7 顕現
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
7 顕現
吉蝶の家は慶寿の南、つまり、居住区としては最低の区域に在る。家屋の大半は、長屋の体裁を保っている分貧民街よりましな程度で、暮らす庶民も日銭仕事でかつかつの者達ばかりだ。
吉蝶の家は、そんな長屋町から空隙の様に、ちょうど一軒分の空き地を隔てた所に立つ二階建ての一軒家で、千砂は此処に住み込みの内弟子として厄介になっていた。
だから、斑の下衆の勘繰りの余地も生まれてしまう訳だ。
袋小路でもないのに、吉蝶の家の前は殆ど人が通らない。猥雑な喧騒も、空き地で遮られる筈も無いのに、聞こえた例が無い。
これは実は吉蝶が「騒がしいのは好かん」の一言の下に、簡単な人避けの結界を張っていたからだった。
お蔭で近所の悪餓鬼達も、どんなに遊びに夢中でも、長屋の外れに来ると、ぴたりと足を止めて回れ右をしてくれる。
用いたのが簡単な術でも、こういう処で退魔力の質の差が現れる訳だ。
吉蝶曰く、他にも色々と備えてあるそうだが、もし斑の一味がこの結界を乗り越えて監視していたのだとしたら、大した執念である。
因みにこの家、吉蝶が慶寿に来て間も無くの頃、ある依頼の形にふんだくったのだそうで、千砂は二階に階段を挟んで二間有る内の、奥の一部屋を与えられていた。
二階全体は北と東にしか開口部が無い為、採光はあまり宜しくないが、慶寿の建物は大体似た造りだ。
晩夏、炎風の勢いが最強となる一週間程前から、慶寿一体に押し寄せる強い風が、九竜岐の砂を運んで来る。風砂が飛ぶのだ。
粒子の細かい風砂が室内に侵入するのを防ぐ為、慶寿では、南と西に窓を設ける事が殆ど無いのである。
吉蝶の部屋は一階、千砂の真下の部屋で、東側の縁側からは井戸の有る裏庭に出られた。
「何流だっけ」
「何がだ?」
「クソッタレの流派」
依頼で忙しい吉蝶は、家に殆ど手を入れない……入れる暇が無い。「寝に帰るだけの場所。終の棲家にする訳じゃなし」と人を雇って整えもしない。
場所が場所なだけに、元から結構な茅屋加減だったそうだが、長屋の間の細い路地を、右に折れ左に折れすると唐突に現れる一軒家は廃屋寸前、良く言ってもお化け屋敷の様相を呈していた。
きっと術等掛けなくても、好んで訪問する者等、居ないに違いない。
崩れ掛けた籬に、流石に修理しないとなぁ、と思いながら訊ねると、吉蝶は、ああ、と眉根を揉みつつ、複数の流派を捻り出した。
「義上会……は違うな。えーと、確か、天……天承流じゃなかったか。何故だ?」
義上会は、武術に重きを置いた最大流派、天承流は術師を多く抱える一門である。
「破門されねーかなー、とか思って」
それは無いな、と同じ姿勢の儘、少女は掌の影で皮肉気に笑った様だった。
「あの下衆が、先程の調子で彼方此方からみかじめ料とやらを徴収し、それを上納金として天承流幹部に散撒いているのは周知の事実。天承流が金に汚いのは本当だしな」
「……札持ちなのに?」
「何事にも、抜け道は有ると言う事だな。でなければ、札位を金で上げたなんぞ言われんわ。全く、芝居に出てくる悪徳商人よりも阿漕だとは、何の為に退治屋になったのだろうな」
「そう言う師匠は、どうして退治屋に?」
他意の無い問いだった。なのに、意外にも深い沈黙が一瞬落ちて、千砂は狼狽する。
藪蛇を懼れ、咄嗟に誤魔化そうとしたが、無意味な言葉の羅列を無視し、少女は前髪と細い指の間越しに、不肖の弟子を見上げて呟いた。
「……退治屋ならば、大妖に会う機会も有るだろうと、思っただけだ」
――大妖に会う?
