色々と物騒な仕事です、という話
アムール川のアムールとは、黒い河と言う意味らしい。浅いところでも水深五メートル。深いところになると百メートルくらいになると言う。
ことにハバロフスクの街の付近はウスリー川との合流地点だから、特に水深が深くなっていても不思議ではなかっただろう。そして何かが泳いでいても誰も気づかなかっただろう。
水面に巨大な魚影のようなものが浮かび上がり、ついで気泡が浮かんだ。やがてそれは人の形となって次々と崖下の岸に上がって来た。と言っても、人ひとり立ってるのがやっとの狭い岸辺に、あがって来た連中は器用に張り付き、そこから古城の様子を見上げていた。
灰色の潜水服を着ているため、まるで半魚人のように見える。
彼らはお互い何か合図し合った。そして潜水服を脱ぎ捨て、崖をよじ登り始めた。
それにしても、ものすごい力である。両腕の力で体を押し上げ、岩のとっかかりに足を引っかけ、上に上にとのぼっていく。時折、何か機器類のようなのを衣服から取り出し、何かを確かめながら。
やがて彼らはさして時間もかからずに、古城の窓の一つにたどり着いた。
「私もこんなことをするのは本意ではないのですよ。ミスタコウアン」
イワンはソファから立ち上がり、両腕を大きく広げた。
「ですが、人間というもの、嫌でもやらねばならぬこともあるのです。そう思うことはありませんか?」
「……」
「そんなわけで、あなたにお支払い出来るものは何もありません……ええ、コイン一枚たりともありません」
イワンはコウアンにぐっ、と顔を近づけ、ふー、と葉巻を吹かした。
「騙して申し訳なかった。今回ここにお越しねがったのは、お支払いするためではないのですよ」
イワンはコウアンの座っている椅子の後ろに回り、コウアンの肩を叩いた。
「私が申しあげている意味が、お分かりになりますか?」
「だいたいわかるが、無駄な努力だ」
「ほう、それは何故です?」
「私の代わりなんぞ、いくらでもいるからだ」
コウアンの返事にイワンは何か詰まったような顔になったが、すぐにコウアンの言葉を鼻で笑った。
「それはありえませんねぇ。ミスタコウアン。貴方と最初に取引したときにも感じましたよ。貴方は……」
イワンはゆっくりとコウアンの背後から彼の前に回った。かつん、と石畳の床に彼の革靴が当たる。
「この上なく大切にされている」
イワンのごつごつした指が、コウアンの整った顎を持ち上げた。
「私には分かりますよ。東洋に残された最後の古き血の一族の末裔。それこそ雨にも風にも当てぬように大切に育てられた……そんなあなたがここで人質に取られたとしたら、貴方の部下はそれこそなんでも差し出すでしょうな……たとえそれが自分の命であったとしても」
コウアンは目を閉じた。その様はまるで疲れているように見えた。事実彼は疲れていた。イワンの話の中身が心底彼を落胆させたからだ。
「御託はいいから、何が欲しいのかさっさと言え」
「金です」
イワンの答えはシンプルだった。
「この世においては命すら買える。今の私に最も必要なものです」
タクシーの運転手はおそるおそる古城の方を見た。今のところ、何の動きもない。
「旦那、無事だといいけど」
コウアンが古城に入ってから一時間ほどが過ぎていた。
タクシーの場所からも、古城の中にいる連中の様子がうっすらとでは見てとれる。なんだか物々しい一物を抱え、入り口をシベリアドラみたいにうろうろしている。
「旦那、食われちまったんじゃないだろうな……」
運転手は十字を切って祈る仕草をした。
それにしても、と運転手は思う。あの連中は一体何者なのか。
そしてそんな連中と懇意(と言っていいのか)にしているあの旦那は……。
ハードボイルドの映画は嫌いじゃないが、自分が主役になるのはちょっと遠慮したい気分である。
とその時だった。
古城から、誰かがこっちに向かってやって来た。
「げっ」
明らかに、タクシーの位置を意識している歩き方である。
