20話 空き教室と聖女③
「そうですか……正直言うと、分かってました。こうなるの」
今にも泣きだしそうな新田。
蒼い海に波が立つかのように、瞳が震えている。
「新田の気持ちは……本当に嬉しく思う。新田は俺にはもったいないくらいいい奴だって、俺は本気でそう思ってる」
「いいんですよ、今はその優しさが毒です」
自嘲気味な笑み。
その笑顔はとても力なくて儚いものだった。
「……そうか」
「結局、私のアドバイスは受け入れてもらえませんか」
「背伸び、な。でも分かったよ。俺ちょっと焦り過ぎてたんだって。多少はありのままぶつかってみてもいいのかなってさ」
「それはそれで毒ですね」
「何言っても毒か」
「ええ、鳥羽くんを見ているだけで苦しいです。胸がドキドキして高鳴ってしまいます。きっと鳥羽くんにも伝わっていたのでしょう?」
「ああ、しっかりと」
「ついでに私の胸の感触も堪能されたことでしょう」
「おまっ、何言ってるんだよ」
「ふふっ、少しはドキっとしましたか?」
少しずつ調子が戻ってきたらしい。
段々といつもの新田らしさが帰ってきた。
……それにしても、新田は着やせするタイプだったらしい。
背中に残るほのかな熱は、しばらく消えてくれそうにない。
「結局私はフラれてしまったわけですが……」
「申し訳ない」
「私は鳥羽くんのことを諦めたりしませんからね?」
「え……?」
今度は心底驚いた。
下げた頭を上げれば、目をパチクリとさせた新田。
何を驚いているのですか? そう言わんばかりの表情。
「好きな人にはたまたま先約があった。たったそれだけのことです」
「たった……って。本当に強いな、新田は」
「こんなことを言いたくありませんが……背伸びした恋愛はあまり続かないと思うんです。私の『聖女』の仮面も遠くないうちに剥がれます。限界が来るんです」
「そうかもな」
「だから、二番目でいいんです今は」
「言い方よ」
そんな彼女に一番目とか二番目とか……どこの世界の話だよ。
そんなやつがいたら背中からブスリと刺されても文句は言えないだろう。
「私は繰り上がり一番を目指すことにしますから。乗り換えたくなったら遠慮なく言ってきてくださいね」
「だから言い方……」
「ふふっ、誠実ですね。そういうところも好きなのですが」
「……!?」
どうやら本当に遠慮はないらしい。
「好き」という言葉を使うのにもはや躊躇いは無かった。
「でも誠実なだけじゃ、ダメですよ。相手は高嶺の花なんですから」
「ん? そうだな……」
「フラれてはしまいましたが、私としては鳥羽くんの笑顔が守られることが第一なんです」
「ありがとな」
「つまり私は鳥羽くんの恋路を応援したいと思っています」
淡々と。
鉄壁の「聖女」の笑みを携えたまま新田が言う。
それがかえって不気味に思えるのは……不穏な気配がするのは気のせいだろうか。
「応援……?」
「そうです、応援です。鳥羽くんは彼女さんに男らしく、カッコよく思われたいんですよね」
「ああ、できればクールな波留を赤面させるくらい積極的でカッコいいことをしたいと思ってる」
「でも経験値が足りない、と」
「そうだな」
「何故彼女さんはそれほど余裕があるんでしょうね。何でそんなに冷静でいられるんでしょうね」
ゾクリと。
背筋が凍る。
考えてはいたけど、考えたくなかった可能性。
きっと──新田はその可能性にたどり着いている。
「クールだから? 確かにそうかもしれません。でも果たしてそれだけでしょうか」
「新田! それ以上は……」
「何故、彼女さんはそんなにも余裕なのか、そういう性格だから? 恋愛の初期レベルが高いから? 違いますよね」
「やめてくれ!」
俺の制止を振り切って、それでもなお新田は言葉を続ける。
「考えられる答えは一つです」
時よ止まれ。
そう思った。
でもそんな力は俺にはない。
そして俺だってその可能性に気づいているから新田を止めることもできない。
