も知らない。
ただ、マイナスイオンだけは豊富だった。それは間違いない。
ふっ、と彼は爪に向かって息を吹きかけた。
「私に話? はて」
彼は何か理解に苦しむような顔になった。メイドがそんな彼に恐る恐る話しかける。
「あの、どうかなさいましたか?」
「閣下はちゃんとお帰りになっていらっしゃるんですよね?」
「え? どう言う意味ですか?」
SS付きのメイドの実家は、深圳から川を渡ってきた農民である。だから性格はいたって単純明快で、そんな彼女にとって、主人の質問はいつも頭を悩ませるものだった。
「あの、仰る意味がよく」
分かりません、と彼女が言うと、SSはすたすたとやって来た。メイドが心の中で全力で後ずさる。お屋敷の中では面と向かって言う人間はいないが(スペンサー以外は)、この人物の外見はまるで幽霊のような姿をしていた。
真っ白い髪。抜けるような、というより完全に死人の様な肌の色。ひょろひょろの体。
そんなSSの指が、メイドの頭をコツコツ叩いた。
「私は、閣下が完璧に香港に帰れるルートを想定しました。それなのに私に話がある。何か不備が生じたのです。ですから聞いたのですよ」
「えーっとあの」
メイドは可愛い顔に汗をかいていた。彼女の頭は完全にパニクっていた。
それを見たSSはフウ、とため息をついた。
「仕方ありませんね。分かりやすく説明してあげましょう。我が総統閣下はどこかお怪我でもなさったんですか? 指が欠けた? それとも腕の一つでもなくなりましたか?」
「ぜ、全然お元気です!」
「お食事は? ちゃんとなさってますか?」
「あ、はい、あの」
メイドは言いよどんだ。
「あの……」
「何かあったんですね?」
メイドは言った。昼から葬式があると。その事で、話があるらしいと。
「葬式……」
「あ、はい、ですからその事でお話しがあるらしいです」
それを聞いたSSは天を仰ぎ、十字を切った。
可哀想に。ついにあの馬鹿も命運が尽きたか、と。
「勝手に殺さないで下さいよSSっ!」
コウアンの部屋でスペンサーがいきり立っていた。無理もない。
「葬式と言うからてっきり貴方かと」
コウアンのデスクに腰をかけて爪をとぐSS。違うわいっ、とスペンサー。それは残念と答えるSS。どういう意味だと喚くスペンサー。
潜水艦の中で急死したイワンの葬儀。本来なら本国の身内に返すべきなのだろうが、連絡先も分からずじまいだった。しかも彼の会社はもうない。
引き取り手がない遺体を、香港まで連れてきたというわけである。
コウアンはそう説明するとSSに資料のようなものを渡した。それはイワンの検死報告書だった。
「君の意見を聞きたい」
「そう言われましてもね……」
これだけでは推測しか、とSS。
「それでも構わん」
急かすように言うコウアンに、ちらっ、とSSは視線を走らせた。
「なんだ?」
「もしかしてちょっと不安になっていらっしゃいます? 私を急きょ呼んだのはこのためですか?」
すると横からスペンサーが割り込んできた。
「不安になって当然だろう。御託はいいからさっさと分析してくれ」
「聞いたところで安心できるもんじゃないでしょうに……」
だから私が迎えに行くって言ったのに、とSSは言いながら、ものすごい勢いで資料に目を通した。
「どうだ?」
「まず結論から。何もご心配になることはありません」
「なぜそう言い切れる」
「この男の死因は、頭の中に埋め込まれていた何かが爆発したからですよ」
病気の類ではありませんとSSは言い切った。
二人は顔を見合わせた。
「しかし」スペンサーが報告書をひったくって読んだ。「そんなこと、どこにも……書かれて」
「書くわけないじゃないですか……。やはり、私の不手際だったようです。閣下」
SSは胸に手を当ててコウアンに頭を下げた。
「どう言う意味だね?」
「手配した人間に、何も後ろ暗いところは無かったはずなのですが」
