罅
生活習慣の乱れは異常だった。昼過ぎに起きて、朝に寝る。夜中はゲームをやり、早朝にご飯を食べて寝る。その繰り返し。母と食卓を囲むことも無くなった。母は昼間正社員として働いていたが、夜中にも働き出した。朝の4時ごろ帰宅すると8時まで寝てからまた出勤。帰るたびに僕のご飯を用意してくれた。母子家庭で家計は余裕がない。離婚した父は母に振り込むはずのお金を振り込んでいないとの話を前に母方の祖母に聞いたことがある。僕は父をひどく嫌悪していた。僕が小学生の時に離婚して別居している。離婚の理由は父の暴力である。僕にではなく母への暴力だ。昔から感情的で僕にもよく怒鳴ることがあった。機嫌を人にとらせる器の小さい人間だった。ある日父が母に暴力を振るい母が転んだ瞬間を僕が偶然目撃して僕が泣きじゃくった。そこで母は離婚を決めたらしい。その光景だけは忘れられない。僕は不登校になる前は月に一度ぐらいの範囲で父と会っていたが、毎回怯えて気を使いながら接していた。引きこもってからは会っていない。母も父に伝えていないようだ。
その日も昼過ぎに起きてゲームをしようとしていると、ケータイにメールが入った。母からだ。
『美優っておぼえてる?保育園の時の悠人の同級生!悠人に会いたいんだって!』
嫌な気持ちなった。今までも同級生が家に迎えに来たり、学校においでと母に伝言を伝える人たちがいて、その度にとても気持ち悪い気分になった。あんなやつら全員死ねと心から呪いながら全部無視した。だから今回も断ろうと思った。美優という名前に関しては覚えていた。保育園で同級生だったが特に仲が良かった訳でもない。静かな女の子という印象だけが唯一覚えてることだ。小学校は別で、中学校が一緒になった。クラスも別だったから、学校に行ってる時も特に関わったこともない。どうせ先生とか母親に頼まれてくるんだろうと思った。
『やめてほしい』
ただそれだけ母に返信した。
僕が学校に行かなくなった理由は一口に言うと人間関係だった。
「悠人と同じクラスとか奇跡すぎるわ」
松井が嬉しそうに言ったのは中学校の入学式の時だ。小学生の時に一番仲がよかった松井と4クラスある中で同じクラスになれるなんて思っていなかった。
「よっしゃーーー!!!」
自分の不甲斐なさにまた嫌な気持ちになる。そしてそんな現実から目を逸らしゲームに逃げる。その繰り返し。一生学校なんて行ける気がしない。
中学一年の冬になった。あれから野球は一度も行っていない。花井や監督達から連絡がきているが、僕は無視している。逃げたことが恥ずかしいからだ。無駄なプライドがぼくをますます引き籠らせた。
一ヶ月に一度母親が野球チームの手伝いの当番としていくことが僕のチームにはあったが、母は欠かさずに毎回通った。自分の息子は行ってないのに嫌じゃないのだろうか。しかし僕は母に聞かないし、母も僕に何も言わない。母は特段野球が好きなわけでもないし、ママ友とのつきあいが多い方でもない。小学生の時の野球チームでも同じ様な当番制だった。母は他の当番のお母さん方と話したりせず、一人で練習や試合を見学していた。僕はそんな母によくイライラしていた。母が仲間ハズレにされている様な光景がチームメイトに笑われたら嫌だったからだ。僕はそんな小さい見栄を気にする小さい人間なのだ。今に関しては息子が来ていないのにどんな態度で出向いているのだろうか。監督とは何を話しているのだろうか。僕は僕のせいで不憫な母のことを最初こそ気にしていたが、そのうち何も思わなくなった。
僕と松井はクラス名簿が載った掲示板の前で大声で叫びながら飛び跳ねた。僕が通う青野中学校は二つの小学校から生徒が入学してくる。一つは南小学校、もう一つは僕がいた北小学校だ。中学校で知らない人がたくさん増えることに不安だった僕は同じ北小学校の松井と同じクラスになれたことに心底安堵していた。これで中学校も楽しくなると。
「おお!松井じゃん!」
