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命がいくらあっても足りない仕事ですと言う話

 リー家の屋敷の外れに大きな温室がある。

 と言ってもただの温室ではない。一歩中に入ると、フィーッ、ホッホッ、と鳥のさえずりが聞こえて来て、頭上を時々、ばさーっと小動物が木から木へと飛び移る。植わっている草花は、お前、どう見ても毒あるだろうみたいな顔をしていて、お屋敷の住人は滅多なことでここには近づかない。


 その温室の中に、住居を構えている者がいた。またその住居が変わっていた。

 ピラミッドをひっくり返したような、と言えば伝わるだろうか。

 だから初めて見た人間は、なぜひっくり返らないのかと驚くらしい。


 その変わった形の住居に、訪問者があった。リー家の執事である。

 彼は泣いていた。良かったと言いながら泣いていた。

 なぜ泣いているかは、あとで説明することにして――。


 そこの住人の名はミス・サード。息をのむほど美しい女性だった。それも知性も感じさせる美であった。それが落ち着きを彼女に与えていて、見る者を安心させるのだった。


 彼女はコウアンのブレーンの一人で、エンジニアであり、技術面からコウアンを支えていた。


「安心なさいましたか?」

 と、とめどなく涙を流す執事に、ミスサードは優しく微笑みかけた。

「はい」ハンカチでブーッと鼻をかみつつ執事は言った。「ミスサードが言うのなら間違いない。ありがとうございます。早速迎えに行かねば」

 執事の言葉に、ミスサードはまた優雅に微笑んだ。

「是非そうなさってさしあげてください」

「ええ、もう」

 執事は泣きつつ微笑むという器用な技を披露しつつ、内線で、ご主人様はハバロフスクにいらっしゃる。早速迎えの準備をせよと使用人に指示を出した。

「これで一安心です」

 晴れ晴れとした執事の顔。それにミスサードはよろしゅうございましたと上品に言い、

「ただし確率は100パーセントではありません」

 とさりげなく付け加えた。執事はうんうんと頷き、はっと我に返った。

「今、なんと?」

「マイロードは、ご自分の居場所を知られることを好まれませんので」

 ミス・サードの部屋はありとあらゆる電子機器がそろっている。それが一斉に稼働していて、世界中の情報が常に見られるようになっていた。


そんな最先端の機材に囲まれた美女は、優雅に微笑んでこう言った。


「位置情報が分かるものは一切お持たせしておりませんから。だから100パーセントではないと申しあげたのです」

「それじゃお手上げじゃありませんか!」

 なんですか期待させておいてとさめざめと泣く執事に、ミス・サードは一通の手紙を見せた。

「それは……」

「マイロードのお客様、イワン・ロヴィッチ様からのお手紙です。お部屋のデスクにそのまま置かれてました」

 ミス・サードはキーボードに指を滑らせた。

「ロヴィッチ様は最近、ハバロフスクに不動産を買っています。それがここ」

 パソコンに街の地図が映し出される。ミス・サードは、河口付近にあるでっぱりのようなところを指した。

「そしてこのお手紙」

 ひらり、とミス・サードは手紙を執事に渡した。

「マイロード個人宛ですので、中身は見ておりませんが、おそらくマイロードお一人で来るようにと書いてある。間違いないでしょう」

「なぜそんなことがか分かるのです?」

「ミスタ・シーグラム(コウアンの財務担当)から聞いた話ですと、ロヴィチ様が購入された商品がまだ未入金とか。ですから、その代金の回収に行かれたのでしょう」

「で、では」

「ええ、ほぼ間違いなくここにおられます。ただし、ご無事かどうかは分かりませんが」


 ホッとした執事の顔が、ミス・サードの笑顔の一言でまた凍り付いた。


 