どうやら私のチェックミスだったようです、とSSは言った。
「不愉快な思いをさせてしまい、まことに申し訳ございません」
コウアンはかぶりを振った。
「君のせいじゃない」
「てゆーかちょっと待って」スペンサーがまた割り込んできた。「原潜の乗組員の中に刺客がいたってことか?」
「それ以外どう私の言葉を解釈するんです」
「ならなぜ、俺たちは無事だったんだ?」
素朴なスペンサーの問いに、SSは肩をすくめた。
「理由は単純。我々を敵に回したくなかった。実際、こちらにはそれだけの力があります」
ですが、とSSは言った。
「これ以上深入りしないことです」
命が惜しかったらね、とSSは付け加えるのを忘れなかった。
「ここなら、この御仁もゆっくりとおやすみになれましょう」
シーグラムのサングラスに夕日が反射した。建てられた墓は、島の中でも少し小高い丘に上にあった。そこから、香港の入り江の景色がよく見えた。
「君の敷地内で申し訳ない。本当にいいのか?」
「構いませんよ。そんなことより、一つ、伺ってよろしいですか?社長」
「なんだい?」
「なぜ、彼に武器をお売りになったんです?」
リー家は無条件で武器を売るわけではない。いくら金を持っていても、売らない時もある。
それは代々、彼らに受け継がれてきた精神のようなものだった。
誇りなき者に、武器は売らない。それが、リー家に固く伝わる家訓であった。
「彼がそれに見合う人物だったから。それだけだ。今でもそう思ってるよ」
「なるほど。ただ、少し現実的な話もせねばなりません。マイプレジデント」
シーグラムは太い首をカキッとまわしてコウアンを見た。
「赤字です。それも相当な額の」
シーグラムは言う。リー家は武器売買のほかにも、油田や鉱山を抱えている。だから補てんは出来る。だが、本業で利益を出す努力をしないといけないと。
コウアンは墓の前で座り込んだ。
「君の言いたいことも分かるが、こういう人を相手に商売をしていたら、確実に儲かる方法を探すこと自体が困難だ」
イワンの場合、彼の故郷の村が何度も襲われ、抵抗するための武器がほしいと言われたのがきっかけだった。
たくさんたくさん村の人間が死んだ。これ以上、誰も死なせるわけにはいかない、と。
だが世の常として、そう言う人間に限って、金を持っていないものなのである。
「本当にそれだけですか?」
「何が言いたい?」
コウアンの口調は鋭かった。シーグラムはサングラスを鼻の上に押し上げた。
「助けを求める人間がいたら、見殺しに出来ない。それが貴方です」
「シーグラム」
「そのお気持ちは分かります。しかし……」
「シーグラム」
「今のやり方を続けていては……」
コウアンはすくっ、と立ち上がった。
「君の言いたいことは分かる。けれど、一人くらいいてもいいんじゃないか?」
「社長」
「報われないと分かっていても、本当の意味で人助けできる人間が」
香港の海に日が沈みつつあった。そうすると香港島の明かりがくっきりと浮かび上がりつつあった。まるでニューヨークの摩天楼のようなその輝き。誰もが、香港はそんなものだと信じて疑わない輝き。
だが、外の世界の人間は知らない。それは外の世界の人間がつくった偽りの輝きであることに。
「私の先祖はこの地に逃れ、この地の人達に助けられてここまでやって来た。偽りの正義がもてはやされた世界で、寒村に過ぎない住人たちが、先祖を守ってくれたんだ……何の見返りもないのに」
「……」
「なら、恩返しをするのか筋だ。私はそう思う。本当の意味で、誠実に、何かを守ろうとしている人を助ける。それが私の仕事だといつも思っている」
「社長、あの」
「君のオフィスに戻ろう。シーグラム。ミス・サードが食事を作って待っててくれているそうだ」
コウアンはそれ以上何も言わずに踵を返した。その背中を見ながら、シーグラムはひとり呟いていた。
……本当に、それだけですか?と。
離島のシーグラムのオフィ……もとい、家。リー家のブレーンが集まっていた。
