17 驟雨
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
17 驟雨
後で聞いた話に依ると、その夜の驟雨は、変わり易い春の時節でも珍しい事だったそうだ。
何に遭っても――つまり、妖に襲われても店を開けるが信条の大通り露天商達も、これは堪らぬと早々に店仕舞いを余儀無くされ、水捌けの悪い南では、小路がその儘川になったそうだ。
下水道どころか、当然の如く、雨水の排水設備等望めぬ地域、俄川の氾濫は結構な勢いで、貧しい者達から、更に何かを奪っていった。
南門も俄の水門となり、道も標も無い濁流はその勢いの儘、江落の縁まで迸った。
その流れが異様に紅かったと囁く者が少なからず居たのは、矢張り、昨今の物騒さに因るのだろう。
全てに平等に叩き付けられた天水は、死者の未練か魂魄の怨嗟か、或いは遺族の悲嘆が凝結したかの様に、一向に落ちなかった惨劇の血の跡も、跡形も無く消し去り流し去ったのだった。
「もし本当に、血の溶けた流れだったのなら」
吉蝶は、情意を排した硬質な声で述べる。
「今頃、江落の妖が大喜びで集っているだろう。匂いに惹かれて此処まで湧いて出るぞ」
「実際は?」
「雨水の流れが紅い訳はなかろう。だが、妖は餌に関して、異様に鼻が利くからな。現場の血を含んだ砂でも溶けていたら……稀釈され過ぎていて有り得ない、とは私は言わんな」
一晩中降り続いた雨は、雨雲と旭日の実力伯仲した勝負の末、不承不承退場を承知し、太陽が南中する頃、漸く、雲の灰色より蒼天の青の方が、見上げた視界を多く占める様になっていた。
小塚から斡旋された依頼の為吉蝶が動き出したのは、まだその細雨が残る時分で、視界を遮る滴も介意せぬ吉蝶は、雨合羽と菅笠姿で足元の悪い南を精力的に動き回った。
千砂も顔を顰める様な溝川を平気で漁り、無縁仏が投げ込まれる茅屋にも平然と踏み込み、退治屋も絡まれる程治安の悪い地区で、破落戸に紳士的でない――吉蝶曰く「女の私が紳士的でなくて当然だろう――聞き込みを行った。
かと思えば、雨脚に蹴られたが如く人気の絶えた小路の中央に仁王立ちするや、蜘蛛の巣よりも蚕の繭よりも、凡そ千砂が知る限り、地上で最も精緻な呪の網を編み上げ、周囲に一瞬で張り巡らせた。
しかも、それが「む」の一声で成るのだから、一応常識人の側に居ると自覚する千砂としては、頭痛を堪えるのがやっとだった。
漸く昼に大通りに出て、軽食を求める序でに、暇そうな童を捕まえて、用済みになった雨具を家まで運ぶ様に頼む。勿論駄賃は忘れない。千砂もこれに倣った。
人避けの結界は、術者が認めた相手には効果が薄れるのだそうだ。
甲斐もかと訊ねたら、無敵のお師匠様は「彼奴を拒んだら、理由を執拗に探られるではないか」と小五月蠅そうに宣った。然もありなん。
その小塚経由の依頼は、何と「怪異の調査」。
この一月の間に頻発しているらしい。
「視線を感じる、何かの気配がする、物の位置が変わっている様な気がする……」
「全部、気の所為で片付くよな」
まあな、と吉蝶は、あっと言う間に平らげた器を屋台に返しながら頷いた。
本日の昼食は、小麦粉で打った麺と野菜を、魚介の出しで煮込んだ汁物で、吉蝶が週に一度は必ず口にする好物である。
お蔭で屋台の店主とは顔馴染み、今日は品書きに無い天麩羅がおまけに付いた。
「これだけなら、然程心配は要らんがな。だが、更に、辻で何かに突き倒された、小動物の屍骸が目に付く気がする、子供が何かに腕を曳かれた……となると、捨て置けん」
「でもそれ怪異か? 人為でも有る事だろ?」
「だから、それを調べるのだ。こう言う不確かな噂状態では、札持ちは動かんからな」
どうやら吉蝶は、怪異の噂が在った所を隈なく回る心算のようだ。
