9話 俺にだけ辛辣なクラスの聖女
「おはようございます、鳥羽くん」
「ああ新田か……おは……よ」
「……何しているんですか?」
「これ? 空気イス」
ぷるぷると。
足に乳酸が溜まっていくのを感じながら。
俺は朝からなるべく椅子から少し腰を浮かすようにしていた。
筋トレの一環だ。
筋トレを始めるにあたって大事なのは筋トレを習慣づけること。
三日坊主になってしまっては意味が無い。
だから手始めに空気椅子で足腰を鍛えようと……そう思ったのだが。
じとー。
そんな俺に湿っぽい呆れたような視線を向けてくる新田。
「あの……新田さん? その目、やめてもらえます?」
「こっちのセリフです。その目障りな体勢、今すぐやめてください」
「俺は真面目なんだけど?」
「……保健室、いきますか?」
「頭に問題があるとでも!?」
「はい、正解です」
くすくすと笑う新田。
別に本気で機嫌を害しているわけではないらしい。呆れてはいるだろうけど。
誰にでも優しいクラスの聖女が俺にだけ辛辣な件。
「頭のことは手遅れだとしても……」
「言い方が酷い」
「突然どうしたんですか?」
「……男らしく、カッコよくなろうと思って」
「それとこれとで何の関係が?」
至極もっともな質問。言葉が足りなかったらしい。
「男らしい……と言えば筋肉かなって思ってさ。だからこうやって身近な所から筋トレを始めてみようと……そう思ったわけ」
「失礼を承知で言ってもよろしいですか?」
「どうぞ?」
「鳥羽くん、あなたは馬鹿ですか?」
「わお、ドストレート」
「あなたは馬鹿です」
「と思ったら今度は断定!?」
はぁ、と大きくため息をつく新田。
笑顔を絶やさない聖女の面影はやはりそこにはない。
普段の姿が素なのか、俺の前でいる時の方が素なのか。
時々分からなくなる。
人は相手によって仮面を使い分ける生き物だ。
俺も義姉さんといる時、波留といる時、由奈といる時、相手によって態度を変える。
きっと新田もそうなのだろう。
ただでさえ目立つプラチナの髪にサファイアの瞳、エキゾチックな外見。
それだけで普通の高校生男子なら気後れしてしまう。
そんな相手に素を見せろ──という方が無理か。
もしかしなくても「聖女」という肩書が新田の枷になっているんじゃないか──不意にそう思った。
「鳥羽くんはそんなことしなくても充分……」
「え? ごめん。考え事してて聞き逃した。今なんて言ったの?」
「っ~~! そういうところが馬鹿なんです!」
「……ごめんなさい」
理不尽だ。
確かに考え事をしていて話を聞いていなかったのは悪いと思うが、唐突に囁くように小さな声を出した新田にも責はあると思うのだが……。
「……今の奇行も彼女さんのためなんですか?」
「そうそう」
先日、校門前に現れた波留の姿がリフレイン。
流れで新田を置いてけぼりにしてしまったことを思い出した。
思い返せば不誠実だったかもしれない。
「そういえばこの前は悪かった。一緒に帰るって話してたのに」
「構いませんよ。どうせ校門前までしか一緒にはいられないんですから……」
穏やかに笑みを浮かべる新田。
それは正に聖女の笑み。誰にでも好感を与えるであろう鉄壁の笑み。
「……綺麗な方でしたね」
「へへ……そう言ってくれると彼氏として鼻が高いな」
「大人の女性──正にそんな方でしたね。あのような方とどこで知り合ったのですか?」
「義姉さんの友達だったんだよ。その繋がりで知り合ったってわけ」
彼女を褒められて嬉しくならないはずがない。
表情が緩む。饒舌になる。
「……それで男らしくなりたい、と」
「そういうこと。年上の余裕って言えばいいのかな。いつも俺のことを子供扱いしてくるから見返してたくて」
「あんまり背伸びし過ぎるのはよくないと思いますよ」
「男の意地ってやつだよ。やっぱり彼氏だからさ、彼女をリードするくらいの気概を見せたいんだよね」
今のところ全部空回りしているが。
何をしてもカワイイ、と言われてしまう。
褒められて嬉しくないわけではない。だが胸の内に燻る焦燥。
子供のままではいられないという焦燥。
それが今の俺を突き動かす原動力。
「あ、そうだ。女子の意見も聞いておきたいんだけどさ。やっぱり彼氏には引っ張ってもらいたいタイプ?」
「セクハラですか?」
「あ、ごめん無理に答える必要はないから」
「まあ、そのくらい構いませんよ」
「本当か?」
「鳥羽くんになら特別、ということで」
ふぅ、と一呼吸を挟む新田。
サファイアの目が泳ぐ、わずかな逡巡。
「無理に答えないでいいから」言おうとする前に新田は口を開いた。
「私もそうですね、彼氏になってくれる人には引っ張ってもらいたいですね」
「ですよねー」
「というより……引っ張ろうと頑張ってくれているならそれだけで私は嬉しいです。私のために努力してくれているんだ──私はその姿勢が何よりも嬉しく思います」
「なるほど……」
「もしその努力に気づかない、気付いた上でその気持ちに応えてあげない彼女がいるのなら……私は少しだけ、軽蔑します」
ゾクリ、と。
一瞬背筋が冷たくなる。
俺に対して吐く毒とは比べものにならないほどに濃い毒。
心の底から搾りだされた本音のように思えた。
「まあでも……」
次に口を開いた時に聖女と言われる穏やかな姿。
「そういう彼女に対するさりげない優しさを、私は評価しますよ」
「珍しいな、新田が俺のことを褒めてくれるなんて」
「私のことを何だと思ってるんですか」
眉根を寄せて新田がむっとする。
大人びて見える新田だがこういう所はまだ子供なんだな、と思えた。
「鳥羽くんの彼女になった人は──きっと幸せですね」
「え? マジで? 本音か?」
「本音ですよ」
「え、俺今無性に新田に飲み物を奢りたい気分なんだけど」
「では遠慮なく、購買のアップルティーでもご馳走になりましょうか」
「OK、じゃ昼休みな」
我ながらチョロい。
でも嬉しいのだから仕方がない。
こんなに褒めてくれるのは義姉さん以外にいないから。
「はい、楽しみにしてますよ」
そう言って新田はプラチナの髪を揺らしながら満面に笑みを咲かせるのだった。