「彼女は、既に誰かと経験済みなのではないでしょうか?」
「……」
「要するに鳥羽くんは彼女にとって二人目以降の彼氏──そう考えれば辻褄が合います」
何も言い返せなかった。
波留は綺麗だ。
そして三つも年上、十代にとって三年というのは埋めがたいほどに大きな差。
その間に俺が経験していないことをしていたって……なんら不思議ではない。
むしろあんなに綺麗な波留がこれまで全く恋愛をしてこなかったという方が非現実的だ。
「そんな恋愛経験豊富な相手にこれまで彼女のいなかった鳥羽くんが立ち向かうということ自体が無謀なんです、きっと」
「それでもいい、それでも俺は波留が好きだ。いくら新田でもそれ以上言うなら怒るぞ」
「だから私を選べ──なんて言うつもりはありませんよ。でも……それって不公平じゃありませんか?」
「不公平?」
恋愛に不公平。
結びつかない単語。
思考が停止する。
そして新田はその隙を見逃さない。
「彼女は色々と経験済みだから余裕を持って鳥羽くんに接することができるのに鳥羽くんは初めてだから、全てが手探り。リードするのは無理ゲーってやつです」
「……」
「だから、その不公平を是正しませんか?」
「どういうことだよ」
「つまりです。私と彼女を喜ばせるための練習をしませんか?」
それはきっと破滅への道のりだ、と頭では理解している。
でも今の俺にはどうしようもなく魅力的に聞こえてしまった。
悪魔が囁く。
──きっとこの手を取れば最短で経験値を稼いで波留に追いつける。
と。
「鳥羽くんが彼女にしたいこと、全部私にぶつけてくれて構いません。私は全てを受け入れます。だって私は鳥羽くんが好きだから。あなたになら何をされてもいいんですよ」
「それは……要するに波留への裏切りだろ?」
「裏切り、確かにそうかもしれませんね。でもよく考えてください。彼女は大学生です。私たちは高校生、住んでいる世界が違います。バレるはずがありません」
「……」
「ねえ、ナイショの練習……始めませんか?」
いつの間にか俺の目の前まで歩み寄ってきていた新田が耳元に熱い吐息を吹きかけながらウィスパーボイスで誘惑してくる。
他の誰かには聞こえないようなか細い声。
でもそれは確かに俺の心の芯まで届いた。届いてしまった。
確かに、と納得してしまいそうになる俺がいる。
でも、ふと浮かぶ波留の笑顔。
ケラケラと楽しそうに笑う彼女。
そんな波留を……やはり俺は裏切れない。
「悪いな新田。俺はその誘いにも乗れない」
「……そうですか、残念です」
「悪いな」
「うふふ、100%私が悪いんですから、鳥羽くんは罪悪感を感じる必要なんてこれっぽっちもないんですよ」
「そうか……」
「でも、いつでもいいですからね。もし鳥羽くんが本格的に彼女のための「練習」がしたいと思ったらいつでも言ってください。私、都合のいい女なので」
「今の言葉を聞いたら新田のことを『聖女』って言ってる男子は卒倒するだろうな」
「ふふっ、それもいいかもしれませんね」
「では、時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。またGW明けに」、そう言って新田は軽快な足取りで去っていった。
残された俺はというと……
「はぁ~」
と脱力。
頑張った俺、よくぞ誘惑に負けなかった。
正直ぐらついた。顔には出さなかったが、一瞬イエスといいかけた。
──きっとそれは本当に破滅の幕開けになる。
そう思って。
にしても……新田が俺のことをそこまで想ってくれていたとは驚きだ。
それに……思っている以上にイイ性格をしているらしい。
でも俺には彼女がいるから付き合えない。
……?
あれ? おかしくないか?
彼女がいるから付き合わない、それが正解のはずだ。
彼女がいるから付き合えない、彼女がいるから付き合わない……似ているようで全然違う。
これだとまるで彼女の存在が俺を縛ってるみたいじゃないか……。




