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キャビアにはシャンパン、とゆう話

 イワンを拉致したワゴンはまだハバロフスクの街中にいた。

 ワゴンは囚人の護送車のようになっていて、黒の軍用ジャケットの連中が数人、向かい合わせて座っていた。ワゴンには沢山荷物が積み込まれていたが、それらにまじって床の上で、大の男が荷物のように転がっていた。両手両足を縛られ、涙を流して呻いている。さるぐつわをはめられた口から吐しゃ物が漏れている。イワンだ。

 その傍らに、例の女がいた。

 揺れるワゴンの中で女はボクサーのように軽快なステップを踏踏んでいた。何かタイミングを計っているようだ。イワンの充血した目が左右に揺れる女の足を見る。

 女が気合いもろともイワンの体にキックを浴びせた。蹴られた大の男の体が座っている黒ジャケットの足にぶつかる。

 体を二つに折り曲げるイワン。女はそんな彼に近づくと胸ぐらをつかんだ。イワンは太ってはいないが痩せているわけではない。背丈もスラブ民族の男性の平均はある。しかも両手両足縛られ、自力で動くことが出来ない。その体を、片手で女は自分の顔の位置まで引きずりあげた。

 女は大きく深呼吸すると満面の笑みをイワンに見せつけ――思い切り殴りつけた。イワンの体が吹っ飛び、床に転がる。そこにまた女が駆け寄りキックをくらわせた。

「おい、そろそろやめろ」

 黒ジャケットの一人が女にそう声をかけた。とたんに女の目が三角に釣り上がった。さっきまで笑っていた口が一気にへの字に曲がる。そんな女の鼻先に銃が突きつけられた。

「殴るのを止めなかったらお前を殺す」

 注意され、女はしばらく大人しく座っていた。が、それは少しの間だけだった。女は子供のように頬を膨らませ、殴るのを止めさせた相手に向かって怒鳴った。

「あんた、名前は?」

「聞いてどうする」

 黒ジャケットの一団は全員覆面していた。女は蛇の様な目で相手を睨み付けた。

「うるさいわね! どうしようと私の勝手でしょ。いちいち指図しないで!」

 とその時だった。ワゴンが急に大きく蛇行した。女が座席から転がり落ちた。黒ジャケットらも何事かと腰を浮かせる。女は運悪くイワンが吐いた吐しゃ物の上にダイブするように落ちたため、ゲロまみれになった。運転手がハンドルを必死で切る。タイヤがスリップする音が甲高く響く。

「ちょっと何やってんのよ! しっかり運転しなさいよ!」

 運転手は車を停めようとした。ワゴンがゆっくりと減速する。だがその時、黒ジャケットの一人がバックガラスを見た。

 バックガラスはへこんでいた。蜘蛛の巣状に亀裂が走っている。亀裂の中央に大きな弾丸がのめり込んでいた。


 

 




「何故タイヤを狙わん?!」

 コウアンが後ろから怒鳴る。無理ですとスペンサーは怒鳴り返した。

 古城から走り去ったワゴンを追跡しつつ、走行するタクシーから身を乗り出し、タイミングを計ってスペンサーはワゴンを撃った。市街地で他の車を考慮に入れつつ、バックガラスにヒットさせた腕は賞賛されてしかるべきだが、コウアンはそうは思わないらしい。

 途中タクシーは信号に引っかかった。

「だからタイヤ狙えって言ったろ!」

「だから無理だって言ってるでしょ!」

 もめ事で揺れるタクシーが再び走り出すとやがてバックガラスが蜘蛛の巣状態のワゴンが見えてきた。追われていると知ったワゴンのスピードはかなりあがっていた。そしてこちらに気付いたのか大通りからいきなり道をそれた。タクシーも後を追う。歩行者にぶつかりそうになったのを避けたため、タクシーの車体がタイヤをきしませて大きく揺れた。

 遠心力で車内の備品も人もひっくり返った。旦那方大丈夫ですかと言いながら運転手がアクセルを踏み込む。スペンサーがようやく体勢を立て直して前方を確認した。

「スペンサー! 今度はタイヤを狙え!」

 コウアンが叫ぶ。いや無理ですってとスペンサーは言いつつも身を乗り出した。

 スペンサーの指が引き金にかかる。いざ引こうとしたその時、旦那、と運転手が叫んだ。横道からトラックが入り込んできた。

「やっぱり無理ですよもう!」

「気合でなんとかしろ!」

「無茶言わんて下さい!」

 ワゴンはさらに速度を上げ右左折を繰り返した。それを追いかけてタクシーが角を曲がるたびに、遠心力でスペンサーは振り落とされかけた。しかも銃声がとどろいたことで野次馬が大勢集まってきていた。

