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こうゆうハプニングはつきものの仕事です、という話

 香港と聞くとビル街を連想する人は多いだろうが、離島があることを連想する人はそんなにいないだろう。でも意外と香港は多くの小さな島を抱えていて、休日ともなると、都会の生活に疲れた人たちが休暇を楽しみに訪れる。一日島を回ったり、名物のスイーツを食べたりして思い思いに過ごすのである。


 そんな離島の一つに、一般の人が立ち入れない島があった。
















 どうして、自分だけこんな目に。


 ジェイ・ホワンは船着き場で釣り糸を垂れながら、いつもそう思うのだった。ちなみに、釣りは彼の趣味ではない。それどころか、この世で最も嫌いなものと言っていい。 

 いや、たぶん、今の仕事についてから嫌いになった。それは間違いない。


 ジェイの仕事は秘書だった。正確には雑用係と言った方がいいかも知れない。


 彼の上司はアーノルド・シーグラムと言い、武器商人リー商会の財務担当をしていた。その秘書の彼が、どうして雑用なのかと言ったら、シーグラムがなんでもやってしまうからだ。帳簿から計算から収支から、書類作成から郵便物の管理から何から何まで。


 だからジェイは雑用しかやることがないのである。


 と言っても、暇なわけじゃない。ジェイに課せられた仕事は過酷なものだった。この釣りもその一つだ。

 今晩のおかずを釣ってこいと命令されている。

 でもさっきから魚は全然かからなかった。

 ジェイはクーラーボックスの中身を見た。何度見ても、中身は空のままだった。






 シーグラムの家は離島のちょうど真ん中にある。ここには、シーグラムの家のほかは何も無い。あるとしたら鶏小屋と畑くらいなものだ。

 コケーッコッコッコと鳴く鶏に突かれながら、ジェイは卵を集めると家に向かった。今日も卵だ、とつぶやきながら。

 家の中に入ると、むうっ、とした湿気と熱気が襲ってくる。窓は開けはなしてあるが、香港の湿気と熱気はいかんともしがたい。

 クーラーを付ければよさそうなものだが、そんなものは、ここにはない。

 ジェイがオムレツを作っていると、上から算盤の音が聞こえてきた。ものすごい速さである。このご時世で算盤?と言われそうだが、これもシーグラムのこだわりと言うか、なんというか……。

 それでも、リー家の財産管理をそれ一つでやってしまうのだから化け物と言うよりほかはない。

 そろばんの音がやんだ。ちょうどその頃に晩飯も出来上がった。献立はオムレツ。バターライスとサラダ。確か昨日もこれだった。とジェイは半ば朦朧とした意識の中でそう思うのだった。





 シーグラムのオフィスは何から何まできっちり整っていた。紙の歪み一つない。もちろんそれも彼がやる。人の手に任せない。

 高い天井にびっしりと帳簿が並んでいる。シーグラムはその中身をすべて記憶していた。

 シーグラムはここに来る前、とある大手証券会社の経理を担当していた。そこで彼は徹底した財産管理の腕を発揮し、傾いた会社を立て直した。

 その手腕を買ったのがコウアンの親だった。決して傾いているわけではないが、いつ何時、どうなるか分からない不安定な商売をしている現状で、信頼できる金庫番が欲しかったのだと言う。

