第一章 5:催促
兄を見送ってから過ごす午後はなんとも忙しく、幸せだ。
家事の一切を取り仕切り、合間の時間に新しい魔術の開発やアレンジを行なう。
それもこれもひとえに兄との暮らしを守るため。
兄が望んでいる限り、私はこの平穏な生活を続けると決めた。
たぶんもう、私は兄がいないと生きていけないだろう。
兄がもう使わないと決めた特別製の黒いグローブのメンテナンスをしながら、そっと出会った頃を思い出す。
そう、私と兄は本当の兄妹ではない。
もう十年近く前になる。
森で事切れていた少女の身体に興味本位で憑依し、慣れない人間の身体を楽しんでいた。
少女はボロボロの衣服を着ていたがよく見ると仕立ては確かなものだった。
この少女の生前は高貴な出自だったのかもしれない。
跳ねたり、歩いてみたり、走ったり。
常の身体とは違う感覚に戸惑いながらも新鮮な気分だった。
しかし、そのとき運悪く、猪型の低級な魔物に襲われてしまった。
見通しの悪い森だったことも相まって、最悪のタイミング。
普段ならひと睨みでどうとでも出来たものが出来ないもどかしさに歯噛みし、小さな少女の身体に乗り移ったことを後悔もした。
魔物は足場の悪い森で器用に突進してくる。
こんなしょうもないことで死んでなるものかと近くに落ちていた木の棒を握り、苔むした石を投げて応戦するがどうにも分が悪かった。
何度目かの突進でもなかなか獲物が狩れないことに業を煮やしてますますヒートアップする魔物。
「BuuuUUUUU、BGOOOOOOO!!!」
やられた!
魔力のこもった雄叫びに、少女の身体が強ばるのを抑えきれなかった。
魔法・魔術の類に耐性のない身体では荷が勝ちすぎた。
突進してくる魔物と自分の間にぎりぎり木の棒を滑り込ませることに成功したが、効果があったのかなかったのか。
肺の中の空気がすべて押し出され、気付けば空高く舞っていた。
―――ああ、これは死んだな。
どうやったらこんな高さまで飛ばされるのか。
対処のしようのないこの身体では残り幾ばくかの時間しか残されていない。
まさかこんな馬鹿げたことで命を落とすはめになるとは。
次はもっとちゃんと状況を確認してから取り憑こう。
楽観的にそう考えて、ゆっくりと目を閉じた。
やがて重力に捉えられると真っ逆さまに地面に吸い寄せられる。
耳が痛くなるほどの風切り音を伴って落下していく。
衝撃がきた。
ただ、それは四肢が破裂するような衝撃ではなく、網か何かに沈み込むような衝撃だった。
あれ、死んでない?
予想を裏切る展開に思わず目を開けると、さらに落下した。
どういうこと?!
悲鳴を上げる間もなく、今度は少し硬い衝撃に襲われた。
空の景色と入れ替わるように、ぼさぼさ頭の少年の横顔があった。
歳の頃は10かそこら。
まだ幼さが色濃く残る顔立ちをしているが、放たれる雰囲気は少年のそれではなかった。
どうやら地面に激突して死ぬはずだったところをこの少年が受け止めてくれたらしい。
くすんだ鳶色の髪を振り乱し、魔物を鋭く睨みつけている。
「生きているか?」
正面の魔物を見据えたまま、無事を尋ねるその声は状況に不釣り合いなほど落ち着いていた。
「・・・」
生きていると声に出したつもりが声にならない。
ひゅーひゅーとただ弱々しい音を出すばかりだった。
だが彼にはそれで十分だったのだろう。
軽く私を抱え直すと魔物に、なぜか魔物に話しかけた(通常、低級な魔物は人語を介さない)。
「この獲物は俺がいただく。狩られたくなければ大人しくこの場を去れ」
獲物って私のこと?というか、話の通じる相手ではないですよ?