「どうやらあいつら、街から出ようとしているようでさ!」

 運転手がかなりのドライビングテクニックを披露しつつ言うと、コウアンは本当か?と尋ねた。

「さっきからいろいろ行き先かえていやすが、決して反対方向に行こうとしない。間違いねえです」

「回り道できるか!?」

 スペンサーは運転手に向かって怒鳴るように言った。別に運転手に怒っているわけではなく、周りの喧騒がますます激しくなってきたからだ。

「まかしときな!」

 前方に路地が迫ってきた。運転手がものすごい勢いでハンドルを切った。タクシーが減速せずに路地に突っ込んでいった。スペンサーが慌てて体をひっこめた。

 路地は恐ろしく狭く、車一台通るのがやっとだった。こんなとこ通って大丈夫かと言うコウアンに、大丈夫いつも使ってまさぁと運転手は陽気に言ったが――。

 フロントガラスに何かが張り付いた。それは洗濯ものだった。家屋と家屋の間に干してあったのがタクシーに引っ掛かったのだ。

「ちょっと、おい!」

 前が見えないとスペンサーは叫び、フロントガラスに張り付いた洗濯物をどかそうとしたが手が届かない。

「一旦停まれ!」

「大丈夫見えてますって!」

 運転手は怒鳴り返し、さらにスピードを上げた。それで洗濯物ははがれて飛んで行ってくれた――ひらひらと飛んでいくそれを彼らは目で追った。多分思わずそうしてしまったのだろう。そんな彼らの目線が前に戻った。次の瞬間、三人とも同時に絶叫した。

 彼らの目に映ったのは、道一杯に並べられたイモ満載の袋と、それを前にあわあわしている女性の姿だった。

 イモ袋を放り出して女性は家屋の中に逃げ込んだ。ドンガラガッシャンとものすごい音がする。やがて彼女はそろそろと開け放しの扉から顔を出した。開いた口が塞がらないその女性の視界の中で、彼女のイモにまみれたタクシーが遠ざかって行った。

「ちょっと」イモのせいで方々揺れるタクシー。スペンサーは座席にしがみついた。「停まってくれ!」

「大丈夫ですって旦那!」

 それにモタモタしていたら逃げられますぜと運転手はさらにスピードを上げた。うわっとコウアンとスペンサーが同時に叫んだ。体がシートに叩きつけられたからだ。

 ようやく路地の出口が見え始めた。レンガ造りの天井の向こうに大通りを車が走っているのが見え、コウアンとスペンサーは体中の空気を吐きだすように安堵の息をついた。ところがそこに一台の車が路地に侵入してきた。

 タクシーは一時停止を余儀なくされた。ったく、一方通行ってこと知らねえのか、文句言ってきまさあと運転手が降りようとするのをスペンサーが止めた。

「何でですか、当然の権利っすよ」

「そーだぞスペンサー、何でだ?」

 不服そうな二人にスペンサーは言った。逃げろと。

 侵入してきた車は、イワンを拉致したワゴンだった。

 ワゴンのウインドーが下がるのがコウアンらのいる位置から見えた。そこから銃身がせり出すのも。

 ワゴンが加速し始めた。








 パニックになる車内。運転手がバックにギアを入れてアクセルをふかしたが間に合わなかった。 

 カスタネットを連打するかのような音が聞こえてきたかと思った次の瞬間、フロントガラスが大破する。高速でバックして行くタクシーの車体が衝撃で大きく揺れた。

 ワゴンが発砲しながら追ってくる。旦那、と運転手が泣き叫ぶ。運転を替われとスペンサーが怒鳴り返した。弾丸を避けて左右に激しく揺れる車内。運転手は後部座席にアライグマの様に逃げ込んだ。

 スペンサーがハンドルを操りながら銃で応戦する。タクシーはなんとか路地を後退しつつワゴンと距離を取りつつあった。スペンサーの銃弾が何人かを戦闘不能にしたためか、ワゴンのスピードが若干落ちたのもあった。彼の腕を警戒したものと思われた。タクシーの中の面々に安堵の表情が宿りつつあった。その矢先だった。

 ワゴンが停止した。

 みるみる遠ざかるワゴン。誰もが顔にハテナマークを飛ばす中、何気なく後ろを見た運転手が旦那、と叫んだ。

 バックして行く先に荷物を満載したトラックが止まっていた。スペンサーの足がブレーキペダルを踏み込む。荷物を降ろしていたトラックの運転手がもんどりうってそこから逃げた。

