第一章 3:薬屋
青年とシールの暮らすシング王国は、世界中に存在する大小様々な国家の中でも屈指の文明的豊かさを誇っている。
ムーフ、シブント、バラニア公爵の御三家を擁している王国は、帝国が傾きつつある今、最盛期を迎えようとしていた。
兄妹は活発な人の動きに紛れて王国内の適当な村に身を寄せていた。
「おはようございます、兄さん!起きてください」
元気の良い声が心地よく寝室に響く。
外には目の醒めるような青空がどこまでも続いている。
ただ、お目当ての人物は声の威勢も天気の良さにもどこふく風で目覚める様子はない。
「・・・すー」
「兄さーん?」
「・・・んー」
「もう、仕方ないですね。兄さんは。・・・ふふ、かわいい寝顔」
兄の寝顔を見られるのは妹に与えられた特権。
それを今日も有り難く享受する。
普段の精悍な顔つきも好みだが、安心しきって無防備を晒している寝顔も堪らない。
この寝顔を見るためにどれだけの苦難を乗り越えてきたことか。
いつまで眺めていても飽きない光景だった。
昨晩はなぜか威力を発揮しなかったムシ除け結界の調整に明け方近くまで時間を費やした。
元々広く使われている型の魔物除けの結界にアレンジを加えた派生結界だが、これまでその効果は折り紙付きだった。
不可解なのは結界に何の不備もなかったこと。
結界を壊されたわけでもなく、同調されて効果を消されたわけでもない。
となると兄が助けたと言った人間は、実は男だった?
いや、だったら兄があんな引き攣った表情を浮かべて言い訳をする必要はないだろう。
兄はウソをつくのが致命的に下手くそだ。
十中八九、助けたというのは女で、なのにムシ除けの結界が効かない相手。
かなりの高位魔術師だろうか。
それなら独りで夜の森にいたのもまるっきり奇妙な話とは言い切れない。
辻褄の合いそうで合わない話に、昨晩は苛立った。
だが、結界のこともそうだが、何よりも苛立ったのは女の匂いがなかなか消えないことだった。
きつい匂いではないのに、自分の香水を使っても匂いが残った。
包み込まれるような柔らかい匂いを嗅ぎながらの調整は、苛立ちを通り越してもはや拷問だった。
結界に調整とさらなるアレンジを施して、ようやくまとわりつく匂いから開放されるという一心で、
大事な兄の上着にも関わらず洗濯桶に投げ込んでしまったのは反省だ。
そして、ここまでがりがりと削られてしまった精神の回復を行なうにはやはり兄に頼るのが一番である。
「朝食の準備はもう済ませてありますし。私の心労も知らないでこんなに可愛い寝顔を見せる兄さんが悪いんです。少しだけ、ですから」
自分に言い聞かせるように呟き、兄の寝ているベッドに静かに腰掛けた。
規則正しい寝息を立てている兄の頭に軽く触れる。
柔らかそうに見えて、触ると意外に硬い髪の感触を存分に楽しむ。
「兄さん。・・・兄さん」
兄を呼ぶ度に胸が痛いくらいに高鳴っていく。
撫でる手を止め、ゆっくりと顔を近づける。
鼻息が頬にかかってくすぐったい。
瞳を閉じてゆっくり額に口づける。
口づける自分の唇がやけどしそうなくらい熱を持っている気がする。
ちょっとむずがゆそうにされた。
それでもお構いなしに口づけの雨を降らしていく。
首、頬、鼻。
余すところなく自分の存在をマーキングしていく。
そしていよいよ・・・。
「大好きです。兄さん」
一度顔を離し、改めて顔を近づける。
唇と唇が触れる、その瞬間。
「んん、シール?・・・おはよう」
寝ぼけ眼の兄と至近距離で見つめ合う。
寝起きの兄さんも可愛い。
しかし、今はその気分ではない。
「・・・兄さん」
「ん?」
「もう一回寝てくださいっ!」
思わず大きな声が出てしまったがこれは許してほしい。
大好物を最後に取っておいたのにそれがいよいよのところで取り上げられたのだ。
声が大きくならない方がおかしいだろう。
「ええ。もう起きたよ」
兄はずるい。
私の大好きな兄に、大好きな声でそう言われたら文句のひとつも言えなくなってしまう。
もちろん、どちらも100%自分のわがままであることは承知ではあるのだが感情の部分で納得できない。
ここは方向転換あるのみ。
「じゃあ、・・・ぎゅーしてください!それで許してあげます」
「え、何か怒らせるようなことした?」
「しました。ぎゅーするんですかしないんですか」
「わかった。わかったから」
ゆっくりと兄の腕が自分の背に回る。
思いの外がっしりとした腕に異性を意識させられる。
「これで許してくれる?」
じんわりと伝わってくる高めの体温が心地いい。
「もう少し」
「はいはい」
予定とはずれたがこれはこれでありだと思う。
にやけた顔を兄に悟られないよう、兄の胸に顔を埋める。
「兄さん。今日もお仕事ですか?」
「うん。昨日採取した月光草を薬にして、街で売ってくるよ。他の薬草もあるし、かなり良い値になるんじゃないかな」
「そうですか・・・」