それにしても、まだ噂に過ぎぬのに吉蝶を引っ張り出すとは、と千砂は依頼の筋の想像を逞しくさせた。
一流、凄腕で売っているだけあって、吉蝶への依頼料は相場に比べて随分と高い。
調査段階から頼むとは、費用に糸目を付けぬ御仁らしい。
「色々柵とやらがな。物騒は物騒だし」
「ああ……。でも普通に考えたら妖じゃないだろ? 嫌がらせとか誘拐で片付く話じゃん」
一応、此処は退治屋総本山。妖に容易く跋扈はさせぬ、が売りの、妖の鬼門である。
前述の程度しか出来ぬ妖が、戯れる隙は無い。
「そうか? 貴妖が本気を出せば、札持ちの結界なんぞ蜘蛛の巣よりも柔いぞ」
……鬼門の筈である。
「でもそれこそ通常なら小塚で下調べして、妖だったら師匠に話が来る流れだろ?」
「だから、私の出番なのだろうよ」
「?」
相変わらず、吉蝶の説明は端的だ。
吉蝶は二本の指を立てると、一つ、と数えた。
「私が調べて、怪異に非ずと太鼓判を捺せば、それだけで民心の慰撫……騒動も治まろうよ」
「退治屋吉蝶が調べてこそ、か。妖だったら?」
「その時は、私が調査段階から動いていたもう一つの意味が、大いに表れると言う事だ。退治屋吉蝶に倒せぬ妖は無いのだと、小塚が存分に触れて回っているからな」
自信過剰、過大評価と出来ぬのが怖い処だ。
御多分に漏れず「吉蝶なら有り得る」である。
「念の為に確認しますがねお師匠様。俺の記憶違いじゃなければ、慶寿で怪異を起こせる妖は、基本的に貴妖じゃなかったですかね」
「それで何か問題が有るのか?」
無い。
否、普通は有るのだが、無い。
「しかし怪異の目撃場所って……広いぞ」
千砂が午前中に回った箇所を諳んじると、吉蝶が懐から都内の地図を出して寄越した。
甲斐の手蹟で詳細が書き込まれている。
相変わらず用意の良い大男だが、ざっと見ただけでも、まだ回っていない箇所の方が多い。
しかも堕妖四件よりも広範囲である。
「こちらは長期戦は覚悟の上だ。……別件で、これ以上犠牲を出せんからな」
吉蝶が、ひやりとした空気を纏って呟く。
別件とは、堕妖の事に他ならぬ。
摑み切れぬ敵だけに、流石の吉蝶も二正面作戦は避けたいのだろうと思った千砂だが、聞かせるとも無い続きには、思わず頰を引き攣らせた。
「まあ、これだけ派手に動けば……」
おい、と怒鳴りたくなるのを必死で堪える。
語尾は不明瞭に消えたが、これは千砂でなくとも想像が付く。
恐らく、否、きっと「(人為でも怪異でも)これだけ派手に動けば餌に喰い付く」だ。
人為なら目障りな退治屋排除に黒幕が動くだろうし、怪異ならこれまた目障りな天敵に妖が牙を剥くだろう、と。
「触らぬ吉蝶に祟り無し」と畏れられる吉蝶だが、彼我の差を理解出来ぬ愚者は何処にでも居る為、今でも刺客の類には困らないし(千砂は困ってほしいと思うのだが)妖に至っては言うに及ばず。
つまりは自分を囮にして、騒動を解決しようとの腹なのだ。
何が長期戦覚悟だ。
二枚舌と言うか、舌の根も乾かぬ内にと言うか、この歳に不相応な老獪さも一流の証か。
同じく古狸な各流派の一札指導者の向こうを張る為には必要な技能だとしても、この己が力量への強烈な自負に裏打ちされた、傲慢な手段。
潜在的な敵を量産してきた訳である。
「どちらにしても、事件は解決。それが一番ではないか」
それはそうなのだけれども。
何か間違っている気がしないでもない千砂が、何処をどう指摘すべきかと考え倦ねる姿に、可憐よりも不遜、愛嬌よりも不羈の精神が似合う少女は、更に不敵な笑みを浮かべる。
「勘違いするなよ。一朝一夕で片が付くとは思っていない、との意味での長期戦だ。過酷な地、楽観的な思考が無ければ死ぬ様な苦痛しかないが、予測と希望を取り違えたら、それこそ妖の思う壺。奴等の餌が増えるだけだぞ」
その結末だけは御免被りたい。