 彼らのボスは、一応無事なことは無事だった。

 メンタル的に落ち込んでいることをのぞいては。


 仕事柄、どんな事態でも驚かない自信が彼にはあった。そんな彼が脱力していた。まだ殴られていた時の方が元気だったかもしれない。


 棺桶はコウアンの身長にぴったりだった。ご丁寧にドライアイスまで詰め込まれている。それが何を意味するのかは言うまでもない。

 コウアンの鼻から長い息が漏れた。口から出すと痛いからなのだが、乾いた笑いさえ浮かべる気力もない。


 車の壁にもたれるコウアンの脳裏に、イワンの様子が浮かぶ。


 イワンの狂騒ぶり。と言うより恐慌ぶりとでも言ったらいいのか。まるでこちらが嘘をついている、とでも言わんばかりの態度をとるのは、一体どういうわけなのだろう。

「いや、そうじゃない」

 そう思わざるを得ないくらい、追い込まれているのだとコウアンは推測した。理由までは知りようもないが。


 それともう一つ気になることがあった。イワンを慌てさせた来客のことだ。


 そんなことを気にしている場合じゃないのは分かっているが、死の危険を前にして、コウアンは記憶が鮮明になりつつあった。最初は分からなかったが、彼はあの女性に見覚えがあった。


 彼のような人間が女性に出会うのは御屋敷のメイドか、どこかの政府高官のレセプションかパーティに呼ばれた時、後はブレーンのミス・サードと打ち合わせする時くらいだから、たぶん何かイベントの時に出会ったのだろう。 


 コウアンはポケットをごそごそまさぐった。そこから彼愛用の煙草が出てきた。

 コウアンはライターを取り出して火をつけようとしたが、空気が湿っぽいのか中々火がつかなかった。何度かチャレンジし、火はついたものの、肝心の煙草を口から落としてしまった。

 コウアンはそろそろと手を伸ばした。痛いのか彼の顔が時折険しくなる。

 あともうちょっと、みたいな感じで手を伸ばす彼。すると、どこから紛れ込んできたのか、ネズミがコウアンの落とした煙草の上を横断していった。

「……」

 コウアンの腫れた口がへの字にまがった。本当についていないとでも言いたげであった。


 



「ブランディがほしいわ」

 イワンの部屋に通された女性は、勧められもしないのにソファに腰かけ、当然のようにそう言った。彼女の言葉にイワンの部下の一人が動きかけたが、イワンは黙って首を振り、部下の動きを制した。

「あら、なによ。せっかく来たのに。もてなしも無しなの?」

「何の御用ですかな?」

 イワンは剣呑な態度を隠そうともしなかった。

 コウアンは知る由もないが、イワンとこの女はビジネス上の付き合いがあった。


 それにしても美しい女性である。すらりとしたスタイルに整った顔立ちをしており、通りかかる男がいたら、十人のうち八人くらいは振り返るだろう。

 だがイワンはいつも思っていた。この女と話をしていると、不味い酒を飲まされたような気分になる。美しい女と話すのは彼も男だから嫌いじゃない。なのに不愉快にさせられること、この上ない相手だった。


