8 初見
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。その際「9 朱雀」「10 封印」と分割しております。
宜しければご覧下さい。
8 初見
吉蝶を初めて見たのは、慶寿に着いて数日を木賃宿で過ごしていた頃、何処かの往来で破落戸に絡まれているのを見掛けた時。否、その時は与太者位の認識で陸に注意を払っていなかっただけで、もしかしたらそれも斑御一行様だったのかも知れぬ。
各国放浪中から既に、綾京で名を馳せる少女退治屋の腕前はかなりの評判で、その娘ならばと一縷の望みを懸けて慶寿に辿り着き、入京直前で妖雑に襲われ負った軽傷を癒しつつ、さてどうやって面識を得ようかと思案していた時分だった。
少女と数人の男達の諍い、傍目には、か弱い娘に悪さをしようとする外道の図。なのに、野次馬の誰一人として義を見てせざるは勇無き也と動かず、下卑た野次を浴びせ男達を無駄に煽る馬鹿も居ない。
固唾は呑むが、それは少女の不運なこれからを思ってではなく、逆方向の期待に満ちた異様な緊張感が、往来の雑踏を叩く様に鎮めていた。
しかも、人垣はかなり間遠。辻興行かと本気で見物に回ろうかとした位だ。
その内、人垣の何処かからの呟きで、その娘こそが件の吉蝶なのだと知り、好奇の目は観察のそれに変わった。
先ず唸った。恐ろしく若い。
噂に尾鰭は付き物なので、他国での「小娘のくせに……」も話半分に聞いていたのだが、まさか本当に十台半ばとは思っていなかった。
次に苦笑したのは、その表情だった。
仏頂面でもない。無愛想なのでもない。完全なる無表情。なのに、恐ろしく不機嫌、且つご立腹なのが良く分かったのだ。
年頃の娘にしては深い菫色の眼差しには軽蔑の一念、激怒してはいても気負うでなく、超然と佇んでいた。
しかし、一体観衆は何を待っているのか。まさか、妙な群集心理の何とやらじゃあるまいな、と面々を見回す為に、吉蝶から視線を外したのは数瞬の事。
その、本当に瞬きする程の間に観客の面を彩った表情に、咄嗟に視線を戻し。
序で、自分は不覚にも、ぽかんと口を開けてしまった。
吉蝶の立ち位置は大して変わっていないにも拘らず、その周囲に三人の男が倒れ伏し、恥も外聞も無く悶絶していたのだ。
――強い。
正しく一瞬の早業、見事な腕の冴えだった。評判の強さとは、武芸に依るものだったのかと嘆息した。
人垣の其処此処で失笑が漏れたのが、情け無い男達に対してではなく、呆けた観客、つまり内輪に向けてだと悟ったのは、対象の面子に自分も含まれると気付いてからだった。
どうやら吉蝶の立ち回りを初めて目にした者は、常に同様の反応らしい。初見者に、したり顔で事情通を自任する者達が、驚嘆の動きを説き始める。
解説者毎に異なる吉蝶の体捌きを聞き流し、だが目は今度は逸らせなかった。
見えた、気がしたのだ。
吉蝶はまるで抜き身の剣だった。
だがそれは、抜刀しては意味の無い伝家の宝刀ではなく、翳すだけで風すら断つ様な、緩やかに薙ぎ払われただけで、その軌跡が、刀身の描いた扇の空間が真空になる様な、収めた鞘さえ割る様な、この世に二つと無い切れ味の名刀。
刀身は細く僅かな反りの有る片刃の、波打つ刃文も涼やかな美しい宝刀だと思った。
そして見えたのは、その剣を支える――陰だった。
高く、万物を睥睨するかの如く、高くまで掲げられた宝刀。
その柄の辺りに蟠る様に、或いは、細過ぎる刀身を支える様に、寄り添う幾つかの黒い陰が。
己が目を疑って、瞬いて、焦点を改めて合わせた時には消えていた陰。
まるで、あの夜の――。
「小僧。其処に座りゃ」
促され、千砂は一月前から引き戻された。
片手で足りる程しか入った事の無い吉蝶の部屋は、相変わらず本が山積みの、正に騒然と形容したくなる状態だった。天井近くまで積み上げられた書籍の塔が林立しているのだ。
本当の林の地表を落ち葉が覆う様に、古紙の塔の合間を埋めるのは巻書の類で、これに足を取られると恐ろしい事になる。
弾みで塔を崩したら最後、降り掛かる本で生き埋めは必至なのだ。
壁際の箪笥と小さな鏡台の前も同様で、どうやって使っているのか甚だ疑問。
朱雀と名乗った妖は、吉蝶が定位置にする奥の文机の前に陣取り、繙かれた儘で積まれた巻書の下から座布団を発掘すると、千砂の方へ押し遣った。
千砂は顔に疑問符を貼り付けつつ、仕方無く座布団の上に胡坐を掻く。
逃げたいが上妖相手では逃げ切れない。それに、朱雀がどうにも慣れた風なのが気になった。
確かに吉蝶は謎ばかりの娘だ。と言うより、構成しているのが謎しかない。
世界に溢れる不思議を積み上げて呪文でも唱えたら、吉蝶が出来てもおかしくない程の不透明さだ。
しかし、その謎の正体が上妖でした、と言うのはあまりに話が飛躍し過ぎてはいないだろうか。
誰にとって都合の良い話なのか。
少なくとも自分には不都合しかない、と恐慌寸前で思考が足踏み中の千砂は思う。
怯えず騒がず逃げ出さず、傍目には豪胆、或いは鈍感な現状は、混乱の淵に片足を踏み出した状態で凍結しているだけの事で、更なる衝撃は、たとえ微風程に軽いものでも、確実に自分を必死の渦に叩き込むだろう。
そうなれば取って喰わぬ等口約束、あっと言う間に自分はあの優美な手で首を捻じ切られでもするに違いない、と千砂は目前の厳しい現実をそっと見る。
何故今まで気付かなかったのかと、己の迀闊さを呪いたくなる位、朱雀は千砂の知る吉蝶とは異なっていた。
同じ顔の造作ながら、無機質な程冷淡な表情は妖艶さが滲み、着物の裾を捌く所作にまで色香が匂う様だ。
理知と才気に輝いていると見えた菫の双眸は、太古の夜の如き深みを増し、一瞥にも得体の知れぬ悪寒が走る。
紅とは無縁の口唇には艶が乗り、額に掛かる前髪を払う仕草さえ蠱惑的だった。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
星を掴む花
竜の花 鳳の翼
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