「月光草の処理もあるから、街に行くのは午後からにするつもり」
「そうですか!それが良いですね。ええ、そうしましょう」
兄の予定を聞いてぱっと顔を上げる。
優しげな表情が自分を出迎えてくれた。
顔が熱くなるのを感じる。
「そろそろ朝ごはんにしない?」
「あ、そ、そう、ですね!朝ごはんにしましょう!」
するりと兄の腕から抜け出した。
名残り惜しさもあったが、それ以上に自分の赤くなった顔を見られるのが恥ずかしかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「こんにちはー。アーシャいるー?」
街に入ってまっすぐ馴染みの薬屋に向かった。
下処理を済ませた月光草を携えて、意気揚々と戸を叩く。
予想に反して、ひんやりとした空気と薄暗い室内に出迎えられた。
整然とした店内にいるはずの人物は見当たらず、反応が返って来ない。
あれ、いないのか。珍しいな。
「アーシャー?いませんかー?」
「ここだ、あほ。こっちをよおく見ろ」
声の聞こえた方向を振り向くが、やはり誰もいない。
「アーシャ?どこですか?」
「方向は合ってる。いいか、私がそこにいると思ってよおく見るんだ」
よく分からない指示だったが、ひとまずそれに従う。
声の聞こえたあたりを中心に、注視する。
すると、ぼんやりと人の輪郭が浮かんできた。
と思った瞬間、はっきりと目の前に目的の人物が現れた。
背丈のほとんど変わらない、赤毛でくせっ毛のある髪を肩口で揃えた女性。
眠たそうな瞳が眼鏡の奥からこちらを覗いていた。
「わっ、驚いたっ。アーシャ、ずっとそこにいたんですか?魔法の類?」
「どちらも正解だ。ただし、この魔術は私のじゃあない。・・・お前のだ」
「え、俺の?そんな魔法使ったことないですけど?」
「んなこたあ分かってるよ。ちょっと後ろ向け」
「ええ、なんで?」
「いいからさっさとしろ。薬草買い取らんぞ」
「それは困りますって。で、何するつもりなんですか?」
言われた通り、アーシャに背を向けたが何をされるか分からないだけに一抹の不安がよぎる。
「じっとしてろよ。何かあっても文句は受け付けんからな」
「答えてくれないんですか。わかりましたよ、もう」
上着越しに何やら背中を撫でられているようで、そわそわと落ち着かない気分になる。
「あの。まだ終わりませんか?」
「うるさい。じっとしてろっつってんだろ」
「はい、すみません」
声かけただけなんだけどなあ。
通い続けてみて分かったことだが、薬屋の主は口の悪いところもあるが、これで存外面倒見が良い。
本人に面と向かってそんなことを言うと間違いなくへそを曲げられるので決して口にすることはないが、感謝していることは多々ある。
たぶんこれも彼女なりの世話焼きなのだ。
「・・・終わった。お前のブラコン妹に言っとけ。お前のおかげで色々楽しめた、ってな」
「あー。なんかそれ火に油を注ぐようで嫌なんですけど?」
アーシャの言葉の意図することのすべては分からないが、妹の機嫌が急降下するのだけは理解できた。
振り返りつつそう言うと、いじわるそうな、面白がっているような表情が伺えた。
「それと、兄貴を殺す気か、も追加な。嫌ならいい。私は困らん。困るのはお前だからな」
「・・・分かりました。困るのは嫌なのでそれとなく伝えておきます」
わかればよろしいとばかりに片方の口角がわずかに上がった。
「で、ブツはどれだ?」
「ここに。はい、どうぞ」
ポーチに仕舞っていた小瓶を取り出す。
そこには粘性のある緑色の液体が入っていた。
「・・・お前、精製も出来たのか?」
小瓶に入った液体を揺らしながら、驚き混じりに聞いてくるアーシャ。
「多少は。家にあるのじゃ粗抽出するのが精々なんですけどね」
「ほんと何者んだよ、お前。念の為、実物も欲しいんだが、あるか?」
「どうぞ。月光草以外もあるんで良かったら追加で買い取ってください」
ごそごそと種々の薬草を取り出してみせるとアーシャはきょとんとした表情を見せた。
「よくもまあ、こんなに。あの森だってそこまで安全なわけじゃないはずなんだがな」
「森には入り慣れてますのもありますから。準備を怠らなければ大丈夫ですよ」
「慣れてても油断は禁物だ。・・・サインするから依頼書寄越せ」
そう言われて反対の腰に吊ってある袋から依頼書を取り出し、手渡した。
「にしても大概お前も変わってるよな。月光草もギルドに行って渡せばそれで報酬は支払われるのにわざわざここまでくるんだからさ」
店内の机でサインを書きながら、方向逆だし、と独り言のように呟いた。
「まあ、俺の場合は趣味も兼ねてますから。依頼主とギルドがそれで構わないと言ってくれるならそうするまでです」
「そうか。また月光草の採取を頼むかもしれないんだが、次はお前に直接頼んでも良いか?」
「ああ、ギルドだと手数料取られますもんね。じゃあ、その分珍しい薬が手に入ったら教えてください」