僕と松井は僕たちのクラスの教室に入ると僕の知らない人が松井の名前を呼んだ。
「おお!遼河!」
松井も嬉しそうな顔で返すから友達なのだと分かった。だれ?と言う顔をしている僕に松井が気づいた。松井は小学生の時にサッカーチームに所属していたのだが、その時のチームメイトだそうだ。南小学校出身で、今回松井と中学校で一緒の学校になったわけだ。松井は僕に遼河を、遼河に僕を紹介した。
「クラス分け天才かよ」
松井は嬉しそうに言う。
「松井と同じクラスなれるなんてなー」
遼河も松井に言う。僕は正直居心地が良くなかった。松井と遼河が仲良くなって二人でつるむようになったら僕はぼっちになってしまうんじゃないだろうかと不安が少しあったからだ。僕は昔からひどく不安症であった。
「はい、席につけ〜」
担任の先生と思わしき人が教室に入ってきて言った。僕は黒板に書かれた席に座った。松井との席はかなり離れ、遼河の席は松井と近かった。嫉妬する女の子みたいで気持ち悪いが、僕は不安だった。
「あれ、悠人じゃん」
隣の席の女子から声をかけられた。松井の方ばかりに気が向いていたため、隣の席の人に今気づいた。
「あ、柊子」
北小学校の同級生の柊子と隣の席になったようだ。彼女は小学校で二回ほど同じクラスになったがそんなに関わったこともなかった。性格はドがつく体育会系女子である。運動神経抜群、委員長、成績良好、話した人はみんな友達。世に言う陽キャである。僕は少し苦手だった。
「今嫌そうな顔したでしょ!」
「してないよ別に、てか声がでかい」
「あー、女の子にそういうこと言っちゃいけないんだー」
「女の子?どこ?」
ドス!肩を思っきしどつかれた、痛い。絶対女の子のパンチじゃない。
「そこ静かにしろよー」
先生が僕と柊子に言った。入学早々早速怒られて、目をつけられたらどうするんだよと僕は柊子の声の大きさを恨んだ。
「悠人イチャイチャすんなよー」
笑いながら言ったのは前の席に座る小泉だ。彼も小学校が一緒で、何回かクラスが一緒になったことがある。彼はかなりおちゃらけた性格でムードメーカー的な存在だった。僕も良く笑わせてもらったことがある。
「小泉!いたんだ!」
「いたんだはひどいぞ柊子」
柊子が小泉を揶揄う様子は小学生の時によく見ていた。僕は中学校もそんな変わらないのかも知れないと、中学校への不安が少し緩和された。
僕は近くの席に座っている人を改めて確認してみてた。僕の席は教室の前の黒板を向いた状態で言うところの一番右側の後ろだった。左隣には柊子。前には小泉。小泉の隣の女子は見覚えがなかった。どうやら南小学校の人らしい。北小学校の生徒ならクラスが少なかったので、顔は全員把握していたから、南小学校の生徒とすぐわかる。
「えー入学おめでとう、今日から君たちの担任を務めます。関島です、宜しく〜」
先生の自己紹介と挨拶が始まり、教室が静かになる。関島先生はなんだかまの抜けた印象受けた。柊子と小泉はまだ何かクスクス話しているが巻き込まれたく無いので無視した。
「じゃあ早速みんなのことを知りたいから一人ずつ自己紹介してもらおうかな」
クラス中から嫌がる声が広がる。僕もこうゆうのは苦手だ。人前に出るとひどく緊張してストレスになる。
先生は右の列の人から前に出て自己紹介するように言った。僕の列が最初だった。とても憂鬱な気分になった。
「なんか面白いことしてね」
「かませよ!」
柊子と小泉がからかってくる。この二人は自分の番への緊張はないのだろうか。それとも僕が自意識が高いのだろうか。
僕の番は4番目でもう最初の二人が終わり、次は小泉の番だった。その小泉はというと最悪なことに某有名人のモノマネをしてクラス中の笑いを起こしたのだ。何がかませ!だ。この目立ちたがり屋、僕のハードルがぐんと上がったじゃないかと小泉を睨んだ。小泉は僕の視線に気づくとアイドル級のウインクをしてきた。