言うと、だろう、と吉蝶は笑みを消し、菫の双眸に不思議な光を湛えて、不肖の弟子を射竦めた。
「ならば、目の前の事に集中せよ」
胸の底を浚う様な、深い色の光。
「一人前に思い煩う事が、今のお前に有るのか? それとも、半人前だからこその苦慮か? お前の憂悶がお前だけで済むと決まっているのか? 今言っただろう、此処は生きるには過酷な地なのだ。生命を繫ぎ、生き長らえる為にせねばならぬ事が溢れている。退治屋はその最たる者ぞ。今更心構えを説かれねばならぬ程の愚か者を、私は弟子に取ったのか?」
千砂は息を呑んだ。
矢張り、昨日の鬱屈は見抜かれていたのだ。
だが、案じるのではなく、巻き添えを喰う周りが迷惑すると叱責するのが吉蝶らしい。
これは一見非情、或いは、己の無事のみを図る手前勝手な了見に思えるが、実に客観的な正しい見解である。
己がしっかりと立てていないのに、他人に手を差し伸べる等、烏滸がましい。
その結末には、共倒れしかないのだから。
退治屋の危険性を、綾京の厳しさを知る吉蝶は、それを容赦無く指摘した。
これぞ我が師匠、情に流されるのは吉蝶に非ずと、それこそ烏滸がましい事を笑みさえ浮かべて千砂は思う。
矢張り自分は、この吉蝶の強さ――物事への姿勢を求めているのだ。
そう。これは、自分の問題。
そして恐らくは、今の慶寿の問題にも関わる事。
自分の問題とは根本が異なっても、表層は正しく類似の。
だから、迷った。
言うべきかと。
明かすべきだと解っているから、悩んだ。
考え倦む事自体が、既に答えなのに。
吉蝶の言う通り、思い悩む事すら自分にはまだ不相応だったのだ。
目指す所に突き進む勢いが無くて、慶寿で何が成せると言うのか。
この危地で、生命の遣り取りをする退治屋を志す者が、上も、遠くも見る事無く、無為に潰した約一月。
自分自身の想いも理解出来ぬこんな中途半端な状態で、よくぞ生命が有ったものだ。
どれだけ吉蝶に迷惑を掛けていたのか、護られていたのかに思い至り、千砂は赤面を通り越して、血の気が引く思いだった。
今なら、斑に優男だのと罵られても、全くその通りですと土下座出来そうだ。
斑の罵倒が、外見ではなく、性根を指していたのではないかとも思えてくる。
不甲斐無い過去を埋葬する為なら、大地の底まで穴を掘れそうで、何より慙死しそうなのは、覚悟の無さだ。
覚悟したと自分で思っていたのは、覚悟でも何でもなかった。
だが、重く圧し掛かり全てを塞ぐ様だった、本当に息を詰まらせ背を伸ばす事も苦痛だった迷いは、もう、晴れた。
後は、世界を拓くだけ。
「……申し訳無い」
「戯け」
万感、とまではゆかずとも、色々な想いを籠めた、たった一言の謝罪。
それを何処まで酌んでいるのか、矢張りいつもの調子で一語の断罪。
それが、らしい、と千砂は思う。
だが取り敢えずは「目の前の事に集中」だ。
こちらも人命が懸かっているだけに急がねばならぬが、残念ながら確証が無い。
逃げる口実だった昨夜までとは意味の違う「確証が無い」だ。
明かせば吉蝶は、きっと動く。
小塚に上手く取り計らい、依頼さえ捥ぎ取るだろう。
口を閉ざしているだけでは、何も始まらない、動かない。
こんなにも、事態は変わる。
だが、またしても千砂の希望は、甘い幻想の様に溶ける最期を余儀無くされた。
今までの怠惰を、現実は許す心算が無かったのか、無精の分を取り戻そうとするかの如く、時の猶予を望んでも、そうは問屋が卸さなかったのである。
お読みいただき有り難うございます。
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星を掴む花
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