 荷物が雪崩を打ってタクシーの上に落ちてきた。車内の人間が座席から転がり落ちる。運転席の座席を掴んで身を起こしたコウアンの視界に、ハンドルに突っ伏した格好で動かないボディガードの姿が飛び込んできた。

「スペンサーッ!」

 スペンサーの体が運転席からずり落ちる。ワゴンから次々と黒ジャケットが飛び出してくる。

 スペンサーの目は固くつぶられ、頭から血を流していた。旦那、と運転手が泣きそうな声で言い、コウアンにしがみついた。

 コウアンの撫でつけていた髪がほつれ、呻くような声が喉から漏れた。視線が動かないボディガードの体と、ドアの間をせわしなく行き来する。そうしている間にも黒ジャケットの姿がみるみるコウアンの視界の中で大きくなり、彼はしがみつく運転手の手を振り払った。だが運転手は彼を逃がしてくれなかった。外に出ようとするコウアンの腕をつかみ、顎で何かを指した。コウアンの視線がそこに行く。やがて彼らは互いに顔を見合わせ、そして息をのんだ。

 二人がタクシーの中でそんなことをしている間に、黒ジャケットらがタクシーに向けて銃を構えていた。彼らはスコープをのぞいた。タクシーの中でコウアンと運転手がこちらを見ながらホールドアップしている。黒ジャケット達は事務処理でもするかのように、トリガーにかかった指を引こうとした――次の瞬間。

 彼らの視界から、コウアンと運転手の姿が消えた。

 黒ジャケット達の体がビクッと震え、何か思案するかのような顔つきでスコープから目を外した。だが銃は構えたままタクシーに接近した。そんな彼らの耳に急速に回転するタイヤの音が響き渡った。

 タクシーににじり寄る軍用ブーツが一瞬止まった。互いに顔を見合わせる黒ジャケットらの様子が徐々におかしくなり始め――彼らは転びそうな勢いでワゴンに賭け戻った。が、ワゴンはもうすでにバックしはじめていた。待ってくれと叫びながらワゴンを追いかける黒ジャケットを跳ね飛ばし、タクシーはワゴンに体当たりした。ワゴンがバックしながら弾丸を浴びせかける。タクシーのフロントガラスがアメのように砕け、フレームが歪んでちぎれ飛んだ。

 ワゴンは路地から脱出するとそれ以上タクシーにかまうことなく走り去った。同時にまるで残骸のようになったタクシーが煙をあげて大通りに飛び出す。それを避けようと沢山の車が互いにぶつかり合う。クラクションが鳴り響き、野次馬が悲鳴を上げて見守る中、タクシーは道を派手にバウンドした。そこに路面電車が接近しつつあった。

 路面電車の乗客たちもタクシーの有様を見ていた。ちょっと、このままだとぶつかる、早く停まれと乗客たちが叫んだ。

 タクシーは路面電車の線路を滑るようにまたいだ。タイヤがロックがかかった状態になっていてスピードが全く落ちない状態だった。

 路面電車の乗客たちが目を背ける。路面電車の巨体が車輪から火花を散らしながら停止した。タクシーに衝突することは避けられなかった。

 ただ、そのおかげでタクシーも停止することが出来た。路面電車に押されるような格好で動きを止めたタクシーの鼻先を、逆方向に加速する路面電車が通過して行った。

 



 停止したタクシーの中でまず動いたのはスペンサーだった。彼は運転席の下に潜り込んでいた。そこから這い出すと真っ先にコウアンの具合を確かめた。

 スペンサーと同じように座席の下に伏せていたコウアンは気を失っていた。のそのそと起きだしてきた運転手がコウアンをゆすって起こそうとするのを彼は止め、ドアから離れるように指示をした。

 変形してしまったドアをこじ開けるのは中々至難の業のようだった。金具の音と怒鳴る声が聞こえてくる。やがてドアが外され、コウアンたちが車の外に助け出された。

 コウアンらを待っていたのは野次馬の親切と警官の職務質問だった。スペンサーの頭の怪我は幸いかすり傷で(頭の怪我は派手に見える)、運転手は無傷だった。意識を失ったコウアンが車内から運び出され、野次馬が何処からか調達してきた毛布の上に寝かされた。