私は頭の中にハテナを浮かべながらも状況を見守る他ない。
「BGOOOOOOOOO!!!」
再び耳をつんざくような雄叫びを上げると元々大きな牙をさらに大きくした。
少年の身動きを取れなくしてその鋭利な牙で私達をまとめて仕留めるつもりだろう。
先程とは比べ物にならない速さで突進してくる黒い塊。
雄叫びを聞いていなくても身が竦むには十分な迫力だった。
危ない、と思ったが私を抱きかかえる少年は何事もなかったように滑るように動いた。
魔物をかわして、そのすれ違いざまに軽く腕を振る。
突進の勢いそのままに魔物が遠ざかるかと思えば、ぼとり、とその頭が首から落ちた。
大量の血を辺りに撒き散らしながら自らの頭に蹴躓いて跳ねるように倒れる。
ビクビクと痙攣している魔物はすでに絶命していた。
この男、いま、何をした?
あの雄叫びをまともに受けて動けることにも驚愕だが、首を落した仕掛けがまったく分からないこと
にも不思議でならなかった。
手に刃物の類は持っていない。
両手には金属製の短い爪が指先についた奇妙な黒いグローブを付けているだけ。
このグローブをどう使えば興奮状態にあった魔物の首を落とせるというのか。
腕を軽く振っていた、ということはこのグローブから暗器が射出されていたのだろうか。
しかし暗器はたいてい投げナイフの類で、魔物の太い首を切断するには至らない。
魔力の流れも感じなかったから魔術や魔法の線もない。
「ちょっとまってろ。すぐ終わる」
抱えていた私を適当な樹木に寄りかからせると少年はただの肉塊となった魔物に近寄って腕を振る。
すると開いていた魔物の脚が紐でくくられたように縛られ、少年がこちらに戻ってくると魔物も引き摺られてきた。
(・・・糸?そんなものであの太い首を落としたとでも?)
「立てるか?」
「・・・はい、大丈夫です」
息を整えていたおかげで今度はどうにか返事が出来た。
「そうか。ならもう帰れ。ここからまっすぐ南に行けば平野に出られる。街まではちょっと歩くがなんとかなるはずだ」
そういうと少年は振り返りもせずに森の奥へと入っていく。
「あの・・・」
声をかけても少年は立ち止まらない。少々重そうに魔物を引き摺りながらどんどん奥へと向かっていく。
「・・・あのっ!!待ってください!!!」
ありったけの大声を出して少年に呼びかける。
身体を酷使した状態で声帯に負担をかけすぎたのがいけなかったのか、ごほごほと咳が出た。
人間の身体は脆弱過ぎて嫌になるが、そうも言っていられない。
この機会を逃せば少年と会うことはもうないだろう。
こんな面白そうな人間を逃してなるものか。
果たして、少年は立ち止まった。
怪訝そうな顔をして振り向く。
「助けてくれて、ありがとうございます。私、他に行くところがないんです。どうか一緒にいさせてください」
「お荷物はいらない。じゃあな」
精一杯弱々しい感じで頑張ったのに、この男は!
「お手伝いします!助けていただいた恩に報いたいのです。せめて身の回りのお世話をさせてください」
「いい。あんたを助けたのは気まぐれだ。自分のことは自分でする」
取り付く島もないとはまさにこのことだろう。
なんとかしてこの男についていく口実はないか。
幸い、会話は続いている。
「・・・っ。あなたはどうしてこの森にいるのですか?」
会話の切り口を変えてみる。
目の前の男が正直に話すかは分からないが、相手の状況を知れば突破口が開けるかもしれない。
「・・・。・・・俺は修行だ」
確かに、森には動物以外にもさまざまな魔物が存在する。
人目にもつきにくいし、修行するならもってこいの場所かもしれない。
ということはこの男はなにかしらの目的があって強くなる必要があるということか。
「独りで、ですか?」
「そうだ」
きた。
これはチャンスだ。
うまく誘導してこの男についていってやる。
「じゃあ、やっぱり私を連れて行ってください。私、家事は一通りできますから、あなたは修行に専念できますよ!」
やってしまった。
気持ちが先走ってしまって誘導どころか頼み込む形になってしまった。
こんなことなら立ち上がれないから私の面倒を見ろと迫った方がよかったかもしれない。
「・・・」
しかし、少年は思った以上に困惑した面持ちで長考していた。
この男、意外と人情家か?
