序
完結済みではありますが、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
序 ――記憶と現在――
来るな、と言う様に、その人は首を振った。
これ以上、近付いてはならないと。
だが、自分が足を止めたのは、相手の制止を聞き入れたのでも、制されるまでもなく危険を察したからでもなかった。
異質だった。
深いとは言え、幼い頃から親しんだ森。
だが、天に有る筈の月華も星芒も弾くその夜の深奥は、一体どうした事だったか。
人が踏み入らぬ刻限でも、常に有る筈の生命の息遣いが絶えていたのは、何故だったろうか。
そして、尋常ならぬ暗渠の如き最奥に佇むその人が、仄かに発光して見えたのは、気の所為だったろうか。
凛とした横顔があまりに美しく、美し過ぎて不吉だった。
恐れたのだ。
森の深遠よりも、夜の沈黙よりも、その人の――人外としか思えぬ在り様を。
自分と同じ鳶色の瞳には妖しさが籠もり、風に因らずしてうねる髪には明確な、人とは異なる意思が在った。
周囲に蟠る様に凝った闇の塊が無数に見えたのは、闇夜にも拘らずその人の白過ぎる肌が、ぼう、と滲む様に浮かんでいたのとは、逆の理由からか。
僅かな白と、圧倒的な黒に埋め尽くされた夜の中で、その人の形の良い唇だけが、鮮やかに赤く。
――何事かを、紡いだ。
けれど、自分は――。
季節は何時だったろうか。自分の呼気は白かったと記憶するが、その人の方から吹き寄せる冷たい風が象徴していたのは、永遠の別離か、それとも再会叶わぬと予感させたのは、哀しい程のその冷気に、妖気が満ちていたからか。
数億本の針が、剣先の様に此方に狙いを定めているかの如き冷えた風が、ひょお、と鳴り。
その人は――行った。
切ない程の優しい笑みを残して。
その道を、選んだ。
選んでくれた。
――自分の為に。
けれど、その人がそうまでして護ろうとしてくれた自分の世界は、もう、無い。
自分がこの手で、葬ってしまったから。
だから、今でも迷う。思う事が有る。
もし、あの時、と。
あの時、何と、言うべきだったのか。
あの時その人を引き止めていたら、今とは何かが変わっていただろうか、と。
同時に去来するのは、悔恨か。
胸の奥の奥に、決して呑み込めぬ塊を叩き付けられたかの様な、この苦しい想いは、悔悟の情か。
懺悔出来るものならば――けれど、誰に。
深い森が一層昏く、全ての生命が息を殺して怯え隠れた、尋常非ざる夜に。
たった一言、一歩を惜しんだ為に。
自分は、護り手を失ったのだ――。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
しゃん、と鈴の音にも似た硬質な金属音が、冷たい夜を掻く様に響き渡る。
神銀を鍛えた聖具が、ぶ……ん、と僅かな振動を少女の細い右手首で発すると、花の香を含まぬ風が薄紙を裂く様にして、不自然な渦を割り散らした。
渦――歪められた空気の層を生んだのは。
――妖気。
と、同時に、遮る物の消えた藍の虚空を、時節にそぐわぬ異常な冷気と、常人ならば一呼吸だけで肺が爛れる異臭――瘴気が、怒涛の如く埋め尽くす。
その様はまるで、爆砕された高楼から噴き出し溢れ出た塵埃の激流の中に、ぎろり、と幾億の目が蠢いている様でもあり、その悍しさに思わず顔を強張らせてしまった千砂に、本来ならば罅をいれる事さえ至難である筈の妖気の障壁を、細腕の一振りで破砕した少女が呆れた一瞥をくれた。
その、あまりに乾いた眼差しに憤慨するのも恥じ入るのも、その隙があればこそ。