 現場に駆け付けた警官に、とりあえず病院に行ってくれと指示を受けるスペンサー。そこにお連れ様が目を覚ましましたよと救急隊員が知らせに来た。

「ちょっと、すみません」

 スペンサーは急に動こうとしているコウアンを止めた。

「駄目です。動くならゆっくりと……」

 頭にダメージを負ってるかも知れませんよとスペンサー。

 コウアンは横をむいてなぜか彼の顔を見ずに言った。

「私のことは心配するな。それより君だ。どこも撃たれていないか?」

「私なら大丈夫です」

 むんっ、とスペンサーは力こぶを作って見せた。そして心配そうにコウアンを見た。

「でもあなたは、病院に行かれた方が良いです。そこで念のために検査して……」

「私ならいい」

「?」

 コウアンの態度にスペンサーが顔をしかめていると、後ろから運転手が肩を叩いた。

「旦那、なんか向こうで警官が呼んでましたよ。黒髪の旦那はあっしが見てますから行ってきたらどうですか?」

 そうか、すまん、とスペンサーは言い、ここから動かないようにとコウアンに言いおいて警官のいる場所に走って行った。その後ろ姿を見ながら運転手はコウアンに言った。

「旦那。人生、いろいろありまさあ」

「……」

「かくいうあっしは子供の時にそりゃ酷い空襲をうけたんすよ。村中火の海になっちまって」

 運転手の口調はあくまで軽かった。

 変わらず俯くコウアンに運転手は話を続けた。

「今も思い出しますよ。自分の親と兄弟を見捨てて逃げたことをね」

 コウアンは鋭く息を吸い込んで運転手を見た。

「勘違いしないで下さいよ。あっしは別に同情してほしくてこんなこと話したんじゃねえです。ましていわんや旦那に免罪符をやろうって思いあがったこと考えてんじゃねえ。ただ、これだけ言いたかったんですよ。長い人生、いろんなことがあるってね」

「……そうだな」

「大事なのは、その時自分がどう思ったか。でしょ? 人はどうにもならない時もある。でもどうにかなるときもある。肝心なのは、その心の痛みを忘れない事ですよ。そうしたら必ず神様が見ててくれてて、人生の最後に、乗り越える力を与えてくれる。あっしはいつもそう思ってるんです」