どうしよう、早くここから逃げなきゃ。でも後ろからあのデカブツで撃たれたらどーしよう。彼に仕事を教えてくれた先輩は、金を払わない相手をふん捕まえる方法は教えてくれても、007から逃げる方法は教えてくれなかった。運転手の体から滝のような汗が流れる。
だが、古城から来た人間の足が止まった。というよりいきなり方向を変えた。
「へっ?」
原因は、その場にやって来たほかの車だった。黒の大きなワゴンだ。ワゴンは古城の近くまで来ると、武装した男たちを恐れる風もなく停車した。
「なんだって?」
コウアンの口から広東語が飛び出す。普段英語を使っている彼が。
相手のプライベートには立ち入らない。付き合いはあくまで商売上の付き合いだ。それがこの業界では鉄則だった。だからイワンがなぜ金を欲しがっているのか、コウアンは知りようもなかった。しかし。
イワンから提示された金額を聞いたコウアンは、椅子から転げそうになりかけた。それを見たイワンが不思議そうに言った。
「そんなに驚くような金額ですか?」
コウアンの頭に向けられた銃の先が鈍く光る。
命と引き換えなら安いものでしょうとイワンが言う。
コウアンは後ろを振り返った。無数の銃口が自分を狙っている。
「し、しかしこれは」
リー家は確かに有数の財閥かも知れない。だがすぐに動かせる額ではなかった。こんな大金を何に使うつもりなのか、と相手に聞く余裕は、今のコウアンにはなかった。
「用意できるのですか。出来ないのですか」
イワンの口調がいらだちを帯びてきた。そんな彼に、コウアンはなだめるように言った。
「用意できないわけでない。だがすぐには無理だ」
「すぐに、とは?」
コウアンは説明した。いくつか資産を処分して売らねばならない。だから早くても一か月はかかる。だがそれは分かってもらわねばならないと。
脅されている相手に我ながら滑稽だと思いつつ、コウアンは必死で訴えた。
「だから、すぐには、だがお支払いする。それは、それは」
一瞬の沈黙があった。
「ミスタ・ロヴィッチ?」
いきなりイワンはロシア語で何か部下に命じた。コウアンはイスから飛び上がった。撃たれる、彼はそう直感した。
「待って、待ってくれ、払わないとは言ってないだろ!?」
イワンの部下の大きな手が、コウアンの肩を押さえつけて椅子に座らせ、彼の体を椅子に括り付けた。
「やめてくれ、殺さないでくれ! 頼むから話を聞いてくれ!」
イワンはまた何かロシア語で命令した。
熊の様な大男が、関節を鳴らしながらコウアンに近づいてきた。
この古城はまさに兵どもが集う城だ。こんな場所に誰が来るわけでもない。
誰もがそう思っていた。
仮にノコノコやってきたところで、銃で穴だらけにしてやるだけの話である。彼らには絶対の自信があった。
防弾仕様の窓に開けられた、大きな穴を見るまでは。
男たちは開いた窓から断崖の下を覗き、互いに顔を見合わせた。その表情には恐怖の色があった。何か得体の知れない者が城の中に侵入して来ている。それは間違いなかった。
男たちは銃を懐から引き抜き、身構えた。
その時だった。
仲間の一人がヒッ、と短い悲鳴を上げた。今まさに、彼らの背後にいたからだ。全身を黒の軍用ジャケットに覆われた連中が。相手は音もたてずに、いや何よりも彼らに全く気付かせずに背後に忍び寄っていてた。
だが男たちはまだ慌てていなかった。なんといってもこちらは先に武器を構えている。簡単だ。相手に向かって撃てばいいのだ。引き金にはもうすでに指がかかっているではないか。
だが、男たちはすぐに不思議に思うことになる。体が思うように動かない。まるで鉛でも飲んだかのように動いてくれない。すでに銃を抜き放っている手が、コールタールの中で泳いでいるように重い。
なぜだと彼らは思った。こちらは銃をすでに構えているというのに! それなのになぜ、相手に懐に飛び込まれ、どてっ腹に一発食らう羽目になっている――!
