第一章 2:無関心
「我が妻、リリフィア。どうしたのだ、このような素晴らしい夜にこのような辛気臭い森なんぞに立ち寄って」
森に侵入してきた無作法者を見逃してから独り湖畔に佇むリリフィア。
そこに、神経質そうな顔立ちの長身男が忽然と姿を現した。
その男もまた、紅い瞳を宿している。
「・・・ここは私の森ですから。立ち寄るのになんの不思議もないでしょう。それと、何度言えば分かるのです?私、まだ貴方の妻になった覚えはありませんわ」
急に現れた男に驚きもせず、淡々と言葉だけを返す。
「つれないことを言う。どのみちお前は私の花嫁だ。遅いか早いか以外に何か違いがあるのかね」
そう言って、肩を抱こうと腕を拡げて近寄ってくる。
「大違いです。時は宝石以上の価値をもつ。その時間をどう過ごすかに、その者の生き方が表れますわ」
鋭い声音で牽制しつつ、仕方なしに振り向いた。
威圧するように紅い眼差しを相手に向ける。
「いったいどこからそんな考え方を。まるで下等な人間の言い草だ。我々には悠久の時間があるのだ。時に支配されるのではなく、時を支配するのが我々の正しい在り方。どうしてそれが分からないのかね?」
どうやって時を支配するのだ、とは問わない。
どうせこの男はその問いに対する具体的な答えなど持ち合わせてはいまい。
そのやり取りをするだけ時間の無駄だった。
気持ちを落ち着けるためにふっと息を吐く。
「・・・私はもうしばらくここにいます。朝日は身に染みますから、お戻りになられては?」
「まったく、私も嫌われたものだ。どうあってもお前の運命が変わることなどないというのに。お前を手に入れて私は頂へと上り詰める。リリフィア、お前はこの腐った国を変えたくはないのかね?」
そんな面倒な事はしたくない。
静かに過ごせればそれで十分満足なのだ。
「生憎と、殿方が持たれるような野望を女は持ち合わせておりません。単純に興味がないのです。私は私の手が届く範囲で不自由なく過ごせればそれで何の不満もありませんわ」
「分からんな。お前の言うその手が届く範囲が何かに、悪戯に脅かされるかもしれんのだぞ?その光景を、指を咥えて見ていることをよしとするのかね?」
「それとこれとでは話が違うでしょう。私の大事なものが脅かされるのをただ見ているだけなんて、そんなことは到底承服出来ませんわ」
言外に、森に手を出したらただではおかないと匂わせる。
「そうか。ならばこの国が、お前にとって大事なものになるように手を尽くそうではないか」
やはり、この男は自らの欲望のために自分を駒のひとつとして使い潰すつもりだろう。
「・・・ご随意に」
「嗚呼、ますます愉しくなってきたな。この国を素晴らしいものに作り変えていく。いや、私が生まれ変わらせてみせよう。君にはそれを特等席で見ていてもらうつもりだ。・・・それはそうとリリフィアよ。先程、見知らぬ男と戯れていたように見えたが、どういうことか説明してもらえるかね?」
「あら、何のお話でしょう?」
「知らぬ存ぜぬは通じない。この眼で見たのだからね」
それを聞いた途端、リリフィアは小馬鹿にしたようにくすくすと笑う。
「何がおかしい?」
「いいえ?まさか、次期皇帝候補となるほどのお方でも出歯亀をなさるのですね」
「・・・っ!貴様、私を馬鹿にしているのか!?」
「私はただの事実を言ったまでですわ。馬鹿にされていると思われるのは自身に疚しい気持ちがおありなのでは?」
「なに!!私を愚弄するのもいい加減にっ・・・。・・・ちっ、まったく。その手にはもう乗らんぞ。君はそうやって話を煙に巻くのが得意だからな」
私もいい加減学習したよ、と男は一瞬で冷静さを取り戻したようだった。
「それで、あの若造は何者だ?」
「私の森に勝手に侵入してきた人間ですわ。ただ、上着の背中にちょっと面白い結界が展開されていましたから、つい、嫌がらせを」
「わからんな。いったい何の結界で、あれがどんな嫌がらせだったというんだ」
あれ、とはリリフィアが背後から青年を抱きしめているように見えた行為のことだろう。
直接言葉にしないのは、男のプライド故なのか。
リリフィアの焦らすような話し方に苛立ちを隠さない男は続きを急かす。
「その結界というのは女除けの結界ですわ。結界は小規模なものであればぼぼその魔力を周囲に感知させないことが可能です。けれど、私がその結界に触れてみてもその上着を着ている本人がまるで結界の存在に気付いていない様子だった。あの人間の上着に細工する時間があり、かつ女除けの結界となれば、それを仕掛けたのは・・・。そこで女の勘が働くというものです。嫌がらせは森に侵入したことを見逃す代わりに私の匂いをつけたこと。私の勘が当たれば、これに懲りてもうこの森には来ないでしょう」