「……ありがとう」

 そう言ってコウアンはふらつきながらも立ち上がった。

「大抵、どんな修羅場もくぐって来たと思ってたんだがなあ」

 空を見上げながら言うコウアンに、運転手は言った。

「そんなこと言ってるうちはまだまだヒヨっこっすよ」と。

 そこにスペンサーが戻ってきた。彼は運転手に、別に警官は呼んでなかったぞとぶつくさ言いつつ、まだ寝てないと駄目ですとコウアンを止めた。が、

「もう大丈夫だ」

 コウアンはしっかりした口調で言った。逃げたワゴンを追いかけるぞと。

「でも、追いかける足もありませんし、もうお諦めになるしか……」

「古城に戻ったら、イワンが使っていた車があると思う」

「あそこまで戻るんですか?!でもそんなことしてる間に追跡不可能になってしまいますよ」

「ミス・サードに追跡してもらう。彼女なら可能だろう」

「でもそれでも無理です。サー」

 コウアンのボディガードは真顔になった。

「どうして無理なんだ?」

「あそこに置いてある車にはおそらく、やつらが仕掛けていってます。キーを差し込んだ途端にドカン、です」

「なぜそんなことが分かる?」

「私ならそうしますし、十中八九間違いないでしょう」

 スペンサーの言葉に、溜息をついてコウアンは考え込んだ。

「あっしの車もおしゃかになっちまいましたからねえ」

 悩みつつ言う運転手に、コウアンは思い出したように言った。そうだ、忘れていたと。

「君の車をダメにしてしまったお詫びだ。すまんが、今スマホが手元にないのでこれで」

 コウアンが取り出したのは小切手帳だった。彼はそこにさらさら、と金額をしたため、びっ、と切り離した。

「これで新しいタクシーを買うといい」

「い? いやいやいやいや、そんな悪いっすよ、別にいいですって」

「いいからもらってくれ。いろんな意味を込めての礼もある」

 別に良かったのにと言いつつ金額を見た運転手の目が裏返り、うーんと唸って気絶した。スペンサーが小切手に書かれた金額を見て呆れたように言った。

「車一台いくらするか知らないんですか貴方は」

「知らん」

 とそこでコウアンは何か思いついたような顔つきになった。

「どうなさいました?」

「君のスマホ貸してくれ」

 スペンサーから借りた携帯でコウアンはしばらく話し込んでいたが、やがて彼は満足した様に頷き、通話を切った。

「どうなさったんです? 一体誰と……」

「ミス・サードと話をしていた。車を手配してくれているそうだ」

 ハバロフスクにリー家が以前世話した連中がいる。そいつらにずっと預けっぱなしの車があるらしい。

「お願いですから香港に大人しく帰ってもらえませんかね……」

 せっかく助かったのに。スペンサーは天を仰いでそうつぶやいた。



 ちなみに、コウアンから懺悔のように事の次第を聞かされたスペンサー。

 以下、彼の返事である。


「仰ってる意味がよく分かりませんが、とにかく逃げれる時はさっさと逃げて下さい」


 変な気を使われたら私が困りますと言うボディガードにコウアンはポカンとし、運転手は苦笑いして肩をすくめたのだった。

  











 そこはまるで刑務所のような場所だった。何重もの鉄柵とゲートに囲まれ、監視塔が等間隔に立ち、銃を持った兵士が巡回している。


 この場所は、旧ソビエト政府が使っていた強制収容所(ラーゲリ)を改装したと彼は聞かされていた。そのせいだろうか、周囲少なくとも十キロは無人の荒野だった。いやな意味で非常に見晴らしがいい。つまり、身を隠すところがどこにもない。つまり、そこから逃げようとしたら、監視塔からマシンガンでハチの巣にされる運命が待ち構えている、ということになる。


 でもそれは旧ソビエト時代で、今は誰もいないはずだ。そう、名目上は。


 でもそんなことは、彼にとってはどうでもいいことだった。

 本当にどうでもいい。彼にとっては。すべてが使い捨ての道具に過ぎないのだから。


「茶番だ」


 彼は何かを侮蔑するかのような表情で呟いた。

 何を指して茶番と言っているのかまでは、今は知りようもなかったが。


 それにしても美しい男だった。整った顔立ちもさることながらプロポーションも完璧。流れ落ちる金色の髪は絹糸のようで、あたかも神話の神がそのまま表れたようでもある。


 ならばさぞや目立つのだろうと思われるかも知れない。が、彼は違った。


 それだけの美貌を持っているにも関わらず、彼には全く特徴がなかった。信じがたいかも知れないが、表情に人間らしい感情が全くなかった。まるで人形のようだと言ってもいい。


 一応、そんな彼にも名前があった。マクシミリアン・カーヘラと言う。


 マクシミリアンは考えていた。ここは何もかもが無粋すぎる、と。食事も酒も何もかも。

 自分が立ち寄る時くらい、少し考えてほしいものだと彼は思っていた。食事にロシア産の小麦を使ったパンを出すなど、一体何を考えているのかと言いたくなると。無論パンだけではない。メニューも何もかも彼は気に入らなかった。


 そしてマクシミリアンにとって最も堪えがたいのは、自分自身がここにいることだった。

 ここに興味がないわけではない。近い将来、ここは彼にとって素晴らしい楽園になる予定だった。でもそれは将来の話で、今は何も面白いことなどない場所だった。


 マクシミリアンのもとに、ターゲットが到着した旨、連絡が入った。すぐにここに連れて来いと命令すると、ほどなくしてスラブ系の顔をした男が連れてこられた。


「久しぶりですね」


 マクシミリアンは、完璧に整った唇を笑みの形にゆがめた。




 連れていかれる先に誰が待っているのかイワンは見当がついていた。と言うよりほかに該当者がいなかった。

 ちなみに、イワンはこの相手が心底おぞましかった。こいつに比べたら、切り裂きジャックと呼ばれたヤツなど可愛いものである。そいつの方がまだ人がましい。イワンはそう思っていた。

 イワンを乗せたワゴンは物々しい銃を構えた兵士のいるゲートを幾つも潜り抜け、病院の様な建物の入り口にたどり着いた。そこでイワンは車から降ろされ、歩かされた。後ろから時々例の女が蹴りつけてきた。