大妖に遭遇する確率が上がる、とでも言うのなら兎も角。いや、大妖目当ても問題だが。
大妖に、会う、とは。
売れっ子凄腕退治屋の家に、盗みに入る空き巣はいない。
戸締りを一切しない不用心な吉蝶の家、酷く錆びの浮いた鉄柵の門扉の軋む音を従え、草取りもされぬ小さな前庭を抜け、黒ずんだ竹の引き戸を開けながら発言の意味を問おうと、千砂が振り返った時だった。
ぐらり、と吉蝶の華奢な身体が傾いだ。
「――おい!?」
するり、と手の重みが消える。
引き戸の桟に突き当たり、紙袋の中で、何か柔らかい果実が潰れた様な音がした。
「ちょっ……大丈夫かよ!」
周章する千砂の脇を、吉蝶が溺れる様に抜ける。
辛うじて、上がり框に手を付いたが。
「大丈……から、戸、を」
吉蝶の細く白い腕が、己の身体を支え切れず痙攣する。
肩が大きく上下し、凛然たる声に嗄れた乱れが混じった。
「何が大丈夫だよ!」
咄嗟に千砂の脳裏を占めたのは、まさか昨夜、自分が気付かぬ処で怪我でもしていたのだろうか、と言う事だった。
だが、何か。
それにしては、様子が可怪しい。
「いい……から! 戸を閉めろ! 荷物も!」
荒い息での怒声に弾かれ、千砂は何かが染み出した紙袋を家の中に引き摺り入れた。
勢いに任せて閉めた竹の戸が、抗議の音を立てる。
「……おの……れ」
流石に限界か、と吉蝶は到頭膝を付いた。
その姿に、千砂はもう一つの可能性に思い至る。
先程から疲れた様子だった吉蝶。
それは。
「……師匠。あんた、俺が弟子入りしてからのこの一月、ちゃんと寝てないよな」
否。恐らくは――その前から。
夜、厠に起きた時。
厨で水を貰おうとした時。
階段の途中からでも見えたのは、襖の隙間から漏れた、行灯の灯り。そして、人が起きている気配。
それだけではなく。
「……少なくとも俺は、あんたが横になっている処を見た事が無いぞ」
髪を乱して吉蝶が口を開く。
発声を試みたのは、五月蠅い、か、構うな、だったろうか。
一度開いた唇は、直ぐに激痛を堪えるかの様に硬く引き結ばれた。
兎に角自室に運ぼうと差し伸べた千砂の手を、最後の力を振り絞ってまで邪険に払い――それが、限界だった。
振り回した己の腕の勢いに負けて、土間に身体が倒れ込む、寸前。
「…………朱……雀、頼」
――どんっ!
何か凄まじい圧力が、助け起こそうと一歩を踏み出し掛けた千砂を、その姿勢の儘引き戸まで一瞬で弾き飛ばした。
千砂の肩と背の後ろで、表よりは変色具合の薄い竹が軋む。
「――え?」
否。何か、ではない。
千砂は目を瞠る。
この感じを、自分は良く知っている。
――何故なら。
吉蝶の異変は続いていた。
薄い肩を己で抱く様に身を丸め、発作の如き荒い呼吸を繰り返す。
千砂は見ているしかなかった。先の圧力に阻まれ近付けないのだ。
だが、やがて気付く。
不可視の圧力に、土間に蹲る吉蝶の背の上下に同調した強弱が有る事に。
つまりは。
この結界は吉蝶が張ったと言う事だ。
そう、結界だ。
ただそれが、退魔力に由来するのではなく。
「がっ……あぁっ!」
どくん、とまるで鼓動の様に、吉蝶の小さな背が跳ねる。――否。
千砂は息を呑んだ。
吉蝶の身体の輪郭が――ずれた。
「あっ……ぐっ!」
今や、本当に何かの胎動が見えるかの様だった。
音さえも聞こえたのは幻聴だろうか。
どくん、どくん、と地の底から湧き出す様な低い重い音が鳴る度に、吉蝶の身体が二つにずれる。
幼児が複数の絵の具で乱暴に書き殴った悪戯描きの如く、輪郭が三つに増える。
それとも実際は――幾つだったのか。
そして。
どくん、と。
一際大きな鼓動が鳴り。
一層大きく身体の輪郭がずれた時。
「――ああああああああっっっ!!」
激しく揺れた吉蝶の残像が、胎動の勢いの儘に集約した。
圧力が最大に高まり、千砂の身体は再度戸に圧し付けられる。
胸を強く圧され、思わず目を閉じた千砂の耳朶を、歪む戸の音と吉蝶の絶叫が乱打して――その、一瞬後。
「……ふぅ」
耳慣れぬ低い声に目を開けた千砂は、今度こそ言葉を失った。