なら、もうひと押し。
「お願いです。せめて腕の怪我が治るまでで良いですから。身寄りのない私がこんな姿で街に戻ったところで・・・」
声を震わせ、目に涙を溜めて窮状を訴える。
「・・・はあ。わかった、あんたの怪我が治るまでの間だ。それと、ここには家事に役立つ器具はない。サバイバルであることも修行の一環だ。本当にそれでも良いのか?」
過程はどうあれ狙い通りの言葉を引き出せたことに心の中で思わずガッツポーズ。
「構いません。どうぞよろしくお願いします」
「・・・よろしく」
少年は苦々しい顔を隠そうともしなかったが、そんなことはどうでも良かった。
元の身体に戻るよりもこの興味深い人間の生態を観察することが優先事項となった。
それからの日々は想像以上に過酷なものだったが、紆余曲折を経て兄妹となった今では大切な思い出の1つになっている。
観察対象に恋慕の情をもつまでに至るとは自分でも驚きの体験だった。
またたまに思い出すのも良い。
さて、グローブのメンテナンスも終わった。
兄にその気があれば十全にグローブの能力を引き出してくれるだろう。
先程からコツコツと、窓を叩く音が耳に障る。
懐かしい思い出に浸っていた空気も読めず、いまだ窓をコツコツとしつこく叩いてくる鳥にうんざりとした目を向ける。
見た目は雀と似ているが、もちろんただの鳥ではなかった。
わざわざ魔大陸から渡ってきた父の伝令役。
小柄ながら長距離飛行が可能なため斥候に重宝しているらしい。
グローブを大事にしまうと作業机から離れて窓辺に近づいた。
「姫様、ご機嫌麗しゅう―――」
「何度来ようと私の意志は変わりません。お父様には不肖の娘ですが幸せに暮らしているとお伝え下さい」
相手の挨拶を無視して窓越しにそう伝える。
長話をするつもりは毛頭ない。
なぜなら、相手の用件は分かりきっているから。
魔鳥の反応を待たずに家事に戻ろうとしたが、それは叶わなかった。
「・・・姫様。もう間もなく準備は整います。それまでにお戻りになられないようでしたら、連れの男の安全は保証できません」
一瞬で頭に血が昇る。
長く、美しい群青色の髪が逆立つ。
視線に魔力を込めて使いの魔鳥を睨むと窓が砕け散った。
驚く暇も与えず目の前の魔鳥をただの魔力で締め上げる。
「兄に万が一のことがあれば、戦争です。まさか、私の異名を知らない訳ではないでしょう?」
「そ、その者は、姫、様の、兄上では、・・・」
「ごちゃごちゃとうるさい鳥。私への脅しに兄を使うのはやめなさい。劇薬過ぎて私にも制御できませんから。どうせならもう少し別の材料で交渉されるように伝えなさい」
「・・・がっ、・・・ぐ」
魔鳥はもはやまともに息が出来ていない。
まだ意識があるか分からないが、一応相手の反応を伺う。
「イエスなら瞬きを2回、ノーなら1回」
焦点の定まらない瞳が2回瞬いた。
魔力の縛りを解いて魔鳥が地面に落ちるのを確認すると、すかさず窓を修復した。
「ご理解いただけてよかったです。それでは、ごきげんよう」
兄がもうすぐ帰ってくるはずだ。
急いで食事の支度にかからなくては。
気持ちを切り替えると無駄にした時間を取り戻す勢いで支度にかかった。
さっきの魔鳥とのやり取りのことなど頭からすっぽり抜け落ち、兄のことしか考えていない。
それがシールという女だった。