第一章 1:妹
重い足取りで家路についた。
件の森はもう見えないところにまで来ていた。
どうやらあの少女の宣言通りに自分は見逃されたらしい。
クエストは無事に達成できそうだと言うのに、森で出会った少女、リリフィアのことが気がかりで嬉
しい気持ちはとうに霧散していた。
あの森は個人の所有ではなく、シング王国の、さらに言えばムーフ公爵家が管理しているはず。
ギルドは公爵家の許可を得て、冒険者に仕事の斡旋をしているに過ぎない。
逃げるように王国へ越してきてから早数年。
余計な面倒事を避けるために王国内の主要な人物と家柄は頭に叩き込んでいるはずだったが、ゼノバイロンという家名には心当たりがなかった。
あの少女に担がれたのだろうか。
だがそれにどんな意味がある?
森に侵入した(もちろんこちらは許可を得ていると主張する)人間を適当な理由で脅して連れ去る?
このご時世、なくはない話だ。
近年急速に世界情勢が乱れ始めた。
理由は簡単。
これまで栄華を極めていた帝国が、いよいよ傾き始めたからだ。
一代で帝国を築き上げた男が病に伏してから、次期皇帝を巡る水面下での動きは次第に激しさを増していった。
宮中で血みどろの争闘劇を繰り広げた末、新皇帝が決まったがこれがとんでもない性格の持ち主だったらしい。
いったいどうやればあれほどの大国がたった十年で傾くというのか。
この機に乗じて帝国から逃げ出す者、私腹を肥やそうとする者の動きが帝国の内外で活発になっていた。
一方で“黄昏の帝国”と、そこに住まう一般市民は諦観したように囁いているという。
ではリリフィアがどういう立場なら氏素性の知れない人間を連れ去るというのだろう。
彼女は吸血鬼だ。
紅い瞳に透き通るような白い肌といった吸血鬼の特徴を、彼女は持っていた。
吸血鬼をこの世界の支配者層と位置づけてみても、そこには歴然としたヒエラルキーが存在する。
彼女の立ち居振る舞いや雰囲気は下層のそれではなかった。
どちらかといえば、上層の者特有のオーラを纏っていたように思う。
そんな人物が直々に人攫い?
だいぶ考えにくい。
連れて行って肉体労働をしてもらうと言っていたが、戯れにしてもリスクが大きいだろう。
どうせ厄介事を揉み消せるならもう少し自身に有益な人材を選ぶはずだ。
自分は今の生活を維持するので精一杯な甲斐性なし。
とてもじゃないがリリフィアのお眼鏡に適うとは思えない。
彼女の狙いがまるで読めなかった。
いっそ森に戻ってリリフィアにどういうつもりなのか聞いてくるか。
答えの見えない難問に、馬鹿な考えが頭に浮かぶ。
次に森であったら彼女にどんな目に遭わされるのか。
確実に行ったことを後悔する羽目になる。
後悔先に立たずだ。
やめとこ。
ふと顔を上げると、もう目と鼻の先まで家に帰り着いていた。
もう家に着く。
帰ったら今日はさっさと寝てしまおう。
思考を一旦切り上げて、大きな音を立てないようにゆっくりと家のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい、兄さん」
「シール、まだ起きてたの?」
リビングの明かりが外に漏れていたので予想はしていた。
「はい、だって心配じゃないですか。兄さん、こんな夜にお仕事行くんですもん。妹として兄の帰り
を待つのは当然です」
小柄な妹が精一杯胸をそらして主張する。
「そっか。ありがとう。でも眠くなったら先に寝てて良いんだからな」
そう言って軽く頭を撫でてやると心地よさそうに目を細めた。
肩口で切り揃えられた髪がさらさらと揺れる。
妹の幸せそうな表情にもっと撫でていたくなってしまう。
シールのおかげで図らずも心のもやが晴れていくのを感じた。
「兄さん。何かお夜食食べますか?」
「いや、良いよ。さすがに疲れたからもう寝る」
「そうですか、わかりました。・・・兄さん?」
シールの横を通り抜け、寝室に向かおうとして呼び止められた。
「ん?どうしたの?」
意識は寝室に向いていた。
首だけ回して軽く答える。
「兄さん、お仕事行ってたんですよね?確か、森へ薬草の採集だ、って」
「そうだよ?」
妹に仕事の成果を見せようとごそごそとポーチを探る。
「どうして他の女の匂いがするんですか」
形だけの疑問形。
その口調は、私に隠れて女に会っていましたねという確信に満ちていた。
ドキリとして、その手が止まった。
「・・・あー」
「兄さん?」
数瞬前まできらきらとしていた妹の瞳からその輝きは失われている。
さっきも森で似たようなことがあったな、と内心嘆息した。
シールに向き直る。
「いや、べつにやましいことをしてたわけじゃないよ?本当に」
「なら、どういうことですか。私というものがありながら!」
ずい、と圧を込めてにじり寄ってきた。
ありながらと言われてもシール妹じゃん、とは賢明な兄は指摘しない。
「人助け。森で具合悪そうにしてる女の人がいてさ。安全な場所まで肩貸しながら移動したんだよ」
とっさについたにしてはマシな部類か。
「へぇ、そうですか。こんな夜に、森の中で、女の人が1人で。その後はどうしたんです?」
「どうもなにも、俺は薬草採集しないといけなかったからその後どうなったかは・・・。戻ったとき
にはもういなかったから、きっと調子が戻って帰ったんじゃない?」
「ふーん」
ジトっとした目線で容赦なく追い詰める。
やっぱちょっと無理があったかなー。
「わかりました。信じます。兄の無実を信じるのも妹の務めです」
「あ、ありがとう」
審判が下された。
半信半疑、といった様子だったがひとまずは事なきを得たようだ。
「じゃあ、おやすみ、シール」
「あ、兄さん!上着預かります。匂い以外にも汚れが付いてますから綺麗にしておきますね」
「わかった。任せたよ」
「はい、任されました!」
なかば自分から奪うように上着を回収する妹の姿に苦笑する。
夜も更けた頃合いだというのに元気な妹だった。
「おやすみ、シール」
「おやすみなさい、兄さん」
ふあ、と大きな欠伸をひとつして今度こそ寝室に向かった。
シールは兄から回収した上着に視線を落とす。
上着を顔に近づけて、確かめるように匂いを嗅いだ。
かすかに残る女の匂いに思わず顔をしかめる。
兄の言い分は十中八九嘘だろう。
兄の性格は知り尽くしている。
妹である私に心配させまいとして上手い言い訳を考えたつもりなのだ。
「おかしいです。ムシ除けの上級結界を張っておいたのに、なぜ・・・」
そんなことでムシがつくようなぬるい結界は張っていないつもりだった。
事実、兄に近づくムシはこれまで完全にシャットアウト出来ていたし、結界のメンテナンスも怠ったことはない。
その呟きは誰にも届かず夜の静けさに溶けていった。