 施設内は廊下が広く作ってあった。等間隔に監視カメラが設置されていて、歩くごとに鉄格子のゲートがあった。

 どれほど歩かされただろうか。イワンが恐れる人物は、その先の部屋で待っていた。


「本来は、これから処理されるであろう人間と話すことは何も無いのですが」


 イワンの思惑を知ってか知らずか。マクシミリアンは笑みを崩さないまま、さらりと言った。


「処理……だと?」

「ええ、処理します」

 一人の人間を処理すると言うマクシミリアンの口調はあくまで明るかった。

 イワンの体が小刻みに震え出した。

「やだこいつ震えてる」

 例の女が顔をしかめた。

「そのうち漏らしちゃったりして」

「静かに」マクシミリアンはやはりにこやかに言った。

 イワンの目が避けんばかりに見開かれ、汗がとめどなく流れ落ちる。マクシミリアンがそんな彼に近づいてきた。

「どうなさいました? 気分でも悪いのですか?」

「お、お、俺が」

 俺が悪かった。イワンはそう叫び、マクシミリアンの前に手を付いた。

「何の真似です?」

「俺が悪かった、機密は必ずあなた方に返す、だから」

「仰ることがよくわかりません」

 マクシミリアンは大きく両手を広げた。

「機密は今、私の目の前にいるじゃないですか………そんなことより、あなたに聞きたいことがあるんですよ。私は!」

 作り物の様な手がイワンの髪を掴み、引きずり上げた。

「なぜ、裏切りました?」

「う、裏切ってな」

「立派な裏切りですよ」

 細い指に力がこもった。

「あなたのおかげで我々の計画が頓挫するところだったのです。分かりますかね?」

「悪かった、俺が」

「返事になってませんね」

 さらに細い指に力がこもった。こんなに華奢な指なのに、イワンの頭皮がもげるかと思うほどの力がこいつにはあった。

「なぜ裏切ったのかとこちらは聞いているんですよ」

「だ、だから謝って」

「もう結構です」

 マクシミリアンはイワンから離れると、汚らしそうに手を振った。

「処理してください」

 イワンは両脇を抱えられ引きずられた。今度連れていかれた先の部屋の前には、大勢の白衣を着た人間がいて、彼を待ち構えていた。

 待ってくれ、とイワンは叫んだ。話を聞いてくれと。

 助けてくれと言う絶叫を残し、イワンの姿がオペ室に吸い込まれるようにして消えて行った。




 マクシミリアンはヘリを手配させた。外で食事をするためである。

 イワンを処理する様子を見物したい気もあったが、食欲の方が優先したのだ。もうここの不味い食事だけは我慢できなかった。

「どこに連れて行ってくれるの?」

 例の女性が当然と言った顔でマクシミリアンに尋ねてくる。

「モスクワです。日本食のレストランを予約しています」

 もちろん彼一人だけである。

「私、日本食嫌いなのよね」

「それは気づかず申し訳ない」

 彼はそれ以上言わなかった。モスクワに付いたら置いてきぼりにするつもりだった。怒るだろうが、この女は自分より権力のある相手には絶対に逆らわない性質を持っていた。

 マクシミリアンは窓から外の景色を眺めた。すでにあたりは夜の闇に包まれていた。その中でコンクリートの高い外壁に囲まれてそびえたつこの場所は、マクシミリアンのような人間の本性を刺激するものだった。

 もうすぐ自分たちの時代が来る。そうなったらここは人と言う名の家畜であふれかえるだろう。マクシミリアンは半ば誇らしげに夢想するのだった。だってそれは、今まで彼らが用意周到に準備した成果に他ならないのだから。


 その前に、ここの食事の事情を改善せねばならない。飛び立つヘリの中でマクシミリアンは固くそう心に誓った。






 イワンの処理を任された職員たち。彼らがマクシミリアンから言われた内容は一部始終を動画にとることと、そして機密を傷一つ付けずに取り出すことだった。

 彼らは思った。二つのうち、一つは簡単だった。スマホを起動させればいいのである。が、残りの一つは難しいと思った。なぜならマクシミリアンは麻酔をせずにそれをやれと命令していたからだ。

 これまで動物にやったことはある彼らは、イワンにもその方法を使うことにした。

 ただ問題はイワンが立派な人間のオスであることだ。体の小さな実験動物とは違い、死に物狂いで暴れる大の男を、しかも戦争を経験した人間を拘束するのは至難の業だった。彼らはイワンを抑えきれなかった。警報を聞きつけた警備員が駆け付けた時には医療器具が床に散乱し、体のあちこちから血を流した職員がうずくまっていた。

 警備員たちはイワンを探した。彼はすぐ近くにいた。


 捕まえろと英語で叫ぶ声がイワンに聞こえてくる。

 彼の味方は何処にもいなかった。ロシア語が何処からも聞こえてこない。イワンは今、着ていたものを脱がされ(正確にはハサミできられた)素っ裸の上に青い手術着姿の上に両手を後ろに縛られていた。