 そんなシーグラムの外見はと言うと……。


 筋肉ぱつぱつ。そしていかつい顔。角刈りの頭。サングラスまでしている。


 あたかも、昔アメリカの某州知事をやっていた、俳優を連想させるような外見。


 そんな上司を見て、ぜってー、やる仕事間違ってる。ジェイはそんな風に思うのだった。




 そんな上司と食事をするのは、たぶん自分の仕事の中で一番きつい仕事だ。

 オムレツをかみしめながらジェイはいつも思う。

 てゆうか、飯くらい一人で食えよと言いたくなる。こんな図体してるくせに寂しがり屋なんだから。

「ジェイ」

 かたん、とフォークを置く音がする。ジェイは身構えた。何かお説教が始まる合図である。

「あ、はい」

 なんすか?と姿勢を正したジェイに、シーグラムは一枚の紙きれを差し出した。

「これは何だ」

 ジェイは眼鏡をかけて受け取った紙きれを見た。それは彼が上司に渡したものだった。

 インドネシアの某港への渡航費用と書かれてある。

「あ、これは……」

「一体何をしに行くつもりだ」

 上司の顔の筋肉がひくつくのがジェイには分かる。渡航費用はファーストクラスの旅客機のチケット代だった。雑用のお前ごときがと言いたいのだろう。

 それとも、飯食う相手がいなくなるからか。その辺はよくわからないが。

「あ、いやこれは僕が使うんじゃないんです……」

 ジェイはまた姿勢を正した。

「SS様からです。彼から依頼されまして」

「なんだと!?」

 へし折れそうな勢いでシーグラムはフォークを握りしめた。もちろん折れなかったが。

 ジェイはなだめるように言った。

「あーその、なんでも、コウアン様を迎えに行くのでってことなんですけど」

「なぜヤツが行く必要がある。スペンサーが付いているだろう」

「まあそれはそうなんですけど」

 心配だったんじゃないんですか?とジェイが言うと、彼の上司はフンッ、と鼻を鳴らした。

「ならばファーストクラスの必要などない。やつにはエコノミークラスすら勿体ない。荷物扱いで十分だ」

「でも、ロシアの港から、逃走用の乗り物を手配されたのはSS様ですし……」

 いいんじゃないですか?とジェイが言うと、また彼の上司は鼻を鳴らした。

「自分の力を誇示したかっただけだろう。わざわざ大げさに原潜なんか用意して」

 いらん出費が重なったではないかとシーグラムは言い、レタスを口に放り込んだ。

 バキ、バキ、バキ、とレタスがまるでシュレッダーの中に入れられたように細切れになる。

「仕方ないですよ」

 ジェイはバターライスを大事そうに食べた。事実、大事だった。ここにはデザートなどとと言うものは存在しないからだ。

「今回のコウアン様のやったことを見たら、用心したほうがいいって思いますもん」

 しかもケンカ売った相手が誰かワカンナイでしょ?とジェイ。

「原潜が一番安全と言えば安全じゃないですかね?」

 と言いつつ、リー家の金庫番の秘書は、最後のバターライスの一粒をかみしめるのだった。 







 コウアンにあてがわれたスペースは、スペンサーと対になってるベッドだった。


 原潜の中は狭い。廊下も、人が行違う時はどちらかが道を譲らねばならない。そんな原潜の寝室はカプセルのようなものである。手足を伸ばすのも、どうかしたら不自由する。

 ただ、東洋人のコウアンにとってはそんなに狭いものではなかった。背が低いというわけじゃないが、横幅は十分余裕があった。

 そんな中、スペンサーは苦戦していた。寝返りを打つのもやっとのようだ。

「君は体が大きいからな」

「まったく」

 ぶは、とベッドから抜け出したスペンサーは、水に潜っていた大型犬のように体を震わせた。

「なんでこんなの手配したんでしょうねぇ」

「さあね」

 コウアンは狭い場所で器用に足を組んだ。

 原潜を手配したのは彼のブレーンの一人である。詳しい話は聞いていない。分かっているのは、この原潜はロシア海軍のもので、当然ながら乗組員は全員正規軍の連中であるということだけだった。

 いつもながらとコウアンは思う。そんなコネをどこで掴んでくるのかと。


 とそこに船員がやって来た。そろそろ食事だという。


 船員に案内され、二人は原潜の狭い廊下を歩いた。

「いかがですか? 少しは慣れましたか?」

「悪くないね。まるで隠れ家にいるようだよ」

「隠れ家ですか。そいつはいい」

「私は早く降りたいです」

 せまっ苦しいのはどうも苦手で、とスペンサー。船員は白い歯を見せた。

「目的地までは一週間の予定です。それまでどうかご辛抱を」

 食堂は大勢の乗組員が集まっていて、コウアンとスペンサーの姿を見ると快く席を開けてくれた。原潜の食事はかなり本格的で、焼き立てのパンの匂いが漂ってくる。何週間、下手をすると何か月もここで過ごすことになる乗組員のためだろう。せめて食事だけでもということらしい。

