4(嫌な女)
ほんっとに嫌な女だ。バスルームのドアを閉める音を聞き、それで少しほっとした。そして、真っ暗な世界にひとり取り残されたデンバーの思いは、吸い寄せられるように、あの夏の終わりに戻っていく。アリゾナ。話せば男だの女だのと云うものでなく、むしろ古い馴染みのように感じた。アリゾナ。お調子者を絵に描いたような愉快で面白いヤツだった。アリゾナ。それが面倒を引き起こしたと云えなくはないだろうか?
違うか? アリゾナ?
バスルームの方から、くぐもった、鼻歌のような何かが聞こえる。
*
目隠しをされると時間の感覚がなくなることを発見した頃、ひたひたと、静かだが、緊張した足取りが近づいてくるのに気がついた。
それは直ぐ傍で止り、ああ、おれの命運もこれまでかと諦観の域に達しかけていたところ、囁き声で、「叔父さん、どうしたの?」
テープで塞がれていたこともあるが、びっくりして声も出なかった。しかし甥っ子は、しぃっと鋭く注意した。「面倒なことになってる?」
デンバーは頷いた。
「その面倒は進行中?」
デンバーは再び頷いた。
「テープはそのままにしてたがいい?」
デンバーは三度、頷いた。
「何か出来ること、ある?」
逃げろ、と伝えるべきだった。後にデンバーは悔やむ。ただ逃げろ、と。
だが、この時デンバーが思ったことは、ただただコイツはとんでもねぇ、だった。
先だって、近々こっちへ遊びに来るとの連絡があって、デンバーはとても楽しみにしていたが、それが今日のこの時間となると、とんだ嗅覚の持ち主だ。まさに鬼の嗅覚だ。それとも神さまに愛されてるとでも?
「このスーツケースだね?」
さすがおれの甥っ子だぜ。デンバーは改めて舌を巻く。頭の回転、察しの良さ、極めて慎重。にして大胆。
この出来のいい甥っ子は今、大学でなんちゃらとか云うのを学んでいる。成績も上々で、しかしガールフレンドは作らないと云う。
「どうしてだ?」訊ねたことがある。すると甥っ子は、「勉強の邪魔になる」
「お前は坊主か」と呆れたものだが、欲に負けて溺れた人間を知らないワケでないので、強くは云えなかった。それに学費のこともある。自分にしこたまカネがあれば援助なぞ少しも厭わなかったろう。口を糊するような真似を誰がさせたいと思うのか。だが、同時にこの出来のいい甥っ子がそれを辞退する、あるいは必ず返済するとの条件付きでないと受け取らないであろうコトも想像に難くない。あるいは、「叔父さんの仕事を手伝わせてくれないか」と逆提案だってある。いいや、坊主。そいつはぁ無理な相談だぜ。
「禁欲も程々にな」世の中には、学校で教えてくれないコトの方が多いんだぜ、と忠告してやろうとしたが、止めた。こと学校に関して、自分はこの甥っ子より知っている筈がないと思い当たったからだ。たぶん、おれと甥っ子は、足して割れば丁度なんじゃないかな。だが、そんな思いを彼の母親、つまり姉貴に知られでもしたら、どうなるかだなんて想像するまでもなく、ちっとも少しもしあわせな考えでないとは分かる。世の中には、わざわざワニの口に頭を突っ込むような真似をするヤツもいないことはないが、それはしあわせとは違う何か別の理由があってのことだとデンバーは思っている。道楽にしてもワリに合わない。
「叔父さん、ごめん」甥っ子は云った。「必ず奇兵隊を連れて戻るよ」
デンバーは小さく頷いた。心優しい子だ。おれのことは気にするな。いや、少しは気にしてくれ。でも自分のケツを優先させろ。それだけは──おれとお前の約束、だ。
よいせっと小さな掛け声ひとつ、なにか荷を担ぐような音がして、気配が遠ざかる。