 イワンは泣きながら走った。慟哭していると言っても差し支えなかった。警報が鳴り響く中、彼は必死で逃げまわった。そんな彼の前に鉄格子のゲートが見えてきた。この施設の廊下に等間隔に設置されているものだ。

 ゲートには誰もいなかった。イワンの顔に少しだけ喜色が見えた。が、ドアは開かなかった。イワンの後ろからバタバタと足音が聞こえてくる。彼は死に物狂いで体当たりしたがドアびくともしなかった。

 やがて彼は駆け付けた警備員に捕らえられた。

「やめろ、離せ、離せ!」

 いっそのこと殺してくれと懇願するイワンの体をオペ室に引きずっていく警備員らは、同僚と笑いながら世間話に興じていた。イワンは一応英語が出来たから、話の中身は否応なく理解できた。彼らは話していた。今日の食事のこと、休暇のこと、家族のこと。彼らの視界に、イワンの命はなかった。

 やがてオペ室の入り口が引きずられる彼の視界に見えてきた。手術台が外に出ている。警備員に拘束を手伝ってもらおうと思ったのだろう。

 警備員に押さえつけられていたイワンの両腕が一旦自由になった。がそれは台に括り付けるためだ。いやだ、やめろ、やめてくれ、せめて殺してからにしてくれと手術台の上で絶叫するイワンの口に雑巾のようなものが突っ込まれた。

 面倒をかけてすまなかった等の会話がイワンの頭上で交わされた。喉の奥で絶叫するイワンの顔に警備員の一人が唾を吐きかけた。それを見たオペ室の人間が笑っていた。彼らは明らかにこの状況を楽しんでいた。これから自分たちがすることが楽しくてならないようだった。イワンの目が涙を流した。

 ガラガラガラ、と耳障りな音をたてて手術台ごと彼の体がオペ室に吸い込まれようとした時だ。

 何かが飛来する音が響き渡った。誰もが?な顔を互いに見合わせた――。次の瞬間。

 床が津波のように揺れ、手術台がひっくり返った。



 

 電気が消え、天井の証明が落ちてきた。黒煙が充満する中、イワンは拘束を外そうと体をくねらせた。それで拘束は外れたが、黒煙が充満して何がどうなっているのか判別もつかない。手術台の下から這ってでたイワンは目の前に光景に茫然とした。彼を殺そうとした連中の死体の山が築かれていた。

 イワンはそろそろと体を起こした。ラーゲリは中庭を囲むような格好で建っており、オペ室に続く廊下は大きな窓に面していた。それが何かに破られ、廊下にでっかい穴が開いていた。とそこにまた物凄い衝撃が襲った。うわ、と叫んでイワンは手術台の下に隠れた。

 火災が発生していた。どこの誰かは知らないが、ラーゲリが攻撃されていることは間違ない無かった。爆音が何度も響き、建物が揺れた。イワンは手術台の下から再びはい出した。はいずりながら進むイワンの上にバラバラと何か破片が落ちてくる。横を警備員たちが駆け抜ける。もう彼などどうでもよくなっているのは明白だった。

 カスタネットを叩くようなマシンガンの音が爆音に交じってイワンの耳に聞こえてくる。どれほど這っただろうか。黒煙の向こう側で銃声が響き渡り、人が倒れる音がした。イワンは今度は後ずさった。何がいるのかはわからないが、やばいものがいるのだけは間違いなかった。

 さっきとは違う意味でイワンは必死で後ずさった。立とうとしたが立てなかった。体に力がこもらない。そんな彼の前に黒煙の中から銀色のボディが姿を現した。

 流線形の形をしたそれは車だった。イギリスの名車、アストンマーチンである。

 イワンは後ずさるのもやめて茫然とそれを見た。イワンが警備員に捕らえられた鉄格子のゲート。それが車の形に綺麗にへし折られていた。それなのにアストンマーチンは傷一つついておらず、どうかすると埃すら被っていなかった。ただし天井のところにまるでミサイルの発射台のようなものがあり、まだそこから煙が漂っていた。

「ミスタ・ロヴィチ!」

 アストンマーチンから飛び出してきた男を見たイワンは絞殺されるような悲鳴をあげ、オペ室に向かって逆戻りした。待ってくれとコウアンが追いかけようとするのをスペンサーが止め、逃げるイワンを追いかけ、捕まえて戻ってきた。