「もう一人の方には、一応お届けはしておきましたが」

 さっきの船員が困ったような顔を見せた。

「昨日も何も召し上がらなくて……」

 それを聞いたコウアンは自分の食事もそこそこに立ち上がった。

「どうなさいました?」

「様子を見てくる」

 コウアンは背広を背中に引っ掛けた。

「子供じゃあるまいし、貴方が気にかけることは――」

 腰を浮かすスペンサーにコウアンは言った。脱出してから今日でおよそ二日。その間、なにも口にしていないことになる、と。


「さすがに体を壊す。だから少し話をしてくる」





 イワンはあてがわれたベッドに腰かけ、うつむいていた。コウアンが来たことにも気づいていない。

 こんこん、と二段ベッドの柱を叩いて、コウアンは彼に自分の存在を気づかせた。イワンがほんのわずかに首をコウアンの方に向ける。

「何も召し上がらないと聞いて」

 簡易テーブルの上のトレイに、ボルシチや黒パン、酢漬けの野菜とクワスが乗っていたが、どれも手を付けられていなかった。

「美味しいですよ。こんな場所の食事と思って正直、期待はしてませんでしたが、どうしてどうして」

 イワンは返事をしなかった。その代わりコウアンから目をそらした。

「隣に座っても?」

「……」

「座りますよ」

 かたくなにうつむいたままのイワンの隣に、コウアンは半ば強引に座った。

 イワンの視線の先には床があった。灰色の、なにもない床が。彼はずっとその一点を見つめていた。まるでそうすることが心を落ち着ける唯一の方法でもあるかのように。

 コウアンは大きく息を吸い込み、肩を上下させた。

「いつまでも、そうしているわけにも行きますまい。そろそろ、決断して踏み出さねばならないのでは?」

 あなたと、貴方の部下のためにもとコウアンは言った。

「とりあえず、助かったのです。なら、これからのことを考えねばなりません。でも何よりその前に、食べねばなりません」

 そうせねば力が出ません、とコウアンは言った。 

「ご心配があまりにも大きいと食事が喉を通らない。よくあることです。なら、少しでいいから、私に話してくださいませんか?」

 それを聞いたイワンが、ほんのわずかに肩を震わせた。

「いろいろありましたが、その事で貴方を責めるつもりはありません。私はあくまで、あなたに元気になってもらいたい。それだけです」

 イワンの両手がわずかに震え出した。

「話してしまえば楽になる。そうではありませんか? 貴方自身もそう思っておられませんか?」

 イワンの両手が激しく震え出した。

「ならば、楽になってください。私にすべてお話しください。決して悪いようには……」

 コウアンはその先を続けることは出来なかった。なぜなら相手からトレイの中身をぶちまけられたからだ。いや、正確にはぶちまけられそうになったと言った方がいいかも知れない。