 女は足を組み、ソファにそっくり返った。

「用があるから来たのよ。それはそうと何かないの? ブランデーがないのならシャルドネでもよくってよ。ただし安物はやめてよね。気分が悪くなるから」

「あいにくと酒は置いておりませんので」

 そう答えたイワンの顔は気分が悪そうだった。もっともそれは体調のせいではないのだろうが。

「じゃあチョコでいいわ」

 相手の図々しさに辟易しながらイワンは答えた。

「あいにくですが甘いものは置いておりません。男所帯ですので」

 イワンは葉巻を切り、火をつけた。

「これでよろしかったらご用意しますよ」

「結構よ」

 女性の顔が途端に険しくなった。

「葉巻を消して」

「葉巻の匂いがお嫌いですか? これはまた」

 イワンは葉巻を深々と吸い込み、相手に向かって吐き出した。

「いい加減にしてちょうだい。お前のような男がいるから女が泣かされるんだわ」

「意味が分かりませんな」

 イワンはまた葉巻を吸い込んだ。

「今日ここにいらしたのは、その手の話をされるためですか?」

「まさか。してやりたいのは山々だけどお前なんかに理解できないでしょ」

「できませんね」

 イワンは葉巻の先を相手に突き付けた。

「相手をお前呼ばわりするような、下品な方の理屈なんぞ到底理解できませんな」

 イワンは吐き捨てるように言った。


 この女性は都合上、今の彼の上司となっている人物のゲストだった。少なくともこの女はそのつもりだ。イワンにとってはその勘違いぶりは噴飯ものだったが。


 それでもまだ上品ならいい。ならば、礼儀の一つでも尽そうかと言う気にもなろう。だが。

 多少の美しさも、礼儀知らずの前には消え失せるという良い見本がこの女だった。


「レディに対する礼儀がなっていないようね」

 女はそっくりかえってイワンを鼻で笑った。まあ田舎者には何も期待はしてないけど、と。

「レディに対する礼儀は私もわきまえていますよ」

 イワンは葉巻を持つ手をくるりと翻した。

「ここにいらっしゃればの話ですが」

 イワンの言葉に、女の顔が歪んだ。その有様は不思議なほど醜く見えた。

「私を怒らせたいの?」

「早くお帰り願いたいだけです。我々は暇じゃないのですよ」

「用があるから来たのよ。なのに帰れですって? お前は馬鹿なの?」

 イワンの額に青筋が浮かび上がった。

「お帰り願え」

 イワンが命じると、部下が女の両脇を抱えた。何をするのよと女が叫ぶ。イワンは立ち上がって女に背を向けた。

 その時だった。彼の背後で銃声が響き渡った、驚いたイワンが振り返る。

 女を抱え上げていた彼の部下が、背後から頭を撃たれていた。撃たれた体が振り子のように揺れて崩れ落ちる。その先に黒い影が浮かび上がった。

「おあいにく様ね」

 女は両手を手品師のように広げ、唇がまくれあがらせた。

「つまみ出されるのはお前の方よ。死者の国にね」





 コウアンの耳に、カスタネットを叩くような音が連続して聞こえてきた。続いて人の悲鳴も。

 コウアンはライターの火を消し、煙草と一緒にポケットにしまい込んだ。車の外で人の足音が入り乱れる。

 車の壁に耳を当てて聞いていたコウアンは、慌ただしく車内を見渡した。足音は確実に、彼の乗っている車の入り口に近づきつつあった。

 やがて車の扉がけ破られた。

 続いて弾丸が数発撃ち込まれた。無煙火薬の匂いがあたりに立ち込める。

 襲撃者たちは撃つのを中止すると車内に入り込んできた。彼らは何かを確かめるように車の中を見回っていたが、そのうち次々と車内から出て行った。出て行く際、好奇心からか、棺桶の蓋を開けた者がいた。

 中に、ひどく顔を殴られた男の死体が横たわっていた。

「……」

 やがて棺桶の蓋が閉められた。引き上げる足音が、中に横たわっている死体の耳に響く。

 誰もいなくなった車内。コウアンは棺桶から飛び起きた。寒かったはずなのに、冷や汗が彼の頬を伝う。

 車のドアは開いていた(というより壊されていた)。彼は棺桶から這いだして外を伺った。

 走り去る黒ずくめの影の背中が見える。

「一体何者だ」

 車の外で銃声が聞こえてきた時、一瞬味方かとコウアンは思った。彼のブレーンがここをかぎつけ、救出に来たのかと思ったのである。しかし彼はなぜか棺桶の中に隠れた。別に驚かしてやろうとか思ったわけではない。

 そして結果はご覧の通りである。もしあのまま棺桶の外にいたら。コウアンはその事を考え、少しだけ体を震わせた。


 コウアンはそーっと車から出ようとし、慌ててヤドカリのように中に引っ込んだ。


 イワンと例の女性、そして黒ずくめの連中の一団がそこから見える。

 イワンは頭を抑え込まれ、車に荷物のように放り込まれていた。車の色は黒で車種はワゴン。ナンバープレートまでは、コウアンの位置からは見えなかった。

「……」

 やがてワゴンのタイヤが土を引っかきながら動き出し、古城から遠ざかって行く。コウアンは車から滑るように外に出ると運転席に近づき、ドアを開けようとした。そんな彼の頭に、ごつん、と頭に固いものが押し付けられた。






 コウアンは大人しく両手を上げたが、無駄なのは分かっていた。体を伏せることも無駄だと彼は理解していた。そんなことをしたところで、死ぬのが少し先になるだけの話である。

 銃の撃鉄がおこされる音が、コウアンの耳に響く。彼の目が裂けんばかりに見開かれる。ホールドアップした手が、激しく震え始める。


 その時だった。伏せろ、と誰かが英語で大音量で叫んだ。


 伏せたコウアンの体が地面にバウンドしたのとほぼ同時だった。つんざくような銃声が響いた。それから少し間があって、コウアンの頭に銃を突きつけていた人物が、彼の上に崩れるように倒れてきた。