僕はいったん緊張したが、ここは落ち着いて無難にやり過ごそうと考え、みんなの前に立つと僕は唖然とした。僕のクラスは30人いるのだが、僕を除いた29人が僕のことを見ている。緊張しすぎて顔が引き攣る。そしてそこに魔の手が伸びた。
「悠人いつもの一発芸やって!」
は?と思い声の方を見ると柊子がニヤニヤしていた。すると皆がざわざわし始めた。僕がなにをするのか皆期待の眼差しを向けている。僕は頭が真っ白になり、緊張で声が出なくなり僕は自分で顔が赤くなるのがわかるくらい顔が熱くなり、それから30秒くらい沈黙した。なんだか様子がおかしいことを感じ始めた皆が、え?というような空気になり始めた。
「北小学校から来ました成瀬悠人です。」
僕は何も考えないままそう言い、逃げるように席に戻った。つまんな〜と言う声が聞こえる。全部柊子のせいだ。
「なにも黙ることないのに〜」
柊子が笑いながら僕に言った。
「一発芸ってなんだよ!」
「絶対なんかやれば盛り上がったのに〜」
「お前のせいで絶対みんなに変なやつだと思われたじゃん!」
「みんな自分の自己紹介に夢中で悠人のことなんてもう忘れてるよ」
それはそうかも知れないと思った。
「ドンマイ」
前の席から小泉が言った。そもそもの元凶をつくった小泉のせいだと思い軽くパンチした。
「北小学校から来ました松井です。」
女子たちがざわざわし始めた。松井は容姿がとても綺麗なのだ。小学校の時からバレンタインチョコを数十個もらうほどモテていたが、中学で初めて松井を見る南小学校の女子たちは松井の綺麗な容姿に興奮を隠せないようだ。さらにモテるなあいつと僕はつまんない顔をした。
「松井は相変わらずモテるね〜」
そう言ったのは柊子だ。とは言いつつこの柊子もかなりモテる。小学生の時に僕の殆どの知り合いも柊子に告白していた。そして全員が振られている。恋愛に興味ないと言う話を聞いたことがあるが、真相は定かではない。
入学式を終え、教室に戻る。
「今日はこれで終わりにします。最後に少し、え〜君たちは今日から中学生になったわけですが、これからは小学生の時と同じでは困ります。自分でよく考え、自分を守れる大人に育ってください。以上です。また明日〜」
関島先生が言い、初日は終わった。最悪の初日となった。
「松井〜帰ろう」
僕は小学生の時から家が近い松井と登下校を共にしていた。今日も一緒に帰ろうと松井に声をかけた。
「お前今日は散々だったな」
松井が笑っている。
「もう忘れたいよ」
「遼河も同情してたぞ」
その遼河は松井の後ろの席で僕を見て笑っていた。
「悠人はいじられキャラなんだね」
「あれはいじめだよ」
僕が返すと遼河が笑う。
「じゃあ帰るか」
松井が言うと、遼河も立ち上がった。やはり遼河も一緒に帰ることになるのかと僕は器の小さい考えを抱いた。
松井と遼河と別れ、僕は帰宅した。
「ただいま〜」
と言ってもまだ母は仕事中なので家には僕だけだ。
僕は中学生1日目の疲れをどっと感じ、ベットに制服のまま倒れた。ボ〜ッとしてるとケータイの受信音が鳴る。開くと母からメールだった。
『学校どうだった?』
『疲れた』
僕は淡白な一文だけ返信し、眠りについた。
入学して1ヶ月ほど経った日、僕の運命を変えた日が訪れた。
学校にも周りの人達にもいくらかなれてきた。僕は意外と新しい友人が増え、楽しく日々を送っていた。松井は遼河といることがほとんどだった。僕とも口を聞くが、松井もバツが悪いのか、僕を避けているような気もする。
「始めるぞー」
国語の授業だった。先生は野球部の顧問の菊池先生、厳しくて有名だった。栃木弁の訛りがあり、ヤクザ映画に出てくるような話し方をする。僕はかなり苦手だった。
「今日は班になって進めるぞ〜」
この日の授業は倫理観のようなものを班で話し合い、班ごとで発表していく授業だった。
「小泉昨日のしゃべくり見た?」
「見た見た、笑いすぎて腹痛くなったわ」
柊子が小泉に話しかけてわちゃわちゃしている。
「悠人は?見た?」
「そんなことより早く発表の内容決めるぞ」
「まだ大丈夫だよ〜」
