15 卑怯者の不覚悟
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
15 卑怯者の不覚悟
「これだけ現場が点在だと、次の犯行予測も堕……的の住処も絞り込めないな」
独白でも周囲を憚り、千砂は慌てて言い換えた。
こういう話は、何処から漏れるか分からない。用心に越した事は無いのである。
甲斐から内々の依頼を受けたその日の午後、「どうせ気になって他の事等手に付かんのだろう」との師匠の有り難いお心遣いで半日自由を貰った千砂は、四件の現場を巡る事にした。
現場百篇とやらである。
流石に犯行同時刻には彷徨けず、せめて同じ順番でと出たは良いが、これが存外一苦労だった。思わず独り言ちた通り、現場が点在し過ぎているのだ。
吉蝶の家から最初の殺害現場まで、早足でも二刻以上を要し、小塚を気取って周辺を検分していたら、あっと言う間に夕刻である。
まだ日の長い時節、今夜は仕事が無いから良いようなものの、これでは悠長に寄り道も出来ぬ。おまけに何だか空模様まで怪しくなって来た。
参ったな、と千砂は頭を掻いた。
色々調べたい事が有ったのだが、人海戦術を多用出来る小塚が繁盛する訳である。
明日はその小塚から、また仕事が回ってきている。午前中、序での様に甲斐が持ち込んでいたのだ。忠実とでも言おうか、甲斐の動きに抜かりは無い。
外出目的を敢えて口にせずとも、矢張り明敏なお師匠様はお見通しで、出る間際、蛾眉を顰める様にして低く漏らした。
「果たして堕妖は、狂っているのだろうか」
心を喰われ、自我が崩壊し、人間的な思考は存在しないとされる堕妖。
瘴気を放ち、人を襲う化け物。故に「憑かれた」と言われる。
発狂している様にしか、見えぬ。
「もし、狂っているのではないとしたら……」
一体この元人は、何を求めているのだろうな。
そう呟いた横顔は、酷く――千砂が胸騒ぎを覚える程に、深刻だった。
聡明な吉蝶、英明な退治屋。
その鋭利な頭脳と犀利な菫の双眸から齎される見識は、天眼通とでも言うべき力。
だが、並外れているからこそ、一隻眼は諸刃の剣に等しい。
吉蝶が呼吸するが如く自然に視える光景、順当に至る結論に、周囲は到達出来ない。
吉蝶の思考ならば当然の帰結が、凡人には脳漿を振り絞っても浅慮にしかならない。
吉蝶は、何を危惧しているのか。
吉蝶こそ、一体何が視えているのか。
何に――憂慮を。
手掛かりも無い儘、千砂はのろのろと惨劇跡の一つに背を向けた。
甲斐が説明した通りの貧民屈、舗装されぬ区画に、てんでに縄を渡して筵を引っ掛け、風さえ防げぬ様な折板を凭れさせ、湿った土の上に茣蓙が在れば上等な、「南」の象徴……否、南を象徴する場所。
饐えた臭いが鼻を衝き、城壁の陰に人の形をした影が蹲る様な。
現実が澱んだ様な。
此処で一日をやっとの思いで生き延びる姉に、殺されるだけの理由が有ったか。
残された妹に、苦しまねばならぬ罪が有ったか。
解らない。
解らないのは――殺された理由か。
或いは、殺した理由か。
『私達には理解出来ぬ、だが殺害犯には通じる、歴とした理由』
――どんな理由だ。
理由無く殺せば、殺した者は狂人だろうか。
では、理由が有れば、狂人とは言われないのか。
違う。
その理由を万人が……少なくとも大勢が、最低でも誰かが、理解出来ない時に、狂人と言われるのだ。……此処に来れば、理由が摑めると思っていた訳ではないが。
ああ、と千砂は気付いた。
だから吉蝶は、自分達に「獣では有り得ない論拠」を説いている時点で既に「殺した理由が解せない」と言ったのだ。
きっと吉蝶は、賢明なる我が師は、弟子がやっと摑んだ思考を、既に乗り越えているのだ。
それも恐らくは一瞬、天啓の如き閃きで。
だから呟いたのだ。問わず語りに。
けれど、不敏なる自分は、まだその差を埋められぬ。
退魔力だけではない。
――これが天稟、天賦の才か。
そんな事を考えていた所為か。
気付くのが遅れた。
家路を辿っていた筈なのに、何処かで辻を間違えたか、見覚えの無い家並みに取り囲まれて漸く、千砂は足を止めた。
見る間に巨大化した北の空の黒煙の様な塊とは別に、濃い茜の影が空から綺麗に軒先に垂れて、家屋で切り取られた先には逸早く夜が溢れ――湧く様に。
「!」
千砂は目を瞠った。
本当に、地表から闇が湧いている。
時は。
逢魔が時。
誰そ彼時の。
辻。
――拙い!