台所ではミス・サードが料理の腕を振るい、ジェイが隣で手伝っている。居間ではSSとスペンサーがくつろいでいた。
「ま、とりあえず、ご無事の帰還を祝って」
SSがワインの栓を抜いた。
「てゆーか」スペンサーが仏頂面で注がれたワインを飲み干した。「あれ、何の船だったんです?」
「いきなり何の話です?」
自分もワインを注ぎつつ言うSSに、スペンサーは言った。原潜を降ろしてもらったコウアンを待ち構えていたのは、入れ墨やらモヒカン頭やらの男たちが乗った……とまではいかないが、カタギの船じゃないのは確かだった。怪しさ満載の、というか後ろ暗そーな人間しか乗っていなかったと。
「一番安全でしょ?」
今回のは乗り心地も悪くなかったはずですよと言うSS。スペンサーは唸った。
「やっぱ海賊船だったか……」
「密輸船です」
「同じですよ」
突っ込むところはそこじゃないとスペンサーはぼやいた。
「じゃ、普通の客船が良かったとでも?」
「今後出来たらそうしてください」
乗っていた時のことを思い出したのか、スペンサーの顔がいささかゲッソリして見える。そんな彼にSSはわずかではあるが真顔になった。
「武装した集団が乗り込んで来たら、手の打ちようがありませんがそれでも?」
SSはテーブルに座るとやすりを取り出し、また爪をとぎ始めた。
「一緒に乗ってる奴らも十分物騒じゃないですかっ!」
密輸船って、南米あたりに放り出されたらどうしてくれるんですとスペンサーが喚いていると、コウアンがシーグラムと帰って来た。ちょうど料理も出来上がった。それを見たSSが言った。食べる前に話すことがあると。
「食欲が無くなるかも知れませんが、満腹で聞く話でもありませんので」
SSの言葉に、ブレーンの面々のみならず、コウアンも深刻な面持ちで黙り込んだ。
「閣下の話だと、彼は手術着を着ていたそうですね」
間違いないですか? とSSに言われてコウアンは頷いた。
「多分あれはそうだと思うんだが、なあ、スペンサー」
コウアンの言葉に、スペンサーがうなずいた。間違いありませんと。
それを聞いたSSは資料をパラパラめくりながら言った。
「ロヴィチ氏が何らかの病気でオペをうけるのであれば自分の足で歩いて病院に行かれるでしょうから、そうではないのなら理由は一つしかありませんね」
「それは、何だ? SS」
「取り出すためです。彼の脳から」
マイクロチップをね、とSS。
「何? チップ?」
スペンサーが身を乗り出す。
「ええ、そうです。おそらく、彼の生死を問わずに」
「ちょっと待て、話が見えない。チップを取り出すって」
急きこむように言うスペンサーを手で制し、コウアンはSSに続きを話すように促した。
「ここには書いていませんでしたが、確信がありましたので、遺体を確かめさせていただいたのです」
SSはスーツのポケットから一枚の写真を取り出した。そこにはイワンの遺体が映っていた。
「確かめるって……」
ミス・サードが青い顔をして言うと、SSは言った。
「彼の脳内です」
また、重い沈黙。さっきとは違う意味の沈黙が場を支配する。
「私も医者ではないのではっきりとは言えませんが、彼の頭は中から爆発のような形で破壊されていた」
ぱさ、と検死報告書が居間のテーブルの上に投げ出された。
「爆弾が仕掛けられていた、ということですか?」
冷静に質問するミス・サードに、SSは言った。
「技術畑の貴女なら私の言うことがうすうす分かるのでは? 彼の頭に埋め込まれていた爆薬とはマイクロチップのことだと」
それが、何かの周波数によって爆発し、イワンの命を奪った。
「口封じですかね」
と言うスペンサーに、SSは言った。それはどうでしょうと。
「もし口封じするために埋めたのなら、ずいぶんと凝ったところに埋めたものです。これも推測にすぎませんが、このチップが入っていた場所は、そうそう簡単に手が出せる領域ではなかったようなので」
