16 憧憬
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
16 憧憬
雨脚が強まる前に、出掛けた時とは対照的な、悄然とした表情で戻った弟子を、吉蝶は片眉を跳ね上げただけで、何も問い質そうとはしなかった。
気遣いではなく日頃から、吉蝶が弟子に留意、介意していない事に、千砂は薄々気付いてはいた。
吉蝶にはこうした薄情と言うか、人情味に欠ける面が、時折見受けられる。
まるで、情を棄てねば、今の自分は有り得なかったかの様に。
だがその割り切り方が、今は却って有り難かった。
何と言えば良いのか、解らなかったのだ。
――否、と自室で独りになった千砂は、自嘲の笑みと共に頭を振った。
屋根瓦を小刻みに打つ雨滴の音が、膜の様に己の醜い面を包み隠す。
解っているのだ、自分でも。
それが言い訳で、甘えだと。
覚悟が足りない事を誤魔化す為の。
だが、一番情け無いのは。
「……自分に言い訳する様になるとは……」
一体自分は、何を躊躇っているのか。
何が――口を開く事を躊躇わせるのか。
自分は、何を恐れているのか。
恐れる――何を?
失うものは何も無いと思って、此処まで来た。
自分に有るのは、この身体と生命だけ。
護るものも棄てるものも無い事が強みで、逆に言えば、自分さえ護れればそれで全てが完結する。それで――ここまで、生きてきたのに。
やっとの思いで、生き延びてきたのに。
その自分が、恐れるもの。
死の恐怖――ではない。
忸怩たる想いにもさせる、これはもっと感情的な割り切れない――何か。
持っている筈の無い――知らぬ内に手に入れていた、手に入れ掛けていたもの。
自分がそう感じていた、思っていたもの。
それを失う、失うと錯覚して、それが怖いのか。
摑めていた筈の、摑んだ筈のものを、手にせず終わるのが嫌なのか。
どれ程固く閉じても、指の間から水が滴り砂が零れる様に、己が意思に反して失われる事が我慢ならぬのか。
そこまで自分が執着するものが、在ったか。
辛うじて恐ろしいと解るのは、想像するだに震えるのは――今の自分が失われる事。
今の自分。
――そんな確固たるものが在ればだが。
ああ、そうか、と千砂は悟った。
では、矢張り、自分ではないのだ。
失いたくない、失えぬものは。
永劫手に入らぬとは認められぬ、だが今の自分に――近しいもの。
無意識に求めていたのか。
だから、恐れ躊躇うのか。本当にそんなものが有るのなら、知りたいと思った。
そして同時に、それもまた恐ろしい事だと気付いた。
知る事は即ち、護ろうとするものが増える事になりはしないか。
知る前から無自覚な儘、こんなにも得られぬ事を恐れているのだから。
恐れる。
意識し、言葉にし、それが何かを頭で理解するより前に、感覚で悟った大切なもの。
それが無になる事を、自分は確かに恐れている。
それは新鮮な驚きだった。
知らぬ間に、自分がそんなものを手に入れていたとは。求めていたとは。
変わったのだろうか、自分は。
変わったのだとしたら、何故――何が原因で。
そうか、と、漸く千砂は合点が行った。
変わった原因理由、契機。
それがきっと、自分が「失えない」ものだ。
では、それは、一体――。
千砂は息を吐いた。
強まった雨音を透かす様に、一度首を巡らす。
前進した様に思えるが、結局は堂々巡りだ。思考が、無限に続く円環に陥っている。
吉蝶なら、こんな事はないのだろうけれど。
この煮え切らぬ様な迷いを知られたら「下らぬ事にこれ以上何を思い煩うか」と、一喝でもされそうだ、と、少女と自分の違いに想いを馳せた千砂は、忍び笑いを漏らした。
あらゆる点で、この差の、何と大きい事か。
自分と吉蝶の、一体何が違うのだろうか。
ここまで、分けるのだろうか。
きっと覚悟だ、と千砂は確信する。
自分が幸せな、安逸な人生を送ってきたとは思わない。
けれど吉蝶は、自分以上のものを背負っている。そう感じる。
今の吉蝶を吉蝶たらしめている背景。それが自分とはまるきり違うのだと。
――込み入った事情。
そういう事なのだろう。だから、勝てない。
勝ちたいのかと問われれば、それもまた違うように感じる。
では、何なのか。
ふっ、と浮かんだ言葉に、千砂は思わず口許を覆った。
誰が見ている訳でもないのに赤面する。
そんな、と動揺する。
年下のあんな小娘に。
――憧憬なんて。
無い無い有り得ない、と、自分自身に必死で否定して――不意に、すとんと、得心が行った。
だから吉蝶に明かせないのだと。
全てを捨てたと、理解を得る事は諦めたと思っていたのに、怖かったのだ。
憧憬の対象に、拒絶される事が。
拒絶されない今の状況、即ち、受け容れられる以前の段階、己を曝け出さず隠し秘めた儘の今を、己自身が認めてしまっているから、快く感じているから、失いたくないと思って。
この、微温湯の様な中途半端な現状を。
この儘では駄目だと、梲の上がらぬ見習いと力量に大差無い四札では、目的を達せられないと承知で、それでも尚と思っていながら。
――何と言う不甲斐無さか。
千砂は漸く認めた。
憧れる。
慕う、尊敬する意とは少々異なるが、吉蝶は間違い無く自分の目標なのだと。
それは勿論、退治屋としての技量、強さと同時に。
あの少女の、心の強さが。
無礼千万な態度や一般常識に欠ける点等、正直見習ってはならぬ処が多々有るとしても、まだ吉蝶も全てを明かしていないとしても。
――あの高みに、焦がれる。
ならば、失わぬ為には。
あの真っ直ぐで苛烈な菫の瞳に、全てを見透かす強い眼差しに、臆せず向き合う為には。
千砂はもう一度息を吐いた。
爆音の様に轟く篠突く雨音は、結論を後押ししているのか、或いは翻意を促しているのか。
千砂には、唯一の答えを示す様に思えた。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
星を掴む花
竜の花 鳳の翼
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