呑気な柊子に僕はため息をこぼす。僕は野球部の先生の目が気になって真面目に過ごそうと考えていた。
がしかし柊子と小泉の会話が止むことはなく、僕はしかたなく残りのもう一人の班の女子の佐々木と進めることにした。佐々木はクラスの中でも一際大人しい女子で友達と話しているところを見たことがない。休み時間はいつも本を読んでいて、僕も話すのは今日が初めてだった。
僕と佐々木が勧めている中でも柊子と小泉があまりにも非協力的で雑談をしていたので僕は流石に口を挟んだ。
「お前ら手伝えよ」
「悠人と佐々木で進めてていいよ」
小泉がヘラヘラしながら言う。
その時だった。
「うるせんだよ!」
耳に猛烈な罵声が飛んで来た。
嫌な予感がはしていた。僕は野球の厳しい監督という存在には経験があるため、どのラインで怒るかが大体予想がつく。案の定、菊池先生はこっちの班を見ていて、クラス中が静まった。
「お前らさっきからうるせえよ!もう発表できるんだろうな?」
無理に決まってる。僕と佐々木が進めようと努力したが時間もまだ始まったばかりだし、小泉と柊子は参加していない。それでも僕は真面目に参加していたために怒られる筋合いがない。僕の心情は特段焦っていない。
「小泉!」
「はい…」
菊池先生が小泉の名前を叫んだ。小泉の声もかなり響くために、ふざけていたのが先生から見えたのだろう。
「発表しろよ。話してる余裕さえあったんだから余裕だよなあ?」
独特な訛りが威圧感を覚えさせる。小泉は目を真っ赤にして黙りこくった。
「成瀬!」
「はい?僕ですか?」
「てめえだよ!発表してみろよ!」
僕は何が起きているのか理解できなかった。先生は今にも殴りかかりそうな興奮した様子で僕を見ていた。僕は怯んだが、正直に話そうと思った。
「発表はまだできません。未完成です」
声が震えた。先生は口を閉じて僕の方へ歩いてきた。僕はまずいと思った。気づいた時には先生に胸ぐらを掴まれていた。
「何が未完成だ?ああ?くっちゃべってたやつが取り組んでたような嘘こくんじゃねえぞ?」
完全に僕のことをふざけていたと決めつけていた。僕は怖かったが疑われていることへの憤りもあったので反論しようと口を開く。
「僕は佐々木さんと進めていました!そして小泉と柊子には注意もしました!」
ドン!強い衝撃と共に僕の視界は教室の天井を見ていた。一瞬のことだった。殴られたのだ。信じられなかった。
「佐々木と柊子!こいつの言ってることは本当か?」
先生はが聞くと佐々木は涙を流しながら俯いていた。僕は佐々木が僕の冤罪を伝えてくれると期待し見ていた。すると佐々木が先生を見据え口を開こうとしたその時…
「悠人嘘つかないでよ!」
大声がした。近くからだった。柊子がこっちを見ていた。
「は?」
僕は訳がわからなかった。ただ呆然と柊子を見つめていた
その時、教室のドアが開く音がした。
「なんかすごい音したけど大丈夫ですか?」
担任の関島先生だった。僕が殴られた音に気づきやってきたらしい。
「ああ!関島先生!全然大丈夫ですよ!今少し成瀬くんを説教していたところです」
菊池先生が声色を180度変えて関島先生に言うと、関島先生は僕の方を一瞥した。
「ああ、お願いしますね」
関島先生はそう言い残し教室を後にした。おかしい、僕の殴られた顔は多分わかるはずだ。見て見ぬふりをしたのだ。
「お前俺に嘘ついてこの先知らねえからな」
菊池先生は僕にそう言い授業を再開させた。クラスはそれどころじゃない様子だが、皆怯えて先生に従った。
柊子と小泉はそれから僕を無視して佐々木と共に課題を進めた。
僕は失望してもう何も喋らなかった。
授業が終わると菊池先生に別室に呼び出された。先生は僕を2度殴り出て行った。
別室を出て教室に戻ると、皆が僕を見て何かを話していた。
松井を見ると、彼はすぐに目を逸らした。
僕は気持ち悪くなって、学校を抜け出した。涙が止まらなかった。
僕は次の日から、学校に行くのをやめた。