その理由は、スピードだった。相手の方が格段に上なのだ。彼らは気づかなかった。気づいたところで、どうしようもなかったのかも知れないが。
男たちは発砲することも出来ず、銃を叩き落され、次々と急所を一撃されて絶命していった。そんな中、まだ息のある者がいた。その者は両足を折られて歩くことができず、這うようにして逃げようとしていたが、頭を掴まれ、引きずりあげられた。
「イワンはどこにいる」
そいつは必死で喋った。助かりたさがあったことは言うまでもない。だが相手は彼の頸椎を掴んだ。
バタつく足が、骨の折れる音ともに垂れ下がった。
イワンはせわしなく部屋の中をうろつき回っていた。時折コウアンに鬼の形相で詰め寄る。だがコウアンの答えは変わらなかった。出来ないものは出来ないと答えるよりほかはない。
命が惜しくないわけがない。しかし。
「ウソをつくな!」
顔が真横に向くほどの力でコウアンは殴られた。口から血が霧のように飛び散る。
やがてコウアンを痛めつけていた男が言った。これ以上はまずい、と。
「何?」
「これ以上殴ったら拙い」
コウアンの頭は、まるで気絶した人間のように垂れていた。
イワンの額に青筋が浮いた。
「ボス」
「うるさいッ!」
イワンの肩が大きく上下した。
「しかし」
「私のやることに口出しするな!」
イワンの形相に部下たちは互いに顔を見合わせた。
人はあまり殴られ過ぎると死ぬ。打撲は考えている以上に人体にダメージをもたらす。命じられた男はコウアンを見た。
さっさとやれと男の背後でイワンが怒鳴る。
腕がふりあげられた、コウアンは何か観念するかのように目を閉じた。その時だった。血相を変えた部下の一人が部屋に飛び込んできて、イワンに早口で何かを囁いた。
「なんだと?!」
コウアンはロシア語に堪能ではなかったが、それだけは聞き取ることが出来た。コウアンは閉じた目をうっすら開けてイワンを見た。
イワンは知らせを持ってきた部下の顔と、コウアンの顔を何度も見比べた。その行動に意味はなかったのかも知れないが、かなり戸惑っていることは確かだった。
イワンは部下に何か命じると、コウアンを部屋から連れださせた。
「どこに連れて行くつもり……」
「黙れ!」
背中に銃が押し付けられる。コウアンは諦めたように両手を上げた。
連れていかれる途中で、コウアンは一人の人物とすれ違った。かなり若い女性だった。彫が深く、色白の肌から一見白人に見えたが……。
女性は真っ赤なスーツを着ていた。そのせいだろうか。妙に威圧的な雰囲気を周囲に振りまいている。
男たちに案内され、女性はイワンのいる部屋に入っていった。
コウアンは歩きながら、心の隅で少しだけ安堵していた。どこの誰かは知らないが、あの女性が来てくれたおかげで、今のところ痛めつけられずにすんでいる。先はどうなるか分からないが。
どこに連れて行かれるかは知らないが、とりあえず少し眠ろう。彼はそんなことを考えていた。
「ここに入ってろ」
コウアンが連れてこられた先は意外にも外だった。荷台の大きなトラックだ。
ということは、自分は移動させられるんだろうか。コウアンはぼんやりそんなことを考えていた――荷台の扉が開くまでは。
男たちが無造作に扉を開け、コウアンを中に押し込み、しっかり鍵を閉めた。
荷台の中では、コウアンが茫然となって立ちすくんでいた。無理もない。荷台の真ん中に、大きな棺桶が鎮座していたからだ。
コウアンは恐る恐る、棺桶の隣に身を横たえてみた。
大きさは、まるでオーダーメイドのように彼の身長にぴったりだった。