何故なら、吉蝶の姿は消え。
たった今まで吉蝶が蹲っていたその場所に、代わりに居たのは、若い男だったのだ。
「な、なな、だ」
何が。誰だ。
吉蝶に良く似た面差しの、長身の美男子だった。
諸肌を脱ぎ、しなやか且つ逞しい身体の腰の辺りに、つい先刻まで吉蝶が纏っていた筈の着物が、何かの冗談の様に巻き付いている。
――そう、悪い冗談だ。
これが冗談でないのなら。
あの結界が意味するものは。
「おっしゃあ、久々……ん? ……そうか。オレに会うのは初めてだったな」
吉蝶の兄で十分通用する容姿の男は、窮屈な束縛から解放されたかの如く伸びをすると、驚愕のあまり舌さえ真面に動かせぬ千砂を見て、ああ、と一人合点が行った様に頷いた。
その儘とっくりと千砂を観察すると、ふうん? と恐ろしく精悍な笑みを浮かべる。
十人中九人の女がコロッと蹌踉めいてしまうだろう魅力的な笑顔だったが、男と目が合った瞬間、千砂は全身が総毛立った。
――間違い無い。
「へぇ。オレ、男には興味無いんだが……」
知らず、千砂の歯が鳴ったのは。
恐れからか。
それとも。
この場この時には有り得ぬ。
冷気故か。
これは……この男は――否。
――この男も。
「お前、面白いなぁ。だからお蝶……ぐっ」
千砂の動揺と恐怖に気付かぬのか、屈託無く続ける男が、不意に呻いて身体を折った。
「手……前、朱雀! また」
一体誰に叫んでいるのか、吉蝶も呟いた名に悪態を吐く男の体が、またしても不自然に歪み、ずれる。
だがどんな苦悶を前にしても、もう千砂は助け起こす気にはなれなかった。
だって、そうだろう。
「があああああっっ!」
今度は野太い絶叫が、憤怒を伴って迸る。
千砂も目を逸らさなかった。
だから、見たのだ。
咽喉を反らして吼えた男から、かくん、と、力が抜けた時、前のめりになる反動その儘に、男の身体が少女のそれに変わるのを。
広い肩は薄く、太い二の腕は細く、顎は小さく、胴は括れ、筋張った手は繊手へ、一筋さえも艶を増した髪は長く、硬い直線で描かれた体躯は柔らかで嫋やかな曲線へと、表と裏で出来た物を引っ繰り返すかの様に。
くるりと。
何時しか結界は消え、半裸の吉蝶は、さ、と千砂に背を向け、手早く着物を直す。だが。
――違う。
矢張り違う。
千砂はごくりと唾を呑む。
これが冗談でも幻覚でもないのなら。
この、気配は。
結界を構成したもの。
吉蝶に良く似た男。
そして、今の吉蝶からも感じるもの。
そう、これは、これはまるで――。
妖気。
「小僧」
目の前の少女に呼ばれて、だが千砂は声にならぬ悲鳴を上げた。
同じ声、同じ身体。
だが、違う。
今の吉蝶は吉蝶ではない。
今の吉蝶は、人ではない!
「……矢張り、誤魔化せぬかや」
吉蝶と瓜二つの、だが別人の少女は、千砂の態度に憎々し気に顔を歪めて呟いた。
同時に千砂も確信する。
上妖に可能だとされる、変化の術。
目の前に妖――それも上妖以上が居る事を。
では、吉蝶は妖なのか。
上妖が化けていたのか。
上妖が妖退治? 馬鹿な!
過ぎた混乱が、一時、恐怖を押し退けた。
醜態を曝さぬ千砂に、少女は目を細める。
「動顚して騒がぬ点は褒めてやろうよ。我が名は朱雀。来やれ。白虎が問答無用で殺さなんだのも青竜、玄武が顕現せぬのも、汝の今に意味が有るからであろ。耳障りな悲鳴を聞かせなんだ褒美に、我が説いてやろうよ」
そう言う朱雀の仕草は、吉蝶であれば事務的、或いは泰然と評される動きも艶かしく、荒事等想像も付かぬ春笋で、吉蝶の部屋の唐紙を引き開けた。
紅等引いていない筈の唇が何故か紅く、冷徹さと知識の塊の様な吉蝶の花唇が艶やかに綻んで、誘う様に笑みを含む。
「案ずるな。取って喰いはせぬわえ」
お読みいただき有り難うございます。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
星を掴む花
竜の花 鳳の翼
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