千砂は瞬時に身を翻した。
吉蝶の最初の訓辞は「勝てぬ妖から逃げるは恥に非ず」だ。
見習いが勝てぬのは当たり前、見栄を張って挑むのは、勇気ではなく無謀と言い、無謀は馬鹿のする事で、自分の弟子に馬鹿は要らぬと。
だが。
「そんな……!」
踵を返して僅か数歩で、千砂は踏鞴を踏む事になった。
獲物を挟み撃ちで仕留めんと狙ったが如く、前後に闇の塊が、蹲った子供程は有る黒い塊が、地面から染み出す様に無数に生まれ出していたのだ。
左右に目を走らせれば、在る筈の茅屋は融け去り、瓦礫の代わりに矢張り粘度すら感じさせる黒塊が、ねっとりと滴る様に宙に浮かび上がっている。
だが、嘘だろ、と千砂が呻いたのは、退路を断たれたからではなかった。
再度瞠目したのは、絶体絶命の窮地に陥ったからではなかった。
「……此処まで……!?」
こんな、退治屋の犇めく地の果てまで。
――此処まで、追って来たのか。
泣き声の様な、呟き。
千砂は知っていた――否、恐らく知っているものと、同じだと思った。
――あれは、罪の証。
呆然とする千砂の前で、闇の一つがぶるりと震えた。と、呼応する様に他の塊も身を揺らし、悍しい振動が、千砂の自由を絡め取る。
「くっ」
我に返って抵抗しようにも、闇の濃度が高過ぎた。
一際大きな塊が、獣の顎の様に裂ける。
ひょお、と恐ろしい音が、千砂の頰を撫でる。
虚無に、吸い込まれる。
だが。
逃れる方法は――有る。
「……契、約の……!」
ある人が生命と、自由と引き換えにくれた。
「護法の盟……約に、従……」
千砂の胸が、懐の物が熱くなる。
逃さじと振動の拘束が強まり、闇の顎が目睫の間に迫る。
濃い妖気に息が詰まり、だから気付いた。
違う。
これはあの闇ではない!
「去れ! 我、上なるものに連なる者!」
カッと閃光の音すらさせて、千砂の胸元から峻烈な光が迸る。
光の軌跡は闇を千々に裂き、或いは押し流し、一瞬の昼が戻った後には、藍が混じった茜が黒々と空を覆っていた。
拘束を解かれた千砂は、思わず地面に膝を付く。
荒い呼吸で周囲を見回せば、吹けば正しく飛ぶだろう荒屋はそれでも厳然と在り、力無い目の住人達が、遠巻きに此方を窺っていた。
どうやら彼方側に誘い込まれていたらしい。
背に嫌な汗を感じながら、千砂は服の上から懐に入れた物を押さえた。
緊張と恐怖から解放され、今更の様に、早鐘の如く打つ鼓動を感じる。
だが、感じたかったのは、その上の、物。
――これは必然で、予定調和か。或いは。
立ち上がり、僅かにふらつきながらも改めて周囲を確認するが、矢張り何の気配も痕跡も無い。
異界とも言うべきあの異様な街並み、辻に迷い込んでいたのは、きっと玉響の事なのだろう。だが、あれに呑みこまれていたら。
ふと、ある考えが浮かんだ。
それこそ、博雅な師が豊富な経験と併せて閃く「勘」とは異なり、言葉に依らず、言葉で筋道立てて説明しては淡く消え去ってしまう様な、儚く、摑み所の無い、漠然とした、何ら裏打ちするものの無い考えではあったけれど。
あれが、自分を狙ったものではないのなら。
胸を押さえる手に、更に力を籠める。
偶然の遭遇、だとしたら。
これは、未だ吉凶定まらぬ予感。
けれど、靄より不定形なその考えに平静を奪われたのか、鼓動が五月蠅い。呼吸が苦しい。
もしかしたら、自分は、手掛かりを摑んだのかもしれぬ。
だが、動く為には。
――明かすべきか。
確証は無いのに。
しかし、人命が。
ただの、勘かもしれないのに。
可能性が有るなら。
千砂は唇を嚙んだ。
己の中に無数の自分が居て、二派に分かれて喧々囂々と主張している様だ。
その論議の題目は、詰まる処。
――保身か、正義か。
それに尽きるのだけれど。
千砂は鼓動を抑え付ける様に、態と大きく息を吸った。
緩慢を意識した呼気が、情け無い程震えているのが判った。
自分独りでは何も出来ない。解決出来ない。誰一人――己自身さえ救えない助けられない助からない。
それは解っているのに、どうしても語る決心がならなかった。
何の為に、困難を承知で退治屋を志したのか。
茨の道と承知で、歩むと決めたのか。
自分の覚悟は、この程度だったのか。
あまりの不甲斐無さで目の奥が熱くなる。
湿った風が、責める様に耳朶を掠めた。
自分が世界一の卑怯者になった様な気がして、酷く居た堪れなかった。
お読みいただき有り難うございます。
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星を掴む花
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