少女が掌を翳しただけで、緻密な結界障壁を築いてくれなければ、瘴気に呑まれた千砂は瞬時に骨まで溶けていただろう。
しかし、素直に感謝出来ないのは。
「大の男が間抜け面を曝すな。戯け」
少女の口調と言葉に、一切の遠慮容赦が無いからである。
反論出来ぬ大の男の千砂を尻目に、少女は独り、瘴気の激流に踏み込んだ。
その無頓着な足取りは、少女の強さを知る千砂でさえぎょっと目を剥く程。
通い慣れた道を辿るが如き気安さで進んだ少女の華奢な身体は、僅か数歩で悍しい渦に絡め取られた。――が。
「……ふうむ。此処で結界とは」
少女期特有の高声も、鋼の芯と泰然さを伴えば凛乎と変わる。古風な物言いであれば、妖気の直中に在っても沈着そのものだ。
聖具の腕輪の如き硬質な声は凛然として、気を揉む千砂の耳朶を明快に打った。
冬の時化た荒海の如き勢いで、妖気が結界障壁に押し寄せる。
ぎし、と障壁の繭が歪んだ音は幻聴か。
波濤の衝撃に肌が粟立ったのは幻覚か。
更には、軽やかな足音が、たた、と一層遠ざかるに及び、千砂は己の目に次いで、耳を疑う破目に陥った。
呻く様に風が鳴り、呪う様に妖気が吼え。
そして幾分離れた所から、澄んだ声。
「……矢張り、繭か」
呟く様な言葉の後に、更に涼やかな金属音。
少女の意図を悟った千砂が、叶わぬと承知で、それでも瘴気を透かそうと目を凝らす中、しゃん、しゃん、と立て続けに腕輪が鳴り。
「!」
そして、奏でられた美しい調べとは相反する、闇幻な光景が出現した。
ほんの一瞬、妖気の激流の中に閃いた直線。
それが千砂の網膜に焼き付くより早く、天を衝かんばかりの妖気の渦――確実に、中心に少女を据えた竜巻が発生したのだ。
轟、と鳴ったのは風か、軋んだ妖気の悲鳴か。
一際激しく防御壁に衝突し弾けた無数の飛沫から、世の全てへの怨嗟を感じ、無意識に、じり、と後退った千砂に、情け無いと追い討ちが掛かる。
「その為体で、よく私に弟子入りを望んだな」
「実戦経験が乏しいから、半人前と言うんだよ」
「……成程。一理有る。――では、喜べ」
妙に納得した言の後、俄に鈴の音が動いた。
「お望みの実戦だ。その目に確と焼き付けよ」
同じ聖具から放たれる金属音である筈なのに、突如としてそこから涼やかさが消えた。
拾えていた一音一音に鋭さだけが特化され、永劫振るわれ撓り続ける鞭の様な音が、暗黒の竜巻から立ち上る。
千砂は聞いた。
聖具が編んだ不可視の鞭――全てを薙ぎ払う最強の刃、破邪の術が、この地に溢れていた瘴気の源、妖気の根源を、いとも容易く滅する音を。
そして、見た。
手にする事さえ稀有と言われる聖具を自在に操る小柄な少女が、奇跡の様に鮮やかに、見事に、闇を晴らす光景を。
内側から爆発する様に、竜巻が霧散する。
爆風に煽られ、揺れる結界障壁。緻密な力の繭が軋んだ。
その周囲を、瘴気の最期の海嘯が過ぎ、それすらも滅ぼし尽くさんと、腕輪の振動で生まれた清冽な風刃が、虚空に半月の軌跡を無数に残し、音さえも鋭く舞い飛び去る。
「障壁で見えなかった、とは言うなよ」
轟音と爆風が嘘の様に凪いだ、千砂の視界。
それまでの異常の縁は、少女の周囲に僅かに立つ、砂埃。
さ、と何かを払う一動作で、千砂を堅牢に護っていた結界障壁を溶かす様に消すと、少女は何の気負いも無く淡々と言った。
「さて、帰るぞ」
それが千砂の退治屋の師匠、吉蝶であった。
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星を掴む花
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