 その前に、スペンサーに阻まれた。トレイの中身はイワンの方にぶちまけられた。

「何をしやがるこの野郎!」

 トレイが大きな音を立てて床にぶつかりバウンドする。

「ミスタ・ロヴィッチッ」

 近付こうとするコウアンに、イワンは叫んだ。


「俺のことは放っておいてくれ!」


 かん、かん、かん、からからから、とトレイの動きが止まった。乗組員たちが何の騒ぎだと覗き込む中、ボルシチまみれになった一人の男が、背中を丸めてむせび泣いていた。







「やはり助けなきゃよかったんですよ……あんなの」

 その日一日、いろいろと後始末をし、くたびれ果てた彼らは早々にベッドに引き上げた。

「命がけで助けたってのに礼の言葉もないどころか、あんな態度」

「そうは言うが、彼に死なれては私が困る」

 代金未納、とコウアンは簡潔に言いながら書物のページをめくった。

「それに、興味がないわけじゃない」

「何の話です?」

「覚えているか? 彼を助け出した時のことを」

 なぜあんな格好をしていたんだろうな? とコウアン。

「あれは手術着だろう。違うかね?」

「そうですが」

「何をされようとしていたのか、だな。あまり考えたくはないが」

 ベッドから顔を出してスペンサーは言った。

「そうゆう話はSSあたりにでも任せます」

 わたしゃ専門外ですとスペンサー。

「そうだったな」

「でも、あんまり深入りしない方がいいような気もしますよ。サー」

 スペンサーは顔をひっこめ、ベッドに窮屈そうに横たわった。

「深入りしないほうがいいと君は思うのか?」

「ええ」

 ベッドの中で雇い主に釘を刺すボデイガードの顔は、コウアンから見えなかった。

 コウアンは食い下がるように言った。

「深入りはしないよ。話を聞いてみたいだけだ」

「それでも同じですよ」

 しゃっ、とコウアンのベッドカーテンが開いた。

「聞いてしまったからには、後戻りできないこともありますよ。サー」

 テディペアのような瞳が、心配そうにコウアンを見つめていた。

「後戻りできない、か」コウアンは書物を閉じた。「そう言うところを見ると、経験がありそうだな」

「前の仕事柄、首突っ込まないほうがいいことは山ほど聞かされましたから」

 スペンサーの前職はヤードの警官だった。

「政治家の汚職に闇取引、その他もろもろエトセトラ。知ってるばっかりに命を狙われこともありますからね」

 触らぬ神にたたりなしです。スペンサーはそう言って大きな両肩を小さくすくめて見せた。

「そんなもんかね」

「でもま、それを言うのなら、私なんかをボディガードにしてること自体がすでに危ないことですけどね」

「おいおいおい、何を言い出すんだ」

 とすん、とスペンサーはコウアンのベッドに腰かけ、悪戯っぽく笑った。

「あなたの知らない過去があるかも知れませんよ。そう思われたことは無いんですか?元ヤードの警官なんて真っ赤なウソ。実は危ない集団の一員だった、なんてね」

「スペンサー」

「すみません」

 だがスペンサーの謝罪の言葉に、コウアンは首を振った。

「いや、そうじゃない」

「?」

「もしそうだとしても、君を信じることに変わりはない」

 コウアンは起き上がり、スペンサーの目を真っ直ぐに見返した。

「現に、今まで何度も助けてもらったじゃないか」

「あ、いやそれは」もごもごとスペンサーは口ごもった。「でもそれだけで信じられるんですか?」

「君が好きだからってのもあるかな」

 コウアンは唇になぜか色っぽい笑みを浮かべた。スペンサーが耳まで真っ赤になった。

「おいおい、誤解するなよ、そう言う意味じゃないから」

「分かってますよ」

 スペンサーは髪の毛をわしゃわしゃとかき回し、ふーっ、と大きなため息をついた。

「どうしたんだ?」

「ちょっと心配になって。この原潜ですよ。ほんとに香港に行くんですかね?」

「急にどうしたんだ」

「だって、手配した男が男ですからね」スペンサーの顔はわずかに引きつっていた。「もしかしたら、南極あたりに放り出されるんじゃないかと」

 コウアンは笑いだした。

「笑い事じゃありませんよ」スペンサーはジトッとコウアンを見た。「あいつが今まで何やらかしたのか。もう忘れたんですか?」

「何があったっけ?」

「一度、海賊船に無理矢理乗せられたことがあったじゃないですか」

 スペンサーの眉毛はへの字に曲がっていた。

「暗ーい船室に閉じ込められて」

 生きた心地しませんでしたよとスペンサー。

「そう言えばそんなことあったな」

 とコウアンは言い、はっ、と何か思い出したような顔になった。

「どうしました?」

「そう言えば、近くの港で降ろしてもらって、そこから船に乗り換えるらしいと聞いたんだが……」

 それを聞いたスペンサーの顔から、血の気が引いた。

「まさか」

「しかしものは考えようだぞ。スペンサー。海賊船襲おうなんてやつはいないだろう」

 安全だ、と言い切るコウアン。そんな彼にあきれたような、感心したような顔で、どーしてそうポジティブなんですかねと言うスペンサーに、コウアンは苦笑いして答えた。