 イワンの姿を見たコウアンは思い切りしかめ面をし、言った。

「とにかく早くお乗りください」

「い、いやだ、お、俺に仕返ししよう……」

 イワンはその先を言えなかった。後ろからスペンサーに蹴り飛ばされて車に押し込められたからだ。紳士に向かって何をすると怒鳴るコウアンにスペンサーは車をバックさせながら怒鳴った。足音が迫ってくる。

「そんな時間ないです!」

 バックしてくるアストンマーチンに向かって警備員らが機銃を乱射する。そんな彼らの表情が徐々に青ざめ、やがてスキップするかのように足が動き、逃げ出した。そんな彼らをアストンマーチンが跳ね飛ばした。

 イワンは目を丸くしながらバッグガラスをさわった。マシンガンで滅多撃ちされたにもかかわらず、アストンマーチンはボディはおろかガラスに傷一つつかなかった。信じられないとでも言いたげな彼にスペンサーが言った。

「シートベルトを」

 コウアンがやれやれといったジェスチャーを示すとスペンサーは言った。貴方もですよと。

 アストンマーチンのエンジンが唸りをあげ、車体が壁をぶち破りながら方向転換する。前方からまた発砲しなから数人が接近しつつあった。それを見ながらスペンサーはアクセルに足をかけた。

 アストンマーチンのタイヤが華麗な音を立てて急速回転した。

 イワンはシートベルトをしっかりしめ、その上からアシストグリップをしっかり握りしめた。そんなことしなくても大丈夫ですよとにこやかに言うコウアンの顔をイワンはそろそろと見やり、またそろそろと視線を前に戻した。

 グォン、と野生の獣のようなうなりをあげ、アストンマーチンは急発進した。イワンがきつく目をつぶる。が彼が想像していたような衝撃は訪れなかった。

 ほら、言ったでしょ? とコウアン。

 加速するアストンマーチン。スペンサーがマニュアル片手にステアリングにあるボタンを押した。するとさっきイワンが見た天井の発射台から、ミサイルが発射された。

 飛んで行くミサイルにイワンはあんぐりと口を開けたが、ふと我に返ったように言った。ちょっと待て、この先はどうなってんだと。

 銃を乱射してきた連中の後ろは行き止まりになっていて、しかもここは二階である。

「何もありませんよ」

 コウアンが座席の下から何かを引っ張り出しながら言った。それはシャンパンだった。彼は呑気とも言える口調で言った

「階段を上って来たのですが、さすがに帰りは使えそうにありませんので」

 はっはっは、と笑うコウアン。アストンマーチンの銀色の車体が燃え盛る熱量の中に吸い込まれ、一瞬前が見えなくなり、やがて視界が晴れるとイワンが絶叫した。文字通りその先は外だった。

 ひゅううううん、といささか可愛らしい音をたて、アストンマーチンは飛び、綺麗に着地した。さすがに衝撃があるかと思ったイワンだったが、何もなかった。

「本当は、車の中でここで待っててもらいたかったんですが」

 シフトレバーを切り替えながらスペンサーは言った。「お一人にしたら何処に行くか分かりませんので」

 仏頂面のスペンサー。同情するような表情をイワンが見せたのは気のせいではないだろう。


「では帰りますよ。サー。何かお忘れ物は?」

「ない」

「では念のために貴方もシートベルトをして下さい。何かあったら私が執事さんに殺されますから」

 



 この後、障害物を跳ね飛ばし、あるいは装備されている対人ライフルで排除しながら高級車は軽やかとさえいえるスピードでラーゲリを脱出した。その間、コウアンはと言うとシャンパンのコルクを空けていた。彼はグラスになみなみと注ぐとイワンに勧めた。

 が、自らもシャンパンを飲みほしたコウアンの顔が突如、不味いものでも食ったような顔になった。バックミラーでそれを見たスペンサーが慌てて言った。どうなさいましたと。

 イワンも何故か恐る恐るその有様を見守る。コウアンの口から出た言葉は……。

「なんと言うことだ。シャンパンがあるのにキャヴィアがないとは!」

 かぱ、と二人の口が同時に開いた。

 特にイワンは顔全部でこう言っていた。お前は何を言ってるんだ? と。

 コウアンはそんなイワンににこやかに言った。申し訳ない、ミスタ・ロヴィチ。不手際をお許しください。以後、忘れないように注意しておきます……。

 そんなコウアンの話を聞きながらスペンサーはぼやいた。心配して損した、と。かたやイワンはやけくそのようにシャンパンをあおった。そしてまじまじとコウアンを見た。そんな彼の顔に浮かんだ表情は、コイツには勝てない、とでも言いたげであった。






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