 よほど大きな口径の銃から発射されたのだろう。肋骨がへし曲がり、中が飛び出していた。こんなでかい口径の銃を持っているのはコウアンの知り合いでも一人しかいない。


 彼のボディガードのスペンサー・リードだ。コウアンを呼ぶ声が聞こえる。

 ご無事でしたかー! と叫びながら走ってくる彼のホディガードは、海パンに真っ赤なアロハシャツ姿だった。

 それが少し蟹股で走ってくる。

「……お前なんちゅう格好してるんだ」

「どーしたんですかその顔っ!」

「触るな痛いって」

「じっとしててください」

 スペンサーは荷物の中から医療キッドを取り出すと、コウアンの傷に薬を塗り込んだ。

「骨は折れていないようですね。殴った相手はプロだったんですか?」

「なんでわかる?」

「素人が殴っていたら、今頃あなた死んでます」

 そんなもんかね、とコウアン。

「それにしても」スペンサーの青い瞳から涙があふれてきた。「ご無事でよかったぁぁぁ!」

 うわああんとスペンサーはコウアンにしがみついて号泣した。

「暑苦しいから張り付くんじゃないっ」

「よく顔見せてぐだざい」

 熊みたいな手で頭を撫でまわしてくる相手に、いい加減にしろとコウアンは怒鳴った。

「だいたいなんでお前がここにいるんだスペンサー」

「ミス・サードから連絡貰いまして」ぐずっ、とスペンサーは鼻をすすった。「そこまで特別機で送ってもらったんですよ」

 そこ、とスペンサーは空を指さした。

「……」

 スペンサーの話だと、ビーチで日光浴していたらしい。そこに米軍の輸送機が飛来してきて観光客を蹴散らし、着水した。

 大勢人がやって来て騒然とする中、輸送機の腹がパカッと開き、そこから兵隊たちが水しぶきを上げつつビーチに突進してきた。サングラスを外してまじまじと状況を見るスペンサーめがけて。

「んで、こんな恰好なんです」

 着替える暇がなかったもんですからとスペンサー。顔にくっきりとサングラスの跡が残っている。そんな彼の顔を見たコウアンの口に笑みが浮かんだ。

「ずいぶん日焼けしたな。ハワイは楽しかったか?」

「ええそりゃあもう……って」

 スペンサーの目つきが物騒なものに変わった。

「何だ?」

「なんだじゃありません! よくも人を騙しましたね!」

「別に騙してなんぞ……」

「骨休めして来いだなんて殊勝なこと仰って!信じた私が馬鹿でしたよっ!」 

 そう言いつつスペンサーはスマホを取り出した。

「もしもし、はい、私です。はい、ちゃんとご無事ですよ。はいはい、もう泣かないで……」

「誰に電話したんだ?」

「執事さんです」

 香港に帰ったら当分お屋敷から出してもらえませんよとスペンサー。

「そんなこと言われたって私は仕事で来たんだぞ!」

「んなこたぁ分かってます!」

 スペンサーの声音が急に厳しくなった。コウアンの喉が何か詰まったような音を立てた。テディベアのような彼のボディガードが本気で怒っていた。

「あなたの顔がそんな状態じゃなかったら私だって……一発ぶん殴ってやりたいんですからね!」

「すまん、スペンサー、私が……」

 スペンサーは答える代わりに、コウアンを今一度強く抱きしめた。

「もう二度と、こんなことはしないでください。お願いですから」

 スペンサーはまた泣いていた。それが彼の背中越しにコウアンに伝わって来た。コウアンは彼の大きな背中を抱きしめ返した。

「すまん」

「分かってくれたらいいんです」

 ぽんぽん、と大きな手がコウアンの背中を叩いた。

 とそこに、タクシーが近づいてきた。運転手が大声で旦那―と呼びながら手を振っていた。




「で、結局どうするんですか旦那方!」

 タクシーの運転手は困り果てていた。

「空港へ」と一人は言い、「尾行しろ」と一人は言う。

 運転手は尾行しろと喚いている男の顔を見た。あざだらけだ。

「旦那、悪いこと言わないから帰った方が……」

 と言う運転手の胸元に大量のチップが押し込まれた。

「成功したらこの二倍やろう」

「承知いたしました」

「ちょっと待て!」空港へ行けと言った方が慌てて財布を取りだした。「スマン、今持ち合わせがなくて」

 だがタクシーはすでにアクセル全開だった。

「いきますぜぇぇぇぇ!」

 空港に行ってお願いだからぁぁという声が、ロシアの空に虚しく低く響き渡った



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