SSは言う。彼の脳内は視床下部のところが綺麗に吹っ飛んでいたと。
「普通の外科医なら極力避けたい場所。そこにチップはあったと思われます。ほぼ間違いない。口封じなら、もっと別の場所にすると思いますよ。もっとも、取り出しにくい所に仕込むのも、意味がないわけではないとは思いますけどね」
SSの言葉に、コウアンは唸った。
「ややこしいことになりそうか。SS」
ややあってそう言った雇い主の言葉に、SSは首をふった。
「それは大丈夫ですよ」
SSは言う。もしややこしいことになるのなら、今頃、お屋敷が襲撃されていると。
「何?」
「だって考えても見てください。もし口封じに殺したのなら、イワンからあなたになにか情報が渡っているかもしれないと恐れるのが普通でしょう」
だったらこちらも無事なわけがないとSSは言った。
「ただし、直接手を下してこなかった。理由は全面的に敵に回したくないから。ゆえに襲撃されるとしたら、使用人の一人か二人くらいが犠牲になったでしょうね。脅しとして。そんなところでしょうか」
コウアンの喉が大きく音を立てる。スペンサーが隣で心配そうにそんな彼を見る。
「しかしそれも、どうにも適切ではないような気がします」
「と言うと?」とコウアン。
「これも推測の域を出ないのですが」
と言ってまたSSは検死報告書をめくった。
「このチップを入れたのは、他ならぬミスタ・ロヴィチその人だったのではないかとね」
「そんな馬鹿な」スペンサーがいきり立った。「爆弾を自分から入れる? バカも休み休み言えよ」
「そんなに馬鹿な話でもありませんよ」
SSの表情はあくまで冷静だった。
「例えば、です。なにかとてつもない極秘ファイルを手に入れたとします。貴方が。それには大金を払うだけの、それも命すら買えるほどの大金を払うだけの値打ちがあるとしたら? 貴方はどうします?」
「そりゃ、隠す……」
「どこにですか?」
「それは、その」
SSはつんつん、と自分の頭を指でつついた。
「一番、無くさない場所はここでは?」
しかも小さなものですよね? とSS。
「しかし、その推理は……」
「無理があると仰いますか? 総統閣下」
眠そうな顔をしつつ、SSは言葉を続けた。
「肝心なのは、彼を拉致してまでそれを取り出そうとしたことです。何故そんなことをする必要があったのでしょうね? 答えは一つしかありません。そのチップは、そいつらにとってはなくてはならないものだったのです。口封じに入れていたのなら、わざわざ拉致する必要もない。オペ室の必要もない。爆発させてしまえばいいのですから」
しかし彼らはそうした。そしてコウアンにイワンを奪取する形で奪われ、連れていかれようとした。脳内に例のチップを入れたまま。
「そしてチップは爆破されてしまった。何故そんなことが可能だったのかまでは分かりませんが、彼らにそれを可能とするだけの技術があったのでしょう。つまり」
SSは言った。あのチップには、我々の様な人間に見られると困る情報が入っていたのだと。
「だから、原潜の乗組員の中に紛れ込ませたのです」
そこまで語って、SSは大きくため息をついた。
また沈黙が場を支配する。ミス・サードが、お料理、温め直してきますねといって席をはずした。
「私に言えることはただ一つです。総統閣下」
幽霊の様な顔をしたリー家のブレーンは、コウアンを射抜くように見た。たじろぐ相手にSSは言った。絶対にこの件に関しては手を出してはいけませんと。
「昼間も言いましたが、命が惜しかったら手を出さないことです。拉致してまで取り出そうとした機密。それをあっさりと爆破してしまう相手です。絶対に、これ以上、手を出さないことです。閣下」
分かった、と答えるコウアンの声は硬かった。その場に居合わせた者たちの表情も硬かった。
重い沈黙が再び、場を支配した。
食事会は結局、開かれることはなかった。