 ポジティブでなきゃやってられんよ。こんな仕事、と。





 それから数日たって、イワンの態度が徐々に軟化してきた。さすがに悩み続けることに疲れたのか、それとも、改めて助かったことを実感し始めたのか。

 食事もとるようになり、まともに話すようになりつつあった。

 それでも、コウアンに真相を話すことだけは頑迷に避け続けた。そんなある日。


 イワンから改めて話したいことがあるとコウアンに連絡があった。


「買ったものの代金は必ずお支払いする」

 医務室にて、ベッドにこそ座っていたが、イワンは姿勢を正していた。

「それは構いませんが」

「何か当てがあるんですか?」

 スペンサーがずけずけと言った。

「スペンサー」

「だってそうでしょ。この御仁の会社は事実上潰れたと聞きますよ。どうやって払うんです?」

「スペンサー!」

 コウアンの声に、不服そうにスペンサーは黙り込んだ。

「失礼しました、どうかお気を悪くなさいませんように」

「いや、こちらの方の言う通りです」

 イワンは肩を落とした。

「だが、払うあてはある。それだけは確かです。ただ」

 イワンは口ごもった。

「ミスタ・ロヴィッチ?」

「ミスタコウアン、私は……貴方が本当に気に入ってしまった。だから、だから、巻き込みたく……ないのです」

 コウアンはきょとんとした顔をし、盛大に吹きだした。

「今更何を言ってんだ!」スペンサーが割り込んできた。「あんた、うちのボスを殺そうとしただろっ?!」

「だから、それは悪かったと」

「謝ってすむんだったらケーサツ要らんわっ」

「スペンサー、ちょっと黙っててくれ」

 コウアンは笑いをおさめるとイワンに向き直った。

「つまり、私が話を聞いた時点で、私が巻き込まれる。そう言いたいのですね?」

 イワンはうつむき、ややあって小さく「そうだ」とつぶやくように言った。

「完全に、巻き込まれる。それは間違いない」

「お気持ちはありがたいですが、それだと貴方が苦しいのでは?」

「しかし」

「一人で抱え込まず、私どもに相談してください。こう見えても東洋一の財閥のつもりですから」

 それを聞いたスペンサーは言った。もしかしたら海賊船に乗ることになるかも知れませんけどね、と。

「海賊船?」

「こっちの話です」

 お気になさいませんように。にっこり笑ってコウアンは言った。




 その日は珍しく、イワンは食堂で食事をとった。ほかの船員が話しかけるのにも応じていた。ロシア語で話すことは、彼にとっても楽なことだったのだろう。コウアンと話しているよりも楽しそうだった。

 食事がすむと、コウアンはチェスをやろうとスペンサーを誘った。それを聞いた船員たちが周りに集まって来た。

「あなたもいかがです?ミスタ・ロヴィッチ」

「いや、私は結構」

 少し休みます、とイワンは言い、食堂を後にした。

「待ったなしですよ」

 スペンサーが関節を鳴らした。

「そちらこそ」

 やがて勝負が始まった。情勢はどうやらスペンサーが劣勢らしく、彼が置こうとする駒に、船員が口を出す。スペンサーがわしゃわしゃと髪の毛をかき回し、手を変える。するとまた、そこもダメと上から声が降ってくる。

「だー、もうっ、さっきからうるさいぞ外野」

「チェックメイト」

「えっ?」

 茫然とするスペンサーの目の前で、コウアンが彼のキングの駒を振って見せた。

「マジですか……」

「もう一回やるかい?」

「もちろん」

 だが次もあっという間にスペンサーが負けてしまった。

「あれれれれれ」

 がしがしがし、とスペンサーは髪の毛をかき回した。

「すみません、もう一回」

「何度やっても同じだよ。君が負ける」

「ずいぶんと自信ありげですね」むっ、とした顔でスペンサーが言った。「次は分かりませんよ」

「いや、君が負けるよ。まあ、勝つのは悪い気はしないがね」

 そう言ってコウアンはいきなりスペンサーの額をごつん、と殴った。

「いてっ何するんですかっっ!?」

「負けるなら、もう少し上手い負け方をしないとな」コウアンは、口は笑っていたが目は笑っていなかった。「それが出来ないのなら、最初から勝ちに行くことだ」

「あ、あの」

「別に怒っちゃいないよ。だが、次に本気を出さなかったら」

 コウアンの目つきが鋭くなった。

「さすがの私も怒るぞ」

 コウアンの表情を見たスペンサーは、なぜか生唾をのみ込んだ。

「分かりました、では次は本気で」

 スペンサーは額の汗をぬぐうと、唇を引き締め、雇い主を見返した。

「良い顔だ」コウアンは切れ長の目を細めた。「君はそうでなくちゃな」


 駒が並び直された。スペンサーは関節を鳴らし、最初の一手を打とうとした。その時だった。


 緊急の連絡が彼らにもたらされた。

 それは、イワンが死んでいるという知らせだった。


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