「ふん、くだらん。そいつが男色なだけかもしれんではないか」
「いいえ、それはないですわ」
男は薄く笑みを浮かべるリリフィアを苦い表情で睨みつける。
「何を浮かれているのかは知らんが、リリフィア、お前のなすべき義務は忘れるなよ?」
途端、リリフィアの表情から温度が消える。
「ええ、もちろん。貴方様はさらなる権力を得る、私はそのための協力を惜しまない。それで問題ないでしょう」
「・・・本当にわかっているのだろうな?」
しつこく迫る男に思わず辟易した感情が湧き上がる。
「それが運命ならば受け入れるまで。逆らうのは愚か者のすることでしょう」
「そうだ。私は皇帝になる男。運命に愛されているのだ。この腐った国を作り変え、この世のすべてをいずれ我が物にする。今は私の拡大した派閥で足並みを―――」
具体性に欠ける興味のない話を興味のない相手から聞かされるのは苦痛でしかない。
いまだ滔々と垂れ流される演説を適当に聞き流し、リリフィアはそっと湖畔の月光草に眼を向ける。
一株分だけぽっかりと空いたその場所は件の侵入者に採取を許した証。
せっかく月の雫を譲ったのだから無事に持ち帰って有効活用してほしいと思う。
この森に住まう住民たちは皆が大人しいわけではない。
なかにはリリフィアですら手を焼く者までいる。
「聞いているのかね、リリフィア?」
不意に声をかけられた。
少々意識を男から外し過ぎたかもしれない。
「そういった高尚なお話は女の身である私には理解できかねますわ。貴方様の支持者を前に話される方がよほど有意義ではないかしら」
話の中身などどうせ今回も同じだ。
この世界では吸血鬼が支配者層だからといって、すべてにおいて優位にあるわけではない。
実際、吸血鬼種そのものは経済や産業の分野で人間種から大きく遅れを取っている。
吸血鬼は個々が大きな力を有するがために、そもそも誰かと協力して何かを成すことが少ない。
裏から手を引いて人間種を操る、つまり黒幕としての在り方が主流だ。
この男はそれが気に入らない。
世界の裏は当然として、表も吸血鬼が支配するべきだと考えている。
主観的に見たいわゆる劣等種は支配されてこそ幸せになれると本気で考えているのだ。
わざわざ表舞台に立つのは誰が誰の主か、万民に向けてはっきりさせようという狙いからだろうか。
結局、この男の言いたいことは人間種の家畜化だった。
「まったく、お前はそこらの有象無象ではないのだぞ?もう少し真面目に我々の社会の将来を考えたらどうだね?」
「私は協力を惜しまないと言いましたわ。それで十分では?」
「・・・ふん、まあいい。その内お前にも分かるときがくる。それからでも遅くはない。少し長居し
過ぎたな。私はそろそろ戻る。お前もいつまでもこのような所で油を売るなよ」
「在庫が切れたら戻りますわ。それでは、ごきげんよう」
リリフィアに切り返され、帰りを促され、男は苦い表情を浮かべる。
しかしその表情を見せたのも束の間、男は現れた時同様、忽然と姿を消した。
涼やかな風が湖畔を吹き抜け、リリフィアの髪と戯れていく。
風に遊ばれる濡れ烏を軽く押さえつつ、嘆息した。
「運がないと言えばそれまでだけど、面倒な輩に目をつけられたものよね」
湖面を覗き込んでひとりごちる。
疲労の色を湛えた紅い瞳がこちらを見つめ返していた。
まさか出世欲にまみれたあの男がここまで力をつけてくるとは。
それだけ今の吸血鬼社会は表舞台に立つことを切望しているのかもしれない。
人間種からしてみれば秩序と狂気の時代がやってくるだろう。
ただ、このまま人間種が黙って支配を受け入れるとは思えない。
種の存続をかけた大戦までも視野に入れて準備しているのだろうか。
・・・あの時、本当に刺してくれれば良かったのに。
侵入者である青年の踏み込みは見事だった。
その深さ、間合い、呼吸。
そしてそこから放たれる刃の迷いのなさ。
どれをとっても高次元でまとまっていた。
彼が本気で命を取りに来ていたら、自分はどうしていただろう。
出そうになる結論を保留にする。
どのみち過去には戻れない。
あの時、あの結果がすべてだったのだ。
静かに夜が更けていく。
朝日が昇るまで